秘色のエンドロール

十三不塔

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第三章 虹と失認

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 ――奈落の六穴。
 この部屋で行なわれる数少ないゲームのうちのひとつ。ルールは単純である。ビリヤード台の長辺に相対する一定の距離から交互に球を投げる。ボールを六つのポケット全てに落としたプレイヤーが勝利となる。一投ごとに投擲者は交代していくが、ボールをポケットさせた場合は連続してプレイすることができるのは、多くのビリヤードゲームと似通っている。
「コントロールが物を言うってわけですね」
 少女たちは、事前にリサーチした背徳の間における遊戯の中で、一番運の要素の少ないものを選んだつもりだ。これは中立であるはずの〈パラドクサ〉にさえイカサマを仕込まれることを警戒しての話だ。漆間の権力がどこまで及んでいるのかは未知数だったが、自身の偏愛するゲームにだけはフェアに臨むであろう。希望的観測であっても、銅音たちはそう信じるほかなかった
(今まさに裏で必死に手を回してるかもよ)
『時間を与えちゃダメ』
(このゲームの肝はここから。わかってる?)
『もちろん、これはただの球投げ遊びじゃない』
 タキシードの女がワゴンに六つのグラスを運んでくる。それぞれに形の違うカクテルグラスに、それぞれに色の違う液体が湛えられている。分光された虹のようだ。女が退場すると漆間は遊戯のルールについてさらなる説明を加えた。
「ここにあるリキュールには、脳の各部位に一時的とはいえ変調をもたらす成分が含まれている。頭頂葉、前頭葉、側頭葉、後頭葉、小脳、脳幹の六部位だ。相手がボールをポケットさせる度にそのポケットに対応したリキュールを飲んで貰う」
 言いながら、漆間は六つのポケットの側のクッションレールにグラスを置いていく。四つコーナーポケットに二つのサイドポケット――藍色以外の虹の七色が、小さな奈落に添えられて艶めいた。ひとつ飲み干すごとに脳は常態を失っていくだろう。それは投擲において甚大な不利を引き起こすに違いない。先程まで数字が並んでいたスクリーンに今度は脳のモデル図が浮かび上がってくる。脳の各部はカクテルと同じ色に塗り分けられている。
「つまりこんなゲームだ。理解したかな?」
 各グラスは一種類につき、ひとつきり、つまり同じポケットに何度球を落としてもリキュールは注ぎ足されることはない。ひとつのリキュールを口にするのは、常にどちらかひとり。
「三種類以上のリキュールを摂取したら、おそらくゲームを続けるのは困難だろう」
「もし万が一すべてのリキュールを飲んだとしたら?」
「もちろん」涎を垂らさんばかりに漆間は断じる。
 ――死ぬよぉ。
 真正のサディストの舌なめずりはどこまでもおぞましい。漆間は少女の生を――それとも死を――しゃぶり尽くすつもりなのだ。
「使う球はこれです」と佐倉結丹はコンタクトジャグリングに使うものより一回り小さなクリスタルボールをケースから取り出して見せた。ビリヤードボールほどのサイズで、滑らかなベルベットの内張りの窪みに全部で十五ほど収まっている。これを交互に投げていくわけだが、滑らかに加工された球面は取り落としやすそうでもある。
「確認し残したことはないか?」と漆間。「なら、そちらに移ろうか――」と言いかけたままベースボールシャツの男は崩れ落ち、伏したまま痙攣を繰り返す。〈オムニバス〉を急速に解消した場合、こうしたショック症状が出ることがある。
「ふむ」と何度か手を握る動作を確認しているのは佐倉結丹だった。「ああ、やはりこちらの身体は具合がいいな」そういう表情のどこかに漆間の険相が乗り移っているところを見るとどうやら〈オムニバス〉の相手を替えたらしい。
「ちょこまかと」
「運動性能はこちらの方がいいのでね。用途に合わせて道具を替えるのはおかしなことじゃあないだろう?」
「あの男は? ひどいじゃない」
「どこかのコゲついたいた債権者さ。使い捨てだ。たとえ死んだって悲しむ者もいない」
 さっきまで傲岸不遜に見えたベースボールシャツの男は、驚くほど素っ頓狂で愚鈍な顔つきになった。まるで憑き物が落ちたようだ。
「邪魔だ。消えろ」
 冷酷な少女の声で命令され、四肢をばたばたさせながら床を這った男は、ようやく立ち上がったかとみるや悪霊に追われるホラー映画の人物さながらに部屋の外へと遁走するのだったが、足を滑らせて転倒、頭部を激しく打ち付けて見事に気絶してしまう。
「まったく不様だな」と佐倉であり、漆間である女は言った。
「佐倉結丹。この娘はどうして?」
「理由は忘れたよ。臥織星南と同じく、誰かに献上されたのかもしれない。どうあれ私の玩具のひとつだね。壊れるまで遊ぶさ」
「クズ野郎」と星南は言った。
「わたしは少女たちに繋がった無数の首輪の鎖を持っている」
 見えない手綱を握る仕草で漆間は片手を差し上げた。
 ――ジャラリ、と冷たい金属音が聴こえた気がした。
「君の首にもほら、もうすぐ鎖がかかるだろう」
 吐き気を催させるような台詞は、しかし薄い桃色の少女の唇から発せられていた。綻びかけた蕾のような、まだ蒼い芯を残した少女たちは対峙する。
「先攻後攻の互いの投擲が終わったらば、ひとつのラウンドが終了する。その回のペナルティはその時点で課せられることになる。だから先攻と後攻に有利不利の差はない。5ラウンドを終えて立っていた方が勝ちだ。ひどく簡素なゲームだが、それだけに原初的な喜びがある。モノを投げるというのは、狩猟時代の遠い記憶を喚起させるからね」
「詰まらない御託はいいよ。ポケットに落ちずに卓上に残ったボールはそのまま止め置かれたままになるの?」
「ああ、ボールを含めた卓上のすべてはゲーム全体を通して、いかなる事態が起ころうと触れられることは許されない。ただ水晶の球だけが運命を動かすことになる」
 では先攻と後攻を決めよう。漆間はそう告げた。
 どちらが有利になるのか、そこに差はないと説明されたが、それを頭から信じるほど初心ではない。目の前にいるのは少女の皮を被った外道だ。嘘や不意打ちはもちろん、不利になればなり振り構わない横紙破りもやってくるだろう。油断は禁物。相手に選ばせておいて、その逆で押し込もうと銅音たちは考えた。つまり相手が先攻を選ぶのであれば、自分たちを先攻にしろと吹っ掛ける。後攻を選んでも同様だ。
「あなたが決めていいわ。漆間? それとも佐倉結丹さん?」
「なら、わたしは後攻――」
「やっぱり気が変わった。こっちが後攻で行く」
 すかさず銅音たちは言葉を差し込んだ。くつくつと笑う佐倉の喉の白さがやけに眩しく映る。小賢しい警戒心だと微笑ましく見下しているのか。
「いいよ、そうするといい。しかし、そんな君たちの行動を見越して後攻だと言ったのかもしれないよ。疑い出したらキリがない。心理戦でわたしを凌げると思っているとしたら愚かだと言う他ない。泥仕合に持ち込もうとしても無駄だ。勝つのはわたしだ。それともやっぱり先攻にするかい?」
「しつこいな。やっぱり後攻がいいの?」
「いいや。お好きな方をどうぞ。安い嘘はついていない。ただこのような馬鹿げた応酬に心を惑乱させるのはわたしではなく君だけだ」
 ふん、と星南と銅音は鼻を鳴らした。
 心理戦? 泥仕合? 敵は言葉で縄のように私たちを絡めとろうとしてくる、気をつけろ、たとえ年寄りであっても、互いを出し抜く権力の戦場おいては百戦錬磨だった男。こちらより何枚も上手だ、と銅音は警戒を強めた。そして星南がジェスチャーを入れて断言する。
「ストップ。先手はそっち。これ以上の駆け引きはしない。時間だってたっぷりあるわけじゃない」
 二人でひとりの少女は、部屋の壁にプロジェクターで投影された時刻を見やった。
 ――22:31
 銅音のダイバーウォッチとの誤差は一分に満たない。
 これより〈奈落の六穴〉が開始される。
「さあ、このフロアに描かれた迷路の外周から投げるの。見本を見せるわ」
 この時だけ、佐倉結丹は彼女自身に戻ったように言う。そしてビリヤード台に背を向けると左手を無造作に振った。水晶球の限りなく不可視の軌道を銅音は眼で追ったが、無駄だった。気付いた瞬間には、卓上よりゴトリと重い音がして、すでにボールがポケットに落ちたのを知った。あまりに流麗な動作だったために意識が追いつかなかったのだ。
「Dポケット!」
 銅音たちから見て右奥のポケットに光線が当たった。黄色いリキュールが溶けた黄金のように輝いた。このラウンドが終わったら、銅音と星南はあのグラスを煽ることになるのだ。
「ボールを落とせば。連投できる。おっと、もしかしたら先攻が有利だったかな。せっかくくれてやったアドバンテージを蹴ったとなると――」
 また醜悪な政治家が少女の中から顔をのぞかせる。何度見ても慣れないだろう、グロテスクな変身劇だ
「ふふふ、このままもしかたしたらゲームは幕を閉じるかもなぁ」
 奇跡的な確率ではあるが、完全にミスなくすべてのポケットにボールを落とし切るのなら先攻は自分の手番のみでゲームを制圧できる。後手は指一本動かさぬまま敗北する。銅音はその可能性に思い当って戦慄した。
(佐倉の腕は相当なもの。でも本当に背中向きであれほどの精度を?)
『訓練次第では可能だと思うよ。漆間は全財産を賭ける勝負に乗ってきたということは二重三重の安全策を講じているはず。必勝の根拠をね』
(そのひとつが佐倉結丹の確かな腕前ってことか)
 学園祭で見たジャグリングの手並みは達人級だった。若くして、あれほどの技を完成させたのなら、同じ水晶球での投擲も同じだけの完成度に至っていても不思議ではない。漆間は意識を保ったまま佐倉の運動性能だけを自在に行使している。
(そこに齟齬はないの?)
『なければ作り出すしかない。佐倉結丹の意識をもっと前面に引っぱり出せば何か活路が見いだせるかも』
 銅音と星南の密談は悟られてはならない。あくまで少女はひとりなのだ。
「ねえ」と星南は佐倉に話しかけた。
「投擲前に集中を乱すのはマナー違反だぞ」
「漆間。あなたに話してるんじゃない。佐倉結丹によ。どうしてこんなクソ野郎の乗り物になってるわけ?」
 佐倉は応えない。しかし二人は揺さぶるのをやめない。
「無駄だ。この女はおまえと違ってよく躾けられている」
「そっちこそ無駄。あなたの内側にいる少女の耳を塞ぐことはできない。ねえ、佐倉さん、あなたは何を人質に取られてるの? ここでわたしたちが勝てば、この男は権力の大半を失う。わかるでしょう。どちらに加勢すべきか」
 ぴくりと佐倉のこめかみが震えた。この反応が漆間のものなのか、その宿主である少女のものなのかは見分けがたい。
「ねえ佐倉さん」しつこく銅音たちは訴えかける。
「うるさい」それは佐倉か漆間のどちらの声だったろうか。
「ふん、せこい悪あがきはよせ」クリスタルボールを魔法のように操る佐倉の細く繊細な手が、彼女自身の胸をまさぐった。もう片方の手がスカートの襞をくぐって股間を這う。
「どうだ? このガキはわたしの意のままだ」
 得意満面の顔つき。しかし、そこに佐倉自身のであろう、恥じらいと抵抗の歪みが時折混ざる。混線したふたつの電波のようにざらざらとしたノイズをまき散らす少女の表情は憐れなほどに滑稽で――あろうことか煽情的でもあった。
「やめなさい」と星南が手を振り上げるのを銅音が内側から制止する。とめどのない激高が銅音を硬直させる。いや、それはむしろ星南の怒りだった。あまりの感情の奔流に銅音は圧倒され、その憎悪を自分のものと勘違いしたのみならず、完全に身体の制御を星南に明け渡してしまった。漆間に嬲られ、玩具にされてきた星南だけが佐倉結丹の絶望を、隷属のおぞましさを知っている。
(いけない!)
 ここで不用意に敵に触れてしまえばゲームが有耶無耶になってしまう。千載一遇のチャンスを失ってしまうのだ。ひとつの身体の中で葛藤を起こす二人の少女。まるでぎくしゃくとしたパントマイムのように、それは不自然だった。そして不自然さは常に付け入られる隙となる。
「――そうか。おまえの中にもいるのだな。もうひとりが」
 ジッと銅音を観察していた漆間は、はっきりと抜け目なく真実に到達する。さらに銅音たちの反応を待つまでもなく、クスクスと笑い出す。「まったく愚かな少女たちだ。こちらを揺さぶろうとして自分の弱点を晒してしまうとは」
「だったらどうなの?」もはや星南は隠れていない。「わたしもその娘もあなたの首輪にずっと繋がれてはいない」
「ほう、どこかで聞いたことのある口調だ。そうかおまえは臥織星南。ああ、わたしの心地のいい着ぐるみだな。なぜそこにいる? 君はわたしのために常に健康に麗しく待機していなければいけないだろう?」
「ふざけないで」叫んだのは銅音も一緒だった。「わたしは自分で戦うために来た。漆間嶺。おまえからすべてはぎ取ってやる。もうすぐだ。勝つのは絶対にわたしたち」
「ふん、よかろう。どういう事情かわからんがな」と余裕を見せつけたところで、佐倉結丹にスイッチした。冷めきった感情を置き去りに言葉が流れ出る。「投げるわ。あなたたちに二杯目のリキュールを飲ませる。そうなれば下らない遊びは終わり」
 なぜ、佐倉が出てきたのか。感情を揺さぶったからかもしれないし、投擲の動作の前になると漆間の支配権が薄れるのかもしれない。前者だとしたら、残酷だったが、この挑発をギリギリまで止めるわけにはいかない。
 いま一度、佐倉は所定の位置に前を向いて立ち、
 ――投擲の予備動作に入る。
「今度は余裕かまして後ろ向きには投げないのね」
「ふん」銅音たちの姑息な妨害をものともせず、佐倉はボールを投じた。
 弧を描くクリスタルの軌跡が鮮明に見える。どんな邪な手によって描かれた放物線であっても放物線である限り美しい。新雪のような純白の羅紗に落ちたボールは二度、卓上のクッションに跳ね返り、またもやポケットに――それも先ほどのものではない未通の穴に――するすると向かっていった。
 ――まずい!
 銅音たちは身を乗り出した。
 透明な軌道が、少女たちを押しつぶそうとする。
 先ほど陥落したDポケットと対角線上にあるAのポケットへ向けて、水晶球は直進しつつあった。どれほど口舌を弄しようとも、これを阻む手立てはなかった。まだ一投すら行わない段階で――やはり先攻を選ぶべきだった――致命的なダメージを追うことになるとは。
「入るな!」
 矢も楯たまらず銅音は叫んだ。
 これで終わる。
 ――と、その虚しい願いが通じたようにボールはわずかに運動線をズラした。クッションの角に突かれたボールは対となるもう片方の角へとそれを跳ね返す。奈落の手前の狭小な隘路を小刻みにバウンドする透明な球体は、まさに運命に翻弄される銅音たちのように何度も壁に叩きつけられる。
 それでも。ボールは――「残った」
 そう奇跡的に卓上に止まった。しかも限りなく穴に接近した場所、軽くかすめさえすれば、あっけなく落ちるだろう位置にだ。ルールにある通り、あらゆる局面を通じて卓上の状態には不可触である。誰かの残したボールはそのままのコンディションとポジションとでゲームは続行される。ピンチは一転してチャンスとなる。さらにこのゲームはビリヤードと違って自玉すら落としてもよいルールなのだ。
「ざ、残念だったね」と精一杯の強がりで銅音は言った。
「簡単に終わっては面白くないからな」対して、漆間の態度は虚勢に見えない。
『あの瞬間、不自然にボールが』内側の星南が首を傾げる。
(うん、わたしも思った。でも確かじゃない。透き通ったボールは軌道も回転も見えづらい。でも何かが)
 生身の会話よりも迅速に、刹那の間に銅音と星南は意志を伝え合うことができたが、それもまた漆間に見抜かれていた。
「ガールズトークか」
 銅音たちは身震いする。
「おしゃべりは終わったかな。オムニバスの内的コミュニケーションは手っ取り早くて気楽だが、あまりにスムーズな意志疎通は自他の境界を曖昧にしてしまうから注意が必要だ」
 苛烈な権力闘争を生き抜いてきただけあって、漆間の洞察力は侮れない。目前の敵は強大なのだ。何度言い聞かせても過ぎることはない。
「手加減したのは、勝負を長引かせて君たちの落胆をたっぷりと拝みたかったからだ。ひとつひとつ毒杯を重ねて淫らに酩酊していく少女の姿をね」
「好きに楽しめばいい変態野郎……次はわたししたちの番だね」
 ついに銅音たちは水晶球に手を触れる。体温を拒絶するような冷たさ。ビリヤード台の羅紗は凍土のように真っ白だ。手づかみの死。その重みを二人はゆっくりと確かめる。
 芙蓉祭で佐倉のコンタクトジャグリングを見物した時、森下はこう言った。
 ――透明で透き通って見えるものだからといって何も隠してないってわけじゃない。
 さっきも似た台詞を耳にした気がする。そうだ。成形されたクォーツ。美しく削られた二酸化ケイ素。この透過性に騙されてはならない。静かに滴るように息を吐いて、コンセントレーションを高めていく。ひとつの身体の内側で、銅音は背景に退き、星南を前面に押し出す。漆間と佐倉がしているのと同じように、よりこの競技に適したパーソナリティに主導権を渡すことが肝要だった。幼時より蹄鉄投げに親しんでいた星南はうってつけだったが、ここにひとつ陥穽がある。
「気付いたか?」さきほどの意趣返しのように漆間が声を差し込んでくる。
 星南は集中を乱さない。だが、銅音は少なからず動揺してしまう。
「いくら投擲に長じた者が出てこようとも、その身体が他人のものならば、どうなるかな。慣れない着ぐるみで上手く踊れるものか」
 憎らしい敵は核心を突いてくる。
 そうなのだ。いくら投擲技術において銅音を上回る星南に任せてところで、この身体の特質は――筋力もバランスも体重も本来の星南のものではない。オムニバスを数限りなく繰り返した間柄ならともかく付け焼刃の相乗りで他者という乗り物をうまくハンドリングできるのかは怪しかった。齟齬のある心身を即興でハーモニクスさせるのは至難の業である。
 その点、敵のコンビは役割分担が明確だ。投擲の場面においては心も身体も佐倉のものとなる。競技の合間の心理戦には老練の政治家たる漆間が乗り出してくる。悔しいが、これは理想的なコンビと認めざるを得ない。
「星南。おまえがその不様な着ぐるみを纏ってわたしを追い落とそうとしているのは天晴れだ。淫らな興奮が高まるよ。次の貸出が楽しみだ。おまえという柔らかな肌を纏うのがな。どうやって快楽に溺れようか。苦痛に悶えようか」
「貸出サービスは終わり。首輪も着ぐるみも全部取り払って――わたしは」
「自由になれると?」
 分不相応な夢を見るなと漆間は笑う。
「支配と従属は聖なる分業体制だ。人類の曙からそれが見失われたことはない」
「黙れ」悲痛に唸りつつ星南は水晶を放った。それは天井すれすれの虚空を泳いで、滑らかな白い平面に接地する。未開の処女地のような白い羅紗の上を透明な球体が滑っていく。
 漆間の挑発と撹乱にかかわらず星南の集中は乱れなかった。
 さらにボールもまたAポケットへ、先ほどの投擲で残留したもうひとつの水晶球のもとへと転がっていく。同時に二つのボールが落ちれば、漆間に二杯のリキュールを飲ませることができる。三杯飲めば確実に戦闘不能となると漆間は言った。ならば二杯を奴の胃に注ぎ込めばチェックメイトは確実だろう。
「行け!」星南たちは息をするのを止めた。
 ボールの進路は間違いなく、Aポケットに吸い込まれる必勝のラインに乗っている。ただし、速度と勢いにおいて――
「大丈夫」
「届かないな」そう重々しく漆間が予言した通り、なんと髪の毛一本ほどの距離で二つの水晶球が触れることができなかった。カチリという澄んだ音は聴こえなかった。ポケットの手前に陣取ったボールに触れなかったということは当然、ボールはひとつとして穴へ吸い込まれなかったことになる。
「なんで」ふいの脱力が銅音を襲った。
「ふふ、惜しかったじゃないか。コントロールは完璧だったが、少々力強さが足りなかったな。やはり着ぐるみが窮屈なのではないか?」
『やっぱりおかしい。ボールのスピードが不自然に減衰した』と星南。
(うん、間違いなくブレーキが掛かった。強いバックスピンが掛かっていたのではないとしたら何かの力がボールに作用してる)
 二人は確信した。漆間が仕掛けた術策を暴かない限り勝ち目はないと。しかし、それがなんであるのかわからない。
 考えるんだ、と銅音は自分を駆り立てる。投擲に不向きな彼女が星南と組んでいる意義はそれしかない。麻雀でのイカサマを見破ったように敵の尻尾を掴むこと。
 ――糸口はどこだ? 
「さて1ラウンドが終了したな。ここでペナルティが課せられる。我々が落としたDポケットに位置するのは緑色のリキュールだ。これは後頭葉に作用する。それぞれのリキュールは相応する各部位に影響を与えるが、効果のほどは人それぞれだ。まったく効き目ない者もあれば、たった一口でノックダウンされてしまう者もある。マイルドに機能を鈍麻させることも多い。多くの者は一杯目を耐えられるようだな。見ものなのは二杯目から、いくつかのの部位への複合的な影響が現れはじめた時でな」
「御託はいい。あれを飲めばいいのね」
 部屋の証明が消えた。残ったのはDポケットを照らし出すスポットライトと壁に投射されたデジタル時計の数字だけ。下らない演出は必要ない、と銅音は苛立つ。
 ――22:48
 こうしてラウンド1は終了した。
 銅音はコーナーのクッションの上に置かれたソーサー型シャンパングラスを持ち上げた。それを傾けて口の中へと注ぎ込む。暗がりの中で漆間が下卑た笑みを浮かべたのがわかる。まだリキュールの作用は現れない。なんだ、大したことはないのか、と銅音たちが警戒を和らげたのも束の間――ブルンと世界が身震いした。
(な、何?)
 色彩が沸騰した。背徳の間を彩る無数の色が凶暴に沸き立っていた。部屋のライティングが戻っても、銅音たちは不可解な変化の中に取り残されたままだ。銅音はまったく色を区別できなくなったことに気付いた。手足ががくがくと戦慄いた。
 ――22:49
 恐る恐る漆間であり佐倉である人物を見てみれば、
 ――消えていた。
 佐倉結丹の端正な顔が、すっかり跡形もなく消え失せていた。

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