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第二章 迷宮顛倒変
活版
しおりを挟む麟堂は活版印刷についての蘊蓄を傾けた。
曰く、本邦で用いられている木版印刷とは違って、文字のひとつひとつを版にし、それをいかようにも組み合わることで文を自在に成すことができるという。考えてみれば、確かに便利である。あらゆる文字を一旦揃えてしまえば、あとはそいつを並べ替えたらいいだけである。その技術そのものは随分と昔からあったようであるが、この国ではあまり普及しなかった。
「そりゃまた一体なぜで?」
「ひとつの理由としては、文字が多過ぎたのだな。英吉利《エゲレス》などはたった二十六文字で事足りるが、我が国ではそうはいかぬ。かなに漢字と無数の言葉が溢れている」
「まぁそうか」いかにも腑に落ちる話であった。たった二十六字の配列を変えていけばよい海の向こうの国と違って我々の言葉はそうはいかぬ。
「さらに浮世絵など文字だけでない色と形を精緻に写す木版の文化が隆盛したこともあろう。ひとつの技術が極められたことによって、もうひとつの技術が顧みられなくなり充分に芽が出ぬこともある」
「ふむ」話の筋はわかったけれど、それを金九字の連中が発見したからとて、それがどう大事なのであろうか。その帰結がいまいち見えてない。
廻鳳が苛立たしげに床を叩いた。
「わかりませぬか。活版を使えば、ひとつの文言を大量に、しかも瞬く間に刷ることができるのです。これが一体どういうことなのか」
俺と弟と父、つまり樋口家の三人はまるで馬鹿のように虚空を睨み据えた。
「どういうことなんだ?」
「そりゃあね。こういうことさ」と凪本が解説を引き取った。「ひとりの人間の声ってのはさ届く距離と聞こえてる時間に限りがあるだろう? それが紙に刷られたものであったら、もっと長持ちするし、遠くまで届けることもできる」
「当たり前だ。それがどうした」と雪之丞。
「どんないい声で囀《さえず》ったってそのうち力尽きちまう。蝉だって七日か十日かそんなもんだ。しかし活版で刷った言葉なら、江戸を埋め尽くして、もっと遠くまで――それこそ京だろうが薩摩だろうが蝦夷だろうが言葉を届けることができるじゃないか」
「だからそれの何が珍しい? 熊野牛王印のお札だってどえらい数が刷られて国中に広まってる」
「しかし、そこに思想はねえだろう。活版なら、もっと複雑で難解な言葉を綴ることができる。しかも時勢に合わせて変化させながらね。そうそう俺たちの活版は、この世界にあるありとあらゆる言の葉が含まれているんだ」
「おいらにゃ、よくわからねえが、そいつの何が凄いのだい?」
雪之丞は、いまいち飲み込みかねているようである。それを口にすることも忌まわしいと言わんばかりに麟堂は告げた。
「実際、これは恐ろしいことなのだ。泰平の世にあっては言説を握ることは武力よりも強いのだ。江戸の民草の心が脊川黙雷の言葉に染まってしまえば、誰ぞ跳ねっ返りが、お上へ楯突く者も現れかねん。それもひとりではなく徒党を組み、無視できぬ勢力となって首府の秩序を脅かすかもしれぬ」
「よくわかんねえが、声のでけえやつが物事を押し通すってことなら珍しくねえ」
と俺はおざなりな理解のままとりあえず頷いた。
「こちらの先生はあたしらが活版を手に入れたことを憂慮してらっしゃるんだよ」
曲輪が麟堂に向けて挑戦的な笑みを見せつければ、廻鳳は師の懸念にテコを入れてみせる。
「もちろん金九字講の放つ言説が穏当なものであれば、世間に波風は立たぬでしょう。しかしあなた方は活版印刷をもって甚だ危険な思想を拡げようとしている。違いますか?」
「ああ、もちろんさ。わたしらの望むのは慮傍たちを……あの出来損ないどもを駆逐すること」
妖艶であった曲輪の眼の色に激情が滲んだ。轟々とたなびく炎の鱗。その一枚一枚がはっきりと見えるようだ。憎しみと言ってしまえば薄っぺらく安っぽい。それはただならぬ殺意の鉄塊であり、どうしようもなく彼女自身を苛む重荷であった。
「なぜ?」遠慮もなく廻鳳は詰め寄った。
「殺されたからさ。一族郎党を皆殺しにされて、わたしはこの国に流れ着いたんだよ。やつらは我が部族を弑逆し、草原を血に染めた」
「それで全ての慮傍を憎むのですか?」
「理屈じゃないのさ」理解を拒む素っ気なさに廻鳳ははねつけられる。
「あなたも?」懲りない少女は次に凪本に問いを投げかける。
尻取りに負けた優男は、ぽりぽりと頭を掻いて「俺はちょいと事情が違うね。慮傍《りょぼう》に恨みはねえ。脊川のおっさんに借りがある。それだけさ」と手短に理由を述べた。
「ともかく尻取りは楽しかったが収穫はなかった」
「あんたが不甲斐ないからさ」
「そうだな。ちょいと工夫しなくちゃな」
「うむ。ゆめゆめ鍛練を怠るな。尻取りの道は遼遠よ」父は難しい顔つきで迷宮の強者にして遊戯の敗者である優男を激励した。
「次は俺たちみたいな下っ端じゃなくて、脊川黙雷が直々にやってくるだろうさ。樋口さん、気が変わったらいつでもうちに身を寄せてくれ」
「別のお楽しみも用意しておこう。遊戯は無限。私に勝てるならば、いつでも力を貸そう」
「ああ、そうだ。負けておいて何も支払わないってのはやっぱり寝覚めが悪い。ちょいと面白いものを見せてやろうか」
おもむろに立ち上がった凪本の背後の空間が陽炎のごとく揺らめいた。この感覚にはおぼえがある。心の奥がざわざわと毛羽立つような違和感。
「な、な、なんだ?!」久兵衛が声を震わせた。眼を丸くしたのは、弟だけではない。廻鳳は冷たく硬直した。父は無邪気に小躍りした。やがて黒い鳥居が凪本の背後にはっきりと姿を確立させた。
「大鴉。しかし迷宮の外でそれを発動させるとは」
「知ってるよ。麟堂先生。あなたをはじめすべての防人は大鴉の術をかじっている。これは公儀が抱え込んだ重大な秘密でもある。なにしろこいつを自在に使えるなら幕府の強権いっそう揺るぎないものとなる。反面、こいつが外に漏れれば、徳川数百年の屋台骨も傾ぐやもしれない」
「その危険な光景をまさにいま眼前にしておる。やはり金九字講は野放しにしておかぬ」
「物騒なものを見るような眼はやめてくれよ。言ったろ、こいつはちょっとした余興みたいなものさ。あんたらに牙を向くようなことはしない。ただ、誰かひとりをお望みの場所へ連れていってやろうかと思ってね。気晴らしの物見遊山だよ。いつもとは違う風に吹かれてみたいやつはいる?」
「お主のソレは、どこへでも行けるのか?」
「遣い手の行ったことのある場所だけだね。富士の火口だろうと南海の孤島だろうと行ける。けっこう俺は方々へ足を延ばしているんだ」
得体の知れぬ誘いに乗る者は誰もいなかったが、そんな俺たちの怯む様を凪本は心の奥で面白がっているようであった。むくむくと持ち前の反抗心が頭をもたげて、俺は思わず「だったら」と切り込んだ。
「おまえが足の踏み入れた迷宮の一番深い場所へ連れていけ」
「四十九階。行ってみたいのか? そこはもう最深部にほど近い」
そう凪本が口にした瞬間に、曲輪のこめかみがひくついたことを見逃さなかった。五烈と称される手練れであっても、顔を背けたくなるような場所なのであろう。
「すぐに引きかえすつもりではあるけれど、君がただの人間なら命の保証はできないよ。我々が活版を見つけた出したのもそこだ」
「望むところだ。連れていけ」
勇ましく振舞ったものの、知らず知らずのうちに膝が震えていた。雪之丞はうろたえて俺を咎めた。
「勝手なことをするんじゃねえ。あんたはうちの伍長だ。死んで貰っちゃ困る」
「俺がくたばったらお前が引き継げ。御守もいるしな。きっと今よかマシになるだろうぜ」
「骸どころか屍礫も拾えぬような深み。何かあれば本当にお終いですよ」
御守は冷たく付け加えたが、俺はもう頷くだけで答えなかった。邪魔者が消えた方が雪之丞を独り占めできよう、などと憎まれ口を叩く余裕もない。
最後まで俺たちを引き留めたのは麟堂であった。
「凪本。お主の大鴉は戻ってくることもできるのか。通常の大鴉は往復のどちらか片道にしか使えぬのだがの」
「ああ。俺のは別誂えと思って貰えばいい。そもそも迷宮の内でしか使えぬあんたらの大鴉とは端から仕掛けが違うんだよ。こればっかりは説明しようもねえのさ」
「怪しい男よ。事によると脊川黙雷よりもずっと警戒を要する相手やもしれぬ」
刹那、凪本と麟堂の視線が火花を散らした。先に眼差しを外したのは凪本であった。
「年寄りが、そんなにきりきりしなさんな。俺は無害な風来坊。立ち寄った仮宿でちょいと愉しみを見つけただけなのさ。少し長居しすぎちゃいるがね」
不思議と哀切な口調でもって凪本は言の葉を刻んだ。そして奇妙な尻取り遊びの続きのように俺の耳元へ呟くのであった。
「――さて、これから君をこの座標から取り除く。活版印刷の誤字を塗りつぶすように黒鳥の嘴が俺たちを啄む。そうして深淵へ――底の底へと滑り落ちていく」
合図もなく、品川の道場も父も弟も伍の仲間たちも消えた。空気も温度も東西南北の方位さえも変じた。五感のさんざめきが静まれば、そこはもう天外魔境であった。
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