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第二章 迷宮顛倒変

親孝行

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 俺たちが引き受けたのは地下十三階での討伐依頼である。

 九階の幻花と呼ばれる植物たちに方角を惑わされたくらいで凡そ支障なく、俺にしてみれば未踏の十三階まで達したのだったが、このあたりになると迷宮は様変わりする。壁は相変わらず熟練の石工でも及ばぬほど平らに均されている。床も天井も粗削りなところはなく磨き上げられた鏡のようだったが、その材質がちょっと違うのである。浅い階層よりも、どちらかというと白っぽく濁った乳のような色になった。

「なんだか落ち着かねえな」
「そうのうち馴れますよ」

 この程度の深さなら慣れっこである御守は、こともなく言った。

「この壁には呪力を反響増幅させる効果があります。ここよりしばらく呪禁仕の力量が伍の要となるんです。自然、呪力での闘争も熾烈なものになります。また魔物もそういった連中が増えてきます。油断はできません」
「なんだか珍しいものが埋まってんぜ」
「上でも、どでかいトカゲの骸が石にめり込んどったやんか」

 機人の喜兵衛が記念の写し絵を体内から排出した場所がそこだった。あれは化け物ではなくて大昔の獣が保存された姿だと聞いた三浦は興が乗ったように絵筆を走らせたものだ。ここでも三浦の好奇心は収まらない。

「ここの壁は白っぽいだけに埋もれたもんがぎょうさん見えるわ。あれは巻貝やろ、そっちはなんや首の長い――なんや竜か?」

 大きな広間に出るとその壁面に無数の古代の生き物たちの骸が見えた。迷宮に立ち込める不可思議光のためか、骸はまるで精緻な筆による錦絵のようで、いまにも動き出さんばかりの迫力に充ちている。間近まで駆け寄った三浦は恐いくらいの凝視でそれを睨みつける。まるで食らいつき、咀嚼するが如き気合であった。

「して、今度の依頼は容易ならぬものと聞いたが」薊野がぶっすりと呟く。

「親孝行。あんなものは物乞いだろうよ。それがどうして迷宮ん中で幅効かせてんだ?」
「そうなんですよね」と御守が依頼内容を浚《さら》ってみせる。

 人形を背負って往来を行脚し、銭をねだる親孝行なる稼業が江戸にあった。みすぼらしい張子の人形を老いた親と見立てて背負い、子はねんごろに親を気遣いながら修羅の巷をとぼとぼと歩くのである。まさしく親孝行の図であった。しかし、この健気な親子の情愛に心を打たれて銭を放る者などいない。お涙頂戴の三文芝居を面白がって幾ばくかの施しをくれてやるのだ。

「迷宮を巡ってたって銭にゃならねえぞ」
「ええ。おどけた風体で稼ぐためではないのです。依頼主は、琴代というちりめん問屋の娘さんで、親孝行となって迷宮に降りたのは、彼女の許嫁である升屋の旺次郎という男。旺次郎の母親は息子をそれはそれは溺愛していたそうです」

 その母親が死ぬと、息子は喪った母を人形の姿に託して迷宮を彷徨しているのである。母を悼むというには度が過ぎている。

「その人形というのがただの人形ではないそうです」

「ふうむ」と俺は生返事である。

 御守は俺の脇をカラクリの腕で小突きながら、

「人形師・須崎令部りょうぶの手になる名品です」

「ただのドサ回りの親孝行たぁ違うわけだな」肋骨をさすりながら俺は言う。
「しかも中身にはうちの師匠である時昌の手が加わっている」
「面倒な絡繰りが仕込んであんのかい?」
「わかりません。ただ、須崎令部の人形に何か細工を施したのは確実です。仕事を頼まれたのは知っていましたが、それ以上の内実はなんとも」
 端正な御守の顔が不安に曇った。

 黙々と筆を走らせていた三浦が筆勢とよく似た一気呵成の口ぶりで「当代きっての名工が二人も携わった人形というわけや」と期待を寄せる。

 対して、雪之丞はあくまで冷静である。
「しかしどうしてそんな人形が、裕福だとはいえただの商家にあるんだ? 母親が輿入れの時に持ってきた雛人形でもあるまいし」

「死期を悟った母親が特別に造らせたものだそうです。息子が自分のことを決して忘れぬように」と御守が声を潜めれば、
「なんだそりゃおっかねえ。まるで呪いじゃねえか」と思わず俺は口走ってしまう。

「呪い。そうですね。じっさい旺次郎は母の面影に囚われ親孝行と成り果てて迷宮を彷徨っているのですから。母と息子の互いの執着がこの呪力溢れる迷宮の底で膨れ上がって旺次郎を魔性の存在に変えてしまったのでしょう。ですから、此度の依頼は、その人形を打ち壊して旺次郎を取り戻すことです」
「人形だけを、か」
「ええ、旺次郎は無事に地上に送り届けなければなりません。容易には果たせぬ仕事です」

 ひたすら敵を屠るのは容易であっても、その一部を生かしたまま勝利せねばならぬというのは至難であった。べったり背に負った人形のみを狙い、人形に魅入られた旺次郎という男を傷つけてならぬとすれば、いまから苦戦が予想される。

「その旺次郎って母恋しの馬鹿野郎も人形もまとめてぶちのめしてよ、もしくたばっちまったら男だけを蘇生させりゃいいじゃねえのかい?」

「そうはいかぬ」と薊野が訳知り顔で物申した。「闕魂呪《けっこんじゅ》を掛けられておるのだ」

「それは――?」俺の疑問を引き受けたのは雪之丞であった。

「迷宮は肉体が死したのちも魂を留める特別な場所。それゆえに蘇生が可能になる。しかし、闕魂呪はそれを無効にしやがんだ。死なばそれまでってな。つまり地上の人間と同じく野郎は一度きりの儚い命をぶら下げてるってこと。おっと樋口さんよ、言いたいこたぁわかるぜ。一体全体誰がそんなややこしい呪をかけたかって? 決まってら。母親さ。あるいは母親が頼んだ術師かもしれねえけど要は同じだ。息子の命を人質にして、永久に母子ふたり水入らずで暮らそうという母の邪念のおぞましさったらもう……背筋が寒くなるぜ」

「闕魂呪とは、そもそも迷宮に囚われた魂を解放する慰霊と鎮魂の呪法だったのだがな」
 薊野は頭のヘタに手を置いた。苦い気持ちを吐露する西瓜頭の仕草である。

「これは厄介だが報いの大きなヤマだ。首尾よくいけば、たんまり銭が手に入る」
「何よりこれは善行さ。奪われた許嫁を返してやるんだ」
「手筈はわかってますね」
「言われるまでもねえ」

 ぐだぐだと言い合っているうちに敵の縄張りに踏み入れたらしい。
 ねんねんころりよ、と子守唄の調が聞こえてくる。その声は男のもので、女の唄ではなかった。老いた母を寝かしつけるために、幼き日にしてもらったように同じ唄を繰り返しているのであろうか。

 ぼうやのお守はどこへ行った。
 あの山越えて里へ行った。
 里のみやげに何もろうた。
 でんでん太鼓に笙の笛。

 しだいに声がはっきり明瞭となった。通路の角から朧な人影が浮き上がると、くるりと向きを変えてこちらへ歩を寄せてくる。間違いない。あれが旺次郎であろう。痩せさらばえていながらも喜色満面。足取りは幽玄としており、湖面を舟で往くが如く滑らかさである。

「いきなり出たな」

 噂通りの風体で、背には何やら薄気味の悪い人形が見え隠れしていやがる。枯れ木のような手足にざんばらの髪は、まるで山姥が乗っかっているのだと思わせる。

「わかる。わかるぜ。傀儡となって操られているのは、むしろ生身の旺次郎の方だな。あの人形が手綱を握ってんだ」

 俺の霊眼は早くも実相を過たずに見抜いた。息子はたんなる乗り物に過ぎぬ。母親の妄執が宿った人形こそが意志を持っているのである。

「弓を」と俺は命じた。

 雪之丞は無言で従った。

 もちろん前面を覆う旺次郎の身体を傷つけずに矢を放つのは容易ではない。狙いはそれじゃない。鏃は雁股《かりまた》といって、二股に分かれており、射抜くのではなく、内側の刃で射切るためのものであった。その刃ですらあらかた潰してあるのだからものの役には立たぬ。出来ることと言えば、矢と壁との間に手足を縫い付けて動きを封じることであった。

「人形でもいい。男のでもいい。四肢を狙え!」

 雪之丞は瞬く間に三本の矢を解き放った。

 石造りの戦場は、鳩たちを仕留めた時ほど広さに余裕はない。俺たちは陣形を柔軟に変化させていく。矢は見えない壁に当たったように旺次郎の身体に触れる寸前で勢いを失って落ちた。

「何かが奴を取り巻いている」

 御守は恨めしそうに口にした。事前に集めた噂では、このような力を親孝行が奮うなどとは知られていなかった。

 ――母様。ごゆるりと、お休みくだされ。

 旺次郎はどろりとした眼の色に恍惚を孕ませて老母を労わる。芝居がかった口調は笑いを誘うと同時におぞましくもある。

 ――邪魔立てするは何者ぞ。母の褥を乱すは何者ぞ。

「大江戸大迷惑」俺は見得を切った。「てめえはその胸糞悪い人形を下ろして将来を言い交わした女のところへ帰れや」

 ――おおお。騒がしい。母様が起きてしまうではないか。

「何が、おおお、だ」俺はセデックの蛮刀を抜いた。

「分厚い瘴気の壁や。喉が締め付けられるようやで」

 口ぶりに反して絵師のぎらぎらと興奮している。

「飛び道具ではあれは突破できそうもないですね」
「わかってる俺が行く」

 これまで何人もの探降者が親孝行に殺されてきたのだったが、その敗因のひとつがこの見えない壁なのであろう。しかし、俺の直覚は別の可能性を告げていた。

「壁じゃねえな。糸だ。蜘蛛の巣みてえな糸が張り巡らされてやがる。かかった獲物の魄を食らってやつらは生きてんだ。その証拠にほらよ――」

 そう、蜘蛛が糸を伝って移動するが如く、旺次郎と人形もまた空中に張り巡らされた不可視の糸を足場にふわりと浮き上がったのである。

「ここはやつらの縄張りだってことか。そうとは知らずおいらたちは能天気に踏み込んでたんだな」
 雪之丞が体裁構わず身震いすれば、
「この階層の生き物は全部あの糸に御されているのだ。我々以外はな」
 と薊野が重々しく呟いた。

 宙を歩む旺次郎に俺の刀は届かぬ。得物を振り回し蜘蛛の巣を切り裂こうとしてみるものの、これもはかばかしくない。絡みついた糸が刀身にぐるぐるとまとわりついてしまうだけでキリがない。蜘蛛の巣に似て一部を破壊したからといって大勢に影響はないのである。

 俺は印を組んで球電を放つ。

 が、それもまた幾層もの糸の織物に阻まれて敵の身体に達しない。というより、放出の折にほとんどの呪力が糸に吸収されてしまい、みすぼらしい電力しか生み出せないのであった。微弱な電撃であれば、旺次郎を無傷のまま無力化できると踏んだのである。すべては計算の内と言いたいところだったが、触れられないのであれば意味を成さない。

「ちっ駄目か」
「次はわたしが」

 俺を押しのけるように御守の絡繰りの左腕が前へと伸びていく。小刻みに震える掌は水を含んだ身体を透過し、背後の人形にまで威力を伝えるはずであった。人形の精緻な機構はそうであるがゆえに脆くもある。うまく内部へと衝撃を加えれば動きを止めるに違いなかった。

 ――ぬ。母様が、母様が。ようやく寝付いた母様が、おお、目覚めてしまわれた。

 憤怒の形相となった旺次郎。だが、もっとも恐ろしいのはその背後の人形の髪がぞわりと逆立ったことである。恐らく本物の母親の髪を植えこんであるのだろう。尋常ならぬ呪力が立ち上る。と、同時に見えなかった糸がいまやはっきりと見て取れるようになる。

「こりゃ。おっかねえな」

 迷宮に縦横無尽に張り巡らされた糸はいまや触れれば切れる鋭利な鋼線と化した。下手に動けば、細切れになってしまうだろう。より残忍な武器となった糸だが、呪力を取り込む作用も消えてはいない。まことに厄介なやり口である。言うが早いか、御守の絡繰りの腕が鋼糸に触れてずるりと切れ落ちた。

「わたしの絡繰りが」ぎりりと御守が臍を噛む。

「薊野よ、あんたの水山蹇《すいざんけん》はどうだ?!」
 西瓜頭は虚しく口を揺らすのみ。

「おそらく効果はあるまい」

 足止めの呪法も張り巡らされた封呪の糸の只中では威力を発揮しない。強引に詰め寄って人形ごと叩き切ることならできようが、旺次郎を除けてとなると困難を極める上に、鋼糸をかいくぐるのにしくじれば手足の一本は失う覚悟が必要である。

「畜生。八方塞がりかよ」
「ならまだいい。来るぞ!」

 はじめの算段は水泡に帰した。俺たちは鳩討伐の時と同じように薊野の呪法で敵の動きを封じてから、背中の人形だけを引っぺがそうと目論んでいたのだったが、牽制であった雪之丞の矢が届かず、俺の雷法も不発に終わったその時、入念であるはずだった段取りに少なからぬ狂いが生じた。そしてついに敵が動き出す。

 ――ねんねんころり。おころりよ。ころりころり。ころころころころりぃ。

 子守歌の韻律から逸脱した不可思議な響きが旺次郎の喉から迸る。調は糸を伝わって迷宮の隅々にまで響き渡る。まるで打ち鳴らされる鐘の内側に閉じ込められたようであった。

 それは定められた呪言ではない。にもかかわらず糸に接した迷宮の壁は――とりわけ十三層の特殊な壁は、取り込んだ呪力を大幅に嵩増しするのである。びりびりと迷宮に死の眠りに誘う旋律が轟いた。

「耳を塞げ!」咄嗟に俺は警告を発した。

 ころりころりと。ねんねしな。

 音量を嵩増しする絡繰り、石動時昌が人形に埋め込んだものの正体はそれであった。母を模した人形は息子の声を拾い上げて数倍にして撒き散らす。

「聴くな。聴けば――」

 堪らない音圧に圧し潰されて俺は意識を失ってしまう。
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