疾走する玉座

十三不塔

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第四章 遡航

No devil lived on

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 リドワップ台地に棲息する夜行性の動物たちは、空から斜めに降りてくる銀色の巨大な構造物に眼を見張った。

 呪力を含んだガスが、彗星さながらに青白い尾を曳いて、その降下をいっそう幻想的なものにしていた。豊富な下生えを食んで精力を取り戻した〈大喰い〉に乗る三人の男女も思わず足を止めて、魂を抜かれたように空を見上げるしかなかった。

「なんだよぉ、あれは」
「飛行船というやつですよ、ご主人」

 ジヴの知識は曖昧な伝聞の域を出なかったものの、ガラッドとサルキアを納得させるに十分だった。

(あれが……)

「なんぼするんだ?」
「ガラッド商会を百回売っぱらっても足りないでしょうね」

 金に換算しないと物事を理解した気になれないのは商人の悲しい性か。

「まっとうな商売やってんのがバカらしくなるな」
「まっとうの意味によりますが、バカらしくなるのは確かですねぇ」

 のんきな二人の掛け合いよそにサルキアは身を震わせるのだった。

「どうした姫さんよ」
「ルードウィン、あいつまで来たんだわ。わたしを殺しに」

 トントン、とこめかみを叩いて、その名を記憶の内より検索する。

「ルードウィン・ザナック。ベイリーの片腕にして救国の立役者のひとり」

 ガラッドは得心がいかぬように続けた。

「なんでまたそいつがこんなところに? ルードウィンってのまで出張ってきちゃ王都は手すきになるし、見たところ、アレは墜ちてるふうに見えるぜ」
「身を隠してやり過ごしますか。進路を変える必要がありますが……」

 怯えるサルキアを気遣うようにジヴは言った。

「どうかね。安パイを取るか、それとも――」ガラッドは油断のない顔つきで息を吸い込む。「千載一遇のドサクサと見るか、だ」
「あなたたちは、あいつの恐ろしさを知らない。ルードウィンはベイリーよりもむしろ……」

 サルキアの声が途切れたのは、ウィースガム号がついに不時着したからだ。とてつもない大きさの物体が大地にこすりつけられる。

 ――ズゥゥゥゥゥンンン、と重苦しい轟音が三人の鼓膜まで届く。

「ありゃ無事じゃ済まねえ」

 現実味のない光景を前にさしものガラッドも、同情に堪えないといった口ぶりになる。

 金属製の飛行船は全壊とはいかぬまでも、構造に歪みが生じていてもおかしくない。こんな辺鄙な場所で修復可能なのかも不明だし、なにより乗員たちの安否すら計りかねた。陸に打ち上げられた海洋性哺乳類のようなウィースガム号の姿は、あまりに無防備で弱々しく見える。

「もしかしたら、そいつを殺る好機かもしれねえぞ、姫さんよ」
「どうしよう。わたしは――どうしたら?」
「のるかそるか。人生の勝負時はまったなしでやってくる」

 突き放すようにガラッドは言った。

「わかった」サルキアは二度、瞬きをした。「あそこへ行く、そして、もしあいつが柔らかい腹を見せて横たわっているなら――」

「よし、決まりだ」

× × ×

 これまでの人生で耳にしたあらゆる音響がいっしょくたになったような凄まじい轟音に圧し潰され、ルードウィンは無自覚に聴覚を放棄した。

 衝撃は骨と脳を揺さぶって、収まる気配がない。ひしゃげた船室から呻き声すら漏れてこず、暗闇と最後に見たアレの残像だけがルードウィンの意識を鷲掴みにしていた。

 指令室のはめ殺しのガラス窓から一瞥した、落ちゆく異形のモノ。
 ヴェローナの弾丸に撃ち抜かれた悪魔の姿。自らの死すらも嘲笑っているかのような背徳の形相を浮かべて地上へと落下したそいつと、刹那の一瞬、ルードウィンは眼を合わせたのだった。

(ベイリー)

 燃え上がる双眸は、ルードウィンを逃げ場のない恐慌状態に突き落とし、なけなしの理性を引きはがした。

「ベイリー! ベイリー! 助けてくれ!」

 救済を求め、はからずも叫んだのは、神の名ではなく、己が謀殺しようとした盟友の名だったのは皮肉という他ない。

「ルードウィン様、しっかりなさってください」

 眼を開ければ、ウルスラの顔が近くにあった。ルードウィンは、破損したキャビンから引きずり出され、夜露に濡れる大地に寝かされていたようだ。

「ウルスラか」
「悪魔が――そんなものが存在したとしてですが」
「見たよ。僕は見た。眼が合った。恐ろしい、あんなにも恐ろしいものが……」
「ルードウィン・ザナック。総督代理。気を確かに。アレはもういない。それよりもウィースガム号が墜ちたんです。被害は甚大です」

 ゆっくりと身を起こせば、そう、絶望の夜が広がっていた。

 生き残った船員たちは怪我人を救出したり、船の破損を確認していたりで駆けずり回っている。不時着の姿勢によって奇跡的に司令室のダメージか軽微だったと、横たわるウィースガム号を見て知れる。船員の状態はまちまちだった。ルードウィンのように気を失ったままの者もあったが、黄泉路に旅立った者たちもいた。飛び出した内臓や、ちぎれかかった腕、流血で染った顔たち。酸鼻極まるその地獄すら、ルードウィンにはまだ現実味がない。

「なんということだ」
「人も船もここでは応急処置しかできません」
「――ヴェローナはどうした?」
「無事です。でも……あの娘は」

 漏れ出すガスへの引火を恐れて、焚火の明かりもなかった。

 ランプのか細い光だけがそこかしこに灯る中、30スローほど隔てた光芒のそばにヴェローナの姿があった。

 ヴェローナは、およそふさわしくない行為に従事しており、ルードウィンははじめそれが彼女だとは信じられなかった。

「怪我人を癒しています」

 それを口にするウルスラ自身にも信じらぬといった調子だった。

 おそるおそる立ち上がったルードウィンは、危うい足取りでそこへ近づいた。彼に気付いたヴェローナは体裁悪そうに眼を逸らすのだった。

「そ、やっと眼が覚めたんだね」
「どうなったんだ?」
「悪魔は仕留めた。ただ、死に際にあいつ火を放ったんだ」

 それがガスの一部に引火したのか。やはり水素ではなくヘリウムにするべきだったのだ。遅すぎる悔恨の、それはあまりにわずかな一部でしかない。

 爆風に吹き飛ばされたヴェローナの命綱が切れなかったのは出来すぎた僥倖だった。彼女は左足にもつれたロープを空中で解き、沈みゆく船内に舞い戻ったが、立ち上がれないほどの疲労に崩れ落ち、不時着の瞬間まで凍るように眠ったという。

「で、何を……している?」
「見てわかんない? こいつらを死人から死にぞこないにしてんの」

 もちろん死者を蘇らせる力などはない。あのおぞましい業により屍食鬼にしているのでもない。ヴェローナは、瀕死の怪我人に癒しの右手の力を注ぎ込み、救命の努力をしているのだった。

「なぜ、君がどうして?」
「聞かないでよ、わかったの、それだけ」

(死神じゃ悪魔は倒せないってのがね)

「ありとあらゆる意味で」と済まなそうにウルスラが言った。「この娘を船に乗せたあなたの判断は最善でした」

「何をいまさら」ヴェローナは不機嫌な態度を崩さない。
「死神と呼ばれたこの娘がこれまで何人殺したのか知りません。でも、もしかしたら今夜だけで殺した数より救うかもしれない」

 深淵より現れた異形の存在を撃退したのみならず、死に瀕する者たちに癒しの手を差し伸べているのだ。確実にヴェローナは多くの人命を死の淵より拾い上げた。

 そして、そのことに一番戸惑っているのが彼女自身だった。ヴェローナの右手に触れられた傷口はみるみるうちに塞がり、やがてうっすらとした痣となり、「痛い、痛い」と苦悶に震えていた負傷者の表情が和ぐのだった。

「右手と左手、どっちが自分の利き手だったのか、わかんなくなっちゃった」

 類まれな癒しの資質を持ちながら、殺しの左手を強制された逆摂者。部族の強力な兵器として仕立てられた彼女も、また運命を捻じ曲げられた被害者とも言えた。それがいま、本来のあるべき姿に立ち戻ったと見ることもできよう。

「悪魔め、わたしを変えやがって」

 口惜しそうに絞りだすその述懐に偽りはない。が、そこには怒りとも恨みとも違った感情が含まれていた。

「手の施しようのないまま死にきれないやつもいる。ルードウィン、あんたが楽にしてやるんだ」
「僕が?」
「あんたが分不相応にデカく欲しがった結末がコレだろ。こいつらにとっちゃ、死神はわたしじゃない。あんたさ。あんたなんだ」

 非情な眼差しがルードウィンに冷酷な事実を突きつける。まさしく反論のしようもない正しさ、大地よりも厳然とした事実がルードウィンにのしかかる。

「そうだな」
「お待ちください、ルードウィン様」
「ウルスラ、それを」と副官の腰から短銃を取ろうとするが、その手はひどく震えておぼつかない。
「後悔すんな。懺悔も。もう後戻りなんてできない。やりかけたことをし遂げるまで立ち止まるな。死者は赦しを知らない」

 ヴェローナは彼女自身へも、そのセリフの最後の部分を向けたはずだ。

 屍食鬼さながらの虚ろな瞳で、ルードウィンはコクリと頷く。あるいは聞き分けの良すぎる子供のように。

「ウルスラ、連れていけ。どこだ? この悪夢から解放されたがってる者は?」
「……ルードウィン様」
「もういいウルスラ。少しだけ静かにしていろ」
 
 数えられない銃声が放たれても、まだ夜は明けなかった。
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