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序章

雪之丞

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 息を吹き返した屍者は、酩酊したようにデタラメなことを口走った。
 聞くに耐えぬ悪罵もあれば、懺悔に似た呟きもあった。

 ――ばうんすどっきぃれ、すげなけれどもいれるもんぬ。

 やがてひどい酔漢の如く呂律が回らなくなると、棒切れよろしく硬直したまま倒れた。口の端から泡を吹いている。素裸の上から着物を掛けてやりながら、廻鳳は「死んでいた時間が長いとこうなるのです」と苦笑した。復活の混乱から立ち直るのには時間がかかるという。

「大丈夫か?」
「ええ、たぶん」そう請け負うものの廻鳳の口ぶりはどこか確信を欠いた。
「こいつは誰なんだ?」
 白目を剥いたやせぎすの女を俺は失望に似た気持ちで見下ろした。こいつを味方に引き込んだところで戦力になるのであろうか。というより正気に戻るのか。

「弓手です。この人がいれば、迷宮での戦いに奥行きがでます。呪禁仕《じゅごんし》の呪法の間合いよりさらに広い間合いを手中に収めることができましょう」
「使い物になればな」
 己を棚に上げて、俺は言った。
「心配ございません。樋口さん、あなただって元気になったのですし」
 ふとした思いつきが過る。もしかしたら俺もこの女と同じく、迷宮で一度死んでいるのではなかろうか。廻鳳の術で蘇っただけの屍者ではないのか。この妄想には己の存在の奥底に爪を立てるが如き不快感があった。

「……おいらを侮るのか。おっさん」
 気付くと、らんらんと輝く女の瞳の、鋭い視線が俺の射抜いていた。

 どうやら意識がはっきりしてきたらしい。途中から俺たちの話を聞いていたようである。伏した姿勢から憤然と掴みかかろうとするのを、ひょいと俺は避けた。
「喧嘩っ早い女だな」
「おいらは女じゃねえ。支倉雪之丞。れっきとした侍だ」
 そう主張する女は、むくりと起き上がると「腹が減った」と朝餉を所望した。どうやら地上では今は朝らしい。迷宮の壁の湿り気や魔物の振舞いでおおよその時間がわかる、と廻鳳は言った。

 猪肉と半合の米を煮込んだものを雪之丞はガツガツと詰め込んだ。見ていて気持ちのいい食欲であるが、さっきまで死んでいた人間がこんなにもがっついて障りないのであろうか。俺は知らない。
「お雪さん、ゆっくり食べないと。また死にますよ」
 やはり死ぬのか。
「お雪って呼ぶな。おいらは雪之丞だ」
「はいはい」

 のちに聞いたところによると雪之丞は商家の長女であったが、幼き日から弓に魅せられ、女だてらに野山で獲物を狩ったという。女の身体であることを疎ましく思った雪之丞はある日、迷宮と虚空権現の噂を耳にしたのである。

「男になるってのか?」
「ああ、身も心もね。虚空権現なら叶えてくれるだろう?」
 死の飢えを満たした雪之丞は廻鳳に預けていた自分の弓をその手に取り戻すと腕が鳴るというように大きく背伸びをした。上背は俺を凌ぐほどに高い。さすがに首や腰はほっそりしていたが、しやなかなに引き締まった筋骨をしている。ざんばらの髪をかき上げると額に細い傷があった。

「おっさん、おいらが使い物になるかどうか試してみるかい?」
「錆びついてねえのかい」
「なぁ、おいらの等級は地虎だ。迷宮の地下二十階が主戦場だったんだ。ここいらの魔物なんざ相手になるかい」
「ではお手並み拝見といこうか‥‥待て。廻鳳、なんでもいい刀だ。刀を見繕ってくれ」

× × ×

 こうして俺はもう一度、迷宮に出たのである。
 廻鳳の小部屋の勝手口はうまく壁に偽装してあり、傍目にはそうとわからぬようになっている。魔物はもちろん探降者であってもそうと知らぬ者にとっては見つけるのは至難であろう。

 喜兵衛と雪之丞の間に俺が位置するように陣形を組んだ。
 喜兵衛が先人を切り、雪之丞は遠間から俺たちの頭越しに矢を射掛ける。俺はと言えば、雪之丞を近間の攻撃より守りながら、隙があれば前に出る、計略があるとすれば、そんなところだ。
「出たぞ、馬の足だ」
 天井から重みのある肉の塊が垂れてきた。見れば無数の馬。それも紐に吊るされたように足だけがぶら下がっており胴も頭も見えぬ。生き物の断片というものは、それだけ切り取られると何がなんだかわからぬものである。これも物の怪だという。
「不用意に近づけば蹴られるぞ」
 雪之丞が警戒を促した。なるほど、馬の足はちょうど人間の頭の高さあたりに浮遊している。駆けるように蠕動しているものあり、ぴんと硬直しているものあり、とただの馬の足といえども毛色が違う。そうそう毛色と言えば、葦毛あり栗毛ありと色もとりどりである。

 雪之丞の注意を聞いていないのか、喜兵衛が飛び出した。三本の腕にはそれぞれ五本の刃が仕込まれている。独楽のようにグルグルと胴を回転させ刃を振いながら突っ込んでいく。なで斬り喜兵衛の名は伊達ではない。あんなものに巻き込まれたらあっという間に肉片となってしまうであろう。
「あ、馬鹿」
 雪之丞は舌打ちをした。あ、馬鹿と俺も思った。
 喜兵衛の三本の腕より遠心力で繰り出される斬撃は、なるほど途轍もない速度と回転であった。それでも子供が眩暈を楽しむようにぐるぐると回るのと似て、上方から見れば隙だらけである。そして馬の足どもは、喜兵衛の腕の高さよりもずっと高いところぶら下がっていた。

 ――ガゴンッ!
 ――ゴンッ!
 ――ゴッ!

 喜兵衛の鍋底のような頭部は馬の足に散々に踏みつけられた。
 人間であれば、頭蓋が陥没し、すでに死んでいよう。さすがは機人である。あれほど蹴られても大過ないようだ。
 それでも思わず俺は喜兵衛を補佐せんと飛び出した。
「待て。おいらが射る。迷宮の心得その一だ。得手不得手をはき違えるな」
「ぬう」俺は血気を抑えて踏みとどまった。
「馬脚をあらわすというけどさ、足だけの馬を殺すには、やっぱり胴を狙うしかないんだ。しかし、やつの見えない胴は意想外の処にある」

 雪之丞を三本の矢を一度につがえた。

「樋口さん、あんたは弓馬の家に生まれた、しかも男子だ。おいらが心の底から欲しいものを全部持ってる。でもね、この迷宮じゃ、おいらは恥じることなく振舞える。戦える。身分も性の別もねえ。強いものが生き残るのさ」
 無造作に矢は放たれた。
 その軌道は流れるように迷宮の辻に向けてぐんぐんと進んでいく。馬の足が出現した場所とはまるで正反対の背中側である。

 ――ひぃぃぃぃぃいいいいいん。

 馬の嘶《いなな》きが聞こえた。
「いまだ、足を刈れ。胴体を射られた奴は、命の核を足の方へと移し替える。それを切れば仕舞いだ。面倒な手順だが、これが一番早いのさ」
 その正確無比な腕前はもちろんのこと、迷宮と魔物の知識に俺は恐れ入った。廻鳳といい雪之丞といい、がむしゃらに戦うのでは迷宮では生き残れないとはっきりと俺に教え示したのである。
「くたばれ、馬ども!」
 俺を喜兵衛を踏み台にして跳んだ。
 廻鳳が屍者より剥ぎ取ったというなまくら刀で一太刀浴びせると馬の足はぼとぼとと石床に落下した。回転をやめた喜兵衛がそのひとつひとつにトドメを差してゆく。すると別所に離れていた足と胴とが、一箇所に結合され可視の屍となった。

「こりゃあ」俺は眉をひそめた。 
 馬ではなかった。足だけは馬のものと見えたが、全身を眺め渡せば、そこに横たわっているのは異形の何かであった。獣の胴からは六本の足が生えていた。前後の向きすらわからぬどころか頭部もない。嘶きは肛門とおぼしき窪みから出ていたのであろうか。
「出鱈目だな」
「ああ、これが“馬の足”の正体だ。憶えておくといい。廻鳳が写した絵もある。部屋に戻ったら他の化け物の姿も学んでおけ」
「ふう、なあ、おまえはどうして見えない胴の位置がわかったのだ?」
「呼吸だな、馬の息遣いを聴いたのだ。それに臭い。あるいは見えぬものを見る視力。長く迷宮にいれば、そんな感覚も身につくものだ。文字通り生死の境を彷徨うたびに人は未知の感覚と出会う。あんたの小指を噛んでる蛇も見えるぜ」
 あの盗賊のひとりが、霊眼と呼んだ能力のことであろう。俺は自分の小指に眼を凝らす、うっすらとモヤのような輪郭が見えるがいまは蛇の姿をはっきりと捕えることができぬ。しばらく続けると頭が割れるように痛んだ。
「はぁ、やめだやめだ。すぐには無理だ」
 わずかな時間の戦いであったが、ひどく疲弊してしまう。
 人間相手とは根本的に違う、得体の知れない習性を持つ敵と相対するのは、とんでもなく精神を酷使するのである。

「おいらが役立たずかどうか、これでわかったろ?」
 雪之丞が胸を張って言い募る。
「ああ、おまえは強いな」
「ふん、わかりゃいいのさ」
 不愛想を決め込もうとしたのだろうが、微妙に口元が綻んでしまう。誉められると嬉しさを隠せないであろう。実力はともかくまだまだ若い。
「では、雪之丞。おまえの仲間はどうしたのだ?」
「さあね」雪之丞の顔が曇る。
「おまえの屍体を見捨てたのか。蘇生には金がかかるというが、心の通った同志というわけではなかったのだな」
「ああ、そんな親密な伍は珍しいよ。大抵が即席の面子さ。まぁ迷宮深部にまで潜れるような連中は阿吽の呼吸を身に着けてるから、一朝一夕の仲間ではないだろうけれど、ほとんどの伍は大枚はたいて仲間を救うような濃い関係ではない」
「なるほど」
「でも、逆に言えば、背中を預けられる仲間がいるってのは、探降者の最高の強味だよ」
 少しだけ口惜しそうに雪之丞は言った。

× × ×

 それからも俺は迷宮で己を鍛えた。
 雪之丞と喜兵衛との連携も幾分か達者になったろう。少なくとも嬲り殺しになって半死半生の目に合うようなことはなくなった。俺たちは日に何度か魔物を狩っては廻鳳の隠し部屋に戻った。地下五階で戦ったのは、どでかい蝙蝠やら琵琶法師に化けた狸やら小鬼どもだった。それぞれに弱点と長所があり、それを熟知しておればよほどのことがない限り遅れを取ることはない。

 猪突猛進に見えた喜兵衛にも幾つかの攻撃の型があることが判明した。敵の特性に合わせて指示を出してやれば、忠実に動いてくれるので重宝する。化け物の中には屠った後に財物を残すものもあった。価値のないガラクタも多かったが、変わり者の廻鳳はそれらを喜んだ。俺たちは宿賃と食費のかわりになるたけ戦利品を持ち帰ってやった。
「収奪仕でなくとも、多少は道具や物の目利きできるようになっておくべきでしょう。武器や装身具は呪われているものもありますから解呪ができないうちは無暗に拾わないほうがいいですね」
「なんとなくヤバイものはわかるぜ」
「あなたの器量を上回る呪物は、あなたを魅了して感覚を麻痺させることもあります。己を恃《たの》みすぎてはなりませぬ。やはり本物の収奪仕がいるといいのですが」

 俺たちの伍はわずか三名。うち職能を授かっているのは弓仕である雪之丞だけである。あとは機人と罪人とくれば、探降者というよりも魔物と見られても不思議ではなかろう。げんに雪之丞は、探降者にふいに攻撃された時の心構えを説いた。
「探降者の中にゃ滅法血の気が多いのもいる。気をつけな。人も化け物も見境なしに殺したくて迷宮に潜ってるのもいる。そんなのに当たったら厄介だ。とりわけそいつが実力者だった場合はね」
 ふん、思いつかなかったが、確かにそうだ。
 この迷宮でなら、人を斬ってもお咎めはない。奉行の眼の届かぬ無法地帯なのである。俺とご同類の人殺しが潜っていてもおかしくはない。地上では澄ました顔をして暮らしていながら、迷宮では獣のごとく振舞っている者もいるかもしれぬ。人の皮を被った獣。俺のような人間が潜むには、迷宮とはうってつけの場所なのである。

 柄にもなく雪之丞のやつが苦虫を噛み潰したような顔をしているので、
「おい、まさかおまえの伍を全滅させたってのは?」
 と疑念を投げてみれば、雪之丞、ますます深刻な面持ちになった。
「ああ、魔物じゃないよ。いかれた野郎さ」
「迷宮の中層まで潜れるおまえたちの伍を全滅させたとなると、そいつらは相当な手練れだったのだろうな」
「――違う。じゃあない」雪之丞は感情なく呟いた。「だ。奴は伍を組まぬ単独行だった。つまりおいらたちはさ、たったひとりに全滅させられたのさ」
 俺は顔色を失って物言わぬ喜兵衛と見つめ合った。
 廻鳳は、そんなことは日常茶飯事だとでも言うように動じておらぬ。迷宮とは化け物が住まうだけでなく、人を化け物に変えてしまう場所であるらしい。とっとと抜け出すのにしくはない。しかし、この時の俺はまだ知る由もなかったけれど、迷宮に潜む魔人との邂逅はほど近い未来に迫っていたのである。

 日課となっている喜兵衛の手入れのあと、廻鳳は言った。
「そろそろここを出る潮時でしょう。樋口さんも随分強くなりました」
「そうか。あまり自覚はねえが」
 筋骨逞しくなった気はしない。が、膂力は増していた。魔物を屠るたびにそこから放出される精気や陰の気が己の五体に流れ込んでくる。それが先天的な己の気血と混じり合って身体と精神を強化してくれる。それにつれて次第に敵の動きの兆しが察知できるようにはなっていたのである。
「もう十分でしょう。地下六階でも問題なく戦えるでしょう。基本の生態はこの階と変わりません。一部、五階では見かけぬ魔物や仕掛けがありますが、喜兵衛と雪之丞さんがいれば屍体となって戻ってくることはないでしょう。ふふ」

 厭な冗談である。
 迷宮での死は復活の機会があるとしても、あまり歓迎したいものではない。骸袋に放り込まれたり、屍礫になったりするのは御免被りたい。
「では、一丁やるか。さすがの俺もお天道様が恋しくなってきやがったぜ」
「もし地上に戻ったら麟堂様をお訪ねくださいませ。喜兵衛の身柄も麟堂様にお任せすれば悪いようにはなりませぬ。わたくしからもよろしくとお伝えくだされば嬉しく思います」
「わかったぜ、そのくらいならお安い御用だ」
 俺は気安く請け負ったが、江戸は大火に見舞われたことを廻鳳も雪之丞も知らぬのである。麟堂という学者が無事なのかどうか甚だ心もとないが……。
「では、世話になったな。廻鳳。達者でな!」
「おいらはまた戻ってくるからさ。土産期待しててよ!」
 喜兵衛は別れの舞いを捧げた。
 俺と雪之丞は一寸たりとも感銘を受けなかったが、付き合いの長い廻鳳は涙ぐんでいた。強い絆のなせるわざであろう。

 而《しか》して俺たちは地下五階をあとにして、さらなる深みに足を踏み入れたのであった。

 
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