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第五章 星火燎原
失踪する玉座
しおりを挟む水葬にされたウルスラの遺体は、河を下り、やがて大洋へと辿りつく前に消失した。
九頭蛇《ハイドラ》の九つの口蓋。
それは生態系にとっての異物を膨大な水量ごと呑み込んでいく。さながら河に巨大な排水口が空いたかのようだった。
しかし、ルードウィンは部下の死の尊厳が不当に奪われたことを知らないまま――ただ、その巨大で異形の生物の迫力に前に立ち尽くし、言葉を失った。
飛行船の窓から落下する悪魔の姿を見た時と似て、現実を覆う異形の存在を前に知略など用をなさないとわかる。
たったひとり――もう誰も引き連れてはいない――ルードウィンが汽水域に到着した頃には、ある者は倒れ、ある者はウルスラ同様にハイドラの口蓋に吸い込まれた。河べりから装甲車の砲撃を浴びせてもあの生き物が痛痒を感じるとは思えない。
(何もかもが吸い込まれて消える。盲目の食欲の渦の中に)
葦の茂みの奥に悪魔の中指の姿が見えた。
鋼鉄製のものものしい威容が、あの化け物を背景にすると、子供の玩具のように映るから不思議だ。ましてや人間など、吹けば飛ぶ綿帽子と大差ない。
(あれは何だ? 見たことのない機械だ。乗り物か? 乗っているのは――)
〈大喰い〉に乗車したメリサが気絶したガラッドたちの脱力した肢体を見渡した時、その様子をやや遠巻きからルードウィンが双眼鏡で捉えていたのだった。
(メリサという整備士だったな、ベイリーの信頼も厚い)
蒸気式装甲車6型は、静音性が高くよほど接近しない限り気付かれにくい。ましてやゆるゆると息を潜める肉食獣のように近づいたルードウィンの気配をさしものメリサであっても察するはずもなかった。
(――?)
剣を手にした少年――スタンだ――がメリサと同じ乗り物に乗っている。ルードウィンには見覚えのない少年だった。二人もまた河口に出現した巨大生物に釘付けになっていた。
いまや、ハイドラの首のうち四つは水中に没し、五つは水上に突き出し、ゆらゆらとのたうっている。青白く、怪しくうごめくその姿に怖気が走る。悪夢以外に居場所がないような生き物だ。
(何度ボクの理性はひっくり返されただろう。何度裏返しに?)
――もう、とルードウィンは思う。
「驚くことには慣れた」
ルードウィンは双眼鏡の拡大された視界の中に、彫像のように立ち尽くしたヴェローナを発見した。その死を確信したわけではないにしろ、微動だにしない様子にただ事でない気配を感じ取った。
「死神」
無策のまま駆け寄るほどルードウィンは我を失ってはいない。とはいえ、策を弄したところで何かが変えられるとも思えなかった。王都を出立してこのかた、ルードウィンの才覚はいつも現実に抗す術を持たなかったから。
(ベイリーそこにいるのか? 君のことを一目見られたら、この旅は終いだ。疾走する玉座などどうでもいい。君の死を――あるいは不死を見られたら)
ルードウィンは、装甲車で接近できる限界まで達すると、乗り物を下り、葦の伸びる浅い水辺を這うようにして進んだ。ガラッドたちを昏倒させた電流はすでに威力を失っていたものの、ぷかぷかと水面に浮かぶ魚をかき分けるごとに、まごうことなき死の方角へ向かっているのだという想いは強くなった。
× × ×
数本の脚を失った古代機械は機動力を削がれた。
膨大な電力を解き放ったことも原因なのかもしれなかった。
ラトナカールの怪力によって玉座をもぎ取られかけた機械はさらにバランスにも狂いが生じていた。フラフラと水辺を進む機械はまるで酔漢の千鳥足のように見えた。
「行こう、姉妹たち。玉座を!」
感電を免れた犬たちがレイゼルを乗せて飛ぶように疾駆する。ハイドラに臆すことのない犬たちがレイゼルには頼もしかった。触手をなびかせて九つの口蓋のひとつが、横合いから玉座を呑み込もうと迫る。
「っ速く! もっと速く!」
レイゼルが犬たちを急きたてるが、走る玉座との距離は縮まらない。飛び掛からんばかりにレイゼルは手の伸ばすが――。
「マズい!」ウェスが叫ぶ。生首のジャックスは奇声を喚き散らした。
「届かない。……だけじゃねえ、喰われる! 逃げろ!」
対岸でスタンが腕を振り上げるも、声は、心は、届かない。
――いや、竜紋で接続された心の流路は十分にそれを伝えたはずだった。
狩りの研ぎ澄まされた集中力で玉座を追っていたレイゼルはスタンの警告を確かに受け取った。それであってもさえ、レイゼルは止まらない。
(疾走する玉座、あんなもののためにどれだけの多くのものが失われたか)
もはや玉座を手にすることは、レイゼルの念頭になかった。まして王となることなどはじめから望んでいない。彼女が望むのは、遺恨を残すことなく、それを打ち砕くこと。王の証であり、自殺装置でもあるモノを、原型と留めぬほどに破壊し尽して、この馬鹿げた競争に終止符を打つつもりだった。
強烈な闘争本能は、それ自体がある種の目隠しであり、死角となる。
獲物以外のすべては背景に引き下がり、やがてそれさえ意識の暗がりに没する。
赤い墓石のような玉座――標的についに追いついたかと見えたその瞬間だった。
「おい! 止まれぇぇぇえええええええ!」
ウェスの怒号も虚しく、玉座と古代機械、レイゼルと犬たちは、まとめてハイドラの口蓋に吸い込まれた。おぞましいほどの吸引力は、大量の水ごとレイゼルたちを化け物の内側へ引き込んだ。
一部始終を眼にしたスタンの反応は迅速だった。
メリサからステアリングを奪うと、運転したこともない〈大喰い〉を駆り立てた。
「ちょっと無理だよ、ここから先は深い。沈むよ!」
「静かに。心配ない、俺には見えてる」
スタンに操られた大喰いは、ガラッドが操縦するよりも滑らかに軽快に奇跡のごとく河の浅瀬部分を縫って走った。それでも広大な河口部を横断するには無理があるだろう。
「何をする気?」
「あの化け物を斬る」
「無理よ。もう進めない」
絶望を絵に描いたような巨大生物が蠢く姿をスタンは睨み据えた。とはいえ、剣が届く距離ではなかった。これ以上近づけば大喰いは浸水して河底に没するに違いない。
「〈人見知りの逃避行〉を使う。運がよけりゃ、あの化け物の側に転移するかもしれねえ」
「それって――」
スタンはメリサへの説明を省いた。
〈人見知りの逃避行〉の発動条件は生物へ攻撃を加えることだ。その斬撃が入ったと判断された瞬間、攻撃対象の手に届かない場所へと転移する。転移とはいってもデタラメに瞬間移動するわけではなく、対象が視野におさまっていながら、相手の攻撃レンジの外側に移動する。細かな座標は指定できないにしろ、数度にわたる実験によって、おおよその転移範囲は身体に染み込んでいた。
「いまからあんたを斬る。悪く思うな」スタンは〈はた迷惑な微罪〉を構えた。
メリサを傷つけない程度に攻撃することで跳ぶつもりだった。メリサはスタンの思惑がわからず、「冗談でしょ?」と後ずさりした。
「本気さ、俺を信じろ。動くな」
「ひぃ」
ヒュンと刃が一閃したと見れば、すでにスタンの姿はなかった。
風切り音の後、思わず閉じた眼をおそるおそる開けてみる。残されたメリサ、その赤みを帯びた髪が一房パラリと落ちたのは、狙いすました精密な斬撃によるものだった。
「な? どこ?」
左右上下にせわしく首を降ってもすぐにスタンの姿を見つけるのには難儀した。スタンはといえば、算段した通り、うねうねとのたくるハイドラの無数の首の絡み合うその中放り出されるように空中の高みに出現し、踏みしめる足場もないまま落下しながら剣を振った。
「なます切りにしてやる!」
もとより普通の剣ではない。深海のマリンスノーさながらに舞う刃紋は紫紺と銀、切れ味は抜群どころか、万物を切開するために造られたが如く。ひとたび、その刃が触れるならば、ダイヤモンドの岩盤であろうともゆるい縫合が解けるようにバラバラになるだろう。
――そうして、〈はた迷惑な微罪〉はたちまちハイドラの三つの首を断ち切った。
ぬるり、と切断面がズレて水面におぞましい口蓋部が滑り落ちる。
剣の長さよりも遥かに太いハイドラの首を切り落とすには卓越した剣技が必要だったが、心得のないスタンは〈はた迷惑な微罪〉の意志を遂行しただけだ。剣は刃筋の行く道を教えてくれる。なまじ腕の覚えのある剣士であれば剣より先に我を先に立ててしまうものだが、スタンにはそれがなかった。
「まだだ!」
スタンは、首のひとつに剣先を突き立て、ぶら下がった。水中に落ちる前に、残りの首を仕留めるつもりだった。水中に没した首から先の部分は、おぞましいことに互いを喰らい合って絡みつく。
さらにスタンはハイドラのおぞましい生命力に思い知った。
首の切断面が盛り上がり、瞬く間に再生を始めたのだ。みるみるうちに首は元通りになっていく。どこからか並外れたエネルギーが供給されているのがわかる。スタンが眼を凝らすとハイドラの体内が透けて見えた。原始的な神経系とこれまた単純な消化器がたちまちスタンの脳内に映じられた。視力を切り替えていく。熱源とそこから行き渡るエネルギーの流れを追う。
(見つけたぞ、あれがこいつの心臓だ)
力の源、それは呑み込んだ玉座、あるいは古代機械かと思ったが、そうではない。はじめからこの生き物に埋め込まれていたものらしい。
(なんだ?)
戦慄くように〈はた迷惑な微罪〉が振動した。
ハイドラの内部にあるモノに共鳴しているのだ。軋り上げる、その歌声を解き放ってやろうと、突き立てた剣をそのまま上方に走らせる。輪切りではなく縦に切り裂いて首を真っ二つにしてやったのだが、つながった根元の部分から断裂が塞がっていく。
(冗談じゃないぜ。これじゃレイゼル姐さんを救えねえ!)
無力感に打ち震えながら、スタンもまた触手のカーテンに吸い込まれていく。イソギンチャクに似た口蓋は四方八方からスタンに迫り、そのひとつがスタンを掠め取ることに成功した。
その先には生温い闇と柔らかな窒息が待ち受けていた。
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