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序章

約定

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 ひどく長く感じられた暗がりの傾斜路を抜けると、俺たちは大きな広間へと転がり出た。地下牢と変わらぬ気温であったが、それにしても一層寒々しく感じるのは漂う空気の不穏さによるものであろう。岩盤をこのように切り抜く技術は江戸はもちろんこの国のどこにもあるまい。禍々しい瘴気さえなかったら素直に感心していられたかもしれぬ。大江戸を往来する百万の民草の足元に、このような巨大な構造を埋もれているのだ、驚きに堪えぬ。

「ここが大迷宮かい。つっ痛ぇや」
 勢いよく打ちつけた尻をさすることさえできぬのは難儀である。手枷があっては受け身もままならぬ。滑り坂の勾配はあまりに急で上って戻ることはできそうもない。

 ――さて、と。

 あの獄吏は確か、地下五階層と述べていたはずであった。随分を深く降りてきた気がしたが――最深部は地下五十五階と言われる迷宮である。地下五層などは娑婆の臭いのするほんの表層に過ぎない。鼬小僧も存外に落ち着いた様子であたりの気配を探っている。

「ここが俺たちの死に場所ってわけか」
「馬鹿言うねえ、あんたの死に場所であってもあたしのではないよ」
 ますます妙だ。どうやらこいつはここでくたばる気は些かもないらしい。
 ハッと気合を掛けると鼬の手枷が外れた。
「解錠術かい、するってぇとあんた収奪仕《しゅうだつし》か」
 俺が問えば、
「まあね。あんたと違って潜るのだってお初じゃねえのよ」

 なんと心強い盗人であろうか。右も左もわからぬ俺と違って迷宮のあれこれを心得ているという。収奪仕とは公儀が定めた職能のひとつであり、迷宮より未知の宝やら薬草やらカラクリ部品を持ち帰るなんてのを得意としてる。盗人とは相性のいい職能であろう。なぁなぁなぁ、と俺は持ち掛けた。
「俺の手枷も外してくれねえか。ひとりよりふたりの方が心強いってもんだ」
 言い終わるが早いか頭に火花が散った。口の中には血の味だ。殴られたのは間違いなさそうだが、とんと理由がわからねえ。
「さっきの獄吏にやられた分だ。あんたの舌禍の巻き添えになったのでな。それに生憎、連れは間に合ってるんでね。あんたは人喰いの外道に相応しくここで果つるがいいさ」

 口ぶりは穏当なままであったが、地下牢にいた頃と鼬小僧の態度はガラリと変わっていた。まさしく鼬さながらの顔つきをした盗人の双眸は酷薄さを宿した。こちらが本性であったのだろう。

 迷宮の底冷えがなけなしの体温を奪っていく。鼬は、勢いよく指笛を吹いた。すると驚いたことに四方から人影が参集してくるではないか。
「ななななな?!」俺はがたがた震えながら開いた口が塞がらない。
 ざっと数えてみれば四人の男女が集っておる。しかも、その誰もが鼬小僧の仲間らしいのである。
「頭《かしら》、ご無事ですか」
「ああ、獄の不味い飯にゃほとほと愛想が尽きたがね」
 言いながら、鼬のやつは手下らしい面々にかいがいしく襦袢やら帷子やらを着せてもらっている。さきほどまでの窮状からすればほくほくの待遇であった。

(なるほど、こいつが鼬小僧の余裕の理由だったか)

 放逐刑にされたのちに仲間に救助されることをあらかじめ按配してあったのだ。さすが天下を騒がす大泥棒である。抜け目がない。
「なんでも付け火があったとか」
「さすがお頭、耳が早えや。俺たちの巣のいくつかが焼けちまいました」
「隠しておいたお宝はどうでい?」
「それが、多くが焼けちまった。なんとか他所へ運び出せたものもありますが。面目ねぇ。それに月彦と恋の字が……」
 仲間が火に巻かれて死んだのだろう。ただでさえ薄暗い迷宮で鼬の顔がさらに暗くなった。
「ご苦労だったな。よし、まずはここを出ようじゃねえか。これからの算段もやつらの弔いもその後だ」
「よし、そうと決まれば善は急げ‥‥ん? こいつは?」
 ようやく手下のひとりが俺の存在を認めた。
「放っておけ、女子供もバラして喰らうという鬼畜さ。次はてめえが、この迷宮の餌になる番さ」

 そうして無情にも盗賊どもは俺を置き去りにして去っていこうとした。
「待て、待て、待て! 待っとくれ!」
 俺は力の限り叫んだ。
「やめな。声を上げないで。魔物が寄って来る」
 そう言ったのは女盗賊である。頭巾で顔は見えないが美しい眼をしていた。縦にすぼまる瞳孔を見るに猫目らしい。夜目の利く猫目を隊伍に入れるのは迷宮探索の常道である。ほっそりとしなやかな身体の線も隠しようがない。
「見たところ剣を使う者はいなさそうだ。だったらなおさら俺を連れていけ。役に立つぜ」
「剣術《やっとう》が自慢かい。だが、人間相手の剣では間に合わないのさ。ここは人外の巷だからな。それに素人のおまえさんより、ここでの立ち回り方は知っている。諦めろ」とすげなく女盗賊は却下する。
「なぁ、この手枷だけは外してくれねえか。そうしねえと死んじまう。わかるんだ、ここがやばい場所だってな」

 俺の直観がそう告げていた。江戸に迷宮が出現した。そんなことは子供でも知っている。しかしてその本当の意味を知っているものがどれだけいようか。ただでさえ危難の時代である。物の怪や神通力を秘めたお宝が詰まった迷宮などと喧伝されたとて所詮は見世物、まともに取り合うべきではない。そのように考えられてきた。

(しかし、こりゃ子供騙しなんかじゃねえ。とんでもねえ代物だ)
 この時、俺は我知らず迷宮に魅入られたのだ。絶大な恐怖とともに殺しに比肩するほどの興奮の種火が肚の底に点じられた。

(とにかく、まずは生き延びることが先決だ。この盗人連中がひとまず俺の命綱というわけか)

 生来不遜な俺だったが、できるだけ下手に出てみた。

「ここにこのまま取り残されたら、確実に俺は死ぬ。後生だ。助けてくれ」
「まさしく、あんたは死ぬだろうさ。でもそうやって命乞いをした者をあんたはどれだけ斬り捨てた? それだけじゃない、殺したそいつらを喰らったんだろ?」
 きちがいの外道め、獣め、と盗賊たちが囁く声が聞こえる。駄目だ。取り付く島もない。あっという間に俺の殊勝な態度は剥がれ落ちた。
「ああ」と怯まずに俺は肯った。「それのどこがいけねえ?」
 鼬の眼光を睨み返すには胆力が要った。この男は相当の修羅場をくぐってきている。その経験の多くはおそらくこの迷宮で培われたものであろう。

 睨み合うこと数瞬、穢れを忌むように鼬は言った。
「よし、手枷だけは外してやろう。もし、生きて地上に戻った暁には、あんたはあたしらに三十万両を返しにおいで。逃げたら殺すよ」
「縛めを解くだけで?」どえらい大金ふっかけるじゃあないか。
「馬鹿、命の価《あたい》だよ、見誤っちゃいけねえ」
 否も応もない。鼬の提案を飲むしか選べる方途がないのである。借金が払えなくて殺されるにしても、ここでくたばるよりかはなんぼかマシだ。それに地上に出ちまえば、こっちに分がある。こんな盗人どもの借金など平気の平左で踏み倒してやろう。文句があるなら殺しちまえばいい。
「あんたよからぬことを考えてないかい?」
「んなことないさ」

 お世辞にも俺は嘘がうまいとは言えぬ。ふるふると首を振る仕草が我ながら胡散臭い。
「悪いが、あんたは信用できない。呪《しゅ》をかけさせてもらう」
 のそりと出てきたのは頭巾の上からでもわかる西瓜頭だ。江戸の世にゃ人と猫目と瓜頭の三つの種族が住まわってるが、呪禁仕《じゅごんし》に一番向いてるのが瓜頭の連中である。蔬菜《そさい》とそっくりな頭してるくせしてこと呪法になると人や猫目を凌ぐ適性があるのだから侮れぬ。
「薊野《あざみの》。この男が生還して三日以内に顔を出さなければ血を吐かせろ。さらに金を踏み倒そうとすれば頓死させろ」
 通常は、このような約定を強制することは、いくら優秀な呪禁仕《じゅごんし》であろうと不可能であった。しかし、本人もそれに同意するならば呪は確実に効力を発揮する。しかも、この状況では約定に同意するほかはない。
「頭《かしら》の条件を飲むか?」
 薊野という西瓜野郎が重々しく訊ねた。

 俺は苦渋を決断を迫られたが、答えは決まっている。
「ああ、わかったよ。俺はおまえらから逃げない。そして金を払う務めがある」
「うむ」
 西瓜は中空にツタの絡まった指を滑らせた。
 淡い燐光を発する文字が浮かんだ。漢字に似ているが違う。西夏文字である。王道である八卦呪法ではなく、タングート系の呪法を修めているらしい。
「なんだ?」
 左手の小指に這い上がってくる気配がある。眼を凝らすとそこに青白い蛇の姿が見えた。
「蛇に巻き付かれてる?」
「ほう視えるか? 霊眼が多少開けているらしい。時機も適っている。迷宮で力を開花させるならば、脱出もあながち‥‥」

 もういい、と鼬が会話を断ち切った。
「では、運がよければまた会おう、人喰いさんよ」
 飄々とした笑みを残して盗賊はあっという間に消えてしまった。

 ――独りだ。
 冷え冷えとしたものがこみ上げてくる。小指の爪がぴしりと割れるのと同時に手枷が弾け飛んだ。ようやく両の手が自由になった。それでも命を繋ぐ可能性が微量に上がったに過ぎぬ。この身はまだ裸同然だし、腹も減っている。地下五階層ほどの浅い層であれば幕府が作製した地図が売りに出されているはずであった。しかし獄に入っていた俺にそんな贅沢な代物があるはずがない。

「糞っ! 笑っちまうほどのどん詰まりだぜ。無手で迷宮を彷徨うかよ」
 拳闘仕の職能を授かっていれば、素手で戦うことができたかもしれなかった。しかし剣術家が刀無しではまさに形無しといったところか。

(我ながらつまらねえ冗談だ。ヤキが回ったな)

 などとひとりごちた時、迷宮内に悲鳴が轟いた。
 瞬時に俺は声の方向に足を向けた。迷宮にはそれとわかる光源はない。石壁ではなく空間そのものが薄ぼんやりと光っているのだ。これを阿弥陀仏の異称にちなんで不可思議光と呼ぶらしいが、この時の俺はまだそんなことは知らぬ。

 ――ひゃぁあああああああああああ!

 またもや悲鳴、あるいは断末魔。

 ともかく人がいるところへ行くべきだ。そいつから衣服や武器を奪う必要がある。助ける気などない。死んでいてくれれば、なお結構である。

 ――ぬぃぁああああああああああああ!

 絶叫が重なっていく。どうもおかしいと俺は嫌な予感がした。
 人間が上げる悲鳴にしては声量の上がり方が不自然だ。まるで物凄い速度で叫び声そのものが接近していくるように思える。

 ごおぉという風切り音が、そこに混じった。
 ここへ来て俺は声の主が人間ではないと悟っていた。

(飛頭蛮!)

 迷宮の奥より、三つの物体が飛来する。それは首であった。胴体から抜けた首が喚き散らしながら矢のように飛んでくる。ものの本でしかお目にかかったことのない物の怪。面妖なことこの上ない。背を向けて逃げるのは悪手である。あの速度ではすぐに追いつかれて隙だらけの五体を差し出す羽目となろう。

 ならば、と俺は覚悟を決めた。

 このまま突き進み、足元を滑り抜ける。入れ違った奴らが方向を転じる間にどこかに身を潜めるなり、振り切るなりすればいい。ともかく真正面から戦うという選択はなかろう。それは犬死というものだ。

 ――だが、結局、俺は進むも退くもできなかったのである。
 床から、ぬうと伸びた手に足首を掴まれたのだ。
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