疾走する玉座

十三不塔

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第四章 遡航

Coldstream Guards

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 痛みは遅れてやってきた。

 裂傷は肉を取り囲み、糸の輪をすぼめるように腕を切断していく。
 音も衝撃もない攻撃にレイゼルはなす術もなかった。右腕は、それが握った鞭ごと身体から離れてポトリと落ちる。

「――っ?!」
 悲鳴さえ、出なかった。

(なんだこいつは? グルー! ゼド! ネロ!)
 兄弟たち、コギト犬のグルーとゼドも主人と同様に輪切りにされて――荒れ果てた宮殿の庭園に転がる。

「しぃっ!」
 衛兵は口に人差し指を立て、静寂を乱すなと命じる。

「……おまえ!」
「宮殿の上をご覧ください。王室旗は掲げられおりません。女王は不在なのです。しかしながら我々は風紀と治安の紊乱者から守るために存在します。素性の知れぬ浮浪人、犬、敵国の軍人、感染症患者、酩酊した者、危険思想の輩などです。候補者《サーペンタイン》は宮殿への入場を許され、また望むなら女王への謁見も可能ですが、先ほど申しましたように女王は長い不在です。なお、犬の帯同は禁止されております。犬は禁止です!」

 警告は攻撃に先んじるべきだろう。暴力の後ではどんな言葉も無意味だ。
 赤のチュニックに黒い熊の毛の帽子をかぶった近衛兵は、容赦なく、さらなる攻撃のために腕を上げる。武器は見えない。あの腕が振り下ろされた瞬間、肉と骨が断たれて、血しぶきが舞うのだった。

(ロドニーの都市防衛機能のひとつか。……しかし、狂っている!)

 歯を食いしばってレイゼルは考えた。しかし、絶望は拭えない。未知の攻撃にさらされて北の白狼も無力だ。

 眼の前の脅威は無表情なだけに取り付くシマがない。羽根飾りのついた高い帽子に金のボタン。肩と襟には徽章が輝いている。

「なぜだ? ……こんなところで」

 庭園からは金色の天使を戴いたモニュメントが見える。と、思った時には、すでにレイゼルは倒れていた。犬たちに逃げろと伝えたが、一頭としてレイゼルを見捨てて逃走したりはしなかった。主人を守るため、チュニックの衛兵に立ち向かっては切り刻まれていく。甲高い鳴き声が耳にこびりつく。

(やめろ、おまえらもうやめるんだ。これは悪夢だ。悪夢なら……早く)

 出血のためにレイゼルの意識は急速に薄れていった。
 
 ×  ×  ×

 遡ること数刻。

 玉座を見つけたのは、確かナドアの野営地を出て四日目の朝だった。
 壮麗なる古代都市ロドニーの外観がわずかな糸くずのように地平線に現れると、犬たちはどこか落ち着かなくなった。兄弟たちを消耗させる暑さは薄れ、特に払暁の頃には、この土地は心地よい涼気に領されるというのに、犬たちの走りには迷いとためらいのようなものが感じられた。

(どうした? 行く手に不安をかぎ取っているのか?)

 レイゼルが眉根をひそめ、ズボンの生地で拭ったリンゴを一口齧った時、それは視界に飛び込んできた。

 ――疾走する玉座。

「まだ、こんなところに?!」

 砂漠で費やした時間を考えれば、もっと遠く行っていてもよかったはずだ。
 しかし、玉座は、まだ、追跡者たちの手の届く場所に居てくれた。それというのも玉座は一直線に走っているわけではないからだ。それはまるで子供が落書き帳にデタラメな線を走らせるように、一見、無秩序な動きを繰り返している。荒野に無数の見えない図形や文字を描くがごとく古代機械は走る。八本の脚はカサコソと昆虫のように地上をうごめき回り、土を掘り返していく。行く手をはばむ巨大な岩に何度も激突し、それを掘り崩してでも直進しようとする場合もあれば、小さな切り株をわざわざ迂回するような軌道を取ることもあった。

「不可解な」

 どんなふうにアプローチしたらいいのか、レイゼルには皆目見当がつかなかった。ウェスとスタンなら何か思いつくかもしれない。このような無軌道な機械の相手には、同じく放埓な子供たちが相応しく思われた。

(この機械は休むことをしないのか?)

 伴走すれば、何かこの機械の習性がつかめるかもしれない。レイゼルはまず観察に徹することに決めた。しばらくはこのデタラメに見えるこの機械の動きになにがしかの法則性を見出すのだ。不得手な仕事に向かおうとしている自分にレイゼルは苦笑いを向ける。

(こんなことをしてるうちに他の連中も追いついてくるかもしれぬ)

 ジヴというあの元奴隷と商人ガラッド。そしてベイリーも。

 やがて玉座を乗せた機械とレイゼルは、荒野の尽きるところに古代都市ロドニーと出会う。王都のいかなる尖塔よりも高く垂直に伸びる建造物。張り巡らされたガラスの壁面は埃に汚れているが、往時には、陽光を反射してピカピカに輝いていたに違いない。都市は地下にも広がっていた。

 ヴィンス・ターナーが王都の一部で開設した鉄道よりさらに発達した乗り物が地中世界を飛ぶように走っていたのだ。それは蒸気で駆動する列車などではなく、もっとスムーズで軽やかな代物だったはずだ。

「ロドニー、ハゼムの御代より前、王都がまだ泥濘と水溜まりでしかなかった頃、すでにこの街は栄華を極めていたというが……兄弟たちよ、驚きだな」

 玉座は石畳の広大な広場をところ狭しと駆け巡った。
 噴水のそばに、立派な石造りの柱があり、その柱頭には四頭のライオンと船乗りらしき男が彫刻があった。男の像は剣を片手にややうつむき加減に広場を睥睨している。都市は荒廃の極みにあったが、ロドニーの威容は衰えていない。ここに何百万もの人が暮らしていたのだという。

(どうしてこれほどの都市が滅ぶ?)

 物思いにふけるレイゼルは珍しかったが、周囲への警戒は怠っていない。時の停まったような廃墟とはいえ、そこに得体の知れぬ何かが住み着いているかもしれない。人の気配というべきものは一切感じられなかったが、犬たちの様子はまだ普段通りではない。

 ひとしきり広場を巡った玉座は、レイゼルの気も知らずに次の遊び場に移動するつもりらしく、八つの脚を器用に別々に動かしながら、滑るように走っていく。玉座を乗せた機械には、自分が追われているという認識はない。まるでレイゼルが見えないがごとく自由気ままに振舞っていた。

 ――そして到着した宮殿で、レイゼルたちは、と遭遇したのだ。

 犬橇《いぬぞり》は玉座より半エスローほど後ろにつけていた。玉座は遠慮なく庭園に踏み込み、好き放題に敷地内を散策したが、レイゼルたちはそうはいかなかった。庭園に侵入したとたんけ突風のような殺気を浴びせかけれた。犬たちはすぐさま牙を剥きだしにして唸る。

 手入れのされていない庭園に佇む――人のカタチをしたもの。
華美でおめでたい服装に惑わされてしまわなければ、それが苦痛と死をまき散らすために存在している何かだと気付くこともできたかもしれない。

「闖入者、紊乱者、冒涜者。排除対象は有機生命体、その数9つ」

 ついで繰り広げられたのは眼を覆うばかりの惨劇。

 レイゼルは自分が生きているとは思っていない。
 これは夢や回想ではなく、無へと墜ちた魂が生前の記憶を脱ぎ捨てる、その残された思い出の最後の一切れではないか。自分も犬たちも殺された。北の領主として何かを成そうと息巻いていたが、それが何だったのかすら思い出せない。すべては螺旋を描いて墜ちていく。冷たくも安らかな忘却の河へ。

「――もう二日だ。そろそろ眼を覚ますといい頃だよ、お嬢さん」

(誰だろう? もう少し眠っていたい。もう少しだけ)

「おやおや、悪いけれど、そろそろ食事を取らないとね。点滴だけでは痩せてしまうだろうし」  
「……誰、だ?」

 固く張り付いたようになったまぶたをこじ開ける。絹のような滑らかな声の主は、しかし武骨な大男だった。もみあげから顎までをぐるりと髭が覆っており、少し平たい鼻をまたぐように長い傷が走っている。

「起きろとは言ったが、まだ宙返りするには早い。この水差しから少し飲んでごらん、それから痛みがなければ、上半身を起こしてスープにひたしたパンを食べてもいい」
「生きている……のか?」
「もちろんだ、私が処置をした。トライロキヤ・ヴルーマン。ここの主だ」
「宮殿の中なのか?」

 しだいに意識がはっきりしてきた。記憶もまた鮮明になり、あの衛兵に腕を切断され、犬たちを殺されたシーンがよみがえってくる。

「運がよかった。アーロンが君にトドメを刺す前に交代の時間になったからな。ジャックスがここへ運んでくれたんだ。ジャックスもまともとは言い難いが、見境なしに殺しまくる趣味はない」

 レイゼルは、トライロキヤは不思議な体形に気付いた。半人半馬のケンタウロスのごとく四本の脚で立っているのだ。

「脚が弱ったのでね、400年ほど前から補助後肢の世話になっているのさ。驚くことはない君の右腕も同じ技術で補った」

 ハッとレイゼルはリネンの寝具から右腕を取り出してみる。失ったはずの右腕がそこにあった。トライロキヤの後肢と同じく、眼も眩むような精巧な機械仕掛けの芸術品だった。

「君のサイズに合うのを探すのは大変だったよ。優雅でかつ実用的なものは貴重だ。宮殿にもさほど残っていない」

 レイゼルは機械の指が意のままに動かせることに驚嘆した。滑らかに指だけでなく、手首も肘も可動する。

「力加減がちょっと難しいけど、すぐに慣れるさ」

 この部屋の調度や間取りに注意が向かなかったのは、レイゼルの寝ているのが天蓋付き寝台で、そのレースのカーテンがわずかな隙間からしか部屋の様子を見せてくれないからだった。とはいえ、ここがあの宮殿の中だとしたら、豪華で凝った内装であることも想像に難くない。

「不満かい?」
「いや、いくら礼を言っても足りぬ」

 美しすぎる機械の腕が自分の趣味じゃないからといって文句を言える筋合いではない。こうして居心地のいいベッドに寝ていられること自体が僥倖なのだった。

「どういたしまして。……ああ、もうひとつ、さっきから我慢できないみたいだから、いいかな」

 トライロキヤの背後から跳ねるようにベッドに飛び乗ってきた3つの影は、なんとレイゼルのコギト犬であるミレハ、ネロ、ワイムの三頭だった。

「おまえたち無事だったのか? ……おいっよせ」

 顔中を舐め回されてレイゼルは口を開くこともできない。

「すまないが、救えたのはこの三頭だけだ。死んだ犬たちが君を守らなければ、交代時間の前に君は殺されていただろうね」

 犬たちもまた機械によって生き永らえていた。元の姿を一番残しているのはワイムだろう。口ではなく喉に埋め込まれた拡声器から声が出ている。また切断された前足はスプリングとダンパーに換装されており、いままでよりよほど速く走れそうだ。他の二頭に至っては、ほとんどが金属とラバーに覆いつくされていたが、レイゼルにはそれがどの犬だったのか完璧にわかった。

「おまえたち……よく生きてたな」

 レイゼルは犬を三頭をいっぺんに抱きしめながら、憎悪に濡れた眼つきでトライロキヤを見据えた。

「あいつは何なんだ? なぜこのようなことを?」
「アーロンは居もしない主人の帰りを待ちながら巡回警備を永遠に繰り返している。宮殿の防衛システムと接続されているアーロンと矛を交えるのは自殺行為だよ。もし復讐したいのなら、やつをシステムと切り離すことが先決だ。どんな罪がやつをこんな労役に縛り付けたのかは知らないけれど」
「……この借りは高くつくぞ」
 血を吐くように言った。

「まだ、大人しくしていなよ。アーロンは逃げないし、君もしばらくは動けない。紅茶はどうかな? スコーンもある」
「腹は減ってるな」
「君さえ、よければ、ずっとここに居ていいんだからね。……ああ、本当に構わないんだ」
 レイゼルがスコーンを貪るように口に放り込んでいくのを眺めながら、トライロキヤはどこか寂しそうに言った。

「わたしはレイゼル・ネフスキー。トライロキヤ・ヴルーマン。あんたは誰なんだ? ここで何をしている?」
「……それを一番知りたいのは私自身さ」
 曇った顔付きはトライロキヤをどこか幼く見せた。

「なんだ、それは――ゲホっ!」
 激しくむせたレイゼルは口から粉を吹き出しながら、ベッドを降りた。

「まだ、早いよ。もう少し安静にしていないと」
「早い? 遅すぎるくらいだ」
 天蓋ベッドのカーテンを開け、広い部屋を見渡す。軽く見上げる高さに三幅の油絵が描けられており、真ん中のひとつは女性の肖像画だった。クリスタルのシャンデリアと装飾の彫りこまれた天井にレイゼルは圧倒される。

「凄いな」

 犬たちもレイゼルに従って、赤い絨毯が敷き詰められた床をそろそろと歩く。窓際まで来るとレイゼルはまたもや息をのんだ。気付かなかったが、もう夜だったのだ。

 しかし、その夜を明るく貫いて煉瓦と鋳鉄の塔がそそり立っていた。

「時計塔か」

 ぼんやりと光をまとわせた文字盤と針の位置をレイゼルは読み取ろうとした。驚くべきことに時計はまだ動いていた。住人たちが消えた後も、時計塔はひとり静かに時を刻み続けていたのだ。

 あの衛兵が宮殿を守り続けるように――機械仕掛けの都市ロドニーもまた永久に動き続けるのだった。
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