疾走する玉座

十三不塔

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第二章 レース

フランケル山脈②

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 ルゴーたちはもう一度装甲車を動かす前に、故障箇所のチェックを済ませ、必要であれば応急処置を施した。

 なにくれとなく手伝っていたウェスだったが「先に行くんだ。これは出し抜くチャンスだぜ」とルゴーに小声で促され、先発することにした。

「最後に聞きたい。その光で動くって機械もヴィンスさんの発明か?」
「そだよ。でも、じいちゃんは完成前に死んだ。残りは僕が引き継いだ。ただし、こいつは機械っていうより生き物に近いかな。とりわけ機関部は」

 ウェスは湖の特殊な藻を固めて作るアルガー・キューブについて簡単に説明した。

「ほぉ」
ルゴーとウェスの会話に、他のメンバーも手を止めて耳をそばだてるが、ベイリーの眼が光るといそいそと作業に戻った。

「植物は光を活力にするだろ。でもね、こいつはそれだけじゃないんだ。代謝のさい空間に張力を与える特性がある。ほとんど風のないアルカド湖に満ち引きがあるのはそのためさ。わずかな空間の伸縮をセルドウィッチ式コンバーターで推力に変えるアイデアは僕が思いついた。まだ改良の余地ありまくりだけどね」
「そうか。脱帽だぜ。……なぁ、うちの大将が国の天辺取った暁にはよ、おまえも王都に来るんだ。おまえなら最高の待遇で迎えるぜ。そっちのデカい兄ちゃんもな」

 調整が済んだ悪魔の中指ミドルフィンガーは、甲高い汽笛とともに勢いよく蒸気を吹き出した。

 二人と一匹の乗る船はといえば、対照的に音もなく滑走し、山稜をジグザグに縫っていく。玉座はおろか、レイゼルの犬橇の姿も見失った。彼らの進路からすれば雪崩に巻き込まれてはいないはずだ。

 光走船はしだいに高度を上げた。峰は急峻になり、地吹雪に視界は閉ざされてしまう。まるで白い繭の中に包まれたようだ。分厚い雪庇から何度も滑落しかけたり、クレバスを迂回したりしながら、ウェスたちはひたすらに進んだ。

 ――やがて、幕が切って落とされるように空が晴れた。

 薄い空気と極低温の世界。これ以上の高みに昇ることはかなわないだろう。船を降りて数歩も歩けば息切れしてしまうに違いない。ルゴーたちに貰った防寒着がなければ、寒さに肺の血管が破れてしまう危険がある。それほど、ここはウェスたちが慣れ親しんだ世界とは隔絶している。

「なんて静かなんだ。耳が痛いほどだ」

 スタンがひとりごちる。
 圧倒されているのはウェスも同様だ。すぐ目の前には、巨大は山塊がせり出して見える。それは驚くほど何かに似ていた。

「……竜」

 どちらともなく口にしたその一言は、しかしすぐに静寂の淵に落ちていく。

 フランケル山脈に伝わる伝説に竜は欠かせない。この土地において竜は架空の生き物と言うにはあまりにも真実味がありすぎた。この突き抜けるような蒼穹のもとに命の存在が許されるとするなら、それは竜において他にない。

「おまえたちも来たか」
 レイゼルだった。

 いつの間にか追いついてしまったらしい。そしてウェスたち同様、この空と山稜に想いを馳せていたのだろう。犬たちでさえ、吠えることやめ、この高地に漂うどこか神聖な気配に打たれたように静まっている。

「玉座は見失った。犬が足を挫いた。治療に時間を取られてしまった」

 一匹のコギト犬が後ろ足に包帯を巻いていたが、大事はなさそうだ。

「そう」
「やつらは?」

 ベイリーたちのことを言っているのなら、すぐに追ってくるはずだ、とウェスは答えた。ただし、この高度にあの鉄の塊が登ってこられる見込みは薄い、とも。

「噂をすれば」

 レイゼルが示す、山の中腹あたりに黒光りするシルエットが現れた。しかし、悪魔の中指のけたたましい蒸気の音はここまでは届かない。眼下にひろがる雪の裾野に鋼鉄の装甲車は小さくとも手強いシミのようで、その無骨さは、青と白が織りなすこの場所とは相容れそうもない。

「それは?」

 ウェスが次に眼にとめたのはレイゼルの橇に飾られた山吹色の鉱物だった。ウグイスを象った精巧な像で、革の小袋から頭だけが飛び出した姿は、可愛らしくもあり、小憎らしくもあった。

「ほう目ざといな。だが、わたしには似合わないだろう?」
「珍しい素材だ」
「長陽石というものさ。石といっても実は金属でな、ミレット合金にさらに数種の金属を加えたものだ。陽光を吸収しまた解き放つことができる。作物の栽培に適さない北の土地では、こいつのおかげで何千人もが飢餓より救われた」
「どう使うの?」

 ウェスの好奇心はとどまることを知らない。レイゼルもウェスの熱意に当てられてつい饒舌になってしまう。

「ある周波数の音を当てると貯めておいた光を内部から放出する。屋根のある場所で作物を育てることができるのだ。吹雪や害虫から守られながらな」
「思い出したぞ」ウェスは指を鳴らす。「じいちゃんが、光走船にも採用しようとしてた素材だ。結局、キューブのが効率的ってんでお蔵入りになったんだ」
「いまやこいつは北の生命線だ」
「でも、それは王都でなければ精錬できないはずだよね」
「ああ、それも間もなく解決するはずだった。王弟ルパート殿下の采配でな。私の領地に精錬所を建設する予定だったが、イルムーサにルパート殿下が謀殺され、計画は立ち消えになったのだ」

 王弟ルパートの北への肩入れは有名だったが、生憎ウェスは政治に興味はない。レイゼルの口調はいかにも無念を滲ませていた。

「長陽石をそんなふうに細工するのは難しいんじゃ?」
「ああ、世界にふたつとない品だ。死んだ母の形見さ」
「ウグイスは春の訪れを告げる鳥だよ」
「北の大地にも春は来る、そう願いたいものだな」

 その時だった。

 何かが視界の中で動いた。

 また、雪崩かと身構えたが……そこで彼らが見たものは、自然の驚異をはるかに凌駕する光景だった。

「……嘘だろ」

 岩塊だと思っていた。ほんの刹那の過去までは。

「こんなことが……」

 さすがのレイゼルも圧倒され言葉がない。
 犬たちは飼い主よりもずっと高位の存在に出くわした衝撃で凍りついたように動かないし、お調子者の猿は死んだフリでやり過ごすつもりらしい。

 ――伝説やおとぎ話の類だと思っていた竜。

 それがいま眼前に身じろぎもせずに在る。

「ま、まさか。高山病が見せる幻覚さ」

 取り繕うようにスタンは言う。人間は常識では推し量れないものを目の当たりにした時、このような反応を示すものだ。己の尺度に未知を押し込め、封殺しようとする。

「違う」とウェス。「同じ幻覚を見るはずがない」
「ってことは?」
「ああ、見える。隻眼の白い竜だ」

 そう応じたのはレイゼルだ。

 竜は、その古き存在は、ひとつきりの瞳でジッと人間を見つめていた。
 
 いや、見つめるのみならずゆっくりと語りかけてきた。

 ――わたしはラトナーカル。高き頂を望む人間よ。わたしはここに竜と呼ばれる存在として現前する。

 竜の声は思念として届く。低く厳かに、そして力強く。

「すげえ。あの翼はどういう構造なんだ? あの重量を支える揚力を生むには……」

 場違いなことを口走るウェスの横腹にスタンが肘をぶつけた。

「竜とは何だ? そんなものが本当に……いまこの眼で見てるわけだが、それにしても、まるで現実のこととは思えねえ」

 ――竜とは世界の外側、そして人の内奥に在るもの。

 レイゼルは身を乗り出す。

「どういうことだ。深淵な哲学なら間に合っているぞ」

 彼女の胆力は底知れない。人知を超えた、あまりにも巨大に存在に対しても覇気を損なうことはない。

 ――ありのままの真実だ。が、時として真実は理解を拒む。わたしは人の子が生物と呼ぶ存在であり、同時に非生物でもある。

「竜よ。では聞こう。なぜ現れた?」

 ――王たることを望んだ時、人は竜と出会う。

「わたしは王になどならぬ」

 ――レイゼル・ネフスキー。王たることは望むのは人ではない。その運命だ。

 美しい大理石のような鱗を波打たせて竜は告げた。

 隻眼の奥には虚空の手触りが。それは世界の窓だ。あちらには別の宇宙が拡がっていると言われても疑いはしない。
 
 ジャングルの大亀を捕らえた投げ網では竜を捕まえることはできそうもない。竜でも捕らえられると大言壮語したことをウェスは恥じた。

 ――レイゼル、スタン、おまえたちに竜紋《サーペイン》を刻むとしよう。ベイリーという男にもな。

「竜紋《サーペイン》?」

 ――王たるものの聖痕。

「何それ、って僕は?」
 ウェスは自分を指さす。

 ――ウェス・ターナー。おまえは王よりも多くのことを為すであろう。王であれ、神の眼より見るならば地上における定められたひとつの駒に過ぎない。ウェス・ターナーはウェス・ターナーとして地上での定められた遊戯を果たすがいい。自由、あるいは明察。すべてはその手の内にある。

「うむむ」とウェスは頭を抱えて考え込んでしまう。

「待て待て俺はただの漁師だぜ」
 弁解じみたスタンの主張を竜は悠然と無視した。

 そのもの言わぬ瞳はこう告げていた。
 
 ただの漁師であれば湖水地方から生涯出ることはない。ウェスの才能を言い訳にして広大な野に飛び出したのはスタンの意志でありその運命である、と。

 異変に気付いたのはまずはレイゼルであった。

「これが竜紋《サーペイン》?」

 レイゼルの首筋に浮かんだのは文字とも図形ともつかぬ刻印だった。

 ――レイゼル・ネフスキー、スタン・キュラム、ベイリー・ラドフォード。それがおまえたちを結びつける。

「なんだなんだ!」

 スタンは自分の身体をまさぐって刻印を探した。見つかったのは膝の内側だった。

 ――王とは多くを負う者のことだ。よって、おまえたちも負の記憶とその身に振りかかる痛みを分かち合うがいい。

「は、待て待て待てよ!」

 ――これをもって竜の承認としよう。
 三人は戸惑いを隠せない。この信じがたいの存在の思惑をもって勝手に事が運んでいく。

「それってまさか……」
 言いかけてスタンがうずくまる。

「やめろ、流れ込んでくる。やつの野望と後ろめたさ。姐さん、あんたの屈辱。鉄みてぇな矜持。その奥にあるのはとめどない憎悪。たまんねえよ」

「……これは」レイゼルも呻いた。

 それは闇の共有とも言えるものだった。

 秘められた知識は伝える。

 竜紋《サーペイン》を刻まれた者同士は、過去の負の感情や記憶を分有することになる。
 
 それだけでない、これより未来に感じる痛みも苦悩も共に背負うことになるのだ。三倍の苦悩、三倍の辛酸、三倍の悲歎を味わうことになる。

 それに甘んじて耐えることが王の資質だと竜は宣言したのだ。

 ――同じ寝所で眠る夫婦であって見る夢は異なる。おまえたちは敵同士でありながら同じ悪夢を見るがいい。同じ闇に、同じ憎悪に、同じ悲嘆に染まれ。かの初代王ハゼムもこの試練を乗り越えた。

「待て! なんで俺が! やめろ!」
 スタンはたまらず叫んだ。

 レイゼルはギリギリと歯を食いしばり瞳に炎を宿した。

「いいだろう。竜よ。試みを受けよう」

 ――さらば人の子よ。この時空において竜と人と交わるのはこれが最後となろう。これより先、地上は変貌する。蒸気と騒音、電熱と鋼鉄が竜に代わって統べるだろう。ウェス・ターナーおまえのごとき者が竜を屠るのだ。

 それだけを言い置いて、竜は消えた。

 忽然と、まるで白昼夢かのように。竜であったものは巨岩に戻り、眼を引きはするものの印象的なだけの風景と化した。

 ウェスは涙を流している自分に気付いた。

 竜と人とが離れるということに、このような胸を突かれるような喪失感があるとは。

 つい昨日までその実在すら信じていなかったものにどうして喪失感を抱けるのか。あまりにも不合理で理解しがたい、とレイゼルは思う。

 だが……これは白昼夢でも幻覚でもない。

「スタン・キュラム。その証拠に竜紋《サーペイン》は消えていない」
「……だな。ったく、厄介なことになっちまった」
「苦悩を共有する、か。おぞましいな」
「ああ。わかるよ。この
 スタンは膝のあたりに手を置く。

「誓って言うが、私は自分の痛みを誰にも明け渡したくなどない」
「俺だって、さ」
「しかし、お前からは仄暗い感情は流れ込んでこない」
「お気楽に生きてきたからな。迷惑かけずに済みそうなら結構だ」
「こちらは一方的に苦しみを押し付けてしまうことになる」

 レイゼルはいつになく戸惑って見えた。自分の痛みをこの若者に担わせることが忍びないのだ。

「ま、姐さんのせいでもねえし。確かに重いけどな。あんたの世界はここに似てる」

 冷たく切り立つような絶景。これは確かにレイゼルの心象風景そのものとも言える。

 スタンは虐げられた北の民の哀しみを感じてしまう。いやすでに知っているといえばいいか。竜紋は心の砦に橋梁を造り出す。そこを通って――無慈悲なまでに――心の暗がりが混じり合う。

「だが、悪い事ばかりではない。この先、我々三者は互いに攻撃を仕掛けることはできない。妨害はしても敵意はない。苦しみは否応なく共有されてしまうのだから」
「ああ、この競争は真っ向勝負になるな。せこい小細工はなしだ」
「ただし、ガラッドと言ったか。あの男は別だ。この三すくみの外にやつはいる」
「あいつだけは、やりたい放題ってわけか」

 そうだ。竜紋《サーペイン》が王になるための資格であるならば、ガラッドにはそれがないことになるが、あの男がそんなものを意に介すはずはない。

 それにもはや――ここは竜のいない世界なのだ。

 伝説は語る。竜の予言は必ず的中する、と。たとえそれが不在の竜であってもだ。

 竜はこう言いたかったのだろう。

 ガラッド・ボーエンやウェス・ターナーのような人間は聖なるものの承認など必要としない。貪るにしろ、切り拓くにしろ、己の本性のまま、それを為すほかない。

 世界を変えるのは権威をまとう者ではなく、それを踏みにじる者であるから。

 ともあれ、玉座を望む者たちは、竜との邂逅を果たした。

 進むべき道は示された。
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