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序章

朧猪牙

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 青面鬼の首が舞った。
 俺の刀は血に濡れて怪しく光る。青面鬼の掌底は俺の身体に触れる寸前で止まったが、風を巻いて唸る剛腕――その余勢の気は俺に胸に打ち込まれた。僥倖とも言える勝利に脳味噌が喜びに震えたかと見えたその時、俺は激しく血を吐いた。

 ――ずさり、と首を失った鬼の胴体が倒れた。

「喜兵衛、上へ引き上げろ!」
 雪之丞の号令の元、俺は上階へ避難させられた。
「馬鹿が。どうして戦った?」
「……勝ったぞ」
「会心の一太刀だったろう。しかしあんなものは千遍に一度の幸運さ。あれほどの格上相手に致命傷を加えるなど――いや、話はあとだ。喜兵衛。周囲を警戒しててくれ」

 雪之丞は苦い顔つきで懐より丹薬を取り出す。身体の中で気が暴走している。あの鬼の置き土産が、俺の身体の秩序を猛毒のように破壊してゆく。
「廻鳳から貰ったものだ。飲め」
 それは露禅丹《ろぜんたん》であった。
 復活に失敗した屍者の変わり果てた姿である屍礫を原料とする薬である。青白い小指の先ほどの丸薬。これを飲むのは命を喰らうに等しい。もとより人喰いの俺には微塵の痛痒も感じられぬが、雪之丞は俺の心の抵抗を慮ってくれているのだろう、落ち着いた声で諭した。
「あんたは青面鬼の攻撃で内傷を受けている。こいつを飲まなきゃ命に関わる」
「そりゃ一体誰の命だ? 何人分の?」
「問うな。考えるな。いいから飲め」
 俺はひとまず言いなりになった。

 こいつはもしかしたら雪之丞だったかもしれぬ。
 あの時、雪之丞の蘇生が失敗に終わっていたら、雪之丞も丹薬にされていたのかもしれなかったのである。そのことを雪之丞自身も気付いていたのであろう。俺を説き伏せる語気には実のところ勢いがなかった。
「――う、う」
 露禅丹の効き目は覿面《てきめん》であった。
 俺の体内の気は整えられ鎮まっていった。臓腑をかき混ぜられるような不快感が去って爽快な涼気が満ちてくる。俺の恢復を喜兵衛も察したのか、大きさの違う両の眼をぴかぴかと交互に光らせた。

 そこへ異質な気配が届いた。
(一難去ってまた一難か)
 俺たちは身構えたが、回廊の果てから霞を引いてゆっくりと姿をあらわしたのは一艘の舟であった。江戸の運河を巡る猪牙《ちょき》船が、迷宮の石畳をゆったりと滑るようにして遊弋《ゆうよく》しているのだ。川に貫かれた地下六階層であれば不思議でないが、この階には水流はない。
「朧猪牙《おぼろちょき》だ」
「あれも物の怪かい?」
「現身のない船だ。しかし、礼式に則れば乗り込むことができる。迷宮の化け物どもは敵だけじゃない。かといって味方でもない。目的のわからねえ連中がわんさといる。朧猪牙はただひたすら周遊してやがる。迷宮ってのはなおいらたちの物の見方じゃ測れねえから迷宮なのさ」
 けだし至言である。俺は迷宮で恐ろしい脅威に何度も出くわしたが、それ以上になんだかよくわからぬものにも出くわした。怪やら妖といえば、そもそもが人智では割り切れぬもののことを言う。廻鳳のような本草学者が迷宮に入り浸るのもそのわからなさに惹かれてのことだと俺は考える。

「文字通り渡りに船だ。あれに乗ってりゃ他の物の怪どもにゃ襲われねえ。それに歩かなくってもすむ。地下四階への階段に近づくまでのんびり舟遊びをしゃれこもう」
 ――掌に唾液で望と書き、朔と念じて乗れ。
 雪之丞はそんなふうに指示を出すと、まだ恢復し切っていない俺をぞんざいに船へ投げ入れた。つづいて二人も乗り込んでくる。猪牙はその名の通り、猪の牙に似て細く鋭い形をした船である。江戸の流通に無くてはならぬ存在であったが、そんなものが船頭もなく虚ろな姿で迷宮を漂っているとはまさしく怪異というほかない。船の周囲にはぼんやりと燐光を放つ漁火のようなものが漂っている。
「よし、あんたにゃ説教だ。樋口さんよ。どうして死にたがる? 死にたいのならいくらでも機会が転がってるぜ。この迷宮でならさ」
「ああ、済まねえ」さすがの俺も素直に詫びた。「妙な山っ気を起こしちまった。二度としねえ」
「ふん。ほんとにわかってんのかね。‥‥まぁいい。なら誉めてもやるよ。ありゃ大金星だ。青面鬼といやぁ、迷宮地下三十階層あたりの化け物だ。もはや物の怪というより夜叉鬼神の類に近い。それをばっさり一刀に伏すたぁ、この眼で見ても信じられねえ」
「見てたのか?」
「ああ、助勢は御免だったがね。それにおいらと喜兵衛三人がかりでも勝てる目はねえ。それをひとりで討ち取るとはな。あんた何者だ? それともその刀か?」
 雪之丞は俺が墓より盗んだ刀を取り上げて、じっくりと眺めた。反りの少ない刀である。普通は柄に収まるなかごの部分を取り出してみなければわからないが、雪之丞はその霊眼でもって〈鎮永《しずなが》〉という銘を読み取った。
「前の持主は多くの妖物を切ったな。強力な自我と呪力を纏い始めているが、付喪神となるにはまだ早い。これは確かにとんでもない業物だが、青面鬼を斬り伏せるだけの力はない」
「ふふふ、ではやはり俺の実力か」
 さっき死にかけたばかりだというのに俺は図に乗った。
 この刀を俺は〈無忌鎮永《むきしずなが》〉と号することにした。前の持主に敬意を表してその名を含めた。これで無忌斎とやらが化けて出るようなことはなかろう。
「あんたは〈省略《せいりく》〉を使った。知っているか?」
「知らん」
「やっぱりか」と雪之丞はため息をついた。
「省略たぁなんでえ?」
「〈接全《せつぜん》〉、〈刳乱《こらん》〉とも呼ばれる。武芸の達人だけに使える流派を超えた奥儀だよ。その道を極めたものには、己の挙動、あるいは時と間合いを縮めることができる。生死を賭けた勝負では、たった一寸の間合いが明暗を分ける」
「そりゃそうだが。俺がその〈省略《せいりく》〉ってのを使ったのか」
「ああ、でなければ太陽と月が入れ替わってもあんたは奴を倒せはしない」
 言うじゃねえか。言ってくれるじゃねえか。そもそも俺は無謀な勝負に挑んだという自覚がない。破れかぶれだったのである。
「そんな大層な技を使ったというつもりはねえよ」
「しかし、それを見たことがあるのんじゃあないのか。絶え間ない修練の果てに、その域に達した剣術家は少なからずいる」
「そうか」
 思い当たることはある。俺はようやく父の強さの秘密に行き当たった思いであった。歳を経てなお尋常ならぬ強さを見せる父であった。天才と謳われた兄でさえ、いまだ足元にも及ばないのだ。そこには力や速さを超えた何かを疑うべきであった。
「そういうことかあの糞親父め。いつか見てろよ」
 俺は達人の達人たるゆえん、その片鱗を掴んだ気がした。

 雪之丞はひとり悪辣な笑みを湛える俺を冷えた眼差しで眺めつつ、こう言った。
「七人だ」
「ん? なんの話だ?」
「さきほど聞いただろう。露禅丹を調合するのに、何人分の屍礫が必要なのかと」
「ああ。そうだったな」
 さしもの俺はたじろいだ。あんな小さな丸薬を作るのに七人の屍礫が必要であるのならば、俺はほんの最前七人分の命を飲み込んだことになる。
「気にする必要はない。露禅丹になった時点で生き返る見込みはないんだ」
「だが、屍礫であった時点であれば‥‥」
「言っても埒のないことだ。調合したのはあんたじゃない」
 船は迷宮をゆっくりと滑っていく。船底は半ば腐っていてボロボロだ。気をつけろと乗船時に雪之丞は言った。この板子の下には異界の水が蟠っているという。
「――それに」と死から蘇った弓手は語を接いだ。「あんたは地上で人を喰らったのだろう。いまさら何を気に病むことがある」
「おまえは俺の素性を知ってるのかい」
「その彫り物とこいつを見れば察しがつくよ」
 腕に刻まれた罪人の刺青は罪状までを示すのであろうか。雪之丞は先ほど喜兵衛がひり出したあの精緻な写し絵を取り出して見せた。
「なんだこりゃ?」
 俺は息を飲んだ。先ほどと絵に違いがあったのである。巨獣の化石の前に佇む俺の姿が赤黒い炎に変じているのであった。見るに禍々しいその色合いはまさに俺の罪を赤裸々に語り明かすようであった。
「どんな仕組なのか、とんと見当がつかねえが、この紙にゃ、人の魂の色合いを写し取ることができるらしい」
「驚いたな、お前の身体は清清しく光ってやがるってのに。俺ときたらこんな忌まわしい姿になり果ててやがる。なんだいこりゃ喜兵衛よぉ」
 問うても無益なのはさすがの俺も学んでいる。機人の思惑など誰にもわかりはしないのである。
「ふん、だんまり喜兵衛め。ま、いいや。雪之丞や、おまえさんの言う通り、俺は人殺しのみならず人喰いの外道さ。畜生にも劣る虫けらかもしれぬ。そんな外道と同じ舟に乗ってる気分はどうでえ?」
「そのおぞましい趣味は生まれついてのものかい?」
「さぁな、改めて考えてみたこともねえ。物心つく前にゃ、そうじゃなかった気もするが、どうも記憶ってなぁ頼りにならねえ」
「はっきり言うぜ。あんたはいかれた人間だよ。迷宮の化け物どもとおっつかだ。それでもあんたは? だったら、おいらと違わねえ。おいらが身体は女でも、心は男なのと同じように、あんたもそう生まれついちまったのなら、そうであるほかねえさ。誰はばかるることはねえ。好きに生きて好きに野垂れ死ぬさ」
 驚いた。雪之丞より寄せられたのは、思いもかけぬ共感の言であった。
「ふん、妙なことを言いやがる。俺とおまえが同じだと?」
「たいした違いはねえとそう言ったんだ。おいらはおいら以外のものにゃなれねえ」
「おまえはなりたがってんだろ? 男の身体に。それはおまえ以外のものになるってことじゃねえのかい?」
「馬鹿だね。男の身体になりゃ、おいらは、よりおいら自身になれるのさ。決まってら」雪之丞からは鼻で笑うように言い放った。揺るがぬ確信は雪之丞の強さの源泉であろう。無暗にあげつらうのは忍びない。
「そうかい。勝手にしな」
 俺たちは詮なき討議を打ち切った。

 ――すると、またもや尋常ならぬ気配を俺たちは察知した。
 心安らう暇もない。迷宮において二度目の死地より舞い戻った俺だったが、日に何度も死にかける趣味はない。地上に戻るまでは、できるだけ面倒を避けたいものである。
「ふん、お出ましか」
「この舟に乗ってりゃ魔性のものにゃ襲われないんだろ?」
「ああ、あいつはこっちを襲う気はない。ただ、待ち構えているだけだ」
「なんだよありゃ?」俺は何度同じ問いを発したであろう。得体の知れぬ存在を理知の土俵の引き戻すいじましい努力をどれほど繰り返したであろう。
「大烏《おおがらす》だ」
 小舟の行く先には、黒々とした巨大なものが立ちはだかったいた。いや、立ちはだかってはいない。それはただ招き入れようとしていたのである。
「黒い、そしてなんてでかい鳥居だ」
 そうだ。伊勢の宮にあるような大鳥居が迷宮に出現したのである。ただし黒い。墨汁のように漆黒で表情がない。狛犬もいなければ、参道もない。ただ鳥居の奥には虹色の光が渦巻いている。
「あいつはなんだ?」

「すぐに舟を降りろ、あれは門だよ。あれを潜ったら最後、迷宮の深層に移し置かれる。須臾の間もあらばこそ、おいらたちは深層に投げ込まれ、地の底の鬼神の如き妖魔どもにひねり潰されることになる」
「するとありゃ距離を捻じ曲げちまうってのか?」
「ああ、行き先は迷宮に限るがな。五階層に現れることは稀だが、あれは階層に縛られていない数少ない妖物だ、どこに現れても不思議じゃない。あれ自体は無害だけど、その仕業はどんな魔物よりも性質が悪い」
「ってことは」
「ああ、三十六計逃げるが勝ちさ」
 言うが早いか俺たちは朧猪牙を乗り捨てた。

 見慣れた五階層の魔物ども蹴散らし、一目散に上階への階段を目指した。
「ん? 鳥居からなんか出てくるぞ」
「振り向くな。あれから出てくるのがなんであれ、おいらたちにとっちゃ楽しいものじゃない」
「だな」
 青面鬼の時のように気まぐれで強敵に噛みつく気はなかった。俺は地上に戻って人斬りの獣に返り咲くのだ。己の分限を超える相手にちょっかいを出すのは鬼畜の本能にも悖る。さっきはどうかしていたのだ。
 喜兵衛が俺の尻を叩いた。
 どうやらこのカラクリ野郎は涙ぐましくも俺を生かそうとしていると見える。
「ふん、おまえにもお天道様を拝ませてやっからな」
 俺は喜兵衛に向かって首を傾けた。
 するとどうであろう、なんと喜兵衛が笑ったのだ。
 そう、表情など作れるはずもない、文字通りの鉄面皮が、その時、俺には確かに笑ったように見えたのである
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