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マメ柴のシバ
電車に飛び込みたくなる。
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次の朝、意外にもシバはあっさりとさゆりを見送った。
昨日来た長谷川を憲兵だと思い込んだシバは、長谷川が自分と対面しようとしていることを理解して外に出るのは危険だと判断したらしい。
シバを置いてくんだね、と言わんばかりの恨めしそうな涙目で、鼻をキュワンキュワンかき鳴らしていたが。
昨日は悔し涙で枕を濡らしたさゆりだったが、ここに来てのシバの態度に、「長谷川グッジョブ!」と掌を返した。
久々の、暴君に邪魔されない時間である。
これまでは憂鬱でしかなかった月曜日が、素晴らしいとすら思った。
さゆりは一日ウキウキで仕事をこなした。
「機嫌良いね。彼氏でもできた?」
などと聞いてくる、職場のしおれたおっさんの有力セ・リーグ選手らしい暴投も、難なく見送れた。
そしていつもは待ちわびる退社時刻を複雑な思いで迎え、与謝蕪村がドヤ顔で頷くレベルにのたりのたりと緩慢な動きで帰宅して打ちのめされた。
帰宅後のシバの熱烈歓迎ぶりに。
さらに言えば、失禁に。
少し前、玄関のドア前に立った時点で、ドアの向こうからドタドタという移動音がしていたため、シバが待ち構えていることは分かっていた。
さゆりが開けると、少年が飛びついて来た。
「さゆりさゆりさゆりさゆり!おかえりー!おかえりー!」
身体中でがっつりさゆりをホールドしたシバはそう叫んで、さゆりの顔面に自分の顔を近づけ舐め回す体制に入った。
さゆりはそれを右手でいなし、玄関に押し込みながらも、うっかり思ってしまったのだ。
「そういえば、お帰りって言われたの久しぶりだな。」
なんてセンティメンタルなことを。
更にはシバの必死に縋り付いてくる様子から、「寂しい思いをさせたかな?」なんて余計な仏心まで沸かせてしまい、すると彼をカケラも気にかけず働いていた昼間の自分にほのかな罪悪感まで抱く始末だった。
結果やらかしてしまった。
縋り付くシバの、上半身で唯一犬らしい耳を揉むように撫で、
「ただいま。1人にしてごめんね。」
と声をかけてしまった。
シバは、それを受けて更にテンアゲした。
「さゆり!さゆり!さゆり!」
と叫んでグイグイ体をさゆりに押し付けた。
ちょっとうっとおしすぎる。
さゆりが後悔し始めたとき、シャーという液体の噴出音が下半身の方からした。
遅れて、生暖かい液体がパンツスーツとストッキングを軽く超えてさゆりの太ももを濡らす感触がした。
何事かとシバを押し返して下を見ると、グレーのパンツの右足の付け根から太ももにかけてグッショリと濡れている。
シバが粗相をした。
そう理解したさゆりは軽くパニックになった。
「ぎゃあ!あんた何してんの!!」
感情に任せてそう叫び、シバを突き飛ばして風呂場に向かった。
脱衣所でパンツとストッキングを慌てて脱ぎ捨て、風呂場のシャワーで濡れた部分をゴシゴシと洗い流す。
一通り流した後は、犠牲になったズボンとストッキングをまとめてビニール袋に入れてきっちり口を縛った。
念のために二重で。勿体無かったが、当然二度と着る気にはならない。
それくらいさゆりにとってシバに嬉ションをかけられたことはショックだった。
ただ不思議なことに、汚染された衣服からも玄関の床からもアンモニア臭はせず、むしろバニラに近い甘い香りがしていた。
みつるは異世界は物理法則から違う、と言っていたが、その影響なんだろうか、なんて掃除中気を紛らわすために考えていた。
結論から言えば、それからは地獄だった。帰宅時のシバの嬉ションが、恒常化したためである。
ふざけんな…
さゆりは率直に思った。
しかしさゆりが帰宅する度に、シバは興奮し、興奮のあまり失禁する、と言うのが常態化した。
初日以来さゆりは撫でていないし、ネット記事では犬を落ち着けるために無視しましょうと書いてあったので二回粗相された3日目以降は完全に無視している。
それでも、さゆりが玄関から入っただけでシバは感極まって漏らすのだった。
そこで慌てて声をかけると、構ってもらえたと勘違いするとも記事には書いてあったので、さゆりはそれを無言で片付けるようになった。
最初は甘い香りがしていたシバのそれも、食事のせいか段々と刺激臭がするようになってきたため、より苦痛度が増した。
姿を見ただけで発射する、というのは溺愛レベルで言えばクライマックスに近い状態だろうが、時折ご都合主義のいちゃラブ系ロマンス小説を嗜むさゆりですら、流石にこの類の溺愛はカケラも刺さらない。
さゆりがシバを無視していると、シバは焦れて騒ぎ出す。
そこで相手をすると構ってもらうために騒ぐようになると犬のしつけの本には書いてあるので、ぐっと堪えて無視する。
更に騒ぐ。
長谷川が脅しにやってくる。
長谷川に金を渡す。
長谷川にビビったシバが大人しくなる。
これを、かれこれ1週間続けている。
あの駄犬は海馬を故郷に置いてきたのだろうか。
そもそも無いのか。人体構造が違うから。
そう頭を抱えたくなるくらいはこの1週間なんの成長もシバは見せなかった。
かく言うさゆりも、数々のしつけテクニックを実践してもなんの成果も得られていないので、巨人と戦う某武力集団よろしく、緑のマントを羽織って咆哮を上げなくてはならない状況かもしれないが。
とはいえ、それをするにはさゆりは些か心を折られ過ぎた。
連日の汚物処理とゆすりへの対応、全裸の男と暮らす違和感。
1週間でそれらは確実にさゆりの精神を追い詰めた。
そして金曜日である。
無理やり残業を入れて帰宅を遅らせた結果、同じようにクタクタに働いて疲れた顔と、早々に週末を謳歌したほろ酔い顔が混在する駅のホームにさゆりはいた。
日々の対応に精一杯で、土日の予定も入れ損ねた。
電車を待ちながら、明日からシバとまた2人だと思うと、電車が来るタイミングでホームからダイブしたくなってくる。
昨日来た長谷川を憲兵だと思い込んだシバは、長谷川が自分と対面しようとしていることを理解して外に出るのは危険だと判断したらしい。
シバを置いてくんだね、と言わんばかりの恨めしそうな涙目で、鼻をキュワンキュワンかき鳴らしていたが。
昨日は悔し涙で枕を濡らしたさゆりだったが、ここに来てのシバの態度に、「長谷川グッジョブ!」と掌を返した。
久々の、暴君に邪魔されない時間である。
これまでは憂鬱でしかなかった月曜日が、素晴らしいとすら思った。
さゆりは一日ウキウキで仕事をこなした。
「機嫌良いね。彼氏でもできた?」
などと聞いてくる、職場のしおれたおっさんの有力セ・リーグ選手らしい暴投も、難なく見送れた。
そしていつもは待ちわびる退社時刻を複雑な思いで迎え、与謝蕪村がドヤ顔で頷くレベルにのたりのたりと緩慢な動きで帰宅して打ちのめされた。
帰宅後のシバの熱烈歓迎ぶりに。
さらに言えば、失禁に。
少し前、玄関のドア前に立った時点で、ドアの向こうからドタドタという移動音がしていたため、シバが待ち構えていることは分かっていた。
さゆりが開けると、少年が飛びついて来た。
「さゆりさゆりさゆりさゆり!おかえりー!おかえりー!」
身体中でがっつりさゆりをホールドしたシバはそう叫んで、さゆりの顔面に自分の顔を近づけ舐め回す体制に入った。
さゆりはそれを右手でいなし、玄関に押し込みながらも、うっかり思ってしまったのだ。
「そういえば、お帰りって言われたの久しぶりだな。」
なんてセンティメンタルなことを。
更にはシバの必死に縋り付いてくる様子から、「寂しい思いをさせたかな?」なんて余計な仏心まで沸かせてしまい、すると彼をカケラも気にかけず働いていた昼間の自分にほのかな罪悪感まで抱く始末だった。
結果やらかしてしまった。
縋り付くシバの、上半身で唯一犬らしい耳を揉むように撫で、
「ただいま。1人にしてごめんね。」
と声をかけてしまった。
シバは、それを受けて更にテンアゲした。
「さゆり!さゆり!さゆり!」
と叫んでグイグイ体をさゆりに押し付けた。
ちょっとうっとおしすぎる。
さゆりが後悔し始めたとき、シャーという液体の噴出音が下半身の方からした。
遅れて、生暖かい液体がパンツスーツとストッキングを軽く超えてさゆりの太ももを濡らす感触がした。
何事かとシバを押し返して下を見ると、グレーのパンツの右足の付け根から太ももにかけてグッショリと濡れている。
シバが粗相をした。
そう理解したさゆりは軽くパニックになった。
「ぎゃあ!あんた何してんの!!」
感情に任せてそう叫び、シバを突き飛ばして風呂場に向かった。
脱衣所でパンツとストッキングを慌てて脱ぎ捨て、風呂場のシャワーで濡れた部分をゴシゴシと洗い流す。
一通り流した後は、犠牲になったズボンとストッキングをまとめてビニール袋に入れてきっちり口を縛った。
念のために二重で。勿体無かったが、当然二度と着る気にはならない。
それくらいさゆりにとってシバに嬉ションをかけられたことはショックだった。
ただ不思議なことに、汚染された衣服からも玄関の床からもアンモニア臭はせず、むしろバニラに近い甘い香りがしていた。
みつるは異世界は物理法則から違う、と言っていたが、その影響なんだろうか、なんて掃除中気を紛らわすために考えていた。
結論から言えば、それからは地獄だった。帰宅時のシバの嬉ションが、恒常化したためである。
ふざけんな…
さゆりは率直に思った。
しかしさゆりが帰宅する度に、シバは興奮し、興奮のあまり失禁する、と言うのが常態化した。
初日以来さゆりは撫でていないし、ネット記事では犬を落ち着けるために無視しましょうと書いてあったので二回粗相された3日目以降は完全に無視している。
それでも、さゆりが玄関から入っただけでシバは感極まって漏らすのだった。
そこで慌てて声をかけると、構ってもらえたと勘違いするとも記事には書いてあったので、さゆりはそれを無言で片付けるようになった。
最初は甘い香りがしていたシバのそれも、食事のせいか段々と刺激臭がするようになってきたため、より苦痛度が増した。
姿を見ただけで発射する、というのは溺愛レベルで言えばクライマックスに近い状態だろうが、時折ご都合主義のいちゃラブ系ロマンス小説を嗜むさゆりですら、流石にこの類の溺愛はカケラも刺さらない。
さゆりがシバを無視していると、シバは焦れて騒ぎ出す。
そこで相手をすると構ってもらうために騒ぐようになると犬のしつけの本には書いてあるので、ぐっと堪えて無視する。
更に騒ぐ。
長谷川が脅しにやってくる。
長谷川に金を渡す。
長谷川にビビったシバが大人しくなる。
これを、かれこれ1週間続けている。
あの駄犬は海馬を故郷に置いてきたのだろうか。
そもそも無いのか。人体構造が違うから。
そう頭を抱えたくなるくらいはこの1週間なんの成長もシバは見せなかった。
かく言うさゆりも、数々のしつけテクニックを実践してもなんの成果も得られていないので、巨人と戦う某武力集団よろしく、緑のマントを羽織って咆哮を上げなくてはならない状況かもしれないが。
とはいえ、それをするにはさゆりは些か心を折られ過ぎた。
連日の汚物処理とゆすりへの対応、全裸の男と暮らす違和感。
1週間でそれらは確実にさゆりの精神を追い詰めた。
そして金曜日である。
無理やり残業を入れて帰宅を遅らせた結果、同じようにクタクタに働いて疲れた顔と、早々に週末を謳歌したほろ酔い顔が混在する駅のホームにさゆりはいた。
日々の対応に精一杯で、土日の予定も入れ損ねた。
電車を待ちながら、明日からシバとまた2人だと思うと、電車が来るタイミングでホームからダイブしたくなってくる。
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