疾走する玉座

十三不塔

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第五章 星火燎原

無支奇

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 迷宮の奥深く、その蠢く腸の内で、二人は対峙する。
 淫猥な魔風に吹かれ、ざわざわと体毛が逆立つ。血気に充たされていまにも飛び掛からんばかりの俺とは対照的に、凪本漁はまるで静かな湖面のように揺らぎなく構えている。涼し気な口元に滲むのは薄い笑み。

 さて間合いは、いかばかりか。
 半歩踏み込めば剣先が届くようにも思えるし、矢でも届かぬほど遠くにも感じる。迷宮の作用かもしれぬ。凪本の手妻かもしれぬ。どちらにしろすでに俺は幻惑されていた。大陸の産らしい両刃の段平を半分ほど抜いたところで凪本は手を止めた。

「いまならば引き返せるよ。無駄な真似はやめないか?」

 凪本の言い分はご尤もだ。気まぐれとはいえ好意に甘えてここまで連れてきてもらった身である。いくら金九字が気に食わないとはいえ、ここで喧嘩を売る筋合いはない。しかし俺はどうしようもない唐変木の馬鹿野郎なのだ。放たれた矢を引き戻せぬように俺も己を止めることはできぬ。 

「手前が金九字を抜けるってんなら、考えてやるよ」

 ふう、と凪本は肩をすくめた。江戸の庶民には似合わぬ仕草であった。いでたちから立ち振舞いまでどこか異風な物腰の優男である。俺は、その余裕綽綽の顔を歪ませてみたくてじりじりと爪先を這い進ませる。軽挙は禁物である。以前、魍魎街で痛い目に遭った。凪本に身体に触れれば、柔術の妙技で力を抜き取られてしまう。同じ轍は踏まぬ。

「呪法なら届くと思ってるな」

 俺の心を見透かしたように凪本は茶目っ気たっぷりに言った。
 取り合うな。お望み通りの呪法を放ってやろう。背中に形成した球電を隠したまま俺は何食わぬ顔で両手に刀を取る。右に無忌鎮永、左にセデックの蛮刀を――俺の目論見はこうだ。横ざまに身を翻し、雷の通り路を空ける。俺の動きに気を取られた隙に雷電が奴を襲うという寸法である。

「ふん」凪本が鼻で笑った。「忠告するが、この階層では――」

 算段通りに俺は動く、が、なんと凪本は同じ方向へと、衝突せんばかりの勢いで間合いを詰めてきた。動線が塞がれる一方、球電は凪本の立っていたあたりを虚しく飛び過ぎた。剣を振るう間合いを見失い、懐に入られた俺はまるで赤子の手からオモチャを取り上げるように武器を奪われてしまう。

「てめえ」咄嗟に頭突きをかまそうとしたが、凪本はそれを躱《かわ》さなかった。
 ゴッと鈍い音がする。石頭には自信のあった俺だったが、奴の額は石よりも硬いときている。まるで鋼鉄か金剛石《ダイヤモンド》である。目の前が昏くなって崩れ落ちるのは俺の方である。

「何故人の話を最後まで聞かない? この階層では雷の呪法は禁物だって言いかけたのに」
「な、なんだと?」俺は天地がひっくり返るような眩暈を堪えた。
「この階層はまるごと無支奇《むしき》という魔物の体内なのさ。平時は寛容だが、いったん電気に触れると荒れ狂ってその内に棲まう者たちを攻撃する」

 ――どくん、と迷宮が波打った。まるで腸の中のようだと感じていたが、それはまさに真を突いた直観だったわけだ。

「もうね、喧嘩どころじゃないよ。あらゆる壁面から溶解液が滲出してくる。塵洗《カポーラ》なる防疫機構が稼働する。迷宮におけるどんな強者であれ、迷宮そのものが牙を剥いたらどうしようもない」

 どろどろと粘り気のある紫色の汁が天井から垂れてきた。肩口に触れると酸のように着物を焦がし肌を焼くのであった。このまま酸の雨に降られていれば跡形もなく溶けてなくなってしまう。まさしく喧嘩どころではない。

「大迷惑だな君は。おっと塵洗《カポーラ》どもが湧いてきやがったぞ」

 辛辣な言い草にしてはどこか毒気を欠く。やはり人間としての情感というものに凪本は恵まれておらぬようである。などと人物を評している状況ではない。凪本の言う通り、何やら壁の内側から、蜘蛛のような蛸のような多足の生き物がせり出してくるからおぞましい。

「どうやら君は死ぬぞ」

 またもや凪本があっけらかんと言った。

「おめえだってくたばるんだろう?」
「いや、どうして?」きょとんとした顔は起き抜けの子供のようである。まったく憎らしい男であった。
「おめえにゃこの窮地を凌ぐ策があるのかよ」
「塵洗《カポーラ》は生き物にしか反応しないし、この程度の溶解液では俺は溶かせない」
「ば、馬鹿が、何言ってやがる」俺は吠えた。言う間もあらば、滴る粘液を浴びて凪本の肌が爛れていくのである。俺とて人のことは言えぬ。無支奇《むしき》とかいう化け物の腸の中でのたうち回りながら、己のしくじりを呪っているのだ。しかし、妙なことがある。

「てめえ、いかれてんのか? 何も感じねえのかよ。クソっ!」

 酸に爛れながらも凪本は微動だにしない。まるで痛みを感じていないようだ。みるみると肌が溶け崩れていくその顔を俺は必死に睨みつけた。

「――なんだ、と。そうか道理で石頭なわけだ。おまえは義手なんかじゃなかった。むしろ人間と思えた部分が上っ張りだったわけだ。そう中身はみんな……」
「ああ、江戸の言葉でいえば俺は絡繰《からく》り細工というわけだ。人工皮で覆っていないむき出しの右手をみんな義手だと思っていたようだったけれどね」
「人間じゃねえのかよ」
「失礼だな。脳は生身さ。それを人と呼ぶかどうかは意見が分かれるだろうね。事実、塵洗《カポーラ》たちはは心臓の鼓動と代謝ガスによって排撃対象を判断するから、彼らの観点からすれば、俺は人はおろか生命ですらないことになる」
「俺だって人間じゃねえよ」
「いいや、君は人さ。無支奇《むしき》の頓馬な定義ではね。だから殺される。成りたかったんだろう人に。だったら喜ぶがいい。ここで死ぬなら君はもしかしたら人間なのかもよ」

 掌ほどの寸法の塵洗どもは確かに凪本に見向きもしない。が、俺には雲霞の如く殺到してくるから厭らしい。俺は一瞬で全身を覆い尽くされて何も見えなくなった。わしゃわしゃと取りついた小さな生き物どもが俺の内側へ入り込んでくる。

 ――口腔を塞がれた俺には絶叫すらも許されぬ。

 わかる。もうすぐ紛れもない死が訪れる。下らねえ喧嘩を吹っ掛けたばかりに俺はくたばるのだ。無支奇《むしき》とかいう化け物の糧となってきれいさっぱり消え失せるというわけだ。その考えには不思議な解放感があった。

「塵洗《カポーラ》どもは痛みを麻痺させる針を獲物に撃ち込む。樋口、そんな無残な有様でも心は極楽を見ているんだろうね」
「どこだ?! 凪本!」

 塵洗とやらをかき分け、がばりと起き上がって俺は――いや、もうすでにかき分ける手も、起き上がる足も残されていない。貪欲な化け物どもはすでに俺をあらかた食らいつくしてしまったようだ。

「さぁ夜が来る。本当の夜。死だ」
 青白く眼を光らせる絡繰《からく》りの男が告げた。

「な、何が慮傍を殲滅するだ。おまえこそが人間ですらねえくせに。凪本、手前は、とんだ食わせ者だ。金九字のやつらも騙してる」
「ああ、仲間が知ったら、どんな顔をするだろうねぇ」
 
四肢を失った俺は横たわったまま、急激な失血と酸による浸食で意識を霞ませていく。

「もう地上のことは気にすることはない。君という存在は無に還るんだから」

 優しい口ぶりで奴は言うのだ。もう諦めろと。虫けらの如く踏みつぶされ、綿埃のように散り散りになってしまえと。それもいいかもしれない。鈍麻した心のどこかで諦念が囁いた。

「この時代の子守歌は知らないんだ。葬列の泣き女の濁声ならアーカイヴのどこかにサンプリングしてあるかもだけど」
「――黙ってろ。何も要らねえ」

 俺という骨と肉の細工が解けていく。冷え切った命は、まもなく土くれと変わらなくなるだろう。密集する塵洗《カポーラ》どものわずかな隙間から凪本の姿が見えた。黒光りする金属の体躯はまさしく死神にふさわしい。酸で溶け崩れた皮膚の名残りから煙を立ち上る。

「四凶のひとり難訓の骨一本でも貪るために不埒なやつらがこぞって来やがる」

 無数の狂暴な気配が蝟集する。鬼神たち舌なめずりする音が聴こえるが、それも遠い別世界のざわめきにしか思えぬ。俺はここで死ぬだろう。数限りない命を奪ってきた報いであるならば、それでいい。こんな迷宮の深層部まで俺の亡骸を回収しに来る者はいない。

 と――絶望と諦観の底から、ぎしぎしと何かが蠢き這い出そうとする。

 為す術なく降伏することをよしとしない何かの歯ぎしりが不快に耳朶を打つ。
 難訓、あるいは檮杌《とうこつ》と呼ばれる古き者が、宿主の危難に際して乗り出してくる。

 ――ひぃっああああああろぉぉぉぉぉ!

「なんと塵洗たちを逆に取り込んでいく。君は――‥‥」

 みしみしと全身が軋んだ。死にかけた俺の身体が変貌していく。まとわりつく虫どもを食らい返して血と肉と骨とに還元していく。無尽蔵の力が神経の末端にまで漲っていく。見るもおぞましい異形の四肢を生やして俺は――

「面白い。塵洗を吸収して手足を再生したのか。しぶとい男だ」
 
 ――立ち上がっていた。

 以前に聞いた難訓の呼び声はもう聞えなかった。ただ力だけが俺に流れ込んで、あまりに強引なやり方で死を遠ざけたのだった。蛸の吸盤やら強い獣毛やらを生やした新しい両手で印を結ぶ。

 ――応変罰苦、呶々累々。

 呪言が口から転がり出た。

「雷を使うなと言ったそばから――懲りない男だ」

 この階層そのものが魔物であるなら、そいつごと殺してくれよう。俺はありったけの呪力を電撃にして解き放つつもりであった。迷宮が猛り狂って俺をひねり潰そうとするならば、いいだろう、やってみろ。

「馬鹿め」

 溜め込んだ呪力が電界を形成するよりも早く、凪本の剣が俺の心臓を貫いた。あっけなく無防備に、今度こそ俺は死ぬ。いや死んだのである。

 機械《からくり》の男と無支奇が、俺への最後の冷たい一瞥を投げたその瞬間、俺はもうそこに居なかった。死と夜の暗がりに捕まって、奴らの一瞥よりももっと冷たい場所へ引き下ろされたのであった。
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