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第二章 迷宮顛倒変

回天楼

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 鳩どもの巣食っているのは東大寺の大仏殿もかくやという大きさの広間であった。が、奈良に行ったことのない俺にはまるで実感がない。

 だだっぴろい広間なら迷宮を彷徨っていると時に出くわすものである。迷宮の狭い通路が急に開けると人はその解放感に狂喜する。これは言葉をいくら連ねてもわかってもらえぬだろう。ようやく息ができた、とそんな感覚になるのだ。

「そんな憩いの場所も、このザマじゃ台無しだな」
 と白い排泄物だらけの広間を眺めて雪之丞は顔をしかめた。

 御守は珍しく雪之丞をたしなめた。

「深層に降りたら油断できる場所はありませぬ。広い空間には大がかりな罠が潜んでいる可能性がありますから、より警戒が必要です」
「俺たちには束の間の安らぎもないということだな。ほら上を見ろ。さぶイボがとまらねえが、ほら、開戦だ」

「承知」薊野が俺の宣言に素早く反応し、呪言を唱えはじめる。

 天井から降り注ぐのは鳩の大群。それも一般の鳩の数倍する体躯である。重さも相当なものだろう。それに滑空の速度を掛け合わせるならば充分に人を殺傷できる威力を生み出すはず。陣形はあっという間に乱れた。

 鳩どもは散々に飛び回っているが、どうしたことか互いにぶつからないのだから不思議なものだ。ここで頼りになるのが御守だった。御守の全身を覆う絡繰りは一匹一匹と着実に鳩どとも撃墜させていった。

 機人街で見た回転する鋸の刃を上方に解き放てば、鳩どもはなす術なく落ちるほかない。また毒の棘を仕込んだ鞭も功を奏した。これらの武器は狭い通路では味方を傷つける心配があるので使えぬものだと御守は話した。

「開けた空間では重宝しますね」
 
 そこで薊野の呪法が満を持して放たれる。

「水山蹇《すいざんけん》」

 水と山の象意を合わせた強力な術である。呪力の範囲内の敵の動きがのろのろと制限されるという、攻撃ではないが、機動力をなし崩しに奪う陰湿な呪法であった。これはかつて俺が薊野に拉致された時に使用されたものである。情けないことにいまなお俺はこの呪法に抗する術を持たぬ。

「よし、これで勝てる」

 ぼたぼたと鳩たちは落ちてくる。飛行を保持できるほど速く羽根を動かせなくなったのであろう。まるで熟れた果物が落ちるように獲物は地へと打ち捨てられる。

「あとは順繰りにトドメを刺していけばいいか」

 俺は嫌悪に顔をそむけたかったが、勇を鼓して刀を振るっていった。無情な惨殺とは思うまい。大きな鳩たちは地に伏してなお凶暴であった。危険なほど羽根をバタつかせながら、間抜けな断末魔を上げる。

「おい! 待てやめろ」
 上空から声が振ってくる。見上げれば、鳩の巣に人間の姿が見えるではないか。

「あんた何やってんだ?」
「何って、それは」

 文字模様の半纏に股引といういでたちの小男であった。怯んだ顔つきに高みから見下ろされていると、それもなんだか腹立たしく思える。

「鳩と暮らしているのだ」
「てぇとてめぇが迷宮に鳩なんぞを持ち込んだ張本人か。はた迷惑な」
「昔は鳩を育てていたが、ここでは鳩に食わせてもらっている。可愛いやつらだ。殺さないでおくれ」
「悪いけれどそれはできねえ」と俺。

「鳩みたなもん描いてもサマにならん」と三浦が鳩の屍を写生しながら言う。

 薊野は「畜生に飼い慣らされるとは不憫な」と嘆息する。

「あんた、どんな悲しい事情があったか知らないが、とりあえず降りてこいよ」
「自力では降りられないんだ」
「どーすんだあの馬鹿」

 あらかた鳩を仕留めたあたりで雪之丞が矢を放った。三浦の符を矢じりにつけて鳩の巣へ届くように狙ったのだったが、鳩男はとうとう自分が狙われているのだと勘違いして慌てふためいた。

「おっさん、その矢に擦過符がある。騙されたと思って矢から符を剥がしたら、それを尻の割れ目に挟んで壁伝いに降りてこい。ヤモリみたいに壁を這えるはずだ」

「ううう、騙されないからな。おまえら俺の鳩を、鳩ぉおお」

 男は恥も外聞もなく泣いた。鳩のいない鳩の巣にひとり取り残されて、何を躊躇しているのかわからないが、ともかく降りてくる気がないらしい。

「だったらいいや、放っておけ」と俺は見切りをつける。気色の悪い鳩どもは殲滅した。あとは肉を地上に持って帰れば報酬が見込める。ことによると鳩を迷宮に持ち込んだあの男に感謝するべきかもしれぬ。

「でも、ま、本人がそこに居るってんだから、余計なお節介をする必要はねえ」
「待て、待て、待って」
 鳩を背負って引き上げようとする俺たちを男は引き留めた。

「なんですか?」キッと御守が凄めば、
「符を尻に挟めばいいんだな」
「せや。はよせい」三浦が言った。
「こう見えて痔なのだ」
「知らんがな」

 男は意を決して符を股引の中に突っ込んだ。

「うぐ」と声を喉に詰まらせるとしばらく巣の中でもがく。

 鳩の巣の一部が崩壊し、何やら得体の知れない物どもが落下した。この符は人の身体と対象との摩擦を増加させる効果がある優れモノだったが、尻の間に挟むという使用法が唯一の欠点であった。

「尻が、尻が爆ぜる。穴がもう、もう保たん」

 おぞましい迷宮の怪であっても、ここまで面妖ではあるまい。血走ったを双眸をギラギラさせ、汗みずくで火を吐かんばかりに叫びながら壁を這い回る男の姿は、それほどに醜怪であった。

「見苦しいな」
「気持ち悪い」
「だははは。ええやん。やっと絵になるで」
「てめえ、こっちに来たら斬るぞ」
 俺は警告を放った。

 にも拘らず、つたたたたたたた、と物凄い勢いで四つ足のまま突っ込んでくる。

「近づくなと言ってんだろうが」

 峰打ちなんて上等な真似はしたことがない。
 俺は〈鎮永〉を抜いて八相に構えた。
 ヒュッとすれ違いざまに斬ったつもりが、
「ぬあっ!」

 男は鳩の糞に滑って転倒したせいで惨殺を免れる。広間の隅で全身を真っ白に染めてのたうちまわっている。

「騒がしいおっさんだ」と雪之丞。
「符を取れ。どうやら尻に優しくなさそうだ」

 男は言う通りにした。

「あんたらぁ――俺の鳩を」
「悪いがおっさんの鳩には討伐命令が出たんだ。あんたの鳩は人を襲ってるわけだからして人に殺されるのも無理はあるまい。申し開きがあるなら奉行にしな」
 ぴしゃりと俺は言った。

「どうして鳩なんざと暮らしてた?」
「女房に捨てられた」
「三行半を書かされたのかい?」

 離縁状をしたためるのは夫の権利であったが、女房はそれを促すことができた。女の意向を受け入れないのは恥だったが、未練や情は付き纏うものである。断固してそれを拒む男も珍しくない。

「佐野勘太ってのが俺の名だ。鳩は女房が好きだったんだ。年がら年中餌を撒いてたよ。おかげで家は鳩長屋なんて呼ばれる始末だ」
「その恋女房に男が出来たってのか」
「違う、お園はそんな女じゃねえや。先立たれたのよ。肺の病だった」
「紛らわしい言い方しやがって」

 捨てられた、なんて抜かすもんだから、てっきり痴情のもつれと早とちりしちまったが、どうやら死別したという。が、残された方にしてみれば、さしたる変わりはないのかもしれぬ。細々とした日々の織物から縦糸が取り払われたようなものだ。暮らしの模様もさぞかし違ってくるであろう。

「鳩の糞害が病の原因やもしれぬ」
 薊野が重々しく述べた。

 いくら好きだとて限度がある。鳩の糞まみれの長屋に暮らしているのは衛生上よろしくなかろう。病の温床となっても不思議ではない。近所の住民からも苦情が来たはずだ。

「わかってる。んなこたぁわかってんだ。でもよ、あいつの喜ぶ顔みたら鳩を追い出せなんて言えなくてよ。女房はちょいと頭が弱かったのさ」

 それでくたばってりゃ世話ないぜ、とはさすがの俺も言い出せぬ。

「それでくたばってりゃ世話ないですね」
 平気の平左でばっさりと斬り捨てたのは御守である。

「愛をはき違えた愚かな所業。愛しているからこそ、相手の意に染まぬことであっても断行せねばならぬ折もありましょう」

「ぬぐ」佐野は引きつった顔面で空のない天を仰ぐ。自分より半分も若い女に言い込められるのはどんな気分であろうか。まったくお気の毒という他ない。

「そりゃ殺生やで、ねえちゃん。馬鹿につける薬はないんやで」

 死んだ女房への名残り惜しさより地の底に鳩を引き込むのみならず、鳩に飼われて暮らすとは、つける薬のない愚か者と言うならそうであろう。しかし俺は、聞くにつけて情けない暮らしぶりが明瞭になる佐野のことをどうしても憎めなかった。

 ――人間なんざ、こんなもんだろ。

 そして俺はそんな人間ですらねえ、ときてる。

「で、どうすんだ。もし迷宮を出て暮らしを立て直すってんなら、一緒に行くか」
「ありがてえが、お断りだ。俺はここで屍を晒すさ」

 天晴れな覚悟だ。ならば、もはや言うことはない。

 俺は伍の面子に引き上げる合図をした。

 とぼとぼと迷宮の闇に消えていく男の背中に哀愁を感じた。が、その手前、崩壊した鳩の巣の瓦礫の中に見覚えのあるものを発見した。それを汚い糞の中から拾上げてみれば、果たして珊瑚の帯留めであった。

月の兎つきのとのものだ」
「うむ、間違いない」と薊野も肯った。
「待てや、おっさん」俺はドスの効いた声で呼び止めた。「こいつはどこで手に入れた?」

 佐野はしばし空を睨んだのち、「そいつはぁ確か‥‥」と記憶の水底から何かを引っ張り出そうとする。

「どんな些細なことでもいい。教えろ」

 俺は急かした。こうなると佐野の頼りなさに腹が立ってくるから、俺もいい加減なものである。

「ありゃ忘れたりはしねえ。見たのさ。こんな浅い階層にゃ珍しいほど壮絶な戦いだった。いや、ありゃもう合戦と言ってもいい」
「なんだ。穏やかじゃねえな」雪之丞が興味津々で耳を傾ける。

「どんないきさつかは知らねえ。ただこの階で二つの伍とひとりの異人とで三つ巴の戦いがあったのだ」

「聞捨てならねえな」俺は眉をひそめたままちらりと雪之丞の顔を伺う。雪之丞とでラーフラ・ワイガートという謎の男と矛を交えたことがある。寺田が止めなければ、いまごろ俺も雪之丞もこの世にはいないであろう。それほどに隔絶した実力を見せつけられたのだ。

 ――ラーフラ、寺田、そして金九字の脊川黙雷。

「どいつもこいつも邪魔くせぇ」俺は唸った。
「いまもこの階層の東側にはデカい傷が残ってやがる。その帯留めは、あの時戦っていた連中のひとりが落としたんだ」
「もちろん女だったんだろう?」

 俺は月の兎の風体を説明した。佐野の目撃した女のものと一致する。

「て、こたぁ、月の兎は誰かに蘇生されたってことか」
 ぎりぎりと俺は歯ぎしりをした。

 迷宮に月の兎の屍を運び入れようとしたのは蘇生のためであったが、それは叶わなかった。奪われたのである。それが他人の手によって蘇生が為されていると聞いたとて喜べるわけがない。骸が毀損され、あるいは朽ち果てなかったというのは僥倖だったにしろ、女の心が誰のものになっているかはわからぬ。俺の内にこみあげるのは嫉妬と焦燥であった。

「てめえは他に何を見た? 戦っていたという伍とは何だ?」
「ひとつは漆羅漢《うるしらかん》。あれは一目でわかったよ。黒ずくめの女だけの伍といやぁそれ以外にねえからさ」

 漆羅漢とは、鎌倉の縁切寺で名高い高慶寺から出た女僧兵の集団である。五烈のひとつにして強い結束と呪力を誇る隊伍として知られる。高慶寺より破門にされるほど好戦的かつ危険な思想を抱いており、迷宮で彼女たちに出くわすことはおよそ死と同義とも言われる不吉な連中であった。まさかそこに月の兎が加わっているということはあるまい。

「いや、あの女はもうひとつの伍に加わっていた。どえらい火を放ってたよ」
「間違いない。月の兎だ。もうひとつの伍とは?」
「わからねえ。回天楼《かいてんろう》とかって名乗ってたが、世間の狭い俺にはさっぱり聞いたことのないやつらだった。揃ってダンダラ模様の羽織を着こんでやがった」
「そいつらが来訪者と五烈の一漆羅漢ってのといい勝負してたってのか?」
「ああ、世の中はわからねえものだ。名の知られていない伍にもおよそ化け物じみた連中がいるんだなぁ。誓って奴らは漆羅漢にも負けてなかったよ」

 ――回天楼《かいてんろう》。俺はその名を心に刻んだ。

 俺だけではない。薊野もまたそれを記憶したであろう。なにしろ、月の兎を盗んだ奴らに薊野の盗賊団は全滅させられたのであるから。その回天楼って伍に犯人が関わっている公算は大きい。一味のひとりであることも考えられる。ただし鼬小僧の一団を全滅させたのはたったひとりであるということも考え合わせねばなるまい。

「いや、うちの連中をまるで寄せつけなかったあ奴ほどの者が揃っているのならば、かの漆羅漢に匹敵するのも頷ける」
 薊野はじっくりと噛みしめるように言った。

「よし、上に戻ったら回天楼という伍について消息を募ろう。魍魎街はもとより、地上でも何か知っている者がないか調べる」

「一応、聞いとかへんか。もうひとりのんはどないやった?」水野にしてはまっとうな意見であった。月の兎にまつわる報せに取り乱して、残るひとり、謎の来訪者については失念していたのである。寺田によると来訪者とは別の世界から、迷宮を通して漂着した者のことであるという。俺が出くわしたのはラーフラという男だけだったが、ことによると存外多くの来訪者がいるのかもしれぬ。

「あの異人は、子供だったな。十をいくらか超えたくらいの餓鬼だ。あれが一番の化け物かもしれねえ。なにしろ、たったひとりでふたつの伍を相手に立ち回ってたんだからな」

「ふうむ」と俺たちは同じように唸る。

「どうして諍いになったのか、わからねえ。漆羅漢はもとより血の気の多い連中だし回天楼も負けじと物騒な顔ぶれだったろう。迷宮でかち合えば理由なんぞなくてもやり合うことになったんだろうがよ。でも、あの餓鬼の心づもりはとんとわからねえ」

 俺の脳裏に閃いたのは、やはり喜兵衛のことであった。迷宮の子を来訪者と見違えても無理はなかろう。どちらもこの国の人間とはかけ離れた容貌であるし、迷宮でひとり彷徨うという習性も防人をのぞけば、彼らくらいしか考えられぬ。

「考えるのは苦手なんだよなぁ」
「わかってるのはその回天楼ってのを追えば、何かに辿り着けるってことだろう。まずは手がかりをひとつずつ潰していくしかないだろ」
 雪之丞は前向きな提案をする。

 確かにそうだ。今日は鳩の他にも大きな収穫があった。これからは食わず嫌いせずに気の向かない依頼でも受けよう、と俺は心を入れ替えた。

「あ、なんか動いてますよ。そこ!」
 御守が示した先には、なんと鳩の卵があった。それもちょうど殻を破って出てきたらしい雛が可愛らしく囀っている。どうやら殺し損ねたらしい。
「処分するか」
「やめてくれ」と佐野が懇願する。

「でも、こいつがでかくなったらまた人を襲うんだろう」
「俺が責任を持って躾けるから、な。こいつは最後の一羽なんだ」
「どうすんねん、伍長さん」三浦は俺に判断を委ねた。

「後生だ。頼む」
 佐野は糞まみれの床に土下座をした。いまさら抵抗もあるまい。

「その鳩は――」俺は芝居がかったしかめ面を作ると低く言った。息を詰めて伍の面々は俺の続く一言を待ち受ける。

「……見逃してやろう」

「なんで? 害獣なんですよ」と冷たく御守が割って入ってるが、俺は「これは伍長命令だ」と突っぱねた。

「確かにこの鳩は害獣だろうさ。しかし、ここは迷宮だぜ。相手が鳩だろうが子供だろうが死ぬやつは手前が悪いのさ。弱いのさ。だろう?」

 これで落着だった。文句は言わせぬ。

 御守は引き下がり、佐野は咽び泣きながら俺たちを見送った。
 鳩の雛はそれでも大きく、佐野の両手に余る大きさであった。

 ――後に成長したこの鳩は育ての親を丸呑みにしてしまうのだが、それも佐野にしてみれば本望であったろう。己の信じた意義に殉じるならば人生は味わい深いものになる。たとえ咀嚼されるのが己自身であっても。
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