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第三章 明和攪乱変
灰
しおりを挟むわずか数日とはいえ、俺が死んでいた間にも時代は動く。
度重なる危難に見舞われた江戸にもうひとつ大きな転換点が訪れる。
いや、江戸のみが時代に取り残されたのか。麟堂と一握りの幕臣だけが案じていた江戸と地方の埋めきれぬ時差がとうとう顕在化してきたのであった。そもそもの原因は俺である。俺の中心として江戸から外へ向けての時間が遅延したことは、実感としてはおぼつかないものの、ようやくはっきりとわかる形となって江戸に迫ってきた。堰を切って大量の水が押し寄せるように。
まずは浅間山の噴火の報せが入った。
火口より立ち上る噴煙の柱、大地の鮮血が如く利根川を下る溶岩流、そして麓の村民たちの阿鼻叫喚が、ひどく遅まきな報せとなって江戸にもたらされたのである。
――雪か。いや……違うな。
無数の白い薄片。季節外れの雪と見紛うそれこそが、浅間の山から飛来した灰であった。すでに噴火は収まっているというが、吐き出された火山灰は時間の勾配を遡ってようやく江戸にまで届いた。天舞う灰は日照を遮り、気温を引き下げたあげくに地を埋め尽くしたのであった。
すさまじい凶作とそれに伴う飢饉の阿鼻叫喚ですら、時の壁に阻まれて長い間、江戸に届かなかったという。取返しのつかぬ遅延は、各地の藩政、そして幕府そのものと屋台骨を揺るがすことになった。時機を失すれば、対策はおのずと後手に回らざるを得ない。江戸にも食糧難の兆しが見え始めていた。まもなく物価が高騰し、貧者たちは困窮するであろうが、それを救う手立てはない。
「この度は危うい。この国は――徳川の治世はもはや……おお行くか廻鳳」
東西に奔走したものの打つ手を見出せず、苦渋に充ちて歯噛みする麟堂。そんな悄然とした年寄りと肩を並べて、うちの道場の縁側から、ひらひらと降り落ちる灰を眺めていると、迷宮に戻らんとする廻鳳が別れの挨拶を告げに参上した。
「本当によいのですか? いまこそ先生の御側に侍《はべ》り、微力ながら、この未曾有の危難を乗り越えるお手伝いをしとう御座います」
「いや、お前の才は迷宮でこそ、その真価を発揮する。確かに猫の手も借りたいのはやまやまではある。しかし、儂はこう思うのだ。迷宮にこそ、江戸ひいてはこの国そのものを救う鍵があるとな」
「はい」
有り難い師の言葉に廻鳳は眼を潤ませて咽ぶ。見つめ合う師弟の姿は美しかったが、その美しさの背景には白く不吉に降頻る灰があるのだから、それぞれの胸中には複雑なものがあるであろう。
大火に日蝕、そして飢饉とくれば、もはや呪われているとしか思えぬ受難である。
終わりなき責め苦。この世に安全なのは迷宮ばかりと皮肉った戯作者もあった。いくら迷宮が人外の魔境と言えども、地上もまた変わり映えのしない地獄であった。俺とて地上に身の置き場のない咎人である。死の味のする迷宮に戻る他はない。が、その迷宮には俺の恐怖の具現が付け加わっているという。
「廻鳳。気張れや。俺もすぐに追う」と激励する俺を蚤や虱を見るような目付きで廻鳳はねめつけた。
「このとんちきめ。師匠を居宅を破壊して路頭に迷わせた罪、決して許されるべきものじゃありませんからね。いいえ、江戸の危難はみ~んなあなたの所為ではないかと思えてきました。聞けば江戸と地方の奇天烈な時間のズレもあなたがためという。大江戸大迷惑とはよく言ったものです」
「面目ねえ」俺がひきつった苦笑いを浮かべれば、割って入った麟堂が「あれは儂が仕組んだことよ、この男に罪はない」ととりなしてくれた。そんなことは明敏な廻鳳のことである、一から十まで承知だろうけれど、感情に任せて口にせねば収まらぬこともある。ここは辛抱の一手である。
「しかし師匠」
「言うな廻鳳。この男にも尋常ならぬ宿命があろう。それは必ずしも江戸に害を為すだけではなかろうと儂は信じておる。迷宮が禍福を等しく解き放つようにの」
「はい」と口惜し気に廻鳳は引き下がった。天下の首府、その大地は、薄いながらも火山灰の層に覆われつつあり、廻鳳の細い肩、そして短く刈り込んだ童女さながらの髪にもまた白の切片が音もなく重なっていく。まるで一気に年経た白髪の姥になってしまったようだ。
「いつも助けてくれてありがとうよ、廻鳳。恩を仇で返したことは詫びようもねえ。思い返せば、はじめに迷宮送りになった時だって、おまえが居たから命を拾えたのだ」
自分でも思いがけず俺は素直に許しを乞うた。空から降り注ぐ死の灰が、俺の気分をどこか憂鬱にしていた。廻鳳は俺の脛を蹴り上げると何も言わずに去った。
「あ奴は飛びぬけた才ゆえに他の誰とも心を通じ合わすことができぬ。いや、できぬと思い込んでおる。廻鳳が迷宮に身を投じる、それが理由よ。あれはあれで危うい。どうか今度はお主があれを助けてやってくれ」
「だったらなぜ突き放したのだ? 地上でそばに置いてやればよかったじゃねえか。守ってやればよかったじゃねえか」
「わからぬか。地上は荒れるぞ。迷宮の方が余程安穏というのも皮肉も――まんざら冗談ではなくなるやもしれぬ」
「ふうん」俺は合点がいかぬ。いまだ江戸に擾乱の気配はない。
「――しかし、それはまもなく来る、近いうちに必ず事が起こる」俺たちのやり取りをいつから聞いていたのであろうか、雪之丞がひらりと板塀を飛び越えて姿を現した。
「なんでえやぶからぼうに。神様の託宣でも拾ったかい?」
「いいや。事実だ。商家の耳ってのは公儀の伝手よりずっと遠くまで漏らさずに聞き及ぶものだぜ。実家の丁稚と往来でひょっこり出くわしたもんだから、ひとしきり立ち話したんだが、各地にはきな臭い連中が台頭してきてる。ほとんどは野盗同然の破落戸だが、離散集合を繰り返すうちに大きな勢力になったものもあるそうだ」
商家の出である雪之丞は、やたらと顔が広く、耳も早い。迷宮に長く潜っていても江戸はもちろん遥か辺境まで、この国の大勢をだいたい把握しているのだ。
「聞き捨てならぬな」と麟堂が冷たい声を放った。
「中には天下をひっくり返そうと目論む不埒な連中も」
どこにいるのだ、と間髪入れずに麟堂は聞いた。幕府の体面など構ってはおらぬ。謹厳でありつつも柔軟な振舞いこそが拝すべき麟堂の美点である。
「薩摩では隠れ念仏を修する信者たちが勢いづいている」
同じ念仏の徒でありながら異安心と忌避される連中であった。それが弾圧を跳ね除けて立ち上がったとしたら、信仰を後ろ盾にしているだけにあだやおろそかにできぬ事態と見てよいであろう。
「さらに備中に蟠踞するは――」
回天楼。
と、確かにその名が雪之丞の口から飛び出したのだった。
「それは以前、樋口が儂に問い質した謎の伍のことか?」
「ええ、樋口さんの探す月の兎という芸妓がそこに加わっているはず。かの漆羅漢、そして異人ラーフラと互角の戦いを繰り広げたという話だった。そいつらがいまや迷宮でなく江戸の外で幅を効かせてるというわけだ」
なぜ、そんなところに現れた? そもそも回天楼とは一体何者だ?
俺は月の兎の朧げな後ろ姿を追っている。情念の炎でもって江戸を焦土に変えた女。
「奴らは、迷宮の攻略を目的としているのではないのか?」
「目的の一切は不明だ。頭領はおそろしく強い剣術仕らしい。もはや伍というべきではあるまいと事情通は言っていた。あれは、お上に明白な叛意を抱く賊軍だとな」
「しかし備中はだらに党の縄張りであろう。彼らがたやすくシマを明け渡すとは――」
五烈のひとつである備中だらに党は呪法に長けた強力な伍である。江戸と備中を行き来して巨万の富を蓄えているとも言われる一大勢力であったが……
「だらに党は滅んだ。回天楼に喉笛を喰い破られた」
淡々と雪之丞は聞き知った噂を披瀝する。本当であるならば、江戸と迷宮だけではないこの国の平衡が崩れてしまうはずだった。不穏な動きを見せる金九字。めきめきと力をつける新興勢力・回天楼。文字通り時流に乗り遅れた幕府はいまや弱体化の憂き目に遭っていると言えよう。麟堂の表情に焦燥と悲哀が満ちた。そういえば麟堂はだらに党にだけは好意を抱いていたようであった。
「信じられぬ。だらに党がむざむざとやられるとは」
麟堂は沈痛な面持ちである。
「よし、俺が備中に行って探りを入れてやるぜ」
俺は思わず口にしてしまう。
おいおいおい、と雪之丞が慌てて肩を揺すった。
「樋口さん、あんたはうちの伍長だ。迷宮稼業を放り出して備中に行くなんておいらたちはどうすんだ?」
「銭ならあるだろ。しばらくの暇をやらぁ。骨休めするもよし、もしくは――」
一緒に来たっていいんだぜ、と俺が言いかけたその時、耳の裏に寒気のするような突風が駆け抜けた。幾筋かの後ろ毛が千切れ飛んだかもしれぬ。
「まったくあなたという人はふざけてますね」
振り向いたそこに仁王立ちの御守が居た。絡繰り仕掛けの杭を俺の後頭部目掛けて打ち込んだのであった。半身を躱していなければ、どうなっていたかは想像に難くない。納屋でさっきまで絡繰りを弄っていたかと思えば、さっそく仕上げた得物の試し打ちとは――うちの連中ときたら、いつも神出鬼没だ――まったく油断も隙もないのである。
「ちょ、ちょっと待て」
「死にかけたと思ったら今度は江戸を離れる? 馬鹿過ぎますね」
「馬鹿なら自認してる。ただ居ても立ってもいられねえ」
「その芸妓にそこまで?」錐のような鋭い視線を御守は向けてくる。
「まあな。しかし、それだけじゃねえのさ。回天楼。その名を聞くと、何か無性に胸の奥のところがざわざわと騒ぎ立てる。まるで親の仇の名を聞いたみてえによ」
「……備中ね。わかっているのですか? 江戸から離れれば離れるほど大きく時が隔たっているということが。そこはまさに異境。かつての備中とも違うでしょう。それでも?」
「行く」卒然と俺は言い放った。
呆れた顔付きが三つ、白けた眼差しを俺に向けてくる。俺は麟堂を説得した。江戸に降りかかる脅威に眼を配っておくべきだと。備中くんだりまでの旅費をせしめるためのとってつけたような口実だったが、麟堂は意外にも最後には承諾した。
「お主ひとりには行かせられぬ。何を仕出かすかわからぬからの」
「お目付け役をつけるのかい? ガキじゃあるまいし、そんなの御免――」
「寺田宗有」
その一言で俺は口を閉じた。有無を言わせぬ迫力が、この時の麟堂にはあった。
「馬鹿の子守ではない。剣のみならず隠密に長けたあの男であれば、お主の愚行を止めらるばかりでなく、いざとなれば敵の急所を突くこともできよう」
「あの堅物か。まあいい。足手まといになるなって言っておけよな」
屍礫となった我が身を救い出してくれた恩人であったが、ひねくれた俺である、無作法な憎まれ口を叩くことしかできない。確かに奴ならば頼りになる。願ってもない戦力であった。随分と心細かった俺は内心でホッと胸を撫で下ろしたのである。
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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