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第二章 迷宮顛倒変

尻取り

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 看板も真新しい道場に勢揃いした面々は――、

 父であり、不世出の剣術家である樋口顕頼あきより
 凡庸月並みな剣士にして不肖の弟・樋口久兵衛。
 防人、そして屈指の本草学者として名高い藤見麟堂。
 その弟子・廻鳳。
 さらに、迷宮最強の五烈の一として謳われる金九字講の凪本いさり

 車座になった五名は、どれもきりりと引き締まった隙のない顔つきであった。馴れ合いは微塵も感じられぬ。いつどき刃なり呪言なりが乱れ飛んでも不思議ではない一触即発の重苦しい空気。俺たちが踏み入ったことなど気付いていないのか、気付いていても心を移す暇もないのか。それほどに抜き差しならぬ、そんな一場に、

――ぴたり、と弟の額から汗の雫が落ちれば、

「たぬき」父が低く言った。

 続いて、弟が絞り出したのは、

「きんぽうげ」

 似合わぬ花の名であった。

 ほお、やるな、見事、など感嘆が並べば久兵衛の眉根が安堵に弛む。

 次の麟堂が呟いたのは、厳かな「げそ」の二文字であった。

 間違いないと俺は確信した。
 尻取りであった。こやつらは神聖な道場で尻取りをしている。大半が大人であろうに雁首を揃えて言葉遊びに興じている。この光景に怯んだ御守は雪之丞に身を寄せた。曲輪は口をへの字にして不機嫌そうに肩を揺すった。

「おい」と俺が凄むのを父が制して、
「邪魔をするな二郎。これは真剣勝負ゆえ」

「何が真剣だ。ガキじゃあるまいし。いやガキだってそんな大真面目に尻取りなんざするもんか!」
「黙れ、静かにしておれ。入りたいなら次の回からだ。さて廻鳳殿、これをどう捌く?」

 水を向けられた廻鳳は、しかし父ではなく俺をぎゅっと凝視し、げそげそげそ、と口の中に烏賊を泳がせた。そうしてようやく、ふさわしい答に行き当たったようだ。

「卒塔婆《そとば》」

 どきりとした。恐ろし気なことを言ってのける。荒れ寺の裏手の無縁仏などが脳裏を過った。なにやら俺に向けられた殺意のようにも思える。

「ば、ばばば、かぁ。難しいな。ああ、曲輪《くるわ》姐さん。こいつに勝ったら樋口さんがうちに仲間に加わってくれるっていうんで張り切ってるんだが、どうも尻取りってのが苦手でねえ」

「だったらなおのこと真面目にやりな」と曲輪が釘を刺す。この凪本という男にはあまり緊張感はなさそうだ。本人してみれば真剣そのものかもしれないが、どうも生来の締まりのなさが顔面ににじみ出ている。

「ばふ――いや、駄目だ」

 馬糞と言いかけた。絶対にそうだ。よりによって畜生の糞で負けることなど男の面目に関わろう。すんでで食い止めたのは僥倖であった。それにしても父は馬鹿な約束をしたものだ。こんな遊戯で出処進退を決めるとは。いや、父らしいといえばそうか。

「こんなのはどうかな。馬喰《ばくろう》」
「ふふふ。敵ながらあっぱれよ。しかし、忘れてはいまいな。この尻取りは尋常の尻取りに非ず。首狩り尻取りである」

「なんでえそりゃ?」俺は思わず声が出た。
「首を狩って尻を取る。つまり頭に来る音は一度使うたら二度とは使えぬ仕組みよ。繰り返すうちに使える音は減ってゆく。どうだ二郎。これぞ剣術などより奥深い尻取りの道ぞ」

 お上の裁きも仇討ちも辻斬りもみんな尻取りにしたらいい、とわけのわからぬことをほざきながらも父は楽しそうだ。

「た、き、げ、そ、ば、の五文字はもう頭にしてはならない。これはとどのつまりお尻にも使えぬということね」と御守が簡潔にまとめた。次の「う」から始まる言葉の以後は「う」も消えるというわけだ。だんだんと余地が失われ、いずれ誰ぞが窮するであろう。

「言葉を接げなくなれば、そこで脱落。次の者がそれを答えねばならぬ。だんだんと負け抜けていき、最後にひとりが残るという案配よ。しかし、この勝負に限ってはわたしか、そこの凪本殿が破れるまでとしようか。わたしが負けた暁には金九字講に身を預けよう。しかし――凪本、その方が負けた時には、ふふふ」

「あんた、何か賭けたんじゃないでしょうね?!」曲輪が凪本に詰め寄った。

 凪本は、その片腕の義手のように全身がぎくしゃくとした。絡繰りの右手の恐ろしさは魍魎街で充分に味わった。

「だ、だってよ、こっちが要求するならば、負けたら向こうにも何かを差し出さなきゃなるまい。だろう?」
「あんたまさか? アレを賭けたんじゃないでしょうね?」
「大丈夫だよ。負けなきゃいいんだし、負けたらとぼけて突っぱねればいいさ」
 などと当事者の前で言い放てる胆力とあつかましさは立派なものだ。

「さすがあんたでも、これだけの手練れの中で逃げ切れると思ってんの?」
「逃げれないなら、やればいい。でも、うーん。ちょいと苦しいかな。曲輪姐さんは加勢してくれるんだろう?」

「しないわよ」と曲輪は顔を背けた。

「そうか、じゃ、ま、そうなってから考えるとするか」
 事も無げに凪本は言った。

「まったく」どすんと道場にあぐらをかいた曲輪は、すべてを成り行きに任せることに決めたようである。どうとでもなれ、とその横顔が伝えていた。

「アレってのは?」これは雪之丞であった。

 一瞬、道場に先程とは違う、ひやりとした緊張が走る。麟堂と廻鳳が目配せをする。凪本と曲輪もだ。この四人はそのアレとやらを周知しているに違いない。

「カッパさ」
「河童だと? そんなもん貰ってどうすんだ? 河童の飼い方なんざ知ってるやついるのか?」

 迷宮内の水辺にその姿を見かけることはあった。河童ともガタロとも呼ばれるそれらは水に引き込まれなければ手強い相手ではなかった。油断は禁物だが、気構えさえしっかりしていればさしたる脅威でもない。

「その河童じゃないですよ」と廻鳳。

「ん? 違うのか」皆の反応を窺うと、どうやら河童のことではないらしい。

「だったら銅のことでは? 英吉利《えげれす》の言葉で確かカッパァというはずです」御守が意外な学識を披露する。

「しかし、たかが銅をそこまでありがたがるかねえ」雪之丞は首を傾げる。

「よいよい、カッパがなんであれ、どうでもよい。わたしは勝負が面白くなればなんでもよいのだよ」父の言い草は凪本とおっつかのいい加減さである。

 ――たぬき・きんぽうげ・げそ・そとうば・ばくろう、と続いた尻取りだったが、順番はぐるりと一周してまた樋口顕頼に戻ってきた。

「うす」痒いところに手が届かぬというか、いかにも情趣に欠ける選択であった。よりによって臼かよ。数ある和語のうちでこれほど味気ない響きがあろうか。

「するめ」と自信たっぷりに口にしたのは我が愚弟であった。先般「げそ」が出たあとにまた烏賊《いか》に類する言葉を発するとは、やはり愚と言わねばなるまい。だんだんと俺は身内の体たらくにむかむかしてきたきた。遊戯というものはただ勝利すればいいというものではない。もっとこう奇と美とでもって心の景色を刷新するものでなくてはならぬ。

「我慢ならねえ俺も入れろや」
「勝負に水を差してまで割り込んでくるとは余程の自信と見えるね」

 そう言ったのは凪本であった。麟堂と廻鳳は白い目を向けるばかりである。屋敷を壊したことをまだ根に持っているのであろう。

「二郎よ。よかろう。しかしお前に尻取りの妙味がわかるのか」
「ほざけ。あんたよりはずっとましさ」

 己の伍を大江戸大迷惑と命名し、弟の伍に鮨三昧を提案した俺である。詞華の感性なら人後に落ちぬ。世評はいまだ追いついていないが、前衛はいつも遅れて受け入れられるものである。まして、ここに揃いも揃った風流を解せぬ盆暗どもに引けを取るはずはない。

「もし負けたら父上と同じく、俺も金九字に入ってやろうではないか」

「いらないよ」と曲輪と凪本が一時に言った。

「君はだってさ、弱いもの。うちは精鋭を募っているんだよね。ははは」

「俺は弱くねえ。まあまあ強い」と必死に抗弁するが、すでに、こてんぱんにしてやられているのだから説得力はない。「弱いのはこいつだ」と弟を指す。下には下がいると惨めさから逃れるために俺は言った。我ながら、ひねくれた矜持である。

「二郎、お前が強かろうと弱かろうとどうでもいいのだ。早く言え、興が殺がれる」
「わかったよ。め、なら決まってる迷宮さ」

 ――迷宮。めの音が回ってきたからにはこれを出さねばなんとする。俺たちの生きる戦場であった。人生の舞台である。

 びしりと決めたつもりであったが、どうも皆の顔色が優れぬ。これは隊伍の名を掲げた時と酷似した反応であった。はぁと一斉に青いため息を漏らす面々。何がいけない?

「威勢よく飛び込んできたと思うたら、そのザマか」
「馬喰ので、すでには使えぬのだ。馬鹿者」
「情けのうございます兄上」
「耳を疑ったわ」
「人は、これほど愚かになれるのですね、麟堂様」
「うむ、愚かさに果てはないのだ」

 またもや言いたい放題に罵られた。本当ならば、すらりと白刃を抜き放ち、ご乱心とばかりに、こやつらのそっ首を叩き落としてやりたいところであったが、忌《い》やなことに、どいつもこいつも腕利きであるからして、それも叶わぬ。

「しまった。俺としたことが。いまのは無しだ。やり直しを要求する」

「ならぬ、真剣勝負ならば、すでに死んだも同然。あちらの神棚の下で壁を向いて黙想しておれ」と父がいつになく厳しく言った。逆らえば斬ると言わんばかりの気迫であった。

「ぐうぅ」

 皆の視線は冷たく無慈悲である。口惜しいが無言の圧力に従うほかはない。鹿島の大神を祀った神棚に平伏したのち俺は正座にて面壁したのであった。耳でもって尻取りの行方を追うことしかできぬ。

「では、からやり直そう」
「めざし」
「しらこ」
「こたつ」
「つけもの」
「のみ」
「それは蚤かな鑿かな?」

 どっちでいいだろうが、と俺は壁に向かって唾を飛ばした。せめてもの抵抗である。

「黙れ、無作法者が」

 叱正が飛んで俺は口を噤む。苛立たしさが抑えきれず、壁に頭突きをすれば、神棚が崩れて榊やら瓶子やらが上から落ちかかってくる。俺は、ぎゃあ、とか、うげぇと喚いたのであった。

「まったく地上でも樋口さんは、やかましいです」と吐き捨てたのは廻鳳であった。やはり俺を恨んでいるらしい。前よりずっと態度が冷たいのである。

 尻取りはそれでも続くのであった。

「みそ」
「そ、そ、そば……つゆ。そばつゆ!」
 咄嗟にすでに使用したを回避したのは廻鳳か。
「ゆうれい」と凪本
「いぼ」
「ぼ、ぼ、ぼうず。坊主です」
「ずんだもち!」
 疲弊の色濃い五人であった。俺は長引く勝負をよそに神棚を整えた。盃にお神酒を汲み直すと二礼して神霊に無作法を詫びた。武御雷神よ、並びに妙見菩薩よ。俺にやつらをぶっ飛ばせる業と力を下さい。やつらには俺の風雅を解する素養を与え給え。

 油断であった。膠着したと思われた勝負であったが、こういったものは決まる時は一瞬で決まるのである。ずんだもちを受けて廻鳳が「ちくわ」と絶叫すると、凪本はその気合に魂消たのか、思わず「わんたん」と口にしてしまう。

 誰もが怪訝な面持ちで、ささやかなみじろぎもしない。

「ああ、しくじった。負けちまったか。ん? みんなどうしたのだい?」

 額を手で打って凪本は己の迂闊を悔やむが、皆の態度は少し変である。

「お主の負けは負けでよいが、わからぬのは、わんたんというもの。それは何だ?」
「え? わんたんはわんたんだろ。食ったことねえのかい?」
「なんだいそりゃ」と雪之丞が言った。俺は壁に向いていられず、くるりと身を翻して人の輪に舞い戻った。「ついぞ見かけたこともないぜ」
「そうか、ないのだね――」と凪本は納得した。それから小さく聞き取れぬほど声で何かを呟いたのを俺は見逃さなかった。俺の他にそれに気付いた者はなさそうであった。
「ま、もとは大陸の食い物さ。そもそもは渾沌《わんたん》と書いた。郷里では人気の食い物だね。そのうち江戸でも食われるようになる。滅法うまいのさ。皆さんお気に召すはず」

「わんたん」麟堂は納得しかねるように繰り返した。

「負けは負けさ。ともかく、が付いたら運のツキというやつさ。だろう?」
「だったら、てめえそのカッパってのを寄越せや」
「あげちゃいたいのだけれど、残念ながらそれできない。頭領に殺されちゃうからなぁ。無理強いをするというなら、ここで君たちと刃を交えて差し違えるしかないねぇ。きっと君ひとりくらいは道連れにできるよ」
「なんで俺なんだよ!」

 凪本はまるで死を怖れないようであった。それは向こう見ずとも不敵さとも違う。奇妙な表現であったが、俺の感覚を言葉にするならば、それはこう言うべきだろうか。この男はすでに死んでいる。いや――むしろ生きていない。

「ふん、そんな馬鹿げたことなどするものか。剣でやり合うなど愚の骨頂。この世にはまだまだ無数の遊戯があるのだ。それを使えば、どんな問題も楽しく決着がつこうというもの」

 決然と言ったわりには父は、ふわぁ気の抜けた背伸びをしてみせる。そういえば父は遊戯好きであった。昔から大人には珍しく子供の遊びに付き合ってくれたものだ。そうであった。こんな記憶ですらいまのいままで抜け落ちていた。母のいない我が家では父は幼友達のごとく何くれと面倒を見てくれたのだ。叶うことなら剣など取らず麟堂のような学者になりたかったのかもしれぬ。古今津々浦々の遊戯を収集する学者に――

「わたしは尻取りに勝った。それでいいのだ。愚息の邪魔が入ったものの名勝負であった。ああ、楽しかったなぁ」
「勝ったからにゃ、なんだって分捕っておけよ」

 そう訴える俺を、顎鬚を引っ張りながら麟堂が鋭い眼光で射抜く。

「真っ先に負けたお主は黙っておれ。学識のない脳足りんには、カッパとは何か想像もつくまいよ」
「知らねえけどよぉ、あの河童なら迷宮じゃ珍しくもねえ。地上でなら見世物にして稼げるかもしれんが」
「こやつらが決して渡せぬという宝こそ、迷宮深くより持ち帰ったものであり、公儀が金九字に先んじて手に入れるべきものであった。それが、低級な妖魅であろうはずがなかろう」
「もったいぶるな。あんたは知ってんだろう?」
「河童ではない。正しくは活版《かっぱん》よ。こやつらが持ち帰った代物とは活版印刷機」

 どうだ、とばかり告げられた言葉はしかし俺にはまるで響かなかった。見回してみれば父はもちろん弟も雪之丞も珍紛漢紛《ちんぷんかんぷん》の呆け顔である。ただし、さすが廻鳳だけは聞き覚えがあるらしく、ハッと胸を突かれたごとく身を固くしていた。

「河童はいいが、活版はいけないね。尻取りでは負けてしまう」

 気の利いたことを言ったと得意満面の父であったが、それに応じる者はいない。

 ――活版印刷機。耳慣れぬ言葉であった。

 慣れぬというなら、もうひとつある。 

 ――わんたん。凪本の敗着となった一語がそれだ。

 その言葉に誰ひとりとして馴染みがないと知った凪本は「そうか、ないのだね――」と自嘲気味に呟いたのだったが――細くかすれた台詞の続きを俺は聞き漏らさなかった。持ち前の地獄耳でしかと聞き留めた。

「そうか、ないのだね、

 凪本はそうひとりごちたのであった。
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