疾走する玉座

十三不塔

文字の大きさ
上 下
52 / 58
第五章 星火燎原

手を見る人々

しおりを挟む



 ハイドラの内壁を登攀するのは、至難の業だった。

 天を仰ぐ首を出口とするのなら、外界へ出るためには、まさに尖塔を素手で登るほどの苦労が伴うはずだった。

 にもかかわらず、三人は内壁の凹凸を手がかりに物凄い速さで進んでいった。登攀は不可能に近いというのは普通の人間の話だ。変成した三人には常人ならざる体力がもたらされた。重心を巧み操る術は、集合意識に格納された山岳民族の登攀技術を速習したものだ。構造の脆い部分、堅固な部分を瞬時に判断する眼もあった。

「わかったぞ、この旅が何も得られなかった虚しい旅じゃなかったってことが」
「我々は人類の叡知の結晶となったわけか」
「ああ、俺らは多くの可能性にまたがる存在になっちまった」

 二番目の胃壁をよじ登りながらスタンは嘆じた。ハイドラには三つの胃が存在した。

「これ以上の報酬はないと言ってもいいかもしんないな」
「でも、これが欲しかったわけじゃない。そうだろう?」レイゼルは皆の気持ちを代弁した。少なくとも漁師であるスタンには身に過ぎた力だ。船を漕ぎ、魚を獲る日々には必要がないだろう。

 シェストラ王国を正す、ただそれを願ってきたベイリーにとっても新たな力はどこか空恐ろしいものがあった。三人の内でベイリーだけが口数少なく、黙々と壁に面した。

「最後の胃だ」

 ようやく行き着いた広い空間、その先は長い食道を登ることになる。崩壊と沈下が進行する水晶の骸から脱出するためには休むことはできない。しかし、そこには彼らの足を止めるものが散在していた。

「ミレハ、ネロ、ワイム!」

 レイゼルは横たわる犬たちに駆け寄った。半ば機械化した犬たちでも、ハイドラの胃の中では生存できなかったらしい。こうして出立の時に引きつれた姉妹たちはすべて失われた。レイゼルの橇を引く犬はもういない。レイゼルは犬たちの屍に手を当てる。その手から薄い燐光が放たれた。

「無理だ。レイゼル姐さん。生き返りはしない」

 摂化力《ゾーナム》を正しく流通させれば、それは癒しの力となる。ナドアの女たちはそれを得意としていたし、ヴェローナも幼き日に歪められなければ、素晴らしい治療者となっていただろう。変成の器、すなわち玉座の力は、レイゼルたちに白と黒の摂化力《ゾーナム》の使い方を習得させた。まるでその存在を忘れていた三本目の腕の使い方を思い出したような感覚だった。

「わかるはずだ。死んだ者への執着は、摂化力を反転させる。黒の摂化力は癒しではなく反魂《はんごん》となる」

「ああ」聞き分けよくレイゼルは手を引いた。愛しい姉妹たちを屍食鬼にする気はなかった。安らかに天に召されること、ただそれだけを願った。

「こっちの女の人は亡くなってから時間が経ってる」

 スタンは死に装束に花の首飾りをかけられた女を見下ろした。腐敗はさほど進んでいないが、水をたっぷりと吸って膨れ上がっている。

 女の顔をじっくりと見分したのち、ベイリーは黙祷した。

「彼女はウルスラ。ルードウィンの秘書官だったはず。残念だ」

 夥しい死また死。

 ベイリーは、もしかしたら自分たちも一度死んだのではないかと考える。玉座の力で蘇っただけの死者でないのかと。

「すまないが先に行ってくれないか。私はもう少し、ここに留まる」
「そうか、アレがあるもんな」とスタン。

 レイゼルは釘を刺した。

「無理もない、が、過ぎたことに囚われるなベイリー・ラドフォード。振り切って、すぐに追いつけ。私にもここの崩壊に猶予がないのは感じられる」
「ああ、すぐに行くさ」

 ベイリーの見据える先には、長い旅を共にしてきた――いや、それが彼の旅そのものだった――蒸気式装甲車9型、悪魔の中指デビルズ・ミドルフィンガーの姿があった。傷だらけの姿は旅の苛烈さを物語る。

(おまえまでここへ来ているとはな。メリサたちが無事だといいが)

 そっと車体に触れながら、二人を先へ促す。

「陸が終わって海が始まる。千年海岸はすぐだ。待ってる」
 とだけスタンは告げた。

「必ず来い、ベイリー。必ずだ」とレイゼル。

 二人が去ると、ベイリーは改めて悪魔の中指を愛おしむように見つめた。

「長い旅だったな。あれほど長い時間を共に旅をし戦ったのは……ルディの他にはおまえだけだ」

 その時、車体の内部に蠢く感触があった。

「なんだ誰かいるのか? メリサかクラリックか?」

 呼びかけに応じてキューポラのハッチが開いた。ベイリーはそこに気の弱い優男、サルキアを殺せなかった医師の姿を認めた。

「ああ、クラリック、おまえ――いや」

 ベイリーは眉根を寄せた。

「クラリックではない」

 ――その男は、クラリックのものである軍服を来ていた。しかもクラリックと同じ、硬い黒髪を切り揃えた上に軍帽といういで立ちであった。隠者めいた立ち姿もよく似ていた。だが、違う、クラリックでないとベイリーは後ずさりしながら警戒を強めた。

「久しぶりだねベイリー」

 聞き違えようのない、やや上擦ったトーン。
 童顔に刻まれたのは憔悴とほの暗い絶望。
 変わり果てた互いの姿を、かつての親友たちは認め合った。

「――ルードウィン」

× × ×

 スタンとレイゼルの登攀はようやく、穏やかになりつつある外部の水面に達した。
 尖塔のごときハイドラの首、その食道の内側、かつて気味の悪い粘膜だった凹凸にしがみついたままスタンは切り出した。

「レイゼル姐さん」
「おまえもかスタン」

 ふたりは同じ感覚を共有していた。それも不穏な予感を。

「戻った方がよくないか」
「ベイリーに何かが起こってる」

 竜紋《サーペイン》を通してさざ波のように互いに伝わる兆しサインは、変成を経ていっそう強まっていた。 

 単純な危険ではない、もっと底知れぬ災厄がベイリーの身に降り掛かっている、ほとんど確信に近いそんな予感を二人ともキャッチしていた。

「だが……」レイゼルは首を振った。

「ああ、ここを早く出なくちゃ、それはそれで取返しのつかないことになりそうだ」

 ウェスやラトナーカルに脅威が迫っているということかもしれない。どちらを取るかと迫られればもちろんスタンはウェスを取るだろう。しかし、この追跡行において浅からぬ因縁を結んだ、あの取っつきにくい男に、いまやスタンは愛着を感じてもいた。

「わたしも出会った時は決して相容れぬ宿敵だと直観したものだ……いまもその気持ちに変わりはない。が、竜紋に繋がれてからはそれ以上の何者かになった」

「選ばなくちゃいけない。行くか戻るか」

 大きな岐路に立たされてスタンは半ば怖気づいた。どちらが正解というわけではない。どちらを選んだとて、必ず失うことを免れぬ、そんな厳しい選択だ。いっそレイゼルに決めて欲しかった。しかし、スタンは正答なき選択を己の意志で選ぶことにした。

「進もう」

 ジッとレイゼルはスタンを見つめたあげく、わかった、とだけ呟いた。

「剣を使う」

 レイゼルは〈神の赤い信条クレ・デジョーリョス〉を片手で掲げた。
 スタンが〈はた迷惑は微罪モレ・ステルペカ〉の転移能力を行使しなかったのは、転移によって脱出できるのはひとりきりのうえ、上下とわからぬ光射さぬ水底に出るのを怖れたためだ。

「名剣とはよく言ったものだ。そんな可愛いものではない。これは魔剣だ」

 言うなり、レイゼルはそれを振った。灼熱した刀身が水晶の内壁をぐるりと巡ったかと思えば、内側からハイドラの首を切断したのだった。ゆっくりと巨大な水晶の首はスライドしながら河面へと落下した。断面は高熱で溶けたように赤らんでいたが、みるみるうちに冷え固まっていく。

「すげぇ!」

 すでに水面よりわずかに高く上回った切り口には水は流れ込んでこない。出口である口腔部まで80スローほどの高度があったが、これで二人は果てなき登攀を免れたのだった。

× × ×

 ハイドラの九つの首のひとつが寸断されて滑落していくのを、岸よりメリサは驚きとともに見守っていた。寸刻前には、別の首から古代の自走機械、玉座という重荷から解放されたクモが飛び出したのを皆が確認していた。

「何かが起きてるね」

「ええ」とジヴが頷いた。

「どうやらウェスたちは機械を追うみたいだ。遠目の利くあの猿がわたしらの安全を認めたみたい。それにしてもちょっとは心配してくれたっていいのに」

 メリサは不満を漏らした。

「ウェスらしい。玉座よりも何よりもあの機械にゾッコンだから」

 唯一、ウェス・ターナーと邂逅を果たしていないサルキアはむっつりと押し黙ったままだ。ウェスが着岸した時分、サルキアは憑依状態にあって外界に気付いていなかった。

「……あれがウェス・ターナー。変な子。わたしの長陽石を勝手に持ち出したのは許してあげます。その代わり、あの人騒がせな機械を必ず捕えるのよ。ジヴ??」

「ガラッドさん」

 ジヴがガラッドに呼びかけた。頭部の出血は止まっていたが、まだ意識は朦朧としたまま回復しない。さきほどから自分の手のひらを食い入るように見つめている。まるで見えない手鏡で顔を映しているようだ。

「ガラッドさん、横になってた方がよくないですか?」

 優しくそう語りかけるがガラッドには聞こえていないようだ。

「ここじゃ満足に治療もできない。あのチビ、ルードウィンが乗ってきた蒸気戦車《スチームタンク》で橋まで運ぶ? あそこに住んでる〈寄合〉の連中なら顔が利く」

 メリサの提案にジヴは唇を噛んだ。

「それにしたってここから数時間はかかる。どうしちまったんだ」

 いつにない不安をのぞかせるジヴの手をサルキアは握った。

「大丈夫よ、昏倒から目覚めて混乱してるの。ちょうど馬上試合で落馬した男がこんな感じだったわ。意識の混乱があってもすぐに気を取り直すものよ」
「だと、いいですけど」

 ジヴの心配をよそに、ガラッドは頑是ない子供の表情で手の平を眺め続けた。

 × × ×

「ルードウィン……それは?」

 クラリックに扮したルードウィンは薄い笑いを張りつけて、
「ようやく追いついたよ、ここは――あれの腹の中かい?」
「のようだ。私も同じ、気付けば、ここに居た」
「ああ、ベイリーだ。本当に君なんだね」
「それはこっちのセリフだ。なぜ、おまえがクラリックに……クラリックはどこだ?」
「クラリック? ああ、あいつかい。真っ暗な中で二人きりで、ずいぶんと話し込んだよ」
「答えろ、ルードウィン、クラリックをどうした?」

 ベイリーはルードウィンの胸倉をつかんだ。力任せに揺さぶると、ずるりとクラリックのものだった軍帽が落ちた。それだけではない。ウィグではない黒々とした髪が、頭皮ごと落ちた。これもクラリックのものだ。

 事態を悟ったベイリーはつかんだ襟元を締め上げる。あろうことかルードウィンは、クラリックの軍服だけでなく、頭皮までも剥ぎ取って身に着けていたのだ。

 おぞましい仮装であった。ベイリーは変わり果ててしまった友に悄然とした気持ちを抱く。変わらないのはくしゃくしゃの金髪だけだ。

「おまえ正気か」
「はは、驚かせようと思ったんだけどね」
「クラリックは?」
「死んだよ、僕じゃ駄目かい? いけると思ったんだけどやっぱり無理があるか」
「貴様」

 怒声と共に、ルードウィンの頭を、銃創だらけの装甲に叩きつけた。
 剝いだ頭皮の血でもとより血濡れていた童顔が、さらに己の血液で染まった。

「なぜ、そんなことをした?!」
「暗闇の中で仲良く、ね、してたんだ。死んだのは僕じゃなかったんだね。こいつの中じゃ――」と装甲車を示す。「ルードウィンはクラリックでクラリックはルードウィンだった」

「戯れもそこまでにしろ」
「ねえ、憶えてる? クイヌールの戦地でのこと。あれは酷い戦争だったよね」
「答えろルードウィン、クラリックをおまえが殺したのか?」
「憶えてるかい? 戦地で負傷した人の中にさ、ジッと自分の手の平を見つめる人たちがいたこと。どんなに外傷がなくても、傍目には元気そうに見えても……彼らは必ず死ぬんだ」

 確かにそうだった、とベイリーは知っている。戦場の経験則。

 だが――。

「それがどうした?!」
「死を前にした人間は手を見る。見慣れたはずの自分の手をまるで珍しいもののであるかのように見入る。あれは不思議だよ」

「黙れ!」さらに強く、ルードウィンの頭を鉄板に叩きつけた。

「ふふ、クラリックともその話をすればよかったな。医者だったならきっと知ってたはず。ねえ、ベイリー、あれはどういうわけなんだろう?」

 陶然とした目付きでルードウィンは同じ繰言を続けた。もはやベイリーには疑う余地はなかった。かつての親友は狂った、そしてクラリックをその手にかけたのもこの男だと。

「乳幼児も手を見る。それが自分の身体の一部だと確認するためらしいんだ。産まれ落ちた時に世界と自分が分かたれる。かつての全能感はない。赤子は卑小でちっぽけな自分を知る。どこからどこまで自分なのか。小さい。あまりに小さな領地だ」
「黙るんだルードウィン。さもないと――」
「人間は生の入口と出口で手を見る」
「おまえを殺させるな」
「ああ、ウルスラ、そこに居たのか」

 ふいにルードウィンは、かつての秘書官を見つけてしまう。かすかに理性の光が瞳に点ったかに見えたが、それは刹那だけ、瞬いて消えた。

「君のバングルもほら」

 ルードウィンはウルスラの遺体から彼女を偲ぶために装飾品を預かっていた。銀製のブレスレットの裏側には彼女の母親の名前が彫ってある。

「ウルスラ、クラリック、死んだ人間の物を身に着けると自分が薄らいでいく。それはもしかしたら……」 

「戦え、ルディ、いやルードウィン」

 ついにベイリーはサーベルを抜いた。

「うん、そうだね」弯曲したナイフを――それはクラリックの喉笛を裂き、頭皮を剝いだものだ――取り出した。

「さぁ――いくぞ!」

 挙動も軌道も読みにくい、ベイリーの鋭い刺突をルードウィンは躱そうとしなかった。いや、わずかに急所を避けた場所にあえてそれを食いこませると、間髪入れず、クランビットナイフをベイリーの心臓へ滑らせた。サーベルを手放して背後に飛びのくことでベイリーは刃をかわしたものの肉を切らせて骨を断つルードウィンの透明な殺意に全身がわなないた。

「ベイリー、お願いだから僕を許さないでくれよ。どうしたら君に許されないか、ずっと考えてたんだ」

 ボタボタとサーベルで穿たれた脇腹から血が滴った。凄愴な笑みを浮かべるルードウィンにベイリーは「ルードウィン」と呼びかける。「それは無理だな」

「そうだよね、それでいい」

 サーベルを腹部に埋めたまま、ルードウィンは正確無比なナイフ捌きで攻め続ける。そのすべてをベイリーは完璧に見切ってみせた。達人といっていい両者の武技だったが、ルードウィンのそれは人間の領域における超絶だ。変成によって得たベイリーの反応速度と行動予測はもはや人間業ではない。

「違う」武器を失ったベイリーは、それでも素手で飛び交うナイフを簡単に叩き落とすと、ハイドラの消化器官の下層へと蹴り退けた。

「相変わらず強いな。歯が立たないや」
「無理だと言ったのは、おまえを許さないことなどできない、という意味だ」
「なぜだ、君を殺そうとしたんだよ、君の部下は殺した」
「それでもだ」
「わからないね」

 ルードウィンは自分の脇に刺さるサーベルを引き抜いた。出血が激しくなるのもかまわずにそれをデタラメに振った。が、ひとつとして触れることさえさせず、なお剣風を涼やかに浴びる余裕さえベイリーにはあった。

「こんな僕を許す? でも殺すんだろう?」
「理由を言え、このような無法を働くおまえではない。権力が望みか? 私の留守中におまえをたぶらかす者が?!」

 叫ぶような問いを受け、ヒュンヒュンとサーベルをしならせながらルードウィンは思案した。やがて剣先をベイリーの喉元に定めると丁寧に言葉を紡ぐ。

「これはね、生涯にたった一度の贅沢さ。慎ましく生きて来た自分にはじめて許す放蕩なんだ。この世界で一番信頼に足る人間を押しのけ裏切る。僕を愛してくれる人間を失望させ、がっかりさせる。それをしなくちゃ僕は過ちひとつも犯せない不器用で不自由な人形のままだ」 

 それが、たったそれだけがルードウィンの血の出るような本音だった。表舞台に立つのも日陰者でいるのも、いつだって誰かの要請に従ったに過ぎない。剣を抜くのも収めるのも、だ。

「そんなことのために?」
「たったそんなことのために僕たちのどちらかが死ぬのさ。ううん、両方かも」

 皺の寄ったベイリーの眉間がヒクつく。

「……ハッハハハハハハハハハハッ!」

 ついで哄笑が破裂した。上半身を折って横隔膜を押さえると、いまにも転げ回らんばかりに笑う。ルードウィンはそんなベイリーの姿を拝むのは初めてだったから呆気に取られたまま動けない。

「ベイリー、そんなふうに君は……」
「笑うさ。おまえの一世一代の身体を張ったジョークだ。で、軽くなったのか?」
「??」
「だから、おまえの心はそれで軽くなったのかと聞いている」

 ルードウィンの呼吸が荒い。瞳孔が収縮を繰り返した。

「……わからないな。ただ、後悔はない」
「だったらいい」
「いいわけがない! 僕はすべてを裏切ったんだ!」
「いや――」

 ――トッ!

 サーベルの先端が、何かを言いかけたベイリーの額に突き立った。深くはない。だが、流れる血が顔を隈取って異様な面貌を作り上げた。反対に、少しずつルードウィンから険相が落ちていった。刻薄の色が、ひとりの男からもうひとりの男へと乗り移ったようだ。

「ならば――」とうっそりとベイリーが口を開いた。「私も本当のことを告げよう。おまえには……おまえにだけは生涯言わぬはずだったろうことを」

「――?」怖れるようにルードウィンは顎を引いた。

「私はな、もしかしたら……私こそ、おまえを裏切っていたのかもしれない。ずっとずっと裏切り続けていたのかもしれない。私はお前とイルムーサを討った。約束したな。私が王座に座ってシェストラに黄金時代を築くと」
「ああ」
「だがな王都を奪還した日から言い知れぬ不安と恐怖が忍び寄ってきたのだ。その正体はわからなかった。ただ、いつも見えてたよ、殺したはずのサルキアの白い足首が。聴こえていたよ。イルムーサの嘲笑が。奴は言った。私も自分のようになるのだと。そうだ、このままに王となれば私は暴君になるだろう。所詮はただの戦争屋だ。統治には向かぬ。金糸の竜が刺繍された衣を纏い、王冠を頭上に頂けば、もう後戻りはできないと悟った」
「馬鹿な。君はイルムーサとは違う」
「違わぬ。いずれおまえの諫言さえ耳に入らなくなっただろう。意に染まぬ者の存在が許せなくなるだろう。知っているのだ、私の中にはイルムーサに劣らぬ圧制者がいる」
「やめてくれ、そいつはこんな長旅の果てに聞きたかった言葉じゃあない」
「……玉座が逃げ出したことは恰好の口実となった。渡りに船とのこのことだった。王都の再建と統治を離れ、追跡と闘争に明け暮れる。あわよくば、おまえが私の居ぬ間に総督の地位を奪ってくれたらと夢見たこともある」
「それは半ば現実となった」
「ああ、ゼロッドより真実を聞き出した時、私の胸の内にあったのは、おまえへの恨みか、悲しみか? いや違う。それは全き解放感だったのだ!」

「ベイリー」悲しみに濡れた眼でルードウィンはかつての友を見据えた。

「だからルードウィン、おまえの行為は裏切りではない。むしろ私の望む通りの振舞いをしてくれたのだ。おまえの裏切りで、まだ戦える、と私は喜びさえした。戦いの中でしか生き甲斐を見出せない私に、おまえは戦火へと育つ新たな火種をもたらしてくれた」

 そうしてベイリーはサーベルを握るルードウィンの手を、自分の手で上から覆った。額に押し付けられたサーベルを己の力でさらに押し込もうとする。

「やめろ!」剣先を引き戻そうとするルードウィンだったが、その膂力は友には及ばなかった。サーベルはゆっくりとベイリーの頭蓋に埋まっていく。

 と同時に癒しの力がルードウィンに流れ込んでくる。腹部の傷が少しずつ塞がっていくのがわかる。

「この後に及んで僕を救うのか?」
「ルードウィン、おまえの内に降り積もった仄暗いものは、私が引き取ってやる。これよりは思うままに行くがいい。好きなだけ過ちを犯せ」

「お願いだ。やめてくれ」裏返った声で懇願するルードウィン。しかし、願いは聞き入れられない。冷厳に進む死への時計。しかし、その針は優しいほどに鋭かった。

「レイゼル、スタン、ゼロッド、マイルストーム、ガラッド、それに死神。敵も味方も……誰も私を止められなかった。やはり……お前だけだったよ。ルディ。友だけが終わらせてくれる……終わりを」

 最後にルードウィンは悲痛に問うた。

「なぁ、ベイリー、僕は君の優秀な右腕だったかい? 役に立ったかい?」
「ああ、おまえはわたしの手だ。おまえを見る」

 去る者と残る者とは、互いを見つめ合い、刹那を待った。

 刃はそうして命を貫いた。

 救国の英雄ベイリー・ラドフォードは、戦友であるルードウィン・ザナック、そして傷つき朽ちかけた悪魔の中指とに見守られながら死んだのだった。
しおりを挟む

処理中です...