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第一章 大江戸騒乱変
嬰児
しおりを挟む炎の舌に舐め尽くされた江戸の片隅を離魂病者のようにそぞろ歩けば、困窮と頽廃とにぶち当たる。
焼けた家を打ち壊したまではいいが、気力を失ってへたり込んだ町人。それを立ち直らせようと発破をかける内儀たちもまた疲れ果てている。浮浪児が野良犬の食い物を横取りする様を流し見ながら、俺たちは目指す場所とてなく、喪失と解放、せめぎ合うふたつの感覚を胸に抱きながらひたひたと両の足を進めた。
黒焦げになった骸は、雨に濡れるとたちまち異臭を放った。
燃え切らなかった芯に蛆が沸いて蠅どもにたかられるその上を、夜ともなれば青白い人魂が浮揚した。冬の寒さは堪えるから、そのあたりで筵を拾って身体に巻きつけた。持主のいない私財はもはや私財ではない。落ちているものは、拾った者の所有となるのである。
ここは迷宮に劣らぬ地獄であった。
「雪之丞、おめえの生家はどこでぇ?」
「深川さ、でも探降者になると決めた時に家は捨てた」
「そうか」
日本橋のあたりであったろうか。雪之丞の身の振り方をなんとなく訊ねてみたが、つい先般まで死んでいた雪之丞である、行く当てなどないらしい。
「地べたの下で巡り逢ったのも何かの縁だ。喜兵衛の奴の落ち着く先が見つかるまでは付き合うさ」
「ふむ。藤見麟堂という男を見つけるのが先決だ。喜兵衛は麟堂に任せろと廻鳳は言った。しかし、この災禍では、その藤見という男も無事かどうか」
「迷宮の深層を潜り抜けた男がそう簡単には死なぬだろうさ」
「麟堂の屋敷は牛込らしい。あちらが無事だといいが。‥‥しかし、あれらはなんだ?」
焼け焦げて開けた景観のそこかしこに散らばる傘のようなもの。それはかつての江戸の街並みには存在しなかったものである。近づいて見ればそれは傘というよりもむしろ蕾に相似している。おそるおそる触れてみると湿った和紙のような感触がある。密封された中身はとんとわからぬ。内側には微光を発し脈打つ何かがあり、俺たちをして後じさりさせる。
「迂闊に触っていいのかい」
「なんだい、これは。牛の背中ほどもある」
「さてね、おいらが迷宮に潜る前にゃなかったぜ。得体の知れねえ代物だな」
雪之丞は警戒して指先たりとも触れようとしない。傘の骨に当たる部分には鯖の銀色をした金属線が頂点から合わせて十三本も伸び、ふんわりと丸み帯びて地面に埋もれている。
「おい、喜兵衛、どこへ行くんだい? よぉ」
念願叶い、お日様の下にすっくと立った喜兵衛である。喜び勇むようにして駆けずり回るのだが、その様のあまりの狂乱ぶりに、むしろ具合が悪いのではないかと心配になる。もとより行く当てのない俺たちである。子供のように疾駆する喜兵衛を惰性で追った。
この辺りは、どうやら火の手の回らなかったらしい、難を逃れた無傷の町並みが拡がっている。ようやく懐かしい江戸の趣きを肌に感じられて俺は涙ぐんだ。
「樋口さん、あんたまさか泣いてんのかい」
目敏い雪之丞がニタニタと迫るから、
「よせやい」と俺はそれを振り払う。「それよか、この木偶の棒をなんとかしねえと。鬼ごっこをしてる場合じゃねえぜ」
「それはそうだがカラクリは疲れることを知らぬのだ。お天道様の光はこいつらの活力なんだしな」
ならば喜兵衛の活力は無尽蔵である。日が落ちないことには、一休みもままならぬ。迷宮でののっそりした挙措とは違って、ぴんぴんと跳ねるように動き回っている。吹き流される紙風船を追う子供のように俺たちは駆けずり回ってへとへとになった。辛抱堪らず、俺は大きく手を振って喚いた。
「よお、喜兵衛ここまでだ! 手前ぇにゃほとほと愛想が尽きたぜ。どこへとなりと勝手に行きやがれ。廻鳳の頼みでここまで来たが、麟堂ってやつの居所もわからねえ。手詰まりってことさ、恨むなよ。こちとら盗人どもに負わされた呪縛があんだ」
どうせ払えぬ借金なら、やつらを皆殺しにしてからくたばってやろうという心づもりであった。しがらみのない地の果てに遁走したいのは俺の方である。
「なぁ、これ以上、手間かけてくれるな。喜兵衛よ」
すると喜兵衛は俺の言葉に耳を傾けるようにぴたりと身動きを止めた。
「つまり忙しいのさ。おまえにゃ悪いが」
と、わずかな後ろめたさが芽生えて、俺は言い淀んだ。
そこへ何かが爆ぜる音がする。見上げる中空に紫紺の雲がたなびく。まるで来迎図において如来と天人たちの乗る飛雲ではないか。
「あいつが爆ぜたんだ」
遠目の利く雪之丞は現象を過たず見取っていた。さきほどの蕾が大きく膨らんでポンと弾け、内側から吹き出した色鮮やかな茄子色の紫が空を染めた、というのだ。
「奇体な」と俺はひとりごちた。迷宮であればまだしも、この地上において、あのような妖物が繁茂しているとは。あの異人のひそみに倣うなら、迷宮の混沌が地上の理を押しやるその暴挙に拳を振り上げねばなるまい。しかし、あれを迷宮から来たものと断ずるのは早計である。
そこへ――聞き覚えのあるだみ声が差す。
「おいおいおい。天海上人ご建立の寛永寺の境内で物騒なことを喚き散らす馬鹿がいるかと思やぁ、おのれは樋口。樋口二郎と見える。鬼畜外道の貴様が、ここいらをぶらついてるってのは何かい。迷宮を踏み越えて、ゴミ虫みてぇにしぶとく地上に這い上がってきたってことかい。え?」
「おめえは――」
振り向き、口を開く間もあらばこそ、ガツンと火花散るような頭突きを喰らった。
見覚えのある――どころではない――決して、忘れられぬ顔であった。朱房の十手。頭にゃ小銀杏を結っている。俺をお縄にかけた同心、それがこの男だった。
「おめえは辰巳」
「おうよ。貴様を地獄送りにしたつもりだったが、どうやら仕損じたらしいな。いいぜぇ、何遍でも叩き落としてやらぁ」
振り上げた拳が下ろされるのを阿保のように待ち焦がれる俺ではない。俺はやつの鳩尾に爪先を蹴り入れて尻餅をつかせる。迷宮で鍛えた俺には、同心であろうと、ろくに武術の心得のない木っ端役人など相手にならぬ。
「おのれ、おのれ、樋口ィ!」
小柄な知恵者。数と策に恃む、それが辰巳の流儀であったはずである。このように腕力にまかせて勝てぬ相手に突っかかるのはこいつらしくない。
「辰巳、どうしたい? 山椒は小粒でもピリリと辛いってのが信条じゃなかったのい? 今日のおめえは味気ねえな」
「虫の居所が悪いのさ。特に貴様の面を見かけた日にゃあな」
「ふん、構ってられるかい。こっちだって無罪放免、天下御免の吉日よ。てめえの面なんざ万が一にも拝みたくなんかねえ。お上《かみ》の使い走りなら、俺みてぇな小者よか、ここいらの惨状をどうにかしろよ。焦げ付いた鍋底だってまだ見られる眺めだ」
「黙れ」
辰巳の瞳は業火を映した。双眸に鬼気が宿った。
「――貴様のような気狂いに関わったばかりに天下世間はぶっ壊れちまった。貴様だ、貴様が悪いのだ。いいや、己《おれ》か。己がいけなかったのだ」
臓腑から絞り出すように吐き出す、その言には何やらゾッとするものがある。己を苛む気持ちと俺を責める心が、めらめらと燻っている。
「何を言ってやがる。昼間から酒を飲んでるのか、それとも頭でも打ったかい。どうして俺と天下に関わりがある? 気宇壮大な戯言は隠居するまで取っときな」
「知らぬが仏とはこのことよ」
「だから、なんだってんだ?」
「言うても無駄よ。その面にゃ吐き気がする。どこぞなりとも這い回り、いかようにもくたばるがいい。己は知らぬ。貴様などとは袖触れ合うも御免だ」
「なんだよ、さっきと言ってることが――」
「さらばだ人喰い。地下に地上に、貴様にお似合いの地獄なら、いくらもあろう」
たったそれだけを絶縁状のように叩きつけると、いっそう苛立たし気に辰巳は去った。
「畜生、なんだってんだ」
ますますわけがわからぬことが増えた。どうして奴が俺と絡むことで天下の運行に障りが出る? 下手な思案が巡るのを止められぬ。野郎は本当にイカれちまったのかもしれぬ。この災禍で誰ぞ大切な人でも亡くしたかも知らん。気落ちも底を叩くと血気が逆巻いて脳天に達することもあろう。
「ちっ、まぁいい。せっかくの娑婆の空気が不味くなる」
俺はもう気に留めぬことにした。
傍から成り行きを眺めていた雪之丞は肩をすくめた。
どうやら地上は迷宮同様に厄介な場所である。今更ながら居心地が悪い。
「なんだかよぉ、もう迷宮が懐かしくなってきやがったぜ。愛しい江戸は殺風景な焼野原でがっくりしたところに馬鹿の難癖とくらぁ。地べたの上も世知辛えな」
「まったくあんたはどうしてそう厄介事を引っ張ってこれる。迷惑。実に迷惑だ」
――明和九年=迷惑年の語呂合わせはこの時まだない。にしても災難続きの渡世である。迷惑だらけの塵界《じんかい》である。愚痴をこぼして回りたい気分だ。
「迷惑ついでに言うけどな、またぞろ何か起きそうだぜ」
その時、俺たちは寛永寺境内は不忍池のほとりに佇んでいた。中島に鎮座するのは竹生島より勧請された弁財天である。ポンポンと東西よりあの蕾の爆ぜる音がする。そこへ来て、さっきから硬直したままの喜兵衛に変化が生じつつあった。紫の煙に巻かれながら喜兵衛は陣痛さながらの苦悶に震え出したのである。
「おい、喜兵衛。大丈夫か。さっきは叱ってすまなかったな。くたばるんじゃねえぞ、医者はねえけど坊主ならわんさか‥‥」
「そりゃ死ぬってことだろうが。縁起でもねえ」
「ともかく、だ。喜兵衛、おめえは俺の命の恩人だ。ここで死んじゃならねえ。手頃な墓石なら腐るほどあるけどよ」
「やっぱり殺す気か」
「悪かったよ」
雪之丞に駄目を出されるのももっともである。俺はまったくもって困惑の極みにいた。ざんばらの頭を掻きむしり、喜兵衛を揺さぶった。喜兵衛はもうもうと蒸気を吐き出し、ずんぐりした五体を精一杯に縮めて、団子のように丸まっている。蠕動が頂点に達すると、思わず俺は叫んだ。
「喜兵衛!!」
察しの悪い鴉がカァと一声鳴いた時、あろうことか喜兵衛の胴体は南京玉すだれの如くバラバラと崩れるではないか。
「ありゃ?」
ゴロリと喜兵衛の中から出て来たのは、一抱えもある、ひとつの玉《ぎょく》であった。
「雪之丞よ、こりゃなんだい?」
「おいらが知るかい」
碧玉の内には、人の子が眠りこけていた。いまだ生まれ出でぬ嬰児である。
「どうして喜兵衛が赤子を孕んでたんでぇ?! するってえと何かい喜兵衛の奴は女だったってわけか」
「機人に雄も雌もあるもんかい」
「喜兵衛ってんだからてっきり野郎だと」
「阿保か。そんなのぁ方便だろうが。あんたの頭にゃ蒟蒻でも入ってんのかい」
「なんだと。蒟蒻とぬかみそはガキの時分からの天敵よ」
俺と雪之丞は掴みかからんばかりの勢いで、怒号し、唾を飛ばし合った。
滑らかな玉の表面には、以下の如き刻印があったが、士族に生まれながら漢語の素養のない俺にはまるで珍紛漢紛《ちんぷんかんぷん》の代物であった。
〈愛护小孩的活动《こどもを守ろうキャンペーン》〉――全中湾岸管理机构・非局在課程――
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