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第一章 大江戸騒乱変
震央舎
しおりを挟むさて、学問の時間である。
少年老い易く学成り難し。孔子先生もそう仰っていることであるし、俺はこれを機に威儀を正して諸学に取り組むつもりである。
寛永寺のほど近くに震央舎は門戸を開いていた。
塾長である藤見麟堂の膝下に三十人の生徒が学んでいるという、ほどほどの規模の私塾であった。塾舎は木造瓦葺で十畳半の講義室がある。
隣接する機人街には、市井の人間は立ち入ることができぬが、震央舎の者は研究のために交流が許されている。
薄曇りの午後、鼬小僧から掠め取った銭を懐に、とうとう俺は麟堂の門を叩いた。親父からの推薦状もあるが、乱筆に過ぎて解読は不能。塵芥《ごみ》同然であった。
罪人といえども、さすがに門前払いを食うことはあるまい。預けた喜兵衛のことも気にかかる。それにこの前話の途中で姿をくらましたことに詰問せねばなるまい。
「おお、よく来たな。さっそくだが、茶でも飲め」
塾舎に通されるなり、小皿や半紙、それに南蛮の器具などに埋もれた麟堂は俺にひどい色の茶を差し出した。
「嫌だ。どうせろくでもない代物だろう」
迷宮の菌類から抽出した薬液だという。そらみたことか。
「鎮痛作用があるが、幻覚も引き起こすから分量の調節が難しくてな。昨日は弟子のひとりが譫妄状態で上方の住吉踊りを一晩中続けておったが、お主の舞いも見せてみろ」
「要らん」「飲め」「てめえが飲め」「儂が死んだらどうする?」「ふざけてんのか」
俺がそれを押し戻せば、麟堂はまたそれを押しつける、そんな無益な攻防がひとしきり続いた。
「麟堂さんよ、俺は学問を収めに来たんだよ。中毒起こして死ぬために来たんじゃねえ」
ドン、と俺は畳に拳を叩きつける。茶碗がふわりと浮き上がった。
麟堂は芝居じみた悲哀を漂わせながらふるふると首を振った。
「学問とはその身をもって理解することがはじめの一歩よ。それが解らぬ輩を弟子にすることはできぬ」
「一歩目で死ねるか」
「真理ために斃《たお》れることも辞さぬ、そんな覚悟を見せてくれ」
「それよりもあんたこの前はとんずらこきやがったな」
「今日は天気がいいな」
障子の隙間からは鈍色の曇天がのぞいている。
「ごまかすんじゃねえ」
押し問答を続けているうちに、学生たちがやってきた。
――先生、本日もよろしくお願いたします!
草鞋を脱いで、講義室に上がると、猫目の少年が元気な挨拶をする。この種族特有の溌剌した生気が場を一気に明るくしてくれる。続いて冬瓜頭と南瓜頭の二名が入室してくる。さらには機人の姿さえ見える。
(ここは、ただの人間はいねえのか)
江戸には、猫目と瓜頭も多く住んでいるが、彼らは幕府の定めた身分制度の最下層に位置しており、いわゆる賤業を生業とする非人と同じ扱いを受けている。つまり蔑視と差別の対象なわけだ。通常の私塾も藩校もそれを受け入れない。
「驚いたか。震央舎は非人も女子も分け隔てなく受け入れる。まるで獅子と羊が仲睦まじく寝転ぶ天国《ぱらいそ》のようであろう」
「銭さえ払えば、だろう?」
「まあな」麟堂は顎鬚をしごきながら得意気に頷いた。
「文句はねえよ」
未だ受け入れがたいことだが、俺も檮杌《とうこつ》だが難訓《なんくん》だかという化け物だそうなので、同窓の顔ぶれに贅沢は言ってられぬ。
「よし、ではお主はこれからは学究の徒として奮起してせいぜい儂の声名を高らしめるのだぞ」
「馬鹿を言え。俺は迷宮を平らげてえだけさ。必要なことを教えろ。さっさと職能もよこせよ」
俺の暴言を聞き捨てならぬと「新参めが、先生に向かってなんという口を利くのだ」と喚きながら冬瓜頭が飛び掛かってきた。俺たちはもつれ合い、取っ組み合った。
「やまかしい。この野菜野郎が!」
他の塾生たちは被害を最小限ならしめるため障子を外して家財をどかした。このような悶着は日常茶飯事なのであろうか手慣れたものある。道理で講義室のあちこちに破れやヒビがある。刀疵さえもあった。
「野郎ではない。わたしは女だ」
「野菜の雄雌《おすめす》なんざ知ったことか。天ぷらにでもなってろ」
麟堂は止めるどころか手を叩いて面白がり、「よし、負けた方がこの茶を飲むのだ」と勝手に決め込んでしまう。
俺はやたらな怪力の冬瓜女に足蹴にされ、のしかかられ、それを跳ねのけたと思えば、今度は、加勢した猫目に引っ掻かれるといった始末。もみくちゃになった俺たちを止めたのは、外で待つのに痺れを切らした雪之丞であった。
「あんたら何してんだ?! 子供じゃあるまいし。やめなよ!」
それでも聞く耳持たぬ俺たちに、とうとう雪之丞は弓をつがえた。
「やめねえと射るよ!」
ようやく騒動が収まったとみると麟堂は詰まらなそうに舌打ちをする。
「ちぇ、いいところであったのに。で、結局、この茶は誰が飲むのだ?」
× × ×
「事情はわかった。親父殿に己の素性を明かされたのだな。それで大それたことに迷宮を攻略するとな。ふふん、面白そうではないか」
悶着の後である。講義を済ませた学生が捌《は》けると麟堂と俺と二人きりになった。雪之丞は愛想をつかして先に帰ってしまった。結局、あの茶は南瓜頭が飲むことになり、野菜畑の夢想を節に乗せて涙ながらに語ったあげく昏倒したのであった。
「とりあえずはな。しかし、じっくり腰を据えて学ぶつもりだってあるんだ。なにせあんたは迷宮にかけちゃ玄人だ。頭を低くして教えを乞うにやぶさかじゃねえ」
「にしては態度がでかいぞ」
「傲岸不遜なのは容赦しろい。あんたが言ったんだ。俺は難訓。つまり訓育するに難《かた》いモノと」
「で、あったな」
顔を突き合わせて腹蔵なく接するならば、麟堂の佇まいからは仄かな温もりが伝わってくる。なるほど学生に慕われているのもわかる。とりわけ非人たちも隔てなく教えているのであれば信頼も得られようというもの。そのあたりのこだわりのなさは当家の親父と通じるものがある。
「よし、ではお主のために特別に講じてやろう。迷宮とそれにまつわる公儀の定めについてをな。まずは等級と職能のことを教えねばなるまい」
「頼む」
まず麟堂は和綴じの薄い書物を俺に差し出した。
『迷宮諸法度』とある。
手始めに麟堂は探降者の等級について講釈した。
天・地・人
探降者の等級は上の三つに大別される。
さらにそれぞれが三つに細別される。
すなわち龍・虎・鵬である。
「つまり天龍と言えば最上の探降者ということになるな。えへん、儂もそのひとりだ。まぁ類まれな天の等級に達すれば世の崇敬を集めること間違いなしというもの」
悪びれずに自慢を差し込んでくるところが腹立たしい。
俺は正座を崩して胡坐をかいた。
探降者はその功績によって等級を決められるのだが、それも幕府のさじ加減であって必ずしも等級のみが探降者の実力を表すわけではないという。
「なら、俺が迷宮入りした時はまず人鵬の位になるわけか」
「ならんわ阿保。新参に位などあるかい。位入りするためには刃こぼれするほど魍魎やら小鬼やらを叩き斬らねばならん。さらにやつらの頭骨と肝を隠宮奉行に買い上げて貰う。これを奉行は呪術師や漢方薬屋などに高値で卸すのだ。どうだ。阿漕《あこぎ》な商売であろう」
「まったくだ。あんたはその片棒を担いでるってわけだか」
「どの棒だって儂が背負ってるわい」
「ちなみに雪之丞の位は?」
「あれは天鵬じゃな。まだまだひよっこよ」
探降者には位紋の入った根付が支給される。それを見れば一目で探降者の等級が判然とするといった仕組みらしい。思えば、雪之丞も鵬を刻んだ珊瑚の根付を帯に引っ掛けていた。
「ふん、等級だの位階だのはどうでもいいさ。あすこは人の世の理とは関係がねえ」
「そう決めつけるものではないぞ。等級を上り詰めれば、至れり尽くせりの支援と恩恵を得られる。確かに等級なんぞは人間の勝手な決め事だが、本気で迷宮を制覇したいのであれば、それすらも利用する狡猾さが必要さ」
「なるほど、一理あるな」
老練な探降者の心得を俺は素直に心に刻むことにした。
「詳しくはここに記してある。次は職能についてだが――」
と、麟堂は新たな頁を開いて、語り起こした。
剣術仕
槍術仕
弓術仕
収奪仕
柔拳仕
符術仕
呪禁仕
など、ごくごく初歩の職能が並んでいる。そのどれかを帯びて人は迷宮に潜らねばならぬという。
この例に漏れるのは防人と呼ばれる迷宮の守り人と、そして放逐刑になった罪人だけである。表向きの話であることはすでに知っている。迷宮、とりわけ浅い層には、職能を持たぬものも住まっているのだ。
「仕とは師であり士の意味を含む。己が職能に仕える者ということである。お主のような剣術遣いはさしずめ剣術仕ということになろうか」
「おう、どうすりゃその剣術仕になれるんだい? どこぞの道場の看板でも持ってくりゃいいのか」
「無法な真似はするでない。剣術仕になるということは、公儀によって人品卑しからざる者であると認められたということなのだ。軽率な振舞いは慎まねばならぬ」
「わかったよ。ならどうすりゃいい。その剣術仕ってのになるにゃぁよ」
俺はいてもたってもいられなかった。ともかく月の兎の始末をつけねばならぬ。盗人どもに預けていては気が休まらない。
と、案に相違して麟堂は意外なことを言い放った。
「お主を剣術仕にはせぬ。呪剣仕になるのだ」
「はぁ? そんなのは聞いてねえぜ」
「無理もない。尋常の職能ではない。なにしろ剣と呪法の両者を操る者のことであるからな。ふさわしい資質のある者はそうそうおらぬ」
「ちょっと待て。俺は剣なら多少遣えるが、呪《まじな》いの類はからっきしだぜ」
武門の家では、呪《まじな》いやら加地祈祷の類は疎まれる傾向がある。
もちろん俺もそっちの方面は齧ったこともない。
「お主が人ならざる者、それも四凶の一、難訓であるならば、人並み外れた魄《はく》を持っているであろう」
魂魄《こんぱく》のうちの魄《はく》とは人が死んだ時に大地に還る力のことである。その魄と自然の精気を合わせて練ることで呪法は為される。魄の量が濃い者ほど強い呪法を扱える理屈であった。
「剣術仕ならいますぐにでも認可を出してやれるが、それでは面白うないでな。お主も知っているのではないか練達の呪剣仕の空恐ろしい力を」
「あの野郎か」
確かに俺はこの身で味わったのである。越境者と呼ばれた異人羅睺・ライガート。あいつは剣と呪法の二つを自在に操ったではないか。防人に匹敵する暴威。
「仮に俺の呪法の才があるとする。しかし、だとしたらその呪剣仕の職能を得るためにはどれだけの時間が要る?」
「少なくて見積もって六月といったところか」
「駄目だ。それでは――」
間に合わない。何しろ、月の兎を預けていられるのはわずか七日なのである。いくら見込みがあろうとも悠長に呪法なんぞを修行していられぬ。しかし月の兎の件を麟堂に漏らすわけにはいかない。そんなことをすれば鼬小僧との繋がりを感づかれてしまうであろう。
「ひとまずは剣術仕となるってのはいけねえのかい? 呪剣仕ってのには後で取り組むことにしてよ」
「職能を転じることはできる。多くの者は呪剣仕のような上級の職能にはそうして就くのだが、ただし、ひとつの職能を得た者は、数年はそれを替えることを禁じられておる。探降者を取り締まる公儀の都合ではあるが。ところで儂はな、呪剣仕としてのお主にやってもらいたいことがあるのよ」
また使い走りをさせられるってのか。まったく、うんざりである。鼬にしろ麟堂にしろただでは利用させてくれぬ。向こうも、俺のなけなしの価値を引き出して、それを手前のために捧げさせようとする。
「どうしてだい? 迷宮では伍を組むのだろうが。剣と呪法の遣い手がそれぞれに補い合っていれば済むじゃねえか。なんでまた剣と呪法をいっぺんに振るう必要があるんでぇ」
俺の素朴な問いに麟堂は極めてわかりやすく応じてくれた。
「呪剣仕とはな、たんに剣と呪法をともに遣えるだけの職能ではない。その二つを合わせて遣える者のことをそう呼ぶのだ。つまり剣に呪力を乗せて振えねば呪剣仕ではない。また、それでなくては斬れぬ代物がこの世にはあるということよ」
それ以上を麟堂は語らなかった。
「わからねえ、わからねえが、そっちにはそっちの腹積もりがあるってのは心得たぜ。でもよ、こっちにものっぴきならねえ理由があるんだ。ともかく俺はさっさと迷宮に入らなきゃいけねえ」
「虚空権現とまみえることは一朝一夕では到底――」
「だろうよ、しかし、俺はのんびりしてられねえのさ。己が化生《けしょう》の輩であることがどんな心持ちするか、あんたは寸毫たりとも知りやしねえ!」
剣幕を泰然と受けきってみせてから麟堂は視線で新参弟子を射抜く。
「ならば、ひとつだけ方法がある。数日で呪法のいろはを身に着ける方法がな。荒療治ではあるが試みる価値はあろう」
背筋が凍る気迫である。さすが夜叉と呼ばれるだけのことはある。得体の知れぬ恐怖に抗いながら俺は受けて立つ意志を示した。
「なんだい?」
「それはの。お主が迷宮より連れ帰った赤子、あの喜兵衛に関わることなのだ」
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