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第一章 大江戸騒乱変

真相

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 ――そもそも、どうして俺は殺し損ねた遊女なんぞを拝みに来たのであろうか。

 運命の隘路が交わったその辻をふと眺めてみたくなったのか。己の本性を明らめるためにそうしたと言えば聞こえがいいが、もっとどろどろとした名づけようのない衝動に促されていたのであった。

 そして女は俺に火を着け、俺は女を縊り殺した。
 江戸で一番の大罪人を屠った俺にお咎めがあるのかはわからぬ。大火で焼け死んだ者の縁者なら、女を八つ裂きにしても飽き足らぬであろう。が、仇討ちの機会を奪ったと恨まれる心配もなかった。いまのところ俺の処断を漏れ知る者はいやしないのである。辰巳が獄吏たちの口を銭か権威かで塞いだのかも知れぬ。あるいは誰ぞの意向が働いたのか。

 ともかく俺はぶすぶすと焼け焦げた遊女の亡骸を筵に包んで地上へ出た。
 伝馬町には機人が植えたという例の得体の知れぬ蕾のようなものが無数に散らばっていた。そこから放出された種子が芽吹いて従来にはない植物を繁茂させている。どぎつい色彩の苔や灌木が焼野原をまばらに染めていた。見方によれば、火傷の痕を修復しているようでもある。

 ――どこもかしこも火傷か。人も大地も。

 吟孤という女にやられた傷と合わせて火に炙られた俺である。迷宮で幾度も死を垣間見たが、江戸の大地に戻ってからもさほど事情は変わらぬ。暴力の風がこの身を吹き過ぎていくのも止めることもできぬ。

「貴様、そいつをどうする気だい? まさかご親切にも故郷へ届けてやるわけでもあるまい」
「迷宮へ降りる」

 辰巳は、即答に驚く様子はなかった。
 俺が女を蘇らせるのであろうと、すでに確信していたのであろう。いや恐れていた憶測が当たって慄いているのかもしれぬ。

「あれだけの火だ。罪科も焼けたろうよ」
「馬鹿を言うな。そんなものをまた呼び戻すというのか。魔性の女ぞ」
「そうよ。迷惑な話だろうよ」

 俺と辰巳の間に深い溝が走ったようであった。
 いや違う。もともと存在していたそれを、須臾の間、忘れていただけだ。物狂いの煉獄とそれ以外を分かつ断裂がそれであった。そして女はこちら側にある。

「――どうするのだ? それを」

 訊いたそばから後悔に苛まれる、そんな歪つな表情であった。

「祝言を挙げるのさ。人斬りの無法者と付け火の遊女だ‥‥」
 お似合いだろう、と言いかけた俺を、辰巳はなじるようにねめつけた。

「おい樋口。よしとけよ。悪いこたぁ言わねえ。己《おれ》は恐ろしいのだ。おまえも、その女も。己がこのちっぽけな両手で守ってきた、つつましい世間がよ、がらがらと崩れ落ちちまう。駄目さ。そんなのにはもう耐えられねえ」
「辰巳。手前はいい男だ。お利巧に長生きしな。いいかい。回れ右して二度と俺たちには近づくな。わかってんだろ。お上の法度も、渡世の掟もには通じねえ」
「ああ、そうか。そうなんだな」

 もはや辰巳の瞳にあるのは怒りでもなく恐怖でもなく、ましてや無力感ですらなかった。そこに見えたのは憐憫の情、たったそれだけであった。

× × ×

 女の亡骸を背負って家に戻ると、蕾を開いた梅の花が見えた。
 なけなしの持ち物といっても露禅丹の入った巾着くらいだが、それを取りに戻ったのだ。雪之丞にも会わねばなるまい。
 小うるさい弟と出くわさぬためとはいえ、そっと我が家に忍び入るのは、なんとも阿保らしい気分である。しかし、そんな気遣いはどのみち無用であった。庭で親父殿が近所の河原者どもを集めて野点としゃれこんでいたのであった。茶の湯といっても形ばかりのどんちゃん騒ぎである。そこに雪之丞も加わっている。

「おお、二郎、二郎ではないか。戻ってきてたなら親父様に挨拶くらいしたらよかろう」

 酔いつぶれて前後不覚だったのはどこのどいつだ、とは敢えて言うまい。
 父に物事の理路を説くなど猿に算術を教えるのと変わらぬ野暮である。だいたいが大罪を犯した息子をさして恥とも思っていやしないのだ。家門を汚したなどと真っ当なことをほざく弟の方がまだしも信用が置ける。

 俺はその弟の行方を問うた。
「久兵衛はどこへ?」
「あれは千種屋に稽古をつけに行ったよ。守銭奴の手習いにしては熱心でな。謝礼を弾むと言われてほくほくよ。この冬空だというのに、あの狸親父の懐は温いのだ」
「そうかい」
「おい、皆の者、うちの放蕩息子が帰ってきたぞ。放逐刑を見事に乗り越えてきおった。ははは」

 ――わぁあ、人斬り二郎のご帰還だぁ、地獄の鬼の屁吸い野郎。

 わけのわからぬ口汚い歓声が上がる。
 車座になって昼間から酒を飲んでいるのは、世間から弾かれた日陰者ばかりである。人並みの道徳など持ち合わせておらぬ、ねじけた心根の持主ばかりだ。俺のおぞましい罪を知ったところで平気の平左である、その点においては魍魎街の連中とよく似ている。

「要らねえよ」
 盃が回されてくるが、俺ははねつけた。そんな気分ではない。

「おい、雪之丞。おまえ出来上がってるのか?」
「なんだなんだ。樋口。おいらはな。気分がいいんだぞ。おいらが憧れてた武家とは違うが、ここの者は実家のやつらよりずっと気風のいい連中だ。あんたの親父殿も話がわかる。あ、そうだ、あんたが絵師のとこへ行ったきり戻ってこねえから先方を訪ねたんだが、来てねえと抜かしやがった。なんだよ、迷宮じゃあっちの方面がご無沙汰だったから色里にしけこんだでたのかい。この助平が」

 駄目だ。雪之丞もすっかり酔いが回ってへべれけであった。
 親父の底抜けに陽性な質に感化されて、誰もが解放的になっている。
「聞けば、雪之丞殿は武士になりたいそうではないか。身は女でも心は男だとも言う。その意気やよし。なったらいい。人間なんぞ、まったくもって好きなものになったらいいのだ。そうして太平楽に過ごしたらいいのだ。うちにある刀なら全部持って行っていいぞ。私はな、昔っから刃物が大嫌いなのだ」

 侍にあるまじきことだが本当である。親父は剣の達人でありながら、光物が嫌いで腰に差しているのも真剣でなく竹光であった。それでいて白刃の中でも怯むことはなく、どんな窮地も鼻歌気分で切り抜けるのだから憎らしい。

「いいのですか!」雪之丞が頬を紅潮させた。
「男に二言はない。だがな、得物なんぞなんでもいっしょなのだよ。鰹節でも牛蒡《ごぼう》でもたかが人間なんざ斬ることができる」
「できるのは、あんただけだ」と俺は一応突っ込んでおいた。
「箸で飯が食えるならできるだろう。同じく簡単なことだ」

 このあたりが天才のやりきれなさである。自分にとっては容易なことを他人がなぜ、できないかがとんとわからない。弟子たちが逃げ出したのはそれが理由だ。天賦の感性を持っていても、それを教授するには別の才が必要なのだ。

「雪之丞、俺はまた迷宮に潜るぞ。野暮用ができた」
「そうか、だったら、おいらも行くよ」

 あっけらかんと雪之丞は答えた。
 伍を組んでくれとは言いにくかったのだったが、さも当たり前のように同道すると言われて俺は深く安堵しただけではない。無性にうれしかったのだ。

「でもさ、ずっと気になってんだけど、その仏さんは誰だい?」
「そうだ。筵から女の足がのぞけておるぞ。さてはまた殺したのか。まったく剣なんぞを持ち歩いているから振り回したくなるのだ。牛蒡にしろ牛蒡に」

 みょうちきりんな父の戯言は無視することとして、俺は目的をはっきりと告げた。
「迷宮にこの女を連れていく。詳しい説明は後だ。魍魎街、あるいはまた五層の廻鳳のところまで行かねばならぬ」
「なんだ、迷宮が気に入ったのか。私も連れてけ、と言いたいところだが、生憎暗くてじめじめしたのが苦手でな。麟堂から土産話を聞くだけで我慢しているのだ。はぁ、損な性分に生まれたものだな。私はひどく悲しい」
「父上。驚かずに聞いてくれ」
「なんだ?」
「俺はこの女を娶ることにする」
「そうか。なら飲め。めでたい時は酒であろう。酒だ!」

 死体を女房にすると言ったのがこれである。我が父ながらまったくもって法外に不謹慎であった。世情に逆らってまるで意に介すことがない。臆することがない。弟ならば烈火のごとく怒ったであろう。身分違いの上に死んだ女を連れ帰ってきたならばそれが普通である。

 拍子抜けの面持ちで、俺は遊女の身体を下ろして、盃を口に運んだ。
 破廉恥な客どもが月の兎の足に触れようとするのを追い払いながら、俺は喉に酒をくぐらせると、忘れてはならないことを切り出した。

「父上、俺は迷宮で奇妙なものに多く出くわした」
「なんだ自慢か。いいなぁ」
「そのうちでも一番奇怪なものが――すなわち己自身だったのだ」
「ああ、お前は変だな。大変だ」
「真剣に聞いてくれ。俺は通常の人間ではない。人斬りの人喰いだ。しかし、それははじめからではなかったはずだ。記憶に欠落がある。あの山籠りの日だ。あすこで何があったのだ。どうして俺はこうなった?」

 矢継ぎ早に言い募る俺に、さしもの親父も神妙な顔つきになる。
 瞠目する野次馬を人払いするかと見えたが、そうはしなかった。むしろ衆目を集めるがごとく声を張った。梅のほのかな香りが鼻腔をくすぐった。

 親父は重々しく口を開いた。
「我が息子。樋口二郎はあの日死んだ」
「なっ!?」
「おまえはな。難訓という化け物だ。一名を檮杌《とうこつ》という。それは大陸で恐れられた四凶の一である。麟堂によれば、閂山には〈通い路〉が開くことがあるという。化け物はそこから出でて、お前を屠った。我らが流祖に剣理を授けたというのもそこを通ってやって来た者なのかもしれぬ。うん、すっごいな」
「すごいな、じゃないだろう。俺は樋口二郎だ。樋口の家の跡取りで‥‥」

 俺は必死に食い下がった。簡単に認めてなるものか。俺は非道な人斬りであったが、それでも人間であったはずだ。己を化け物と自認することはあれど、それは人倫を逸れた外道という意味であって文字通りの内容ではなかった。迷宮を出るまでは。

「檮杌《とうこつ》は人を喰らう。そして喰らった人の記憶を得、その姿に化ける。息子は檮杌に喰らわれたが、樋口二郎の強靭な意志は逆に檮杌《とうこつ》を乗っ取り、その姿となった。おまえは物の怪であることを忘れた人間なのだ」
「馬鹿を言うな。俺は、俺は‥‥」

 人間だ、とたったそれだけのことが言えずにいる。この絶望感。ただならぬ寄る辺なさを誰が知ろう。まるで父母の養育を受け、天地の間に暮らしてきたことをすべて否定された思いである。信じてきたものすべてがまやかしだったと突き付けられたようなものだ。

「俺は憶えている。弟と喧嘩になって耳が千切れかけたことも。添い寝した母の白粉の匂いも、あすこの縁側にぶら下げてあった風鈴の音も」
「ああ、憶えているだろうさ。二郎の記憶はすべておまえのものなのだからな。お前は己を人間だと信じている。我が息子だと。であるなら、それはそうなのだ。雪之丞殿に先般言ったであろう。人は、いや人でなくとも、なりたいものになればいいのだ。私は息子を喪った。と同時に喪っておらぬ。なんとなれば、私を父と思うお前がおり、お前を息子と思う私がおるからだ。それぞれの信念は円環を成して完結しておる。物の怪だからとて息子であることは止められん。父であることも」

 なんと乾いた認識であろうか。この奇妙な現実を父は即座に受け入れたのだ。この人ならそれができるのかもしれぬ。それは愛と呼ぶべきなのであろうか。

 ――しかし、殺されたはずの俺はどうなる? 

 あっけなく新しい息子にその座を奪われ――いや、奪ったのは化け物である俺だという。なんだ、この奇体な状況は? この複雑に入り組んだ結び目を、騙し絵を、いかにして決着させればいいというのか。

「しかし、檮杌《とうこつ》としての習性は拭いきれん。人を喰らおうという本能はな。そうでありながら人間樋口二郎としての矜持は化け物への報復へ向かった」
「つまり?」
「うむ」と父と呼ぶべきなのかもうわからなくなった男は続けた。「ふたつの性向の集約した果てに、おまえはひとつの向かう先を見出したのだ。人を殺す、ただし、化け物に憑かれた人間だけを、な」

 そうか、それが俺の人斬りの、そして人喰いの真相であったのだ。檮杌《とうこつ》は無差別に人を殺し喰らおうとする。それを樋口二郎としての意識が修正し、物の怪に近い者だけに矛先を定めたのだ。古籠火《ころうか》という妖魅に憑かれた月の兎を狙ったのもそれが故であった。他の犠牲者も同じように人ならざるモノに魅入られていたのであろう。

「おまえは己自身も魔でありながら、魔性を討っていたのだよ。私はそれを咎めなかった。世間がおまえの大罪人であると裁こうと知ったことか。おまえは知らず知らずのうちに江戸に安寧をもたらしていた。そこな女が火を放つまではな」
「そんなことが、だが――」

 それを知ったからといって俺の心は休まらぬ。落ち着く先を見出せない。結局は俺は何者なのだ? 人であるのか化け物なのか。
 ここまでの話を聞いても、雪之丞も酔った有象無象どもも、何ら俺にたじろぐことをせぬのはどうしたころだろう。こいつらの頭に障りがあるらしい。

「これが答えなのだよ」親父は優しい声音で諭す。「ここにいる者たちは、誰もが脛に傷を持った人間たちだ。江戸の大火の前より、定住も奉職も何も持たぬ人間たちだ。おまえの本当が何であろうが、こいつらはこいつらの見える本当に従うのだ。座を囲み、酒を酌み交わすおまえは確かに人間なのだ。不足か?」
「そんな屁理屈に騙されるものか」

 俺は場に並んだ杯と皿を足蹴にした。そうとも許されるべきではない。

「この俺が化け物などであってたまるか。父上の言うような気休めでは収まらぬ。俺は樋口二郎だ。俺はそうなんだ」
「ならば。どうする?」と父は眼を光らせた。
 息を呑んで見守っていた雪之丞が、わかりきっている、とすかさず言う。
「虚空権現。迷宮の底の底まで潜り、あんたは正真正銘の人間にしてもらう。おいらは男の身体を手に入れる。それで万事解決だろ」

 ――そうだ。そうなのだ。俺という舟の舳先はつまるところそこを指していたのであった。迷宮。すべての願いが聞き届けられる場所。万能の宝珠がそこにはある。

 どんな手を使ってでも俺は人の身となり、俺であることを取り戻す。
「雪之丞」と俺は意を決して立ち上がった。
「ああ」血気に応じて雪之丞も膝を立てる。
「伍を組むぞ。どんな手を使ってでも踏破する。迷宮の腸《はらわた》を引っ張り出してやるのだ」
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