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第二章 迷宮顛倒変

断層

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 そこには無数の骸が打ち捨てられている。破壊された機人たちの成れの果て。さらには白い骨と化した生き物たちが……そしてここまでたどり着くことのできた手練れの探降者たちの遺体の断片もわずかながら散見できた。
 
 迷宮はこれまで見てきたものとはまるで違った。

 半透明の壁には、血管の如き筋が縦横に脈打ちながら走るのみならず光を宿した管やら蒸気を吐き出す花びらなども埋没していた。まるで絡繰りと生き物が混じり合ったような――金属と肉とが融合した場所であった。鯨より何倍も大きい巨獣の腸の中に飛び込んだなら、なるほどこんな圧迫感をおぼえるに違いない。何のためのものか見当もつかぬ遺物たちがそこかしこに鈍く輝いており、その隙間を魔性の影が泳いでいる。

「ここが地下四十九階」
「お望みの場所だ。ここでは君を守ることができない。油断をすれば俺でも死ぬ」

 凪本は詰まらなそうに言った。右手の義手に呪力が籠るのがわかる。とっくに臨戦態勢というわけか。上層とは桁違いの瘴気が渦巻いている。通路の集中する先の広間には大きな穴が口を開けていた。それはさらに下層を貫いて虚空権現の座する五十五階まで通じているのであろう。

「縦穴《シャフト》さ」穴の底からは濛々と蒸気が溢れ出している。まるで活きている火山の縁に立っているような具合である。熱と息苦しさに俺は呻く。凪本は憎らしいばかりに表情を変えぬ。

「あっちを見てみろ」

 蒸気の厚みの向こうに影が浮かんだ。三つ首の犬を従えた鬼が、毒気と火炎を纏った翼ある大蛇と対峙し、まさに雌雄を決しようとする場面であった。紙のように白い鬼将は犬をけしかけて獲物を仕留めんとするが、とぐろを解いた蛇は溶岩の濁流を吐き出して犬の下腿と胴とをあっという間に焼き尽くした。残った三つの首は互いを貪り喰らい合いながら溶岩に没していく。白鬼は蛇に絡め取られ締められながらも敵の顎を上下に引き裂いたものの、尋常ならぬ蛇の再生力が裂傷を埋めてすぐに元通りの姿になる。いや、それだけでない。蛇の翼は鋭利な結晶の棘を生やして鬼の脇腹にめり込んだ。やがて鬼は血を吐いて絶命するのだったが――

「耳を塞げ。鬼哭だ」

 凪本の言うが早いか、死にゆく鬼の喉からとてつもない音塊が迸り出た。

 ――キィイイイイイイイイイイェェェェェェ!!!

 俺は眼に見えぬ圧力に吹き飛んだ。迷宮が苦悶し、打ち震えた。比喩ではない。実際に生きているが如き壁も床も、この階層そのものがぞわりと蠕動したのであった。鬼の断末魔とはこれほどのものか。親孝行の放った音とも違った、強力な呪力と怨念の籠った叫びであった。他者の闘争のとばっちりでさえ、この恐ろしさであるなら、まともに向き合うなら命が幾つあっても足りまい。

「なんて場所だ」強がりもなく本音が出た。

「ここが最深部。御覧の通り、ほどなく地獄の底さ」

「虚空権現」と俺は言った。あらゆる願いを聞き届けるという摩尼宝珠さながらの力。俺の切願を果たすためのその代物が、足元の深さ幾尋の下にあるという。

「さて、もう充分だろう。戻るかい?」

「いいや」と俺は震える我が身を必死に抑えつけた。

「まさか。このまま虚空権現を拝んでみようってんじゃ――」
「それもいいけどよ。もうひとつあるんだ。やりてぇことがな」

 俺は引きつった笑いを作ってみたが、どうにも様になってねえらしい。凪本は斜めに俺の顔を覗き込んでくる。

「そいつは何だい?」
「せっかくあんたと二人きりになったんだ。尻取りなんて馬鹿げた遊びじゃなくてよ。どうだい、一丁、命を取り合わねえか」
「その理由が?」
「とぼけんなよ、あんただってそのつもりだったんじゃねえのか? あわよくばここに俺を置き去りにするなり、騙し討ちにするなりして、殺そうとしてやがったろ」

 凪本の涼しげな顔がふいに曇った。口にしたことのない珍味を含んだような反応である。取り繕うことは無駄だと察したのか、
「ふふ、なんだわかってたのかい? 鋭いんだね」
「わかるさ。あんたみてぇな殺気を悟らせねえ、かまとと野郎の裏なんざ、それが故にむしろ筒抜けのお見通しってもんよ」
「そうかい。傷つくなぁ。でもなんで俺を?」
「金九字講は敵だと定めた。うちの兄弟弟子の雲助て馬鹿がてめえらに含むところがあってな。机並べて学んだ同窓の義理だ。奴の仇は俺の仇ってことにしたのさ」
「ふうん、うちにゃ敵が多いからなぁ。そういうこともあるか」

 凪本は案外と軽く引き受けた。こだわりのない人柄とはいえ、ここまで来れば、もはや気狂いの部類である。

「でもさ、ここで万が一俺をやっつけたら、君どうやって地上に帰るの?」

「あ」思わず声が上擦った。そうであった。ここでこの優男を叩き殺して幸福感に浸ることしか考えていなかった。この顛末を先読みして雪之丞たちは俺を止めたのかも知れぬ。

「馬鹿だね」
「なぁ、あんたを殺した後でもどうにか地上に戻れねえのか」
「そんな都合のいい話があるわけがない。あっても教えると思うのかい」
「だよな」
「やめる? 俺としても是非君を殺しておきたいんだけどね」
「そっちの理由はなんだよ」

 そうそう聞き忘れていたが、あちらさんにも何やら事訳があるに違いない。楽しい事情じゃなさそうだが知っておいて損はあるまい。この物見遊山に引き込んだのは俺を殺すのが目的であったはずだ。

「金九字の意向か」
「いや、俺個人の都合さ。――うん、ちょいと話が長引きそうだから、屋根を出しておくか。こいつを使えばしばらくは安全なんだ」

 そう言って凪本は野点傘のような代物をひろげて見せる。いったいどこにそんなものを隠し持っていたのか皆目見当がつかぬ。まったくもって得体の知れぬ男であった。その道具は一種の隠形の効果があるらしく、傘の影に覆われると俺たちの姿はふっつりと見えなくなった。

「声も波長を変えて骨から内耳へ伝達されるから妖魅どもに気取られる心配はない」
「てめえは何者なんだ? さっきのわんたんと言い、この道具といい。なんだか別の国から来たみてぇじゃねえかい」

 透明になった凪本の顔は見えないが、たぶんニヤニヤしているのだろう。俺は見えないにやけ顔に向けて見えない拳を振ったが、ブンと空を切るばかり手応えはない。

「俺はね、越境者のひとりさ。でも、〈両界侵犯〉をきっかけにこの世界にやってきた無数の者どもとは違う。そもそも俺は環境改造プラント――つまり迷宮とともにここへ来たんだ」
「なんのためだ?」

 虚空が虚空へ向けて問うた。ラーフラって野郎は迷宮を憎んでいたが、凪本漁はまた別の感情と思惑を抱いていいるのだろう。

「君に食物テロや並行世界の話をしても理解できないよね」
「ああ、てんでわからねえ」
「俺の居た場所では、食べ物を狙った戦があった」
「兵糧を焼くのは合戦の常套手段だ」
「まあ、似たようなものかな。そこには作物を病気にする連中がいてね、限られた食べ物に依存していた人間たちは大幅に数を減らして死に絶えた。いや、わずかばかりの人間は生き残ったが、再び繁栄を取り戻すには気の遠くなるほどの時間がかかる」
「ふーん。ますますわからねえ」 
「そんな事態を二度と起こさぬため俺は野菜や穀物を多様性を取り戻すために時空を旅して様々な種子を保存してる。ニコライって学者の意志を継いだ連中なんだが、それはいい」
「俺たちが麟堂先生に私淑しているみたいにあんたもその師匠の仕事をこなしてるってことだな」
「ま、数世代も昔の人だが、そんなところだ」

 多様性? 時空? 俺には聞き覚えのない言葉ばかりだ。麟堂先生や廻鳳であれば理解できるのであろうか。俺が内省に沈みかけた時、新たな鬼哭が迷宮を揺るがした。しかし、それは断末魔ではなく、鬼どもの勝鬨であった。まるで鯨獲りの漁師のような鬼どもが、全身に苔を生やした巨大魚に取りついて無数の銛を突き立てているのであった。迷宮の壁の内と外を水面のように潜りまた浮上する魚影はやがて動かなくなった。ばらばらに解体されるのであろう。

「それがなんで金九字なんぞとつるんでる? 脊川はそのことを承知なのか?」
「俺の素性は誰も知りはしない。やつらと組んでるのは金九字講の人脈と情報を利用させてもらうためさ。それに俺の目的は貴重な種子を収集するだけじゃない。この時代の生態系と歴史秩序を乱す外来種を排除することも含まれてる」
「慮傍か」
「ああ。精神レベルの低い文明では、複数種族の知的生命体が並存すれば、あまりいい結果にならないことがわかってる」
「ますますわからねえ。得体が知れないってんなら、迷宮の子や江戸に蔓延ってる妙な植物はどうなんで? あれらは排斥しねえのかい?」
 凪本の声は、かすかに立ち遅れて返ってきた。
「それはまた別の目論見なのさ。関連はしているがね。種子を集めるという計画はやがて植物だけでなく動物から哺乳類、ついには人間にまで及んだ。歴史上における非道な暴力から子供を救い、それを比較的安全な場所で生育させるという計画だ。これは未来における大規模なテラフォーミングの予行練習でもある」
「寺? なんだって?」
「すまない。やっぱり説明は難しいな。迷宮の子らはかつて救世主のために虐殺された嬰児たちの一部を救済したものだ。君も知っているだろう。かのヘロデ王がしでかした蛮行さ」
「知らねえよ。生憎だがな」

 凪本のがっかりした顔が眼に浮かんだ。俺に飲み込めたのは、迷宮とは生命の種子を保存に相応しい場所に根付かせるためのものだということ。さらには越境者である凪本の目的は、その場所で新しい種子を採取することであり、また種子の生育に邪魔な雑草――慮傍はそれだ――を刈り取ることでもあるらしい。

「江戸に蔓延る植物については品種改良したキャッサバにアボカド、それにこの時代に知られていない未知の食物もある。これは江戸にまもなく降りかかる飢饉に対抗するためのものだ。君のおかけで江戸だけが明和九年のままで周辺の時は先へと進んでいる。俺たちの歴史において天明の大飢饉と呼ばれたとてつもない災厄がもうすぐそこまで来ている。浅間の山が火を吹くのだよ」

 なんだこの男は何を言っている? 卜者《ぼくしゃ》か神降ろしか知らぬが、未だ訪れぬ明日を予見するなどいかがわしいにもほどがある。

「災厄には慣れてるぜ。ってことはあんたは金九字に名を連ねながら、より大きな目的のために動いてるってわけだ。慮傍たちを殺すのもぴったり目的に沿ってる。そうだな?」
「ああ。その目的のために君もまた邪魔なんだよ。時間を歪めるような個体は放置してはおけない」
「話の内容は――」と俺は覇気もなく言った。「皆目わかんねえが、ともかく俺を生かしちゃおけえねえってんだろ。俺もおまえらが気に食わない。戦う大義名分ならお互いにあるってわけだ」
「まあね。君は勝っても負けてもたぶん死ぬけど。それでもやるのか」
「嫌だって言ったら見逃してくれんのかよ?」

 凪本は何も答えず、じわりと殺気を解き放った。奴からは、こちらの姿が見えている可能性もある。五分五分の条件だとは夢にも思わぬことだ。そんな甘えは通用しない。だとしたら、なぜいまここで戦う必要があるのかと俺は自分に問う。道場で立ち向かっていれば――父も麟堂もいた――多勢に無勢、謎めいた相手とはいえ勝ち目はあったはずだ。

(俺としたことが、道場を傷つけたくなかったってのか。呪法も込みで暴れたら、たぶんあんなボロ道場は吹っ飛んじまうだろう。ふん、日和っちまったもんだ)

 自嘲含みで八相を構えを取る。凪本を殺せば帰れないが、半殺しにと手を抜ける相手ではない。さて、どうすっかな、と困ったような楽しいようなそんな気持ちになる。煩わしい伍の規律を離れて、こうして命ひとつをぶら下げ孤独に振舞うのが俺の精神に欠かせぬ慰安となるらしい。心機を研ぎ澄まし、凪本の呼吸を探る。

(おかしい。やつの呼吸が見つからねえ、たとえ姿を消しているとはいえ、生きている者であれば、その気配を残す。しかし凪本にはそれがない)

「そいつは武の極みか。それとも?」

 ――キン、

 鋭く剣が撃ち合わされる。背後からの袈裟掛けの一撃に応じたのであったが、一瞬でも振り向くのが遅れていれば首と胴体は離れていたろう。交錯した刃の一点より、波紋が拡がるように互いの姿が浮かび上がってくる。凪本が屋根と呼んでいた道具の効き目が消えたである。

「これで五分だな」
「浮かれてる場合じゃないよ。屋根が消えたってことは、この階層の連中にも気取られるってことだ」

 凪本の言う通り、俺はすぐに気付いたのであった。周囲を無数の禍々しい気配が取り巻いていることを。どれひとつとっても業深い魔性であるばかりでなく、人間以上の知性すら感じる。

 ――四凶メ。我ラガ縄張リニ入ッタゾ。
 ――難訓。オオ。難訓ヨ。
 ――喰ロウテヤリタイ。イイヤ、ムシロ喰ワレテミタイゾ。

 ひそひそと囁き交わすその声はしかし、その存在感が故に隠しようがない。どれひとつとっても上層では感じたことのない質量の呪力を蔵している存在たちであり、力ある僧侶なり陰陽師とて滅する術なく、もっぱら死力を尽くして封じる他ないものたちであった。カタカタと歯の根が合わないまま、「すっこんでな」と俺は気丈に言い放つ。これは俺と凪本の一騎打ちである。通りすがりの化け物なんぞに邪魔立てされてなるものか。

「よくぞ言ったね」凪本が感嘆の口笛を吹いた。

 禍々しい好奇の視線が注がれるのを感じる。値踏みされているのか、舌なめずりされているのか、それとも小虫のように侮られているのか。どれにしろ俺たちの存在は悪鬼羅刹どもに気付かれてしまった。俺には理解できた。これより繰り広げられるのは、樋口二郎における最大の死地であることを。

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