秘色のエンドロール

十三不塔

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第二章 首輪と接吻

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 聖ラウレンシオ記念病院の六階は、完全個室でプライバシーが守られるはずだった。森下に告げられた時間に裏の通用口に合図すると、眼つきの悪い白衣の男が銅音を導きいれてくれた。面会者用の入室予約も森下が手回しをしてくれたらしい。銅音は一般来客用ではなく前後二方向に搬出口のある特別なエレベーターで運ばれた。621号室は南向きの広い部屋で角にクイーンサイズのベッドが寄せられていた。
 少女はそこに囚われていた。
 監禁されているのでも拘束されているのでもなかったのに、銅音にはそうとしか見えなかった。星南は、銅音の訪問にはじめ驚き、ついで不審をあらわにした。
「誰なの? 検診の時間はさっき……」
 誰何したのは、部屋の明かりがほとんど落とされていて、銅音の顔さえ、見分けられなかったからに違いない。
「星南、わたし銅音、鹿野銅音だよ」
「なんでここに?」
 不可解さを声ににじませながら星南はベッドサイドの明りを点した。サイドテーブルには水差しと数種類の錠剤、そして読みかけの文庫本が開いたまま伏せられていた。
 薄暗がりの中、ふわりと浮かぶ星南の姿は妖精めいた儚さと美しさがあった。銅音はまるで小動物を怯えさせないように気遣う慎重さでベッドに歩み寄る。
「なんで来たかって言われると……困るんだけど」
 枕側の壁には『天使と戦うヤコブ』と題された、縊死したブルドーザーが溜池に転げ落ちたような抽象画がある。これを眺めていればさぞかし回復も早いことだろう。
「誰も知らないはず」
「うん、ちょっとね。ねえ、もうすぐ学園祭だよ、身体の具合どうなの?」
 星南の方も、銅音の存在を幻想じみたものとして眺めていたかもしれない。夢の中の人物と言葉を交わすように、しだいに警戒を解いていった。
「また半年間、学校は休むことになる。わたしずっと高校生かもね」
「なんで! そんなのに大変な病気なの。治療する方法ってないの?」
 感情を高ぶらせて銅音は夢のとりとめなさとでもいうような空気を破った。
 星南は、やや驚いて布団を口元まで上げる。
「病気じゃないよ」
「だったらどうして病院に?」
「話せば長くなる。あなたには関係がない」
 そうして星南はきっぱりと銅音を突き放す。ただし、銅音はそれでひるむことはない。渡すのを忘れていた手土産を差し出すと、突き付けるように言う。
「秘色のエンドロール。そんなものはない」
「調べたの? それも?」
 星南の頬が紅潮した。やおら生気を帯びたクラスメートに銅音は続けて言う。
「違法酒場(ブラインドピッグ)に行ったよ。お酒は飲まなかったけど、アルコールはたくさんあった。そこで出会った人が教えてくれたんだ。秘色のエンドロールは存在しないって」
「……」
「それを飲みたいってことは、不可能を追いかけてる。それとも、ありえないものに希望を託してるんだって。そうなの?」
 病気かもしれない少女の肩を銅音は激しく揺さぶる。何かを諦めてるのなら、考え直させたい。余計なお節介なのはわかっていたが、あの麻雀で銅音を無謀なまでに突き動かした衝動がここでも彼女を突き動かした。いや、あそこで銅音の何かに火がついたのかもしれない。
「あなたはわたしを救えない。それに次が最後だから」
「次って、それは何なの?」
「それは――」と星南は言い淀んだ。「いいわ、教える。あなたはただ聞いて同情するフリをするの。そしたら大人しく帰って。約束する?」
「……わかった」
 星南は語り始めた。途中、一度、見回りの看護師がやってきたが、銅音は星南のベッドに潜り込んで隠れることで事なきを得た。予定していた面会時間を過ぎてしまったが、続きを聞くにはもう少し居残る必要があった。
「来年施行されるカジノ特別法において政府は民間企業に経営を委託することにしたってのは知ってる? 成功例はシンガポール。それを真似たわけ。入札をかけたいくつかの企業の中に父――といっても義理の父だけどね――の会社もあった。なんとしても経営権を取りたかった義父は、わたしを道具にしたんだ」
「道具って?」女友達のお泊り会じみた親しさで二人は横たわり互いの体温を感じながら話すのだったが、その内容はあまりに重い。
「わたしの身体を貸し出したの」
 (何を言ってる?)
 いきなり話の意味がわからなくなった。銅音には星南の言葉の意味が判然としなかった。
「どういうこと?」
「半年間の昏睡。その間、わたしは意識のないまま弄ばれる玩具になった」
「まさか」と言いかけて銅音は相手の瞳に偽りも不実もないことを読み取った。
「肉体を傷つける暴力や直接的な性行為は禁止されているけれど、奴は愛玩人形のようにわたしを――」
 星南は嗚咽を漏らす。
「好きにしたわ。思う存分に」
「もういい。やめて」思わず銅音はそう言ったが、
「あなたが知りたがったのよ。最後まで聞いて」
 と星南は蒼白の面を真っすぐに銅音に向けて命じる。
「昏睡中の記憶はない。でも、それも堪らない気分なの。失われた半年間でこの身体がどんなふうに弄ばれたか、どうしても想像してしまう。この気持ちわかる?」
「いいえ」ふるふると銅音は首を振った。
 無力な、それこそ出来の悪い人形のような反応。星南の抱えた絶望には果てがない。それに寄り添おうと考えていた自分のあつかましさに反吐が出そうだった。
「でもなんであなたが?」
「わたし子供の頃、子役をしてたの。『宗春の朝餉』とか『バイロケーション』とかそれなりに有名だったんだ。いまじゃ引退してそっちの世界とはご無沙汰だけど、あの頃のわたしのファンはね、けっこういるのよ」
 つまり、子役だった星南にご執心の権力者が、成長した彼女の半年間を買い取っているということか。
「そんなのって……お父さんは平気なの?」
「言ったでしょ。血の繋がらない義父はわたしに愛情など持っていない。そういう人なの。必要とあらば切ることでゲームを制するカードの一枚が、わたしなの」
 むくむくと怒りがこみ上げる。こんな境遇の少女が存在していいわけがない。大きな権力を持った倒錯者などフィクションの中だけの話だと思っていた。
「わたしは彼らに時間と身体を貸し与えて義父を栄えさせるの。それがわたしの存在理由」
「ふざけんな!」思わず銅音は病院ということを忘れて叫ぶ。
「しぃっ!」
 星南は口に人差し指を立てて咎めるが、
「黙ってられない! 警察とか弁護士とかいろいろあんでしょ」銅音はおさまらない。
「鹿野さん、あなたの信じてる大人たちは必ずしも弱者の味方じゃない。ただの女子高生のあなたじゃ何も変えられない。世界の仕組みに従順なだけの無力な女子高生。しかも薄っぺらい正義が蠅取り紙みたくあなたにへばりついて身動きできなくさせてる」
 銅音はきつく唇を噛んだ。
「言い返せないね……自分が嫌になる」
「それにやつらはわたしを玩具にするだけじゃない。内側にも入ってくる」 
「え、だってセックスを強要しないって……」
「違う。〈相乗り〉オムニバスよ。やつらはわたしの身体の中から、わたしの身体を使って……わたしとなってわたしを弄ぶの」
 今夜何度目の絶句だろうか。数える気にもならない。
「宿主の意識が消えている状態でそんなことが可能なの?」
「できる。法律には違反してるけど、原理的にはまったく問題がない」
〈オムニバス〉の状態における宿主の意識については様々な可能性と証言が上がっている。両者の相性にもよるが、親和性の高い二人の間では、意識は両立できるという。身体の支配権は一方が握ることになるとはいえ、もうひとつの意識は消えずに片隅におくこともできる。
「あいつはわたしがそれを観ることを望んでるけどね。恥じらい苦しむことを」
「そんなの人権侵害だよ、犯罪だよ。相乗りなんかじゃない乗っ取りだ」
「そう、わたしはわたしのものじゃないの」
「間違ってる」
 銅音の主張を星南は鼻で笑った。銅音はカッとなる。
「それじゃこの世に正義はないみたいじゃんか」
「教えるわ。ないの。正義とか道義心とか、埃っぽくて手垢だらけの紋切型をあんたは舌先で転がすけれど、そんなものはないんだよ。あるならここへ取り出して見せてよ。それともあなたの部屋のアクセサリーケースにはあるの?」
 だしぬけに星南の身体から体温が消えたようだった。
「だったら生きてる価値なんてない」
 思わず漏らした言葉はあまりにも残酷だった。それを口にしてから銅音は自分の舌を切り取りたくなった。「いや、ごめんなさい。わたしは最低だ」
 正義はない。言うなれば、無法を、横紙破りを、ただならぬ狼藉を看過させる権力というものが、この世界にはある。
 ここでようやく銅音はひとつの認識に達する。
――違う、話が逆だ。無法を貫ける、その力こそが権力と呼ばれてるんだ。
「戦うことができないなら、どうすると思う?」
「わからない」
「逃げるの。この街から、この国から。それもダメならこの人生から!」
「それって自殺? ダメだよ」
「ダメなんかじゃない。義父の裏をかいて、変態どもをやり込めるには生きてることから降りなきゃ仕方がない。失望させてやりたった。それがわたしの勝利」
 しかし、夢見るような陶然とした星南の表情はすぐに掻き消えた。
「家出をしても義父の手が回るわ。だったら死んでやろうと思った。でも、そっちの出口も固められてた。わたしにはね、見えない首輪がかかってたの」
「どういうこと?」
「自殺防止の首輪よ。精神病患者に為される処置。自己防衛本能、自己保存本能、人間にとって最も根源的なセキュリティを極限まで高めて自殺及び自傷行為を完全に封じる機構を脳に埋め込まれたの。こいつを解除しない限り、自死すらできない。知ってる? これって学校では習わない科目でね、地獄ってやつよ」
「まさか」
「首の模様。本物のタトゥーじゃないって言ったよね」
 そうだ、あのガソリンスタンドで星南は言ったのだった。
 ――本物はわたしには無理なのだし。
 あの時は疑問を抱きはしなかった。星南の首筋を飾る模様が、本物の刺青だろうが、フェイクタトゥーであろうが、気にも留めずにいた。
「首輪のレベルは4まである。自殺をさせないだけのレベル1から、リストカットなどの死に至らない自傷を禁じるレベル2、そしてタトゥーや抜歯など他者に委託する自壊行為までをも抑制するレベル3」
「その先は?」
 最後のレベル4は、医療行為のである手術はもちろん爪や髪を切ることまでを邪魔する。非現実的でほとんど設定されることのないレベルだ。
「わたしの首輪はレベル3・5って感じ。小さな手術はともかく、命にかかわるような病気や疾患、それを治すために他者がメスを入れることもきっと無理。わたしはね、自分を守るための機能によって自分を救えなくなる。そして死ねないからこそ、誰よりも先に死ぬでしょうよ」
「本当に地獄だ」
 またもや銅音は言うべきでないことを口にした。慰めはここでは用を成さない。出口のない汚辱。屈辱的な生の虜囚。自殺すら許されない密室で星南は眠りと目覚めを繰り返す。
「帰る」銅音は立ち上がった。「また来る。何か方法を考える」
「もう来ないで、下手な気休めだってあなたは与えられない。正義がないなら生きてる価値がないってあなたは言う。でも、価値がないからといって死ねるとは限らない、わたしみたいに」
「方法を考える」しつこく銅音は言い募った。
「言ったよ。キレイごとしか知らないあなたは何もできない」
「できる。何かは。見つけ出す」
 それは銅音が自身に言い聞かせたい願望に過ぎず、どんな根拠もないのだった。
「それにしたって時間はない。わたしが次に貸し出されるまであと二週間、ここでも検査が終わったら、夢の無い眠りに真っ逆さまになる。それからの永くて一瞬の半年間。次に会える頃にはきっと桜が咲いてる」
 薄く笑う星南、その貌には、絶望の深い澱がこびりついている。ドライアウトしてしまった感情。彼女には、すがりつくための細く危うい糸すらない。そして銅音は蜘蛛の糸にもなれない。星南にとっては、物見高い野次馬のひとりであり、神経を逆なでするだけのけたたましいノイズだ。
「わたしはわたしを殺して、とあなたに頼むことすらできない。他人に委託しての自殺と見做されるから。それを言うことすら――」
 言いさした時、星南の身体がビクンと痙攣し、そして硬直した。首輪が作動したのだ。いまの言葉の中に自殺の委託の意志が、殺して欲しい、解放して欲しいという気持ちが混じっていたのだろう。
「――なんてこと」
 なすすべなくただ銅音は打ち震えた。星南の硬直が解けるまで数秒、あるいは数分を要するだろう。
 苦痛があるわけじゃない、ただ身体と精神の働きに自動ストッパーがかけられてしまうのだった。いや、それが苦しみでなくてなんだろう?
「だったらこう言えばいい。助けてって!」
 石像のごとく身じろぎしなくなった星南の目じりに浮かぶ涙を指先で掬い取った銅音は、それを拳の中に握り込む。
「――た、助けて」
 美しい少女の石像から、かすれた吐息が漏れた。
 銅音は、放っておけばとめどなく流れ出てしまうかけがえのないものを堰き止めるようにして星南の目尻を唇で塞いだ。

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