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序章

寺田宗有

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 ――羅睺《ラーフラ》・ワイガート。

「異人なのか」
「ええ」雪之丞はおぼつかぬ確信を漏らした。
 羅睺=ラーフラは禍いをもたらす凶星の名であったと記憶している。太陽を喰らう者、つまり日蝕を引き起こす魔神であり、仏陀が自身の修行を妨げる存在として息子につけた名=障碍《ラーフラ》であったとも言われる。

「君ハ憶エテイルゾ。蘇ッテイタトハ」
 ――ピチャ。
 血だまりの中をラーフラは一歩にじり寄った。

 殺気という名の狂風が叩きつけられる。俺は思考を停止した。金縛りにあったように指一本たりとも動けないのである。辛うじて眼球だけが、ゆっくりと眼前の男の伺い見るのだが、その何気ない動きでさえ、見えていない。いや、眼はそれを捕えているのであったが、意識が像を結ばないのである。
「樋口さん、奴の動きはすべて〈省略《せいりく》〉されている。眼で追えば追うほどに術中に嵌る」

(こんな化け物が迷宮に存在してたとは)

 ラーフラが三日月のように唇をたわめた。
「君ハ美シカッタカラ壊サズ二殺シタンダ。犯シテカラ殺スベキカ殺シテカラ犯スベキカ迷ッタヨ。僕ガドッチヲ選ンダカハ今ナラワカルダロウ?」
 たどたどしい言葉でおぞましい内容が述べられてゆく。和蘭《オランダ》? 葡萄牙《スペイン》? 俺の知っているどの異人とも似てはいなかった。これは挑発なのか事実なのか俺には知るべくもない。
「君ハ女デ良カッタネ。二度、殺サレルコトガ出来ルノダカラ」
「おいらは女じゃない」
 俺の耳にまで聴こえてくるような歯ぎしりを雪之丞はした。とてつもない嫌悪が総身に漲った。瞬時に矢をつがえた雪之丞は、それをためらうことなく解き放ったのである。目一杯の殺意を乗せて。

 ――ヒュン、と俺が風切り音を聴いたと思った刹那、まったく同じ音が繰り返した。

「な?!」
 信じられぬことに放たれた矢を素手で掴みとったラーフラが、まったく同じ軌道を逆向きにしてそれを投げ返したのである。並々ならぬ弓勢を数層倍した速度で矢は駆け戻っていった。俺の耳の真横を往復した矢は、雪之丞の左手に深々と突き刺さった。
「つっ!」
 ようやく俺は金縛りから脱して〈無忌鎮永〉を抜いた。無造作に間合いに入ったラーフラを俺は袈裟斬りにしたはずであった。しかし、手応えがないばかりでなく、その姿さえも見失ってしまう。
「僕ヲ異人カト訊イタナ」
 その声は背中から聞こえてきた。なんとしたことか紅い眼の異人は俺に背中に潜んでいた。背中合わせにされた俺は冷え切った恐れを刃のように差し込まれた。とっさに振り向こうとするが、異人は俺の背中から離れようとしない。傍目には、まるで舞踏をしているようであったろう。

「どこから来た? 清か。それとも西蔵、あるいは天竺か」
「モット遠イ処ダヨ」
「手前《てめえ》は害悪だ」
 どの口でそれを言うのかと責められれば抗弁のしようもないが、この異人には俺の素性などわかるまい。そして俺などよりずっと邪《よこしま》でおぞましいものであろう。
「ソウイウ貴方ハ誰デスカ」
「あんたに比べりゃ」と俺は言いながらグッと身を撓める。「しがないただの人斬りさ」
 そして力強く床を蹴りつけて軽業を披露してみせる。とんぼ返りである。

(これでも背中に張りついてられるか?!)
 俺は凍りついたように固まった。雪之丞も同様である。
 ――なんだこれは。
 ラーフラは離れない。なんと空中前回りをして俺にぴったりと背中合わせのままついてきたのであった。
「てめえ人間か!!」
「貴方ノ背中ハ心地イイネ。昏い温モリガアル」
 異人は甘い吐息を漏らしたが、それは毒気を孕んで俺の背中をひりつかせた。
「喜兵衛、かまわねえから、俺ごとこいつなます切りにしろ」
 勢いよく蒸気をまき散らしながら喜兵衛が突っ込んできた。三本の腕を鞭のようにしならせて乱れうちにする。腕の先には刃物が光る。指示通り俺のことなどまるで配慮なしの無差別攻撃である。

(まったく、かまわねえと言ったって加減てものがあるだろうがよ)
 俺はズタズタにされながら喜兵衛を恨んだ。
「駄目だ、喜兵衛、奴にはかすってもいねえよ。ただ樋口さんが切り刻まれていくだけだ」
 雪之丞が悲痛な喚きが斬撃の中でも聞こえた。
「使えねえな喜兵衛、てめえは雪之丞を連れて逃げやがれ!」
 一瞬の決意を悟らせもせず、俺は言い放った。

(どうしてこんな具合になった? 畜生が)

 刀を逆手に握った俺は、それを己の腹に突き立てたのである。背中に張りついた異貌の殺戮魔ごと串刺しにするために――しかし、それもまた無益な足掻きに過ぎぬ。
「イイ覚悟ダ」
 なんとなればラーフラは俺の身を賭した一撃までも躱してみせたのである。もはや命乞いの懇願をする気も起きぬ。狂った殺人者に懇願など用を成さぬことは俺がよく知っている。
 俺は倒れた。さっきまで俺が立っていた場所に幾つもの矢が飛び交う。雪之丞が踏ん張っているのであろうが、それもこの化け物相手では徒労である。
「馬鹿が、なぜ逃げねえ」かすれた息で俺は非難した。
「もう仲間を殺されるのは真っ平だ」
「手前が殺されるよりはマシだろうが」
 これで三度目だ。この迷宮で死にかけたのは。雪之丞に関していえば、死にかけたのではなく、まさしく死んだことがあるのである。

 俺も雪之丞も、今度こそ助かる目は無いだろう。弱肉強食、地下の戦場において俺たちは揃って弱すぎたのだ。いや相手が強すぎると言い訳してもバチは当たらぬだろう。

「迷宮ヨ。命ヲ欲望ヲ喰ラウ者ヨ。汝ヨ死ヲ想エめめんと・もり
 ラーフラは詠うように口走る。それは異邦の響きを含んだ。俺はその言の中に、迷宮への息詰まるほどの憎悪を読み取った。
 ――暴流《ボル》!
 風の八卦呪法。式を経てずに発動する呪法は簡易なものに限られるのだが、それは微弱であることを意味しない。触れれば切れそうなほどの空気の流れが渦を巻いた。さらにラーフラは懐から白い石粒のようなものを取り出し、それを己の作ったつむじ風に投げ込んだ。
「あれは迷宮で嬲り殺した物の怪の歯と爪。怨念の込められた小さな礫だ。あのつむじ風に巻き込まれたら、一瞬で穴だらけになっちまうよ」
「物ノ怪ノ一部ダケデハアリマセン。君ノ仲間ノ爪ト歯モ混ジッテイマス。血風ノ中デ再会スルモイイデショウ?」
 ラーフラの白面が端然と笑んだ。
 白き怨念はつむじ風の中でみるみる加速して、文句のつけようのない凶器と化す。穴だらけになるどころではない。あれに巻き込まれれば、二目と見られぬ肉片となるに違いない。
「雪之丞、喜兵衛を地上へ連れ出してやれ、いいな」
 俺は否も応も言わせぬ口ぶりで言い聞かせた。
 そうして立ち上がる。気が違ったのかもしれぬ。
 どうやら俺はここでくたばる気らしい。文字通り陽の目を見られず終いで朽ちるのであれば放逐刑はその目論みを果たすことになる。これで地上の連中も枕を高くして眠れるというもの。
「樋口!」
「行け! 死ぬのはひとりでいいだろう」
 迫りくるつむじ風からもう俺は逃げなかった。
 むしろ顔を前に向けて右足から踏み込んだのである。白い飛礫に肉をこそげ取られていくが、それでも俺は歩を進め、剣を振り上げた。この暴風に抗うは愚行であろう。しかし一太刀だけでも浴びせてやりたい。たとえ雲を掴むような高望みであっても俺はそれをせずにはいられない。

 暴風とすれ違った俺は大火の後の黒焦げの柱のようにおぼつかなく立っていた。二本の足で立っている、それだけがなけなしの矜持であった。
「ぬぁああ!」
 最後の力を振り絞って上段より振り下ろした。
 ラーフラは最小限の動きで刃を避ける。そよ風に吹かれたほどの動揺もない。
「甲冑モナク暴流ヲ抜ケ出テ来ルトハ。何者ダ?」
「があああああ!」
 次は下段から斬り上げる。
 手応えがあった。ラーフラの腕の薄皮一枚を裂いたのであった。俺自身も信じられぬ。しかし、その手応えの前に別の感触があった。空気の層を乗り越えたような、まどろみに一瞬意識を失うような、そんな体感であった。ことによるとこれが〈省略〉の感覚かもしれぬ。
「コノ階層デ刀傷ヲ負ウノトハ。面白イ」
 異人の手が伸びて俺のまぶたを血が出るほどに開いた。そして剥き出しの眼球の奥をのぞき込むのである。
「成程、貴方ハ難訓《なんくん》。人ノ血二潜ミ、見ル影モナイガ」
「なんだと」
「迷宮二巣食イ、在リシ日ノチカラヲ取リ戻ス前二亡ボスカ。ソレトモ活カシテ。趨勢ヲ楽シムカ」
 言うが早いか、ラーフラは腰の剣をすらりとぬき放った。しかし、その刀身は見えぬ。まるで柄だけを握っているようだ。姿なき剣であっても、その構えから迸る剣気によって伊達や酔狂でないことがわかった。刃はそこにあるのだ。
「承影《チェイン》」
 それが剣の名であろうか、厳かにラーフラは呟いた。

 もとより動きの見えぬ相手の得物がこれまた不可視の刃とくれば、もはや死は必定である。俺は今度こそ本当に覚悟を決めた。無形の刃の向こうに死がある。俺自身が大勢の人間をそこに引きずり込んだのだ。いまさらジタバタする気は毛頭ない。
「死ネ」
 透明で、空恐ろしい痛み。ばりばりと肩が裂けていくのがわかった。傍から見れば、俺はひとりでに血を流していると思われるに違いない。
 しかし、その裂け目から何かが――俺の覚悟とは裏腹に、凶暴で純粋な力が踊り出そうとしているがわかった。
 それは獣の性か。死の惑乱か。己の内より不気味な声が轟いた。

 ――屠れ。打ち砕け。万物を微塵へと加速させよ。還せ。還せ。空《くう》の顎《あぎと》へ。

(なんだ? 誰だ?)

 ――因果を切開せよ。掘削せよ。無を穿て。天地を毀《こぼ》て。

(やめろ、やめろ。何だ?!)

 俺は内から溢れ出る獰猛な意志に己をゆだねかけた。
 力が沸き上がってくる。と同時に俺という色が薄れていくようだ。
「ヌウ! 流石、四凶ガヒトツダナ」
 ラーフラはさらに恐ろしい膂力を込めた。一息に俺を両断するつもりなのだ。

 
「ここまでだ。来訪者よ」――そこへ透明な力が割り込んだ。

 老成した口調であったが、声そのものは若い。誰かが俺たちの戦いに介入したのだ。さて、救いの手となるか、絶望のダメ押しになるか。
「貴方ハ防人。マタ邪魔ヲスルカ」
「それが公儀より仰せつかった某の役目なれば」
 言うなり鋭い刺突を繰り出したのは、やはりうら若い剣客であった。

 間一髪、ラーフラはそれを弾いたが顔色に冴えがない。余裕がない。俺は剣客の動きを追いかけた。まともにこの怪物じみた異人と渡り合えるだけで尋常な腕前ではない。俺が死の淵に立たされることでようやく掴みかけた〈省略《せいりく》〉の奥儀をまるで初歩の型の如く使いこなしている。まったく端倪《たんげい》すべからざる剣技であった。

 一合、二合、両者の剣が打ち合わされる。どれも必殺の剣気を帯びて鋭く重い。俺はたじろぎ、後ずさった。あんなものに巻き込まれたら、今度こそ死ぬ。腹に穴が空き、総身を魔性の歯牙に穿たれた俺は、かつてなら死んでいたろう。しかし、俺には死を練り固めた丹薬がある。残り少ない貴重な品だが、背に腹は変えられぬ。俺は取り出した一粒を口中に放り込んだ。苦い。これは死の味か生の歯触りか。

 清冽たる気を帯びた剣客の一刀が、異人ラーフラの胸を裂いた。その傷、浅くはあったが、異人がやや劣勢に傾きかけたことの証左であろう。俺は異能を誇る二人の姿を眼に焼き付けた。ややするとラーフラは戦意を失ったようだ。
「来訪者よ。越境者よ。闖入者よ。今日こそは滅ぼしてくれようぞ」
「憎イゾ、寺田。イツカ貴方ヲ黄泉ヘ届ケヨウ」
「お主が迷宮へ抱く憎悪、それもまた迷宮の滋養となるに過ぎぬことがなぜ解らぬ?」
 寺田と呼ばれた男の説諭を無視してラーフラは怨憎を吐き出す。
「――マタ遭オウ。防人ヨ。ソシテ深淵ヨリ来ル者ヨ」
 ラーフラはチラリと俺に流し目をくれると迷宮に闇に消えていった。最後の台詞の意味はわからぬ。わからぬが、無性に不安を掻き立てる言葉である。己が己でないようなそんな虚ろな不安に苛まれる。

 雪之丞と喜兵衛が駆け寄ってきた。
「よかった生きてたんだ。露禅丹を飲んだのか。間一髪だ」
 ここで死んでたら、また地下五階の廻鳳の部屋に預けられ、いつとも知れぬ復活の時を待つしかなかったのである。
 雪之丞は涙目で俺の胸を無遠慮に叩く。
「よかった。まったく恰好つけやがって」
 喜兵衛もまた喜びを幾つかの動作でもってあらわしたが、またもや俺には理解が及ばぬ。カラクリがタコ踊りするのである。ガチャガチャと耳障りであれ、縁起のいいものではない。
 死地から生き延びた幸運を喜び合った俺は、遅まきながら命の恩人に話を向けた。
「あんたは? 防人と呼ばれていたが」
「某は平常無敵流・寺田宗有と申す者。防人とは如何なるものか説明が必要であろうか?」
 寺田は不快を感じた様子はなかった。むしろ出来得る限りの要請に応じる態度であった。物腰は生硬だが、人情を欠いているのではない。ただ、淡々としてつっけんどん、おまけに表情に乏しいのである。
「樋口さん、防人を知らないとか」
 雪之丞は小馬鹿にした面付きである。
「仔細は知らぬ。だが、要するに滅法腕が立つ迷宮の見回りであろう。与力や同心のようなもんだ」
 ラーフラの気配が去るまで白刃をぶら下げていた寺田がようやく納刀した。その動きひとつとっても〈省略〉が行き渡っている。行住坐臥あらゆる威儀が折り目正され、刹那の瞬間も修練となっている。まさに侍の鑑のような青年であった。

「はい。秩序なき迷宮にわずかなりとも秩序をもたらすこと。それが防人の使命です。――時には徒労を感じることはありますが」
「奴はなんだってんだ? 異人てのはみんなあんなふうなのかい?」
「いえ、あれは海の外から来たのではありません。異なる世界から来た異人。破戒僧性淵しょうえんが虚空権現を通じて引き起こしたかの大災禍〈両界侵犯《りょうかいしんぱん》〉によって彼の世界よりやって来た者」
「なんだよそりゃ」
 俺は首を傾げて、子供のように問い詰めた。〈両界侵犯〉とは何か。異なる世界とは何か。来訪者とは何か。そして何より俺は何なのか?
「皆さんは上へ戻るのでしょう。同道致しましょう。もはや脅威は去りましたが、これも何か縁。言えぬことは多いですか、お話できることもありましょう。道すがらとっくりと」
 こうして俺たちは防人・寺田宗有《てらだむねあり》の知己と相成ったのである。
 
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