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第三章 虹と失認
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あらゆるものが銅音の威光に恐れをなして縮み上がった。
ソファーが、バーカウンターが、スロットマシンが――しゅるしゅると退縮してちびたミニチュアになる一方、部屋が巨人となった銅音を締め付ける拘束具となる。どんどんと四方の壁が迫ってくる。これもアリスの見た不思議のひとつだろう。距離感とサイズが狂ってしまえば、大きくなろうが小さくなろうがゲームには不利だ。いや、むしろ不可能だろう。
小人となった佐倉結丹はどうだろうか。
これは銅音の認識における変化だったにしろ、佐倉の心理状態を察知し、それを反映させた姿であることには間違いなかった。敵は縮み上がっている。それは確かだ。イカサマを喝破し、手の内を暴いたのだから。
(イカサマは露見したよ。もうわたしたちの勝ちでしょ)
『全然よ。まず、それを漆間が仕掛けたと証明することはできないし、奴は認めることもない。不正を取り除いてフェアな勝負にする。わたしたちはようやくそこにこぎつけたに過ぎない。フラットなスタート地点に戻ってきた。それだけ』
(たったそれだけ?)
銅音は星南に内なる声を荒げた。星南は銅音の怒気を受け止めて、もつれた心の波長をまた鋭敏な集中力で取りまとめようとしてくれるが、いまでは、そのお節介が煩わしい。とはいえ、それは不可欠なフォローで、銅音の思念が横溢したあげくに暴走すれば、二人は断絶してしまう。〈オムニバス〉に熟練した星南がパートナーでなければ、とっくに銅音は敗北していただろう。
『もう思い切ったことはできないはず。ガラス片の散らばった卓上ではボールの挙動が読みにくい。下手すれば相手に与することにもなりかねないから』
「オーケー、あなたを信じるよ」声に出して銅音は言った。「このままで勝つ」
「やかましく騒ぎ立てたわりには、結局、なーんにもしないんだ」
打ちひしがれた小人だった佐倉が、倒れ伏したままニタニタと笑いかける
どうやら狸寝入りだったようだ。旗色が悪いと見せかけて、敵の油断と慢心を誘ったのか。漆間のやりそうなことだ。いや、これは虚勢だ、と星南は断じた。むくむくと佐倉は元のサイズに戻っていくが、部屋そのものはまだ小さく狭苦しい。まるで二人の少女が金庫のような箱に押し込められていると考えてもいい。汗の匂いと乱れた呼吸が間近に感じられる。
「遊んでないで投げなよ」
「言われなくたって」ふわりと重力を感じさせない身軽さで佐倉は起き上がると、新しい水晶を手にした。左手の肩がだらりと下がっている。倒れた拍子に打ちつけたのだろう。痛みを感じているのかいないのか、おそらく象への銃撃のショックで脱臼した肩が癖になっているに違いない。漆間は佐倉の身体を酷使し、すり減らすことを意に介しないが、それもまた心理戦の一部を成しているのだから心を揺さぶられてはならない。
佐倉には本当にリキュールの効果はないのか。そんなはずはないと星南は睨んでいた。たとえ、効果そのものに耐性があったとしても、それは効果を鋭敏に感じられなくなっただけで無害であることを意味しない。さっき佐倉の身体が巨塔のように見えていた時、銅音たちは彼女の膝の震えに気が付いていた。ヒールからのぞく足の甲は筋張って血の気を失っていた。物凄い力で、つま先が靴底を噛んでいるのがわかった。塔は揺らいでいただけではない。崩壊しかけている。アリス症候群のおかげで、普段であれば見逃してしまいそうな細部を間近に眺められた。
「強がらなくていいよ。佐倉結丹。あなたは酷使され続けてきた。期待に応え続けてきた。働き者のロバみたいに」
「あなたは口を動かしていればいい。わたしは勝負を動かす」
佐倉ははじめて投擲を外した。球は落ちない。
砂を噛むような味気のない表情。内側で漆間に責められているのか。しかし、それは両者の乖離が進めるだけだ。
「確かに――」と星南が意地悪く微笑む。「これで勝負が動いたかもね」
ポーカーフェイス。こちらにも余裕などありはしない。ハッタリと虚勢で心理的優位を保ち続けるほかない。銅音と星南は、共有する一対の眼を塞ぐ。どちらにしろこの狂った距離感において投擲の成功は望めない。むしろ視覚情報を絶って、手と腕が記憶している距離感を信じたほうがいいだろう。
漆間は怯えている。すべてを剥ぎ取られることに。
佐倉は震えている。すべてが薙ぎ払われることに。
――どちらにしろ植え付けるのだ、奴らに恐怖を。
部屋は縮んだというのに水晶は、地球儀ほども大きいままだ。銅音は手の内のそれに口づける。唇に伝わる温度に変わりはない。手の重みも。眼を閉じる。そうすればそこは静かな等身大の世界に還る。
アリスは不思議の国を手中に収めつつあった。
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