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第二章 迷宮顛倒変
旺次郎
しおりを挟む鋭い音声は千の釘となって俺の全身を貫いた。
とっさに耳を塞いだものの、そうして無防備になった胴体に旺次郎の蹴りが叩き込まれた。常人離れした一撃に俺は血を吐いた。一瞬の昏倒をなんとかねじ伏せて、前のめりに敵を睨みつければ、旺次郎の背後でケタケタと笑う人形が眼に映る。憎らしくも不気味、そして一方で憐れでもある狂態。
「てめえ、なんで息子を引っ張り回す。母親の、それが仕打ちかよ」
糾弾する俺の肩をぐっと雪之丞が引き戻す。いけない。我を忘れて挑みかかろうとするところであった。伍を束ねる者としての自覚が足りぬ、痴れ者、猪侍、腐れひじき、などと御守に痛罵されるところであった。
「樋口さん、薊野の頭が半分欠けちまった。西瓜の中身がこぼれ落ちそうだ」
振り向くと西瓜頭に切れ込みが入り、赤い果肉がのぞけている。親孝行の鋼糸に引っかけたのだろうが、あれで生きてられるのか、まったく出鱈目な代物である。
「死にゃしねえが、無事でもないぜ。なぁ、どうするよ?」
「雪之丞よ、御守よ、なんか策はあんのかい?」
俺はじりじりと後退しながら訊いた。
「ダメだ。薊野さんだけじゃありません。三浦さんもあの音でほら」
と蹲った三浦を指差すと、示す先には絵師と絵師の反吐がある。確かに船酔いのようにぐらぐらと腸がむかついて堪らぬ。絵師の三浦は昨日の酒か、今朝の味噌汁だかと対面しているという次第。
「笑ろてまうで」と三浦は強がりを言う。「なんや、せっかくおもろい題材と鉢合わせしたっちゅうのに我ながら不甲斐ないわ」
「それだけ口が回れば上等だ。あんたの筆で退路を開く」
「なんや逃げんのかいな」
「ああ、これが伍長の判断だ。ここは撤退する。このまんまじゃ全滅さ」
「そうと決まれば」と御守は少しだけ俺を見直したような顔をする。どうやらこの判断は間違っていなかったらしい。
「三浦さんは人数分の防刃符をさっさと拵えてください。この鋼糸に通用するかわかりませんが、切れ味は多少鈍るでしょう。そう願うだけですけど」
「よっしゃ」と三浦はさらさらと呪符を書きつける。ものの一瞬の早業であった。それを身体に貼れば敵の刃から身を守ることができるが、己の振るう刃もなまくらになってしまうという厄介な呪符である。鈍器の遣い手や呪禁仕ならば、身に着けておいて損はない。しかし絡繰りの頑丈さを恃む御守にしろ、毛色の違う他人の呪物を纏うことをよしとしない薊野にしろ、それをあらかじめ懐中に忍ばせることなどしていない。
「できたで!」
三浦は呪符を書きつける手並みに劣らず、符を投じる術に長けていた。入り組んだ糸の隙間を縫って分断された俺たち皆に符が行き渡った。
――逃がさぬ。殺せ、殺せと母様が言うておるわ。
「馬鹿野郎てめえ。耄碌《もうろく》したお袋の言いなりか。ちったぁてめえの料簡で動きやがれ」
「操り人形にそんなこと言ったって無駄だってば」と雪之丞。
「人形なら背中の婆あだろうが」俺は反論しながらも鋼糸をかき分けていった。或る時は潜り抜け、或る時は跨ぎ越える。防刃符の効果は甚大であった。さっきまで触らば切らずにおかぬ鋭利な糸であったが、呪符のおかげで肌を押し付けても支障はない。
「おら、とっととずらかるぞ」
などと号令を発するが、敵も間抜けではない。かさかさと糸を伝って追いすがってくる。
「あかん、捕まってまうで」と三浦が喚く。人形に操られた旺次郎の怪力なら、三浦の首なんぞあっけなくねじ切られてしまうであろう。
伍の連中を追い立てながら、
「なぁ、やらせてくれ。アレなら時間稼ぎにゃなる」
俺がほのめかしたのは麟堂の屋敷を半壊させた呪法・朱雷吼《しゅらいく》のことだ。すぐに御守は意図を悟ったが、大いに賛成とは言いかねる態度である。
「私たちに依頼の完遂はできなくとも、他の隊伍ならできるかもしれません。ここで旺次郎さんを殺してしまっては報酬はおろか、こちらが詫び料を払う羽目になりますよ」
「なぁに迷宮の底で起きたことなんざ、誰にもバレやしねえさ。それにあの糸は呪力を削ぐ。全力でぶっ放してもあの馬鹿にゃちょうどいい気付け薬程度にしかならねえよ」
「悪い人ですね」と言ったものの御守は頑なではない。問答している暇はない。手を拱いていれば、あの気狂い母子に縊り殺されるのがオチだ。それにまたあの大音声を放たれたら、それこそ蛇に睨まれた蛙さながらに身動きができなくなって、一巻のお終いである。
「手前らは先に逃げろ。俺は一発決めてからだ。すぐに追いつく」
「わかりました。上層で落ち合いましょう」
算段をつけると、四人はきっぱりと背中を向けて退却した。伍長を置き去りにするには、後ろめたさも未練のない、いい逃げっぷりだ。
俺はほくそ笑む。
「ああ、やっぱりいいな。独りってのはよぉ、背中を預ける相手がいねえってのは、すーすーと心ン中によぉ、冷たい風が吹くみてぇで、せいせいすらぁ」
身動きを止めた傀儡《くぐつ》どもはまた、ぞわぞわと呪力を練り上げていく。そう奴らは互いが互いの傀儡なのである。またぞろあの音撃を繰り出すつもりであろうが、こっちも負けてはいられぬ。
――応変罰苦《おうへんばっく》、呶々累々《どどるいるい》。
呪言は、ただの無意味な言葉ではない。かといって意味に絡め取られる平易な文言であってはならぬ。意味と無意味の水際に力を帯びた境界がある。そこから現象という非意味を借り受ける。それがすなわち呪法である。地上での行使と違い、迷宮の力によって呪力は幾層倍にも膨れ上がる。びりびりと五体の骨という骨がいまにも歌い出しそうだ。子守唄ではない。とびきりの葬送歌を聴かせてやろう。底無しの眠りに突き落とす裏声を。
「御守。やっぱり息子ごと殺っちまうかもな。怒んなよ」
俺の内に撓《たわ》められた呪力の大きさを感じ取ったのであろう。親孝行はびくりと震えた。目の前に在る物をすべて薙ぎ払うため己を出す尽くすのだ。それほどに痛快なことが他にあろうか。
「悪いな、俺ぁ、お袋の面影なんざ、知らねえのさ。しかし手前らを見てると、知らなくてよかったと思えるぜ」
朱き雷龍の輪郭がはっきりするのと裏腹に術者の半身は幽世《かくりよ》へと引き込まれて、とめどなく希薄となる。俺の全身と全霊がびりびりと丸ごと帯電するのであった。結んだ印が白熱するともう迸り出るものを押し留めることはできぬ。
――母様。あぶのうございます。旺次郎がきっとお守り致します。
怪鳥の如き叫びを上げる息子。母の内に仕込まれた絡繰りがそれを増大させ、人形の指先から縦横無尽に張り巡らされ糸を伝って空気を振動させるが――
「遅えな」俺の手より放たれた朱い雷は寸時、あらゆる闇を払拭して、眩いばかりの雷光で迷宮を埋め尽くす。いや、むしろ真っ赤な闇とそれを呼べばいいのかも知れぬ。かりかりと枝を分かちながら、ぎざぎざに乱れ飛ぶ閃電は、錯綜した鋼糸ごと視界の果てまでも焼き尽くしたかに見えた。ついで明暗が戻る。
――母様、母様。旺次郎がお守りすると申したではありませんか。どうして?!
「なんだ。最後の最後でどういう風の吹きまわしだ?」
焦げついた香りが漂うそこに人と人形とは佇んでいた。俺は眼を疑った。
これまで息子を無慈悲に使役していた母が息子を守ったのだ。雷の奔流の前に身を乗り出して息子を直撃から庇う母の姿を俺は見逃さなかった。それまで負われていた母が猛然と決起する様は非人間の胸さえも突くものがあった。
「ふん、丁度いい。人形だけがぶっ壊れやがった。依頼達成だな。はなからこうすりゃ良かったんだ」
憎まれ口を叩きながらも俺は釈然としない、あるいは煮え切らぬ思いを誤魔化すことができずにいた。これが母の慈愛というやつか。未練がましく人形に成り果ててまで付き纏っていた女がこうして依り代を失い子を解放したのである。
「ったく親子ってのはわけがわからねえ」
「わたしは――?」と人形の残骸を抱いた旺次郎が寝惚けたような声を出す。
「ようやく正気に戻ったかい。あんたはそれに憑りつかれてたのさ。母上にだ」
「ここは?」
「迷宮の地下十三階。堅気の人間が来る場所じゃねえよ」
「わたしは何をしていたのだろう。家は?」
「さあな。とにかく許嫁は待ち侘びてる。こっから連れ出してやるから、大人しく付いてきな。身体は平気か?」
「そこら中が痛い」
「忘れろ。黙ってろ。おまえは五体満足で元気溌剌だ。いいな?」
俺は押し切った。無傷で旺次郎を連れ帰ることが依頼の眼目である。見たところ、旺次郎に大きな怪我や負傷はなかったし、心にも鬱屈したところは見られぬ。これならば及第点であろう。数日、養生すれば元の生活に戻れるに違いない。
「じゃ、俺について来い。その人形はここへ捨てて行け。……いや、うちの絡繰《からく》り六部が欲しがりそうだな。うう、やっぱり置いていこう。欲張るといけねえ」
「なんだかゾッとしますね」旺次郎は忌避の目付きで人形を見下ろした。
「いまさら何を言ってやがる。そいつはずっと手前にしがみついてたんだぜ」
「そうですか」正気になった旺次郎はおっとりと頼りなさげな痩身で、商家の跡取りとするにはどこか押し出しが弱い。素直といや美点にもなろうが、何事も疑ってかかる抜け目のなさも商人には必要であろう。まあ、如才ない番頭なり、抜け目ない女房なりが盛り立ててくれるのなら、風采の上がらぬ坊ちゃんでも務まるかも知れぬ。
「よし、俺から離れるな。うちの連中と合流するまでは気を抜いちゃならねえ」
俺たちはじりじりと十三階の通路を這い進んだ。幸いなことに、あの大音声で物陰に屯《たむろ》す妖魔どもも変調を来していたから、こちらに見向きもしなかった。
「それにしてもよ、あんたのお袋はどうして、あんたにそこまで執着したんだい?」
道すがら、俺は余計な口を叩いた。こいつの事情なんぞに踏む込む謂れはないのである。
おっかなびっくりで迷宮を歩く旺次郎であったが、俺の問いにはきょとんとした丸顔を傾げるばかりだ。
「いいえ、母はさっぱりした人でしたよ。そりゃ人並みに可愛がってくれましたけど、度を越した愛情なんて心当たりがないです。亡くなった時だって冥途にゃ先に行ってるからゆっくりおいでと告げたきりぽっくりと」
「でもよ、あんな人形を遺したわけだろう。あんたを側で見守るために」
「あれは母でなく父が造らせたものです」と来たものだから俺は驚いた。聞き及んでいた話とまるっきり違うのである。
「執着というならば、父の母に対するそれが一層相応しいでしょうよ。あの人はね、母無しじゃ一日たりとも生きていけない弱い男でした、後を追って自分も逝くというのを何度思いとどまらせたか。あの気味の悪い人形だって、日がな一日父が抱いて話しかけているものだから、店の連中もご贔屓様だって気味悪くて近づかない。だからね、わたしが無理やりに取り上げて捨ててこようとしたんです。ああ、そうだ、その後から記憶がないのです」
「そうかい。そいつがお粗末な真相ってわけか」
あの人形には母の亡霊が憑りついていたのではなかったのである。父親の妄執が凝って婚礼を間近に控えた息子を苦しめていたのであった。本心がそれを意識していたとは思えないが、人形という依り代を得た生霊が迷宮に触れることで尋常ならざる力を得る。もっともらしい理屈ではあった。が、それだけでは納得しかねることがある。
(やはりあの人形には、なにやら他に秘密があったかよ)
「では父はどうなったのでしょうか?」
その問いに応じたのは地下十二階層で合流した石動御守であった。御守は俺の無事よりも旺次郎の息災を喜びながら、一気にまくし立てた。
「父上でしたら由縁の知れぬ熱病でもうふた月も寝込んでいます。母上の死と息子の失踪に心が弱ってしまい病に付け込まれたのだと思われていますが、実際にはあの人形を操るために喪神の体となったのでしょう」
「生きているのならよかった」自分をこのような目に合わせた父親に恨みはないと見える。おっとりとして見えて存外に度量の大きな若者なのかもしれぬ。俺であれば、親であろうと兄弟であろうと、復讐するは我にありとばかりにぶち殺してやるのだったが。
「樋口の雷からお主を守った最後の瞬間だけは、あの人形に母君が宿ったのであろう」
果肉をのぞかせた西瓜頭の薊野がここぞとばかりに言った。普段無口な野郎が珍しく口を開くと大した内容でなくとも重く受け止められるきらいがある。俺はそういう世間の風潮が気に食わない。
「ええ、そう信じます」とほがらかに旺次郎は笑った。「確かにあの瞬間に懐かしい母の温もりを感じたようでありました。では、これからは父を立ち直らせて、琴代と三人で店を盛り立てていきます」
「本物の親孝行をするんだ」と雪之丞が俺の言いたかった台詞をしれっと横取りをして分別くさく述べた。商家の子という己と似た生い立ちに共感しているかもしれぬ。
「達者でな」俺に残されのは、これっぽっちの言葉である。まあいいか。
迷宮の出口で最後にぺこりと頭を下げた旺次郎は二度と振り向かなかった。地上はすっかり暑くなった。今年の桜は見損ねた。迷宮から飛び出した謎の胞子が夏の温かさで得体の知れぬ植物を茂らせていた。うっすらと汗ばみながら、すっかり様変わりした地上の風光に顔を見合わせて俺たちは笑った。クチナシの匂いだけが鼻腔をくすぐるものの、その花の白さはどこにも見つからなかった。
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