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第二章 迷宮顛倒変
幻射
しおりを挟む旺次郎を送り届けた俺たちは、すぐに迷宮は戻らず、地上をいくらか見聞することにした。迷宮の影響は地上にも及んでおり、なかでも深淵より吹き出した胞子は、地上に得体の知れぬ羊歯だの苔だのをもじゃもじゃと蔓延《はびこ》らせていた。大火に蝕、あげくにこの様変わりじゃ、江戸の庶民が世の終わりと騒ぎ立てるのも致し方あるまい。まるで異国のような有様に俺は驚くよりも先に笑い出してしまった。
迷宮を知るものとしてこの程度は、文字通りのお笑い草だったが、町民どもとて負けていない。ねじくれた木々だの見慣れぬ生き物だのを怖れるばかりではない。好奇心いっぱいに、未知の究明に取り組んだ。
「案外逞しい連中だぜ。食えるものを見つけちゃ食ってやがる」
「なんや、地べたの上もおもろなってんな」三浦はまばたきさえ惜しむようにきょろきょろと周囲を睥睨する。
「どうする?」雪之丞は訊いた。
「俺は色街にでも繰り出そうかね。心の洗濯ってやつだ」
「吉原なら閉めてるぜ。大火の後だ。それに遊女が付け火したって話は広まってる。世間の厭悪は遊女へ向いてんだ。幕府はしばしの間、商いをさせぬつもりらしい」
「だったら湯屋に行く。言ったろ洗濯だと。身も心も洗うなら風呂さ」
春をひさぐ女は吉原だけにいるのではない。湯屋には三助の他に湯女がいる。俺はそちらに足を向けようとした。そこが駄目であれば、いまさら潜るのは億劫だったが魍魎街にだって遊郭ならある。
毎度のことながら家に帰るのは気が重かった。武家に憧れる雪之丞は剣術道場を兼ねた我が家へ行きたがったが、俺はと言えば、むしろ気安い商家に育ちたかった。算盤を弾いて生きるのであれば、難訓なんぞという化物に喰われることもなかったはずである。雪之丞がそうしたいので、何も敷居を高い家でもあるまいし勝手に行けばいい。
「うちにゃ、もしかしたら麟堂先生が仮寓されているかもしれぬ。会ったらよろしく言っといてくれ」
俺がぞんざいに義理を預ければ「ああ」雪之丞が応じた。
頭を怪我した薊野はどこぞの肥沃な畑に埋まって傷を癒すのだそうだ。瓜頭の頭は人間のそれよりは随分と脆く割れやすいが、半分以上を失わなければ生きていられる。どちらが便利かはわからぬが、ともかく薊野の傷が塞がるまでは地上に留まることになりそうだ。
「いつまでかかる?」
「五日か六日あれば」
ぶつりと薊野は言った。頭蓋を欠いたせいか、ただでさえ無口な薊野はいっそう言葉少なになり、表情も乏しくなった。これでは本物の西瓜である。ともかく俺たちは地上で暇を潰さねばならぬ。生計を得る手段が迷宮であるならば、地上に留まるならば一銭も入らぬばかりか御銭《あし》は出ていくばかりであった。
「樋口さんは麟堂先生の家の弁済もしなきゃいけないんでしょう?」
御守に痛いところを突かれた俺は、うぐと唸った。
そうなのだ。そうなんである。全額を負う気なんざさらさらないが、心ばかりの価を支払わねば、こんな俺であってさえ、さすがに気まずい。のんびりと悪所通いなどしている場合ではないかもしれぬ。
「ちぇっ、だったらよぉ、今回はお預けにしとくか。雪之丞よ、一緒に帰るぜ」
「雪之丞様はわたしと出かけましょうよ」と御守が俺に対する敵意満々で割り込んでくる。
「勝手にしやがれ」俺は御守と雪之丞を取り合うつもりはない。こんなものが欲しけりゃくれてやろう。俺はひとりで家に帰るか。それともどこぞの川っぺりで糸でも垂らすか。
「いいのかい樋口さん」雪之丞は絡繰りを脱いで軽装になった御守に引かれながら、俺に声を投げかける。小娘と物見遊山と洒落込む気分じゃないのだろう、なんとか俺に取りすがろうとする。
「なにがでぇ?」
「あんたよ、自分の家に麟堂先生を住まわせてもいいって言ったんだろ」
「そうさ。うちなら部屋も余ってるしな。じいさんひとりくれぇなら、大丈夫さ」
「もし麟堂先生が居たらだ。そこには廻鳳もいるだろ」
――げ。
忘れていたのは、あの本草学者のことであった。俺たちが迷宮に降りるのと入れ替わるようにして地上に出たのである。震央舎を破壊したことを内緒にしていたのだが、今ならもう何もかも承知のはずだ。想い出の学び舎を傷つけたことを許してくれるとは到底思えぬ。
「だからよぉ、おいらも一緒に行ったほうがいいんじゃないかって思うんだよ」
雪之丞は言った。こいつもこいつで御守と二人きりになるのが気乗りしないのである。わかるわかるぞ。小便くさい娘なんぞに引き回されていたら侍の名折れだと雪之丞も思っているのだろう。
そんな俺の心中を盗み見たのか、御守はこちらをぎりぎりとねめつけた。
「ならば、わたしも参りましょう。いいでしょう雪之丞様!」
「いや、俺ん家なんだから、俺に許可と取るべきであろう」
などと余計な口を挟んだが運の尽き。反撃は十倍にもなろうかと覚悟した。
「樋口さん、わたしはあなたの家に行くのではありません。雪之丞様のいらっしゃるところに付いていくだけです――」
まだまだ御守には言いたいことがありそうだったが、雪之丞に窘められて口をつぐんだ。俺は辟易しながら頷いた。
「謎の理屈だがまあいい。数は多いほうが心強いかもしれぬ」
こうして相談はまとまったのであった。
三浦はまたぞろ顔料を補充するとかで芝浦へ向かった。黄表紙やら滑稽本やらを扱う神田の書肆に入り浸るのかもしれぬ。おそらくこういった折にじっくりと絵と向き合うのであろう。落ち着いて筆を執るには、迷宮は不似合いである。むしろ迷宮で溜め込んだ記憶と着想を地上で色と線とに変えていくのだ。絵師にとっては、ここからが本領と言えようか。
御守は絡繰りを行李に入れて背負っている。全身を覆う鎧の如き絡繰りが、あれよあれよという間に畳み込まれ収納されてしまうのは奇術を見るが如き不思議さであった。行李には絡繰りの他にも法華経典も入っていたが、どこからどう見ても女だてらに流浪する旅の六部とは見えぬ。
「樋口さん。じろじろ物珍しげに見ないでくれます。まったく遠慮のない人」
ぴしゃりと御守は言った。迷宮を出ても気質は変わらぬらしい。険のあるむくれ
面で雪之丞にあれこれと悪口を吹き込む。やれやれ。女にはさっぱり人気がない――といって男になら人望が厚いということも全くない。そら、嫌われ樋口様のお通りだ、って蟻んこも避けやしねえ。いやな世の中である。
間もなく我が家の門戸が見えてくる頃合、やれやれと畳のにおいが懐かしいなんて人心地がつきそうなあたりで……白昼の往来にぎらつく殺気がひとつ。迷宮の手練れである雪之丞も御守ももちろん気付いている。
「もうちょいで家だってのに、こんなところで待ち伏せとはな」
「横死した連中なんぞは、だいたいもう少しでってあたりでくたばったんだろうね」
「不遇なやつらだぜ。さぞ無念だったろうな」
などと俺と雪之丞が実りない雑談を交わしているうちにさっそく、殺気の主が登場――してはいない。どこにも姿は見えぬ。が、身構える間もなく弓音が鳴り響く。
矢が放たれたのは自陣と敵陣の両方からであった。
まず殺気に応じて雪之丞が矢をつがえた。先んじて敵の矢が放たれたが、雪之丞の射も決して遅れを取ったわけではない。ほとんど同時に石をも穿つ弓勢で矢が飛び交う。
「樋口さん。あなたと居ると迷宮の外でもこれですか?!」
「ああ? 俺のせいじぇねえよ。たぶんな」自信を持って言い張れず、反論は尻すぼみになる。
「雪之丞。敵はどこだ?」
「おそらくは曲がり角の向こうだ。しかし――」
「どうした?」
「敵の矢の軌道が低すぎる。まるで地面を這うような矢だ」
言うが早いか、御守が足首を射られて、苦悶の顔つきになる。白い首筋にどっと汗が溢れる。よろめき倒れ伏しそうになるが、地面に近づけば近づくほど危険は増すであろう。格好の的になるに違いない。
「見えた! あそこの大八車の下から矢をくぐらせてやがる。いったいどうやって?」
確かに射手はそこに居た。しかし、寝転がっているわけではない。横になった身体が地面すれすれで宙に浮いている。呪法か符術であろう。と反撃の糸口を掴もうとしたその時であった。俺の両足にも激痛が走る。
「クソっ!」
立っていられず思わず膝をつく。雪之丞も同じ窮地に陥っている。往来を行く人々は一向に俺たちの手を差し伸べようとはしない。義理も人情もねえらしい。と恨むのはお門違いだ。誰も何がここで起きているか理解してやしないのである。このまま顔もわからぬ敵に衆人の真ん中で殺されることになるのか。
「ありゃ、矢が刺さってねえぞ」
それに気付いたのはまず雪之丞であった。
痛みがあれど矢はない。俺も自分の足首を見た。鏃が肉と骨にめり込んだ確かな感覚があったはずである。
深く感じ入った声色で雪之丞が言った。
「幻射か。弓の達人だけがなし得るという矢なき射だ」
ないとわかれば痛みはすっかり消え失せてしまう。人の心と身体とは面白いものだ。殺気を凝り固めた矢であってもそれを受ければ、痛みを発し、悪くすれば死ぬことさえあるという。
俺たちはこれが戯れだと知る。しかし、こんな笑えぬ冗談を仕掛けてきたのは一体誰だ?
「あらら、情けないねえ。ほんのご挨拶代わりだってのに。タダ酒喰らいの兄さん、お久しぶり」
物陰から悪びれることなく現れたのは、ひとりの女。曲輪《くるわ》と呼ばれた金九字講の符弓仕であった。江戸広しと言えども尼さんの他にこれほど髪の短い女はいない。耳にかからぬほど長さに切り詰めた癖毛。前髪は後ろに撫でつけて額を晒している。鹿革の胸当てに紺袴といういでたちは魍魎街で出会った時と寸分変わらぬ。異国の血が入っているらしく江戸の連中よりずっと彫りの深い顔立ちであり、また上背もある。
「あんたは金九字の」
「破魔矢の曲輪《くるわ》なんてみっともない名前であんたら呼ぶんじゃないよ。あの日は大騒ぎだったねぇ。うちの大将もご機嫌に踊り狂ってた。あんたの茸まみれの醜態も悪くなかったね」
「なんだと」
かっと頭に血が上って目の前が真っ白になった気がした。この女の符呪によって茸を身体から生やされた記憶を俺は苦さと共に反芻する。こいつを切り刻んでやりたいという獣の衝動がこみ上げる。
「あんた、なんでこんなところをうろうろしてやがる」
よりによって家の近所を、とは言わなかった。わざわざ教えてやるほどの事でもあるまい。しかし向こうはとっくに知っていて、
「あんたの家に用があってね。うちの凪本って優男が居たでしょう? いまアレがお邪魔してんのさ」
「カチコミか道場破りか?」
麟堂がいればよし、弟と舎弟の魚面どもだけじゃ金九字にゃ歯が立つわけがない。無論、親父には期待できぬ。あの風来坊ときては剣術しか能がないくせに剣術が嫌いなのだから、いつだって話はややこしくなる。
「人聞きが悪いね。話をしてるだけさ。ただの勧誘。うちの大将はもっと隊伍を強力にするつもりでね。麟堂のじいさんが居たのは計算違いだったが」
「うちの親父にお声がけを? まさか欲しいのは弟じゃあるまい」
「もちろん父上さ。天下の名人・樋口顕頼を我が伍に迎え入れたい」
「親父が在宅だったのか。珍しいな」
「あたしは出迎えに来てあげたんだよ。麟堂のじいさんたら何の神通力だか、あんたの帰りを察知したんでね。そのついでにちょいと揶揄《からか》ってみたのさ。お気に召さなかったかい?」
俺は問いを受け流し、
「親父と麟堂が同席してる場所に金九字の使いが来てると?」
「本来なら脊川黙雷その人が直々に来るべきだったんだけど、ちょいと手の離せない用事があってね。ま、詳しい話はあんたの家に着いてからでいいだろう?」
俺たちは家まで三十間あたりの距離を、往来を横に拡がって歩いた。
雪之丞は先程の弓術について訊いた。地を這う射撃のことである。
「元はいえば、大陸の騎馬民族の馬の曲乗りの技さ。馬上から身体をぐっと横倒しにして弓を射るんだ。どんな体勢からでも精確に射掛けるためには相当の鍛錬が必要なのさ」
「ふむ」と雪之丞は感心しきりだ。「あんたは騎馬の民の血を引いてるというわけか」
「まあね」曲輪はぐっと唇を結んだ。それは拒絶の仕草のようにも見えた。
曲輪はそれ以上を語らなかったが、代わりに弓術については出し惜しみせずに教えてくれた。角の茶屋の柱に爪先を引っかけて身体が横倒しにするが、全身を真横に浮かせたまま固定するのは並々ならぬ力が必要であろう。地面に寝転がっては矢は放てぬとはいえ、では浮かせればよいと軽く言えるほど楽な仕儀ではない。
「言うは易いが、その安定を欠いた格好で狙い通りに矢が放てるとは。ましてや心を鋭気の矢と見紛うほどに収斂させるのは、いっそう至難」
「なぁに、何事も鍛練だよ。迷宮でも使える技術さ。幽世に半分踏み込んだ妖魅は、本物の矢よりむしろ、幻射の方が効くこともある。覚えとくといい」
人を寄せ付けぬ刺々しい印象とは裏腹に案外と面倒見のいい女なのかもしれぬ。いや、それだけに、この女を迷宮の手練れにまで育てた背景には何やら恐ろしいものがありそうに思えた。
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