44 / 50
第二章 迷宮顛倒変
活版
しおりを挟む麟堂は活版印刷についての蘊蓄を傾けた。
曰く、本邦で用いられている木版印刷とは違って、文字のひとつひとつを版にし、それをいかようにも組み合わることで文を自在に成すことができるという。考えてみれば、確かに便利である。あらゆる文字を一旦揃えてしまえば、あとはそいつを並べ替えたらいいだけである。その技術そのものは随分と昔からあったようであるが、この国ではあまり普及しなかった。
「そりゃまた一体なぜで?」
「ひとつの理由としては、文字が多過ぎたのだな。英吉利《エゲレス》などはたった二十六文字で事足りるが、我が国ではそうはいかぬ。かなに漢字と無数の言葉が溢れている」
「まぁそうか」いかにも腑に落ちる話であった。たった二十六字の配列を変えていけばよい海の向こうの国と違って我々の言葉はそうはいかぬ。
「さらに浮世絵など文字だけでない色と形を精緻に写す木版の文化が隆盛したこともあろう。ひとつの技術が極められたことによって、もうひとつの技術が顧みられなくなり充分に芽が出ぬこともある」
「ふむ」話の筋はわかったけれど、それを金九字の連中が発見したからとて、それがどう大事なのであろうか。その帰結がいまいち見えてない。
廻鳳が苛立たしげに床を叩いた。
「わかりませぬか。活版を使えば、ひとつの文言を大量に、しかも瞬く間に刷ることができるのです。これが一体どういうことなのか」
俺と弟と父、つまり樋口家の三人はまるで馬鹿のように虚空を睨み据えた。
「どういうことなんだ?」
「そりゃあね。こういうことさ」と凪本が解説を引き取った。「ひとりの人間の声ってのはさ届く距離と聞こえてる時間に限りがあるだろう? それが紙に刷られたものであったら、もっと長持ちするし、遠くまで届けることもできる」
「当たり前だ。それがどうした」と雪之丞。
「どんないい声で囀《さえず》ったってそのうち力尽きちまう。蝉だって七日か十日かそんなもんだ。しかし活版で刷った言葉なら、江戸を埋め尽くして、もっと遠くまで――それこそ京だろうが薩摩だろうが蝦夷だろうが言葉を届けることができるじゃないか」
「だからそれの何が珍しい? 熊野牛王印のお札だってどえらい数が刷られて国中に広まってる」
「しかし、そこに思想はねえだろう。活版なら、もっと複雑で難解な言葉を綴ることができる。しかも時勢に合わせて変化させながらね。そうそう俺たちの活版は、この世界にあるありとあらゆる言の葉が含まれているんだ」
「おいらにゃ、よくわからねえが、そいつの何が凄いのだい?」
雪之丞は、いまいち飲み込みかねているようである。それを口にすることも忌まわしいと言わんばかりに麟堂は告げた。
「実際、これは恐ろしいことなのだ。泰平の世にあっては言説を握ることは武力よりも強いのだ。江戸の民草の心が脊川黙雷の言葉に染まってしまえば、誰ぞ跳ねっ返りが、お上へ楯突く者も現れかねん。それもひとりではなく徒党を組み、無視できぬ勢力となって首府の秩序を脅かすかもしれぬ」
「よくわかんねえが、声のでけえやつが物事を押し通すってことなら珍しくねえ」
と俺はおざなりな理解のままとりあえず頷いた。
「こちらの先生はあたしらが活版を手に入れたことを憂慮してらっしゃるんだよ」
曲輪が麟堂に向けて挑戦的な笑みを見せつければ、廻鳳は師の懸念にテコを入れてみせる。
「もちろん金九字講の放つ言説が穏当なものであれば、世間に波風は立たぬでしょう。しかしあなた方は活版印刷をもって甚だ危険な思想を拡げようとしている。違いますか?」
「ああ、もちろんさ。わたしらの望むのは慮傍たちを……あの出来損ないどもを駆逐すること」
妖艶であった曲輪の眼の色に激情が滲んだ。轟々とたなびく炎の鱗。その一枚一枚がはっきりと見えるようだ。憎しみと言ってしまえば薄っぺらく安っぽい。それはただならぬ殺意の鉄塊であり、どうしようもなく彼女自身を苛む重荷であった。
「なぜ?」遠慮もなく廻鳳は詰め寄った。
「殺されたからさ。一族郎党を皆殺しにされて、わたしはこの国に流れ着いたんだよ。やつらは我が部族を弑逆し、草原を血に染めた」
「それで全ての慮傍を憎むのですか?」
「理屈じゃないのさ」理解を拒む素っ気なさに廻鳳ははねつけられる。
「あなたも?」懲りない少女は次に凪本に問いを投げかける。
尻取りに負けた優男は、ぽりぽりと頭を掻いて「俺はちょいと事情が違うね。慮傍《りょぼう》に恨みはねえ。脊川のおっさんに借りがある。それだけさ」と手短に理由を述べた。
「ともかく尻取りは楽しかったが収穫はなかった」
「あんたが不甲斐ないからさ」
「そうだな。ちょいと工夫しなくちゃな」
「うむ。ゆめゆめ鍛練を怠るな。尻取りの道は遼遠よ」父は難しい顔つきで迷宮の強者にして遊戯の敗者である優男を激励した。
「次は俺たちみたいな下っ端じゃなくて、脊川黙雷が直々にやってくるだろうさ。樋口さん、気が変わったらいつでもうちに身を寄せてくれ」
「別のお楽しみも用意しておこう。遊戯は無限。私に勝てるならば、いつでも力を貸そう」
「ああ、そうだ。負けておいて何も支払わないってのはやっぱり寝覚めが悪い。ちょいと面白いものを見せてやろうか」
おもむろに立ち上がった凪本の背後の空間が陽炎のごとく揺らめいた。この感覚にはおぼえがある。心の奥がざわざわと毛羽立つような違和感。
「な、な、なんだ?!」久兵衛が声を震わせた。眼を丸くしたのは、弟だけではない。廻鳳は冷たく硬直した。父は無邪気に小躍りした。やがて黒い鳥居が凪本の背後にはっきりと姿を確立させた。
「大鴉。しかし迷宮の外でそれを発動させるとは」
「知ってるよ。麟堂先生。あなたをはじめすべての防人は大鴉の術をかじっている。これは公儀が抱え込んだ重大な秘密でもある。なにしろこいつを自在に使えるなら幕府の強権いっそう揺るぎないものとなる。反面、こいつが外に漏れれば、徳川数百年の屋台骨も傾ぐやもしれない」
「その危険な光景をまさにいま眼前にしておる。やはり金九字講は野放しにしておかぬ」
「物騒なものを見るような眼はやめてくれよ。言ったろ、こいつはちょっとした余興みたいなものさ。あんたらに牙を向くようなことはしない。ただ、誰かひとりをお望みの場所へ連れていってやろうかと思ってね。気晴らしの物見遊山だよ。いつもとは違う風に吹かれてみたいやつはいる?」
「お主のソレは、どこへでも行けるのか?」
「遣い手の行ったことのある場所だけだね。富士の火口だろうと南海の孤島だろうと行ける。けっこう俺は方々へ足を延ばしているんだ」
得体の知れぬ誘いに乗る者は誰もいなかったが、そんな俺たちの怯む様を凪本は心の奥で面白がっているようであった。むくむくと持ち前の反抗心が頭をもたげて、俺は思わず「だったら」と切り込んだ。
「おまえが足の踏み入れた迷宮の一番深い場所へ連れていけ」
「四十九階。行ってみたいのか? そこはもう最深部にほど近い」
そう凪本が口にした瞬間に、曲輪のこめかみがひくついたことを見逃さなかった。五烈と称される手練れであっても、顔を背けたくなるような場所なのであろう。
「すぐに引きかえすつもりではあるけれど、君がただの人間なら命の保証はできないよ。我々が活版を見つけた出したのもそこだ」
「望むところだ。連れていけ」
勇ましく振舞ったものの、知らず知らずのうちに膝が震えていた。雪之丞はうろたえて俺を咎めた。
「勝手なことをするんじゃねえ。あんたはうちの伍長だ。死んで貰っちゃ困る」
「俺がくたばったらお前が引き継げ。御守もいるしな。きっと今よかマシになるだろうぜ」
「骸どころか屍礫も拾えぬような深み。何かあれば本当にお終いですよ」
御守は冷たく付け加えたが、俺はもう頷くだけで答えなかった。邪魔者が消えた方が雪之丞を独り占めできよう、などと憎まれ口を叩く余裕もない。
最後まで俺たちを引き留めたのは麟堂であった。
「凪本。お主の大鴉は戻ってくることもできるのか。通常の大鴉は往復のどちらか片道にしか使えぬのだがの」
「ああ。俺のは別誂えと思って貰えばいい。そもそも迷宮の内でしか使えぬあんたらの大鴉とは端から仕掛けが違うんだよ。こればっかりは説明しようもねえのさ」
「怪しい男よ。事によると脊川黙雷よりもずっと警戒を要する相手やもしれぬ」
刹那、凪本と麟堂の視線が火花を散らした。先に眼差しを外したのは凪本であった。
「年寄りが、そんなにきりきりしなさんな。俺は無害な風来坊。立ち寄った仮宿でちょいと愉しみを見つけただけなのさ。少し長居しすぎちゃいるがね」
不思議と哀切な口調でもって凪本は言の葉を刻んだ。そして奇妙な尻取り遊びの続きのように俺の耳元へ呟くのであった。
「――さて、これから君をこの座標から取り除く。活版印刷の誤字を塗りつぶすように黒鳥の嘴が俺たちを啄む。そうして深淵へ――底の底へと滑り落ちていく」
合図もなく、品川の道場も父も弟も伍の仲間たちも消えた。空気も温度も東西南北の方位さえも変じた。五感のさんざめきが静まれば、そこはもう天外魔境であった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説

空母鳳炎奮戦記
ypaaaaaaa
歴史・時代
1942年、世界初の装甲空母である鳳炎はトラック泊地に停泊していた。すでに戦時下であり、鳳炎は南洋艦隊の要とされていた。この物語はそんな鳳炎の4年に及ぶ奮戦記である。
というわけで、今回は山本双六さんの帝国の海に登場する装甲空母鳳炎の物語です!二次創作のようなものになると思うので原作と違うところも出てくると思います。(極力、なくしたいですが…。)ともかく、皆さまが楽しめたら幸いです!

異聞・鎮西八郎為朝伝 ― 日本史上最強の武将・源為朝は、なんと九尾の狐・玉藻前の息子であった!
Evelyn
歴史・時代
源氏の嫡流・源為義と美貌の白拍子の間に生まれた八郎為朝は、史記や三国志に描かれた項羽、呂布や関羽をも凌ぐ無敵の武将! その生い立ちと生涯は?
鳥羽院の寵姫となった母に捨てられ、父に疎まれながらも、誠実無比の傅役・重季、若き日の法然上人や崇徳院、更には信頼できる仲間らとの出会いを通じて逞しく成長。
京の都での大暴れの末に源家を勘当されるが、そんな逆境はふふんと笑い飛ばし、放逐された地・九州を平らげ、威勢を轟かす。
やがて保元の乱が勃発。古今無類の武勇を示すも、不運な敗戦を経て尚のこと心機一転。
英雄神さながらに自らを奮い立て、この世を乱す元凶である母・玉藻、実はあまたの国々を滅ぼした伝説の大妖・九尾の狐との最後の対決に挑む。
平安最末期、激動の時代を舞台に、清盛、義朝をはじめ、天皇、上皇、著名な公卿や武士、高僧など歴史上の重要人物も多数登場。
海賊衆や陰陽師も入り乱れ、絢爛豪華な冒険に満ちた半生記です。
もちろん鬼若(誰でしょう?)、時葉(これも誰? 実は史上の有名人!)、白縫姫など、豪傑、美女も続々現れますよ。
お楽しみに 😄
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。


【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴
もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。
潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる