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第二章 迷宮顛倒変

大江戸大迷惑

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 魍魎街の旅籠《はたご》に帰り着いたのは、夜半をいくらか過ぎた頃であった。
 帰り道もまた行きに劣らず危険な道程ではあったものの、運よく強敵やこっぴどい罠の類には出くわさずに済んだ。五体は満足だったが、疲労は身体の芯にまで滲みており、蹌踉《そうろう》とした足取りと虚ろな眼差しは憐みを催させるに充分である。

「ひどい有り様だな。しかし無理もない」
 雪之丞はそう言った。俺の短くも過酷な旅に思い致しているのであろう、その口ぶりには同情がありありと浮かんでいた。

「おい、晋。あの嬢ちゃんを呼んでこいや。さっきまで裏で絡繰《からく》りを弄っとったで」
「あいよ」顔なじみになった旅籠の少年は食い物か銭かで絵師に手なずけられているらしく、矢の如く駆けだそうとした。

「ついでだ、これも持ってけ、手間が省ける」
 俺は小瓶に入った蝋鉄を少年に投げ渡した。

 砕け散った雲外鏡の残余にただひとつ残ったのがこれだ。煤色の薄く長細い帯のようなものがくるくると何重にも巻き上がっている、それだけの代物だった。俺は細心の注意を払ってそれを採取したが、果たしてそれが目的の蝋鉄なのか、実物を知らぬだけに心許ない。

「なーんだ。死ななかったのですね」
 あからさまに残念そうな面持ちで石動御守が現れた。

 晋へと放った小瓶は、空中で御守の腕が掴んだ。昆虫の脚に似た節くれ立った細い管の如きものが御守の背中より生えている。水鳥がその嘴で放った餌を取るように御守の機械の腕は三つの鉤爪で瓶を正確に掠め取ったのである。

「そいつがおまえの絡繰りか」
「確かに蝋鉄です。質もいい」
 小瓶を傾けながら御守は頷いた。

「わかりました。約束通り、迷宮に付き合いましょう」
「その前に、だ。おまえは迷宮になぜ潜る? うら若い娘が、生半可な理由じゃあるまい」
「それを知る必要があります?」
「言いたくなけりゃいいさ。愉快な話でもなさそうだ」

 ややためらったのち、御守は口を開いた。
「うちの師匠。石動時昌を連れ戻すため。あたしはそのために潜ってる」

 薊野がうっそりと疑義を呈した。
「待て。稀代の絡繰り技師石動時昌は病没したのでは?」
「違います。父は絡繰りに魅入られたあげく、迷宮の化け物となり果てたのです。自らの身体と魂を絡繰りに明け渡しちまったんです。より強力な絡繰りを求めて深みへと降りた。ついには帰ってはこなくなった。殺してでも、ぶち壊してでも、父の魂だけは連れ戻す。それがあたしの目的です」

 ぴんと張り詰めた御守の横顔に雪之丞が囁いた。
「そりゃここにいる誰と比べても見劣りのしねえ確かな理由だ」
「うん、いい男」うっとりと御守が雪之丞を眺めるのを、俺と三浦と薊野は冷ややかに黙殺した。助けを求めるように雪之丞が床几の下の俺の足を蹴とばすが、そもそも己を男と自認している雪之丞がお望み通り男と勘違いされているのだ、どこにも言い正すべきところはない。
「うふふ。素敵な冒険になりそうですね。雪之丞様」
「――ああ、そうだな」雪之丞はこの娘がどうにも苦手らしく、まごついた仕草で身を引くが、御守の機械の触手に捕まって少女の眼前に連れ戻される。
「ともあれ、これで伍が揃った。少しずつ地力をつけてより深い階層へと挑む」
「ええやろ」と三浦。
「迷宮を攻略するには、強くなることも大切だが、それよりも理解だ。迷宮への理解が攻略の成否を分ける」
 俺は麟堂の受け売りをしたり顔で講じるが、存外に皆真面目に耳を貸してくれている。迷宮は一筋縄ではいかないが、それとて完全に無秩序な地獄というわけではない。辛抱強く向き合えば攻略の糸口も見えてくるはずだ。

「ほんなら行くか。とりあえず行けるとこまで行ってみようや」ぐるぐると腕を回して三浦はやる気充分である。
「だな」復讐の念に燃えた薊野がすっくと立ち上がる。
「バカバカバカ、もう行き当たりばったりの出たとこ勝負になってます。伍長の訓示を聞いたそばからこの有り様じゃまったく先が思いやられます。もう、やっぱり雪之丞様とあたしとだけで潜りませんか。こんな足手まといの馬鹿どもは置き去りにして」
「どういうことだ?」と雪之丞が言う。
「迷宮に入る前から勝負は始まってます。装備を整えるのも、連携の練度を上げるのも地味ですが単純な努力です。やらない手はありません。たったひとつの持ち物の補充を怠っただけで全滅した伍はいくらもあります。符術仕には墨を磨るにも水が必要です。普通の飲み水より多くの水を持っていくべきです。雪之丞様の弓も心配です。弦が弛んでいますよね。きちんと張りなおしてください」

 テキパキと御守は各人の装備とその内容を確認していく。俺は御守に「伍長」と呼ばれたことに戸惑っていた。この伍を仕切るのは自分だと意気込んでいたわけではないが、俺を中心として集まった連中ではあるからして、やはり俺がまとめていくのが筋なのかもしれぬ。とはいえ、柄にもないことで気が重い。

 そんな俺の心を見透かしたように御守が言った。
「樋口さん。あなたは伍の主導権を握るのに抵抗があるのですか? 責任を回避したいのであれば抜けちゃってください。そのあたりを曖昧にした伍は、迷宮の外であれ内であれ瓦解します」
「知識といい経験といい、おまえの方が相応しいと思えるのだが」
「人が命を預けるのは知識や経験にではないでしょう」
「わかったよ」俺は曖昧に顎を撫でた。

「伍長さんよぉ」と三浦がさっそく揶揄うように呼びかける。「うちの伍にも名が要るやろ。いつか江戸中に轟くような名前がええ」
「ふむ」と考え込んだ。

 これは伍長としての初仕事である。

 血狼煙《ちのろし》、金九字講《きんくじこう》、備中だらに党、漆羅漢《うるしらかん》、愛宕社中《あたごしゃちゅう》のいわゆる五烈と呼ばれる最高峰の伍の他にも無名であっても強力な伍は無数にある。一軍に匹敵する武力を擁しているとされる彼らの動向はいつも世間の関心の的であり、またその名は世間に鳴り響いている。

「大江戸大迷惑」と俺は考えもなしに告げた。

「なんだいそりゃ」皆が口を揃えて言った。

「だから伍の名前じゃねえか。俺たちの看板だ」予期しなかった反感に拝命したての伍長として矜持が疼いた。

「馬鹿みたい」
「何の含蓄も感じねえ」
「堂々と言い放った、あなたの頭の中身が見てみたい」
「剣術の稽古で相当打たれたんだな」
「割れた手水鉢でも入ってんでしょうか」
「がはははは。おもろ」
「南無阿弥陀仏」

 散々な言われようである。俺がどれだけ根に持つ類の人間なのか、彼奴らはまだ知らぬと見える。この屈辱、いつの日にか熨斗《のし》をつけて返してやると心に誓うのであった。

「ふん、血狼煙だの金九字だのって気取った名前のがよほど無粋だぜ。風雅を解せぬ田舎者共はこれだからいけねえ。庶民の心を掴むには単純明快が一番よ」

「なんで庶民の心を掴むんだ?」

「馬鹿だな。俺らが有名になったら、講談のネタになるかもしれねえだろ。そしたら名前を貸して銭を取るんだろうが」

 俺は適当なことを並べてみたが、つまるところ名前なんぞ何でもいい。明和九《めいわく》年に結成された伍ならば迷惑でよかろう。救いようのない不届きで無面目な与太者の集まりである。野放図で迷惑千万な連中であるから、そのままを名にした。背伸びをして他所行きの名前をつけるより、等身大の愚かさを表明したほうがよほど清々する。

「ま、ええやんか。阿保らしくて。気に入ったで」
 三浦の酔狂が場に一石を投じると形勢が変じた。所詮、ぶうぶうと不満を垂れるばかりで代案など持ち合わせておらぬ。こういった手合いは決まってそんなもんで、ちょいと風向きが変われば、一気になびくのである。

「ま、いいですよ。確かにお似合いですから、には」御守は冷たく言い捨てた。

 ほらな。

 薊野が訥々と頷く。

「皆がいいというなら異論はない」

 ほらほら。

 最後に雪之丞が手際よくまとめた。

「では、大江戸大迷惑。この名をもって正式に登録する。伍の名において隠宮奉行よりの依頼を受けることもできるようになる。堅実に努めれば貧乏侍の扶持よりかはましな報酬が見込めるはずだ」

 我らが伍、大江戸大迷惑はこのような次第で結成されたのであった。後世においてその名は我々の予想とは違ったふうに鳴り響くことになるのだが、世間の風が俺たちの背中を押すにはまだ長い時間が必要であった。
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