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第三章 虹と失認
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油断した、と奥村は汗にまみれて歯ぎしりをする。
背中に鈍い痛みと熱感がある。深層強化駆動要綱を解いた瞬間にそれは起こった。
握りつぶした沓名の拳から、鋭いボルトが突き出ていた。数限りない戦傷のため補強用に埋め込まれたボルトやプレートはそのまま凶器ともなり得る。ちょうどレバーの裏側にボルトがねじ込まれたのだった。自身の傷口から突出した金属で他者の身体に別の傷口を作り出す。それは呪詛のような連環。そして傷口と傷口を結ぶ金属の橋でもある。
「て、てめえ、しつこいぜ」振り向きざまに肘の一撃で沓名を沈めた。
が、卒倒した沓名の顔には満足気な笑みが浮かんでいた。ヘタ打ったな、と醜い寝顔が奥村を嘲笑しているようだ。
――キドニーブロー。
ボクサーがレフェリーの眼を盗んで打ち込む急所のひとつ。そこへ深々と凶器が侵入したのだ。奥村は沓名を見下ろした。執念深い男だった。
「根性あんじゃねえか‥‥汚ねえ政治家に飼われてるワンコロにしちゃ」
悪罵を投げるその呼吸も荒い。本当であれば、このまま救急車を呼んで治療室に送り込まれるはずの深手だった。しかし、奥村は〈パラドクサ〉へ戻るだろう。女子高生をたったひとり――いや二人だ――戦わせたまま自分だけ引っ込むわけにはいかない。それが大人としての義務? それとも矜持か? いや、そんな真っ当なものではない。
奥村は、激痛を堪えながら〈パラドクサ〉へ続く地下へのカーゴエレベーターのボタンを押した後、ぎこちなく振り向いた。入り組んだ経路を経てしか辿り着けない悪徳の宴に戻る前に少し寄り道をする必要があった。
が、出血は夥しい。不器用にシャツをめくって非売品の高性能止血パッドを傷口に押し当てたものの、こんなものは急場しのぎの応急措置にもならない。大量に摂取したアルコールのせいで亢進した血流は外へと漏れ出して奥村の体力を根こそぎ奪っていく。
悪所へ通じるカムフラージュの厨房。その用のなさない調理台に這い上って換気扇を外して奥を漁る。奥村はそこからキッチンペーパーとラップに包まれた塊を取り出して懐に収めた。手はべとついた油に、脇腹は血に汚れている。ずっしりとした重みが傷口に響く。ぐっと思わず苦悶を漏らしてしまう。使われぬモデルルームのような厨房では見咎める者は誰もない。なのに換気扇だけがリアルに油じみているのは辻褄の合わぬ演出だった。ここはアンバランスな不思議の国だ。水晶に映じた歪んだ現実と言ってもいい。
すると、ちょうどエレベーターが五階に停止し、暗い地下へと続く扉を開いた。
新鮮な空気もこれが吸い収めだとでも言うように奥村は荒く息を吸った。
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