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第一章 大江戸騒乱変
喜兵衛
しおりを挟む機人街には人と機人が隔てなく暮らしている。
とはいえ、人の数は極めて限られているうえに、ただの住人ではなく、公儀によって研究・監視など、何がしかの役目を与えられた者たちであった。
機人の出現は迷宮の誕生と時機を同じくする。
迷宮を最下層より這い上ってくる機人の存在は江戸の住民に言い知れぬ恐怖、さらには好奇心とを呼び起こしたのであった。これに関して幕府の対応は速やかで、寛永寺周辺をゆるやかに隔離し、機人の住まう区画を拵えることとなる。
「物珍しいであろう。これは百年、あるいは二百年先の光景かもしれぬ」
麟堂を先頭に震央舎の学生たちは機人街を巡り歩いた。
他の学生はともかく、俺にははじめての場所であった。見知らぬ眺めが眼前に繰り広げられる。
唸るような音がする、と見れば回転する鋸で材木を断つ機人があった。大鋸屑にまみれた機人がこちらに手を振るその横を同じくカラクリの職人が鉋《かんな》をかけている。
「手が鉋になってやがるのか。便利なんだか不便なんだか」
「人の方が細工は上等だけれど、仕事はやつらが早いのよ」
先日俺につかみかかってきた冬瓜頭の女であった。名を楼珠《ろうじゅ》という。同じ瓜頭でも薊野の奴に比べたらいくらか表情豊かである。
猫目の少年、雲助も先輩面で講釈を垂れる。
「あっちを見ろよ。壊れた上水井戸を取っ換えてんのさ。木樋の水道を金属にして長屋に通すんだってよ。向こうじゃ製粉機が動いてるな。おっと気をつけろ。往来の真ん中は機馬が通るからな」
袖を引かれて、たたらを踏むと、俺がいた場所に大きな蟹のようなものが通り過ぎた。忙しく全身を蠕動させながら力強く進むその様は、カラクリというよりも生き物に類していた。透明な殻を透かして中に機人と人が乗っているのが見えた。
「なんだいこりゃ。物凄いところだな、しかしよぉ」
俺は終始眼を丸くさせて、尽きることのない感嘆を漏らした。
見かけは江戸の街並みであったが、そこかしこに見たことのない技術や素材が使われており、少しずつ風景が塗り替わっていくようであった。
「いつ来ても胸が高鳴るわい。これが儂が迷宮を引退した理由さ」
麟堂は子供のように眼を輝かせて機人街を楽しんでいた。
確かに辛気臭い迷宮なんぞよりこっちの方が余程愉快である。見知らぬモノが溢れ返り、目覚ましい進歩が濁流のように押し寄せてくる。しかし、己の見知った世間が変わり果ててしまうのではないかという恐ろしさは隠せない。
「喜兵衛はここにいるのか」
「迷宮の子をまとめて預かる地蔵護童院という場所を作った。そこで他の子供たちといっしょに暮らしておる。まもなくよ」
さて俺たちは広々とした敷地に遊ぶ子供たちの声を耳にしたのであった。
山門をくぐれば、そこには不揃いな年齢の子供たちが、手毬、独楽、凧などで思い思いに遊んでいた。名の通り六角形の地蔵堂、それに十王堂、他にも、お不動さんと弁天さんを祀ってある。ここは寛永寺の別院として扱われているようであった。
案内に出てきた住職が「喜兵衛、喜兵衛」と呼んだ。
呼ばれてやって来たのは、三歳ばかりになる男の子であった。俺は眼を疑ってしまう。麟堂に託したのはわずか数日前である。乳飲み子であったものが、たった数日でこんなに成長を遂げるはずがない。
「驚いたか。しかし、面影はあるであろう?」
まさしく、それは喜兵衛であった。赤みがかった髪も耳たぶの黒子も見覚えがあった。喜兵衛は千切れた蛙の足をぶら下げて、向こうっ気の強そうな眼差しで俺たちを見回す。
「よしよし、達者でなにより」麟堂は喜兵衛を頭を撫でながら、「迷宮の子らは魔性の物や呪力を食らうことで急速に成長するのだ。ここのいる子らは寛永寺に寄せられたいわくつき付きの物品やら憑依された者の背後の妖魅どもを摂取しておる。すくすく大きくなりおったよ」
薊野に付与された呪《しゅ》を喜兵衛が食らったのは記憶に新しい。
日常茶飯事と言うが、日々の糧として妖物を喰らっているのだとしたら、どんな人間に育つのか空恐ろしい。
「機人と迷宮の子。あれらは何なのだ?」
「前も言ったろう。儂が何でも知っておるわけではない。ただな、ある者によれば迷宮の子とは救世主の成り損ねだと言う。あるいは生贄だと」
「わからん。なぁ喜兵衛よ」俺がしゃがみ込むと喜兵衛は蛙の足を差し出した。「ありがとよ。貰っとくぜ」
気が着くと境内で遊んでいた子供たちの視線の全てが俺に向けられていた。好奇心とも敵意ともつかぬ複雑な感情がそこには込められていた。
「お主の中のモノの匂いを感じておるのだ。難訓から放たれる禍々しい気は人の姿の中に押し込められておっても隠し通すことができぬようだ」
「薄気味悪いガキどもだぜ」彫りの深い異国の面付きの子供たちが一斉に視線を投げてくるのだ。俺はわずかに気圧されてしまう。なにせこいつらは俺を食いたがっているのである。人を喰らってきた俺であったが、逆の立場となって食欲をこの身に向けられると、そのおぞましさに背筋の冷える思いがする。
「さて、では十王堂へ向かうか。よいか喜兵衛。お前も来るのだぞ」
麟堂の呼びかけに喜兵衛は眼を輝かせた。
と、同時に歳に似合わぬためらいをのぞかせた。辰巳が俺を憐れんだように喜兵衛も俺を不憫に思っているかもしれぬ。あるいは迷宮での時間をどこかに憶えていて俺を身内と感じているのかも――俺と喜兵衛はどちらからともなく、まるで父子のように手を繋いで十王堂へ向かったのだった。
言葉を覚えるのが遅いのか、喜兵衛はひとつとして意味のある単語を発しようとはしなかった。その口より漏れ出る音はすべてが呪言のようであった。
× × ×
「呪者にはの、生まれつき巫呪の才を持って生まれるか、幼き日よりの修行によって成るのだ。そのどちらにも恵まれぬ者は対価を払って呼び込むしかない」
「どうやって」
「死を垣間見るほどの苦行によって、あるいは危険な秘薬によって、あるいは並外れた信仰心によって。いろいろさ。どれにしろ対価を払わねばならぬ。知識と魔力を得るために片目を捧げ、九日九晩首を吊った、海の向こうの神の話がある」
十王堂には閻魔王を筆頭に厳めしい死の判官どもが居並んでいる。俺は堂内に焚きしめた異風の香りに気付く。それは白磁の香炉より漂って俺の鼻腔を刺激した。
「なるほど、だいたいわかったぜ。しかし、一応聞いておこう。俺が捧げるのは?」
「魄《はく》だ。これはお主の命の根っこと繋がっておる。すべてを喰いつくされてしまえば、お主は死ぬであろう。もちろんそれを喜兵衛が喰らう。大いなる欠落の余白に神も魔も降りる。これまでに何度も死にかけたろうが、ここでは本当に死んでもらおう。三途の川の水際に立つのだ。そして見事引き返してこい」
「気の乗らねえ話だな」
そんなふうに俺がごねると、喜兵衛は手を離して、まるで十一人目の死者の王であるかのように並び立つ尊像の隣に立つのであった。
「儂もさ。もとより資質はある。ゆっくりと育ててみたかったがな」
「そうかな。これがあんたの思惑通りってこともあり得る」
俺は探るように言った。例えば、迷宮の子にとびきりの化け物を食わせればどうなるかという試みかもしれぬ。剣術仕になるという俺を呪剣仕にさせようと誘導したのは麟堂である。己の意志で事を進めているように見えても全体が麟堂の掌の上、ということもあり得る。
「好きに考えたらいい。どんな勘繰りも否定はせぬよ」
「やるさ。もとより選べる方途はねえ」
こうしている間に香炉より湧き出る煙はみるみるうちに濃度を増した。身体の奥の奥で何かが微動し始める。それはゆっくりと振幅を大きくし――やがて俺の上っ面を食い破って外に飛び出そうとする。
「催邪香《さいじゃこう》。その姿のままでは喜兵衛はお主を食らうことができぬ。肉の身ならぬ本来の魔性を露わにせねばな」
「ああ、だが、俺は――わかる。俺を化け物に戻すんだろう。そしたらよ、俺は喜兵衛を殺しちまわねえか?」
「お主は押しとどめねばならぬ。己を喜兵衛に喰らわせるためにな」
「抵抗をせず、ただ喰われろと?」
「そうさ。この香りに完全に己を見失ってしまえば、お主は喜兵衛を殺すであろう。人と魔の境に踏み止まって食われる痛みと恐怖に耐えるのだ。常人にはまずは不可能よ。しかしお主ならあるいは。ふふ」
「麟堂、あんたは下司野郎だ」
悪罵を放った。冥途で裁かれるための罪がまた増したが、構うものか。どうせ地獄行きは決まっている。
「喜兵衛を殺すなよ。そうして食われる側の気持ちを味わってみろ」
「畜生め。俺の犯した罪咎《つみとが》と因果の種がここで芽吹くのかい。上等さ」
「ふん、おまえだけでない。人間はもとよりどんな生き物も他の命を食らって生を繋いでいる。別段お主だけが非道なわけでもあるまいさ。どこの誰であっても、いつかは食われる側になるかもしれぬ。少なくともお主に喰われた者たちに同情なんぞしておらんよ。さて儂は出る」
言いたいだけ言うと麟堂はさっさと姿を消した。
「さて、喜兵衛、忌々しいじいさんが抜けて、二人っきりになったな。いや、おっかない閻魔さんがいるか」
声をかけるも喜兵衛の姿は朧げに霞んで見えない。冥府の十人の王たちのぎらついた眼光が俺を射すくめる。俺の眼、耳、鼻……など五識の感覚に変調が起こり始めていた。くつくつと鍋を煮るような圧力が尾てい骨のあたりからせり上がってくる。歪んだ視力を内側へ投じれば、底なしの深淵が口を開けている。
「よぉ、喜兵衛聞こえるかい? 迷宮は面白かったなぁ。聞いてたかい? あの馬鹿騒ぎを? あそこは冷たくて寂しくて、それでいて懐深かったなぁ」
とうとう俺は自分の輪郭が定かではなくなる。不定形のもやもやしたもの、ちょうどこの煙か水の如きになってしまった気がした。ただし、それはただならぬ凶暴さを秘めている。引き裂き、埋め尽くし、締めつけ――それは窮地の際に幾度も俺の内側よりせり出してきた得体の知れぬ力であった。
――屠れ。打ち砕け。万物を加速させよ。微塵へと。還せ。還せ。空《くう》の顎《あぎと》へ。滅殺せよ。圧し詰めよ。時なき無極の縁へ、縁へ、縁へ!
虎のような猪のような蛇のような。いくつもの獣を継ぎ足していくことでどんな姿からもかけ離れて、俺《それ》は生命の原型に近づくかのようであった。荒ぶるそれは奇怪な概念であり、女の腸《はらわた》でもあり、穴の空いた混沌でもあり――。
(やめろ、暴れるんじゃねえ。てめえは俺じゃねえ、好きにさせねえ)
ポトリと懐より何かがこぼれ落ちた。
果たして――それは喜兵衛に貰った蛙の足でもあった。卑小な生き物の断片が俺を狂気の淵から連れ戻した。無限に連なり膨張する禍々しい観念が立ち消えて、ついに蛙の足にまで縮んだ。
「さぁ、喰らえ喜兵衛。ご馳走だぜ」
十人の死の王の内よりひとりの童子が転《まろ》び出てきた。もはや俺は俺ではなかったが、さりとて我を失った化け物には成り切ってはおらぬ。
「遠慮はするな。平らげろ」
俺が己を差し出せば、喜兵衛はぱっくりと底なしの口を開いた。
無限に続くかに思えた悲鳴が聞こえた。
それが己の発する叫びだと気付くには、さらに無限と思える時間が必要であった。
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