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序章
骸袋
しおりを挟む俺は三日と三晩を廻鳳《えほう》の小部屋で過ごした。
そもそも迷宮では昼夜の区別はつかぬ。時折、飛頭蛮のけたたましい喚き声が届いてくるのが、なんとも気色悪い。他にも無数の魑魅魍魎どもの足音やら息遣いやらが四六時中不快な旋律を奏でている。まったく厭な場所である。
二日目からは起き上がって部屋をうろうろと徘徊できるほど活力を取り戻したのだったが、迷宮に出るなどはもってのほか。そもそも俺の心のどこかに小動物の如き弱気が芽生えていたのだから出ようとも思わない。
「あっという間に傷を癒す秘薬もあるのですが、この度はできるだけ自然な恢復を待ちましょう」
「そんなものがあるのか? さぞかし貴重なものなのだろうな」
あつかましい俺もそんな便利なものがあるのなら使ってくれとは言えぬ。
「ええ、露禅丹は迷宮にて急を要する場合に使うものです。それにあまり気持ちのいいものでもありませんし」
話好きの廻鳳にしては珍しく言い淀んでいる。ぽってりとした下膨れの頬が可愛らしい。どうやら俺の殺害衝動も休眠中のようだ。殺意とないまぜになったいつもの劣情を廻鳳に催すことはついぞなかった。
「ふーん、よくわからんが文句は言わん」
「ええ、経過は順調です。まもなく支障なく動けるようになりましょう」
「しかし、ひとりで迷宮に出るのは自殺行為とおまえは教えてくれたではないか。どのように地上に戻ればいいのか。できれば速やかに上を目指したいのだが」
「いいえ、あなたは一度降りねばなりません」
「なんだと」
ただならぬ衝撃である。なぜ地上を目指すのに降下せねばならぬのか。詰まらぬ禅問答を突きつけられているようで腹立たしい。
「面妖なことを言う。迷宮とは階下に降りるほどに性悪で強力な魔物がおると聞く。地下五階層でもこの様だ。下なんぞに降りたら骨も残らねえ」
「はい。これをご覧ください」
廻鳳が引っ張り出したのは迷宮の地図であった。上等な紙に薄墨で格子上の升目が引いてある。その升目に朱で迷宮の壁とおぼしき線が縦横に伸びていた。
「地下五階は二つの区画に断ち割られておりますれば、地下四階への階段のある隣の区画へは一度地下六階へ降りねば立ち入れません」
なんと上への階段がある区画は、俺のいる区画と聯絡《れんらく》が途絶しているという。構造上、一度下へ降りたのちでなければ上がれぬという仕組みである。地図をよくよく眺めてみれば何もかもが飲み込めた。地下牢と通じている区画はいくら彷徨えど上への道などなかったのである。闇雲に上を目指そうとすれば、絶対に出られない仕組みである。
「獄吏の餓鬼め。生きて娑婆に戻りたいのなら、上へ上へひたすら目指せとうそぶきやがった」
「そのように彼らは罪人を弄ぶのです」
「鼬小僧も教えてはくれなかった」
「樋口様、よろしいですか。迷宮には親切もお為ごかしもありませぬ。信じられるのは己のみと申せましょう」
おまえのようなお人好しもいるではないか、と俺は言いかけたところ、廻鳳は返答に詰まる。気まずい沈黙である。
「もしや、何か俺にやらせようとしているのか?」
「……申し訳ありません。弱みに付け込むような真似をしてしまって。ええ、できればお願いがあるのです」
「ふん、言うだけ言ってみろい」
「喜兵衛を地上に連れていって欲しいのです。お話したとおり、機人はすべからく地上を目指します。蛾が燈明に集うが如く、機人たちはお天道様を拝みたがっているのです」
「ふうむ、ではなぜ喜兵衛はここへ留まる?」
「おそらく」と廻鳳はカラクリの喜兵衛に温和な視線を注ぐ。「カラクリのくせに義理やら恩情やら人並みの感情を知ったせいでしょう。迷宮で貴方が拾ったように喜兵衛もわたくしに拾われたのでございます。爾来、わたくしに付き添うように暮らすこととなりました。しかし機人の本分は地上を目指すことです」
「ふむ、カラクリが人に義理立てしていると?」
「おそらく」
廻鳳もまた喜兵衛との暮らしに慰めを得ていたのであろう、どこか寂しげであった。喜兵衛の方ではそれとわかる反応は見せぬが、どこか照れた気配がせぬでもない。胴体から突き出た三本の腕をくるくると回転させた。車輪もないのに転がるように歩くのが不思議である。
「ものを頼んでおきながら無礼な言い草ですが、喜兵衛を同道させることは樋口様にとっても都合がよいはず。ひとりよりふたり、です」
「引き受けよう。なにしろ命を救われたのだからな。おまえにもな喜兵衛」
俺が澄んだ双眸を向けた途端、喜兵衛の動きはぴたりと止まった。この野郎め。
「ありがとうございます」廻鳳がとりなすように述べた。
「ああ、で、どうすりゃいい? 一度下へ下がってそれからもう一度上っていけばいいんだろ」
「迷宮の地理は喜兵衛の頭の入っております。しかし、喜兵衛と貴方ではまだ頭数が少なすぎます。伍を組むとは申しませんが、せめてあとひとり欲しいところ。さらに言うならば貴方にはもう少し強くなって頂かねばならないでしょう」
「ちっ、腹立たしいが、力不足なのは否めぬ。強くなるのに異存はねえ、とはいえ人間なんざ、そう簡単に強くなれるもんでもねえだろう」
我ながらもっともな言い分であったが、廻鳳は立てた指を軽やかに振った。
「地上でならそうでしょう。しかしここは迷宮であります。あらゆる意味において娑婆世界とは異なります。ここでは人は飛躍的に強くなります。筋骨が養われ、五体の発条《ばね》が利くようになるといっただけではありませぬ。そうですね、説明が難しいのですが、物事の勘所、武術で言えば秘伝のごときものが、閃きのように訪れるといえばいいか」
「確かにここにゃ得体の知れない気が漲ってやがる」
「麟堂先生は力場と仰います。天啓のごとき閃きは何も武術家だけに訪れるのではありません、わたくしのような学者にもそれはやってまいります。ここは地獄ではありますが、求めるものにとってそれ以上のものといえましょう」
つまりはこういうことだ。
迷宮では地上で得られぬ妙想が得られる、それゆえあれこれの方面より閃きを求めて人が集うのだ。職人や芸人も危険の少ない表層になら参詣に訪れる。念仏宗の者などは迷宮で死ねば浄土へ生まれ変わると信じて大挙してくるという。
「ふむ、まさしくここは地獄にして浄土というわけか」
「この迷宮で三日、己を鍛えるのなら、まるで別人となりましょう。しかし、最前も言ったとおりいまのままでは死ぬます。どうしたものか」
ジッと考え込む廻鳳の横顔はどことなくひょっとこに似ている。
「なぁ」と俺はずっと聞きたかったことをついに口にした。「壁にかかってる妙な袋はなんだい? えらく禍々しい雰囲気だぜ」
すると廻鳳は、「ああ、その手があったか」と手を叩いた。
なにやら思いついたらしいが、奇人の奇人たるゆえんは何事も独り合点で満足してしまうところである。
「ん?」俺もまたひょっとこ顔になった。
「これは骸袋《むくろぶくろ》です」
「骸袋」俺は阿保のように繰り返した。
「ええ、迷宮で亡くなった者は、ある術式を使えば蘇ることができます。屍のひどく損なわれていない場合に限りますが」
「おいおい。そりゃあどうも怪しいぜ」
虚空権現にまつわる御伽噺に続いて死者の復活とは、伴天連《ばてれん》の救世主じゃあるまいし。
「本当です」きっぱりと廻鳳は言い切った。「ただし、迷宮で死んだ者は迷宮の中でしか蘇りはしません。一度地上に出したり、また地上で死んだ者を迷宮に運びいれても無駄です。息を吹き返すのは、迷宮で死んだものを迷宮で処置した場合のみ」
「そいつも例の力場ってやつか」
「ええ」廻鳳は神妙に頷いた。「ただし、伍の成員に反魂の術式を使えるものがいなかった場合はどうでしょうか? 死した仲間を地上に連れていけば復活は望めなくなります。さりとて迷宮に置き去りにすれば、魔物に食い荒らされるか、不浄の霊に乗っ取られて屍鬼となり果てるが落ち」
「そうか、ここは――」
「ええ、屍体預り処というわけです。わたくしはここで伍から預かった屍体を保管しておるのです。ですから、この袋の中身はすべて人間の骸です」
「おいおい。するってぇと俺は三日三晩もここで屍と暮らしてたってわけかい? ぞっとしねえな」
「死にぞこないの罪人に贅沢は禁物」
「まあよ」近頃、廻鳳は心なしか俺にずけずけと物を言うようになった気がする。
「預り処とはいえ、場所も限られております。一方、屍体を任せたい者は多い。薄情ではありましょうが掛け金が未払いになれば、その屍体は迷宮に放棄するほかありません。また術式の効力にも限界があります。いずれ復活か死かと選ぶ時がまいります」
人斬りの俺が言うのもなんだが、物凄い話になってきた。死者を蘇らせるとは背徳の極みである。
「思い出したのです。この度一体の屍体が引き取り手もなく術の効果も切れると。それを蘇らせてみましょう」
「おまえそんな術が使えるのか?」
「麟堂先生の置いてくださった符があります。これを使えば術と同じ効果が得られるのです。骸袋も反魂符も麟堂先生の天才をしてならしめた発明です」
「もしや、それを俺にあてがうのか? 蘇った者を?」
廻鳳はふんわりと肯った。
機人と蘇った死人、そして人斬りの罪人とで迷宮に挑む、か。
「それもまた一興」
こうなれば破れかぶれである。犬でも猿でもお供は多い方がいいのは、かの吉備津彦の物語が教えてくれている。
「失敗はないのかい?」
一応、訊いておいて損はない。俺はその時を遠ざけるように言葉を紡ぐ。
「はい。しくじることもございます。もとより術者の腕というよりも運不運の問題であると麟堂様は仰っておりましたが」
「するとどうなる」
「蘇生に失敗した屍体は屍礫《しれき》と呼ばれる石粒になり果てます。いまだ蘇生の可能性は残っておりますものの、こうなったからには著しく成功の目は薄くなります。二度蘇生をしくじれば屍体は本当に消滅するのみならず、その魂は迷宮に永久に繋がれてしまうとも言われています」
「なんだよ、極楽浄土へ行けるのじゃないのか」
「さて、さて。真実や如何に」
ゆくりなく廻鳳の口元は笑みに似たものを形作った。
「さきほど話に出ました露禅丹」
傷を瞬く間に癒すという秘薬のことであったか。
「あれの原料はこの屍礫でございます」
「――?」理解に時間がかかった。やがて冷え冷えとしたものが背筋を上ってくる。迷宮の冷気だけではあるまい。廻鳳にもらった厚手の襦袢は寒さを幾分和らげてくれていたのにも関わらず、俺は小さく震えた。
「そうかい――」
――だから廻鳳は使用を躊躇ったのだ。それはまさしく人の命そのものだから。
「またそれは、見捨てられた命でもあります。二度目の蘇生を試すことなく、薬の材料にされてしまった屍礫なのですから」
「そりゃ確かに気持ちのいい話じゃないな。ところで、おまえも露禅丹を作るのかい?」
廻鳳は答えに窮することはなかったが、二つほど呼吸を置いた。
「ええ、保管に耐えなくなった屍体は廃棄することもあれば、屍礫にすることもあります。迷宮に打ち捨てるよりは薬になったほうが屍者も浮かばれましょう。屍礫より調合した露禅丹は地上でも効果を発揮します。商人たちはこぞってこれを求めます。買い手はいくらでもいるのですから」
「地上の奴らは薬の由来をご存知なのかい?」
「もちろん」廻鳳は背中を向けて、壁から骸袋をひとつ下ろす。その背中からは幾分の後ろめたさが感じられた。「知らぬが仏。でしょう?」
小刀でカマキリの卵、その集合に似た袋を裂いてゆく。
どろりと粘っこい液体が溢れた。泥炭を薄めたような色である。不思議と臭いはしなかったが、触れてみようとは思わない代物だった。廻鳳は革の手袋をして、躊躇いなく裂け目に手を突っ込むのである。俺は吐き気を催した。
「さぁ、出しますよ」
ずるり、と引っ張り出されたのは裸体の女であった。
廻鳳ほどではないが、まだ若い。女の胸の膨らみは俺の記憶を刺激した。この手にかけた女たちの白い肌を思い出す。赤い唇とひかがみの翳。
「さて」
仰向けにした女の身体の三つの部位、印堂、壇中、丹田それぞれに符を貼ると、廻鳳は短い呪言を詠じた。どこか物悲しい節回しがついていたが、決して嫌いな響きではない。
俺は固唾を飲んで見守った。
冥府より人が蘇るのである。これほど恐ろしくも甘美な光景もあるまい。限りなく淫靡でもある。俺は股間のものが固くなるのを抑えきれなかった。
「わたくしもこれをはじめて見た時は、おかしくなりそうでした」
屍《かばね》は、たなびく紫の輝きに包まれる。紗のような光はやがて屍の肌に吸い込まれて、一瞬だけ全身を硝子細工の如く透かした。
「どうやら成功したようです」
蘇ったのか。いや、そうは見えぬ。その顔は相変わらず蝋のごとく白いままである。冷え切った迷宮に抗する温もりがその身に宿るとは思えぬ。
――こりゃ駄目だったんじゃねえのかい。
そう口にしかけた時であった。
だしぬけに屍体だったものの指先がぴくりと動いたのである。
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