18 / 38
第三章 虹と失認
2
しおりを挟む2
重たい扉を通り抜ける間に、銅音の身体をスキャンしたテクノロジーは〈パラドクサ〉が誇る精密な装置であった。舌先を検出紙にあてがうと無事に銅音のものでない遺伝情報を感知された。カンボジア生まれの防疫システムを転用したというセキュリティによって三つの悪徳は認証される。ここで〈オムニバス〉が露見しないかと心配だったが、何事もなく入室することができた。演出であろう、軋んだ音とともに扉が背後で閉じていく。
(もう二度とここから出られないんじゃないかって、そんな気にさせるね)
『気圧されないで。この部屋からだけじゃない。〈首輪〉を外して自由になれる。ここよりもっと――』
「外へ」二人は声をひとつにして自分に言い聞かせた。
背徳の間にはいるのは、ゲームのディーラーを含めて、たった5人ほどの人数だった。内装は重厚でクラシックな〈パラドクサ〉の他の空間と比べて、ポップでカラフルだ。まるで子供番組のセットのよう。床には迷路を模したブロックが敷き詰められている。視覚障害者誘導用のもの似ているが、それは黄色ではなく赤と緑のコンビネーションだった。色とりどりの風船がそこかしこに浮遊し、軟体動物のような椅子と羽目殺しのダミー窓があった。どこにも通じていないくせに外部を想像させる窓は星南の心象風景のひとつだと銅音は思った。そこからは風も匂いも伝わってこないのだ。
(どれが漆間?)
『奴も相乗りしているから、どれなのかはわからない。まずはそれを突き止めることが先決』
ビリヤードのテーブルの側には、二人の男が居た。髭を蓄えた西洋人とベースボールシャツの小柄な中年で、何やら深刻そうに話し込んでいる。窓際に佇むのは、ディーラーらしき少女。銅音には見覚えがあった。
「佐倉結丹。なんで?」
芙蓉祭の舞台で軽業を披露していたパフォーマーの少女の姿がここにあった。クラウンの姿ではない。黒のベストに蝶ネクタイのいでたちは、若すぎることを除くなら普通のディーラーと変わりない。
「ようこそ。背徳の間に」
丁重に佐倉が頭を下げる。彼女が銅音のことに気付いているのかどうか定かではなかったが、ディーラーとしての立ち振る舞いには不審な部分はない。さらに見覚えのある顔がもうひとつある。
(あ、吉沢千秋だ)
『誰?』
(卓球の選手だよ。知らない? 男子のオリンピック候補。神速のカットマンなんて呼ばれてる)
『知らない』と星南はすげなく言った。
吉沢と一緒の男は、その凄味のある凶相で堅気の人間ではないとわかる。今にも泣き出しそうな吉沢に何かを囁いている。声音が低いだけにそれが恐ろしく残酷な言葉だと想像が働いた。銅音たちの入室に皆気を留めた様子はない。現在、行なわれているゲームはなかったが、白熱したゲームの余熱が残っている。
「利き腕は勘弁してくれ」
「おまえは選手生命を賭けた」
油汗を流す吉沢に男は冷たい言葉を投げつける。どうやら負けを取り立てているらしい。気まずい場面に出くわしてしまったものだ。国を代表するスポーツ選手がこんな場所に出入りするだけでも十分なスキャンダルだったが、負けが込んで賭けられぬものまで賭けてしまったとあっては救いようがない。
「頼む、ちゃんと払うから、な?」
必死の懇願も、獰猛な犬に似た面構えの男に心変わりをさせることはできなかった。吉沢はチラリとビリヤード台の方に目配せをしたが、二人からの助け船がないことを知ると犬顔の男は「やっぱり駄目みたいだな」と首を振った。
(どうやら吉沢選手はあっちの二人に負けたみたいね)
『払いきれない額のカタに卓球選手としての未来を賭けた』
(って感じだね)
許してやれと口を挟むことは、いくら正義感の強い銅音でもできなかった。おそらく二人のどちらかが漆間なのだ。ここで勝負の厳正さを揺るがせにしてしまえば、あとで銅音たちが困ることになる。
肩寄せ合う商談じみた話が終わると西洋人とベースボールシャツは、優雅な足取りで近づくと背の高くない吉沢を見下ろした。
「利き手がどうしたと?」西洋人は流暢な日本語を発した。
「勘弁して欲しいそうです」と犬面が唸る。
ベースボールシャツの男は細い目をいっそう細めて、
「肘の腱を切る約束だった。最高峰のスポーツ選手が選手人生のピークでそれを終わらせる場面を見たい。そのためだけにこちらも相応のリスクを払った。そうですよね?」
「はい。でも、それだけは」吉沢はついに涙を流した。
「おまえはギャンブルに溺れた。足のつかない深みまで流されて岸はとっくに見えなくなった。もう塩辛い水をたらふく飲んで沈むしかない」
「そんなぁ」吉沢は媚びるように銅音の方へ顔を向けた。
「馬鹿かあんた。藁にもすがりたいんだろうが、この娘に何ができる? 縁もゆかりもないただの客だ」
犬面はふんとせせら笑った。
「わかった。いいだろう」西洋人が言った。「利き手は右だな。だったら左で許してやる。記念にするからおまえのサインを左手に書け」
「え? サインをどうして?」
「だからオリンピッククラスの選手のサイン入りなら自慢できるだろう?」
「腕にサインをしたってどうしようもない。そうか。写真を撮るんだな、だったら写真に直接サインしたほうがその目立つんじゃないかな」
「ははは。なんという、おめでたい男だ」
男たちは一斉に笑ったが、佐倉だけは眉一つ動かさずに成り行きを見ている。
「きちんと持ち帰るさ。家のマントルピースの上に飾る。そのためにジミー・ペイジの直筆サイン入りギターの場所を空けてもいい」
「――それってもしかして」
吉沢はごくりと唾を飲んだ。
「ああ、腕ごと頂くよ。切断して持って帰る。防腐処置をして頑丈なケースの中に飾っておけば見栄えもするだろう。だからサインをするんだ。自分の腕に」
「……ひ、肘の腱を切るって話だったろ」
「それは利き腕の場合さ。利き腕を無傷で残してやるその代わりに美しいサインを書いてくれよ」西洋人は吉沢をいたぶり笑いのめした。「おい、沓名」
犬面は名前を呼ばれて、まさに飼い犬のごとく反応した。
「はい。麻酔も止血も問題ありません。おいピンポン野郎。これを見てみろ。これはインドネシアで硬いココナッツを割るために二百年前より使われた山刀だ。錆びて朽ちかけていたものを研ぎ直して美しく修復したんだ。作業工程はネットに動画が上げてある。もし、何かの切れ味を取り戻したくなったら参考にしろ。ピンポン野郎のカットとかな」
沓名はビリヤード台の下から、ぬめりと光沢のある長物を引っ張り出した。黒檀の柄のついたそれは錆びていたとは思えぬほどに磨き抜かれて、まるで光の破片のように見えた。
「やめてくれ」
「これをお使いください」
佐倉結丹は、黒のマーカーを差し出した。自分の手に自分の名を書くための筆記具を吉沢はどんな恐怖以外のどんな気持ちで眺めているのだろう。
「さっさと書け」
「無理です」言いながら吉沢はぺたりと崩れ落ちた。
「いいから書いてみろ」
ウルフハウンドに似た沓名が刃物をアスリートの首元に当てる。血が滲む刀身に沓名は鼻先を近づけて、「血にオレキシンの臭いが混じってるな。恐怖を調節しようとする代謝物質と言われているが、無駄さ。恐怖は制御できない。制御できないんだ」
うすら寒い威嚇だ。そんな臭いを感知できるわけがないが、サディスティックで獰猛な顔つきはそれが可能だと思わせる。
「はぁ、はぁ、駄目だ、上手く書けない」
吉沢は左前腕にサインを書き込もうとするものの、手が震えてうまくいかない。ぐにゃぐにゃと歪んだ線は汗みずくの肌の上を滑ってしまう。
「おいおい頼むぜ。そんなじゃサインが偽物だって笑われちまうだろう」
西洋人は栗色の髪をかき上げた。
「大丈夫。大丈夫だ」吉沢は正気を失いかけている。ちゃんと書けると言いながら改めてペンを握るが、力を込め過ぎて、それをへし折ってしまいそうだ。酸欠で顔色は青ざめ、眼は血走っている。
「ああ、もうサインはいいよ。どんどん汚れてしまうだけだ。沓名。やってくれ」
佐倉結丹がビニールシートを拡げて二人をその上に誘導した。飛び散る血液で部屋を汚さないためのだろう。ベースボールシャツの男は顔の半分をひきつるように歪めた。
沓名が山刀を振り上げた瞬間、銅音の爪先が孤を描いた。美しい回し蹴りは刃物を弾き飛ばして、それをベールボールシャツの肩越しの壁に突き立てた。
(ちょ、ちょっと何!)
『わたしテコンドーやってたんだよね。お尻は重いけど関節はわたしより柔らかい』
驚いた銅音に星南が伝えた。黒帯の有段者よ、でも刃物の相手を蹴ったのはこれがはじめてかも、と。
(わたしの身体で無茶しないでよ!)
銅音の抗議を聞き流して、星南は正当な所有者よりもずっと流暢にその口を動かして言う。
「中年のおっさんたちの冴えないコントをいつまで見てりゃいいわけ?」
たじろいだ男たち間の抜けた表情で金縛りになる。佐倉結丹は「お客様、何をお望みですか?」と丁寧に尋ねた。
「決まってるじゃない」
ここはゲームをするところでしょ、ともう一人の少女は挑発するように囁いた。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
真夏の温泉物語
矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
Y/K Out Side Joker . コート上の海将
高嶋ソック
青春
ある年の全米オープン決勝戦の勝敗が決した。世界中の観戦者が、世界ランク3ケタ台の元日本人が起こした奇跡を目の当たりにし熱狂する。男の名前は影村義孝。ポーランドへ帰化した日本人のテニスプレーヤー。そんな彼の勝利を日本にある小さな中華料理屋でテレビ越しに杏露酒を飲みながら祝福する男がいた。彼が店主と昔の話をしていると、後ろの席から影村の母校の男子テニス部マネージャーと名乗る女子高生に声を掛けられる。影村が所属していた当初の男子テニス部の状況について教えてほしいと言われ、男は昔を語り始める。男子テニス部立直し直後に爆発的な進撃を見せた海生代高校。当時全国にいる天才の1人にして、現ATPプロ日本テニス連盟協会の主力筆頭である竹下と、全国の高校生プレーヤーから“海将”と呼ばれて恐れられた影村の話を...。
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる