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マメ柴のシバ
隣人に脅迫される。
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シバは相変わらず泣き喚いている。
これ以上関わったら感情的になって叩いてしまいそうで、さゆりはどうにも出来なかった。
はぁ、と深いため息が出る。
みぞおちあたりで燻る憂鬱を吐き出したかったのだが、出るのは空気ばかりだった。
ポーン
玄関のチャイムの音がした。
宅配便だろうか。
今は出られる気がしない。
ポーン
もう一度鳴った。
仕方がないのでシバを放置してドアモニタで来訪者を確認する。
液晶画面の向こうには、仏頂面のずんぐりした男が立っていた。
さゆりの部屋の東隣に住む青年である。
まずい状況だ。
恐らくシバによる騒音に苦情を言いに来たのだろう。
彼のことは苦手だ。
特に個人的に交流があるわけではない。
さゆりが転職を機にこの部屋に入居してしばらくした後、部屋を譲って隣の空室に移るように、彼から不動産業者を通じて連絡があったのだ。
中々に非常識な提案だが、引っ越し代としてかなりの額を提示して来たため、不動産業者も躊躇いがちにも打診して来たのだろう。
しかしさゆりは断った。
金に困っているわけではなかったし、部屋はいくつも物件を回ってやっと見つけた納得のものだったからだ。
隣とはいえ、今更移りたくなかった。直接頭を下げるでもなく、金にものを言わせるような相手のやり方が多少気に食わなかったのもある。
結局それで終わったが、青年はそのまま隣の空室に入居して来た。
若干申し訳ないやら気まずいやらで複雑な心境だった。
彼の方はさゆりが断ったことがだいぶ不服だったようで、引越しの挨拶はなかったし外廊下で出くわすたびに睨んでくるので、さゆりも早々に罪悪感が反発心になり、苦手意識に変貌した。
シバはまだ喚いている。とりあえずなんとかしなくては。
「シバ君、怖い人が来たから静かにしてもらえる?」
若干パフォーマンス的にも思える大袈裟さでうずくまって泣くシバに言う。
「誰!?憲兵!?」
「そうみたい。シバ君がいるってわかったら連れてかれちゃうかも。我慢出来る?」
シバはぐっと歯を食いしばって鳴き声を殺した。
しやくり上げる度に肩は上下するし、フーフーと鼻息は荒いし、食いしばった顔は鼻水や涙でクシャクシャだし、あまりに滑稽でさゆりは状況を忘れてプッと吹き出してしまった。
ポーン
まだ隣人は諦めていないようだ。
さゆりは観念して扉を開けた。
「長谷川です。」
出るなり男が言う。
存じてますとも。
身長は163cmのさゆりとほぼ変わらない小柄。年は不詳だが、さゆりより少し若いように思う。
小太りで、あご周りの肉がムチっとしている。
それだけなら小動物のようなかわいげを感じるが、一重の目と表情筋が死んだ顔、輪郭に散らされた無精髭が一目で「こいつクズだろな。」と思わせる効果的なスパイスになっている。
服装は大手スポーツブランドのスウェットの上下で、案外傷みもシミもなく小綺麗だ。
男は見かける度スウェット姿なのだが、種類はいつも違うので着たきりスズメと言うよりは彼のこだわりなのかもしれない。
フケが浮いていることも、顔の脂が輝いていることもないあたり、見た目に清潔感は無いが清潔にはしているようだ。
なんなら開けた瞬間ふわりとムスク系の良い香りがした気がする。
あまり深く追求したくは無いが、なんとも断じ難い青年だった。
「うるさいんだけど。」
存じてますとも。
「すみません。もう騒ぎませんので。」
多分。
「じゃあこの二日間ずっとドタドタ床は鳴らすし、バシバシ壁は叩くし、ギャーギャー喚いているのはわざと?」
「いや、そう言うわけでは…。」
「二日間、わざとじゃない騒音を垂れ流しておいて、文句言われたら直ぐに止められる根拠は?」
「…すみません。」
辛い。
こちらに非があるだけにぐうの音も出ないし、向こうに容赦してくれる甘さも無い。
辛い。
「…音出してるのあんたじゃ無いでしょ。元凶出して。直接言うから。」
それはまずい。
絶対まずい。
「本当に申し訳ありません。本人が謝るべきなのは分かってますが、人前に出られる状態じゃないんです。どうか私の謝罪で許してもらえませんか?」
さゆりはべっこりと頭を下げた。これくらいなら、仕事でいくらでもした事はある。日本の勤め人としての凡庸スキルだ。
「なんで?本人に分からせないと、解決しないだろ。」
男はさらに食い下がる。
具体策も無く謝って済ませようというさゆりの態度を信用してないのだろう。
でもさゆりの方も、具体策も無いし謝って済ますしかないので、粘るしかなかった。
「私がなんとかします。絶対になんとかします。お約束しますので。」
「…直接じゃ話にならないなら管理会社に申し入れするから。元々俺はあんたの部屋に入りたかったんだから、これが続くなら退去になるように追い詰めてもいいんだけど。」
「…それは勘弁してください。お願いします。ご迷惑掛けませんから、約束します。」
譲らないさゆりに、男はふぅとため息をついた。
「じゃあ、ちゃんと誠意みせてよ。」
そう言って左手を差し出す。左利きなのだろう。
その動作だけで、さゆりは彼の意図を察した。
なるほど、ひょっとしたら、最初からこのつもりだったのかもしれない。
普段なら絶対に取り合わない類の要求だが、今回ばかりはさゆりに分が悪すぎた。
「ご迷惑お掛けしてますから、お支払いします。おいくらですか?」
「そりゃ、あんたの誠意の額だよ。」
腹わたが良い感じのモツ煮になる位煮えくりかえったが、さゆりは仕方なく玄関先に置いておいたカバンから一万円札を取り出し、ぶっきらぼうに長谷川に渡した。
「はい。伝わりました。お邪魔さま。」
人差し指と中指で札ビラをつまみ、ひらひらさせながら長谷川は言い、隣室に戻った。
相変わらずの無表情で。
その姿を見送ったさゆりは、腹立たしさと自己嫌悪に塗れながらドアを閉じた。
あんなくだらない強請りに応じてしまった。
あのクソ野郎。易々と応じた自分バカ野郎。
一晩そんな感情をグルグルさせながら夜を過ごし、とうとう月曜日の朝を迎えた。
これ以上関わったら感情的になって叩いてしまいそうで、さゆりはどうにも出来なかった。
はぁ、と深いため息が出る。
みぞおちあたりで燻る憂鬱を吐き出したかったのだが、出るのは空気ばかりだった。
ポーン
玄関のチャイムの音がした。
宅配便だろうか。
今は出られる気がしない。
ポーン
もう一度鳴った。
仕方がないのでシバを放置してドアモニタで来訪者を確認する。
液晶画面の向こうには、仏頂面のずんぐりした男が立っていた。
さゆりの部屋の東隣に住む青年である。
まずい状況だ。
恐らくシバによる騒音に苦情を言いに来たのだろう。
彼のことは苦手だ。
特に個人的に交流があるわけではない。
さゆりが転職を機にこの部屋に入居してしばらくした後、部屋を譲って隣の空室に移るように、彼から不動産業者を通じて連絡があったのだ。
中々に非常識な提案だが、引っ越し代としてかなりの額を提示して来たため、不動産業者も躊躇いがちにも打診して来たのだろう。
しかしさゆりは断った。
金に困っているわけではなかったし、部屋はいくつも物件を回ってやっと見つけた納得のものだったからだ。
隣とはいえ、今更移りたくなかった。直接頭を下げるでもなく、金にものを言わせるような相手のやり方が多少気に食わなかったのもある。
結局それで終わったが、青年はそのまま隣の空室に入居して来た。
若干申し訳ないやら気まずいやらで複雑な心境だった。
彼の方はさゆりが断ったことがだいぶ不服だったようで、引越しの挨拶はなかったし外廊下で出くわすたびに睨んでくるので、さゆりも早々に罪悪感が反発心になり、苦手意識に変貌した。
シバはまだ喚いている。とりあえずなんとかしなくては。
「シバ君、怖い人が来たから静かにしてもらえる?」
若干パフォーマンス的にも思える大袈裟さでうずくまって泣くシバに言う。
「誰!?憲兵!?」
「そうみたい。シバ君がいるってわかったら連れてかれちゃうかも。我慢出来る?」
シバはぐっと歯を食いしばって鳴き声を殺した。
しやくり上げる度に肩は上下するし、フーフーと鼻息は荒いし、食いしばった顔は鼻水や涙でクシャクシャだし、あまりに滑稽でさゆりは状況を忘れてプッと吹き出してしまった。
ポーン
まだ隣人は諦めていないようだ。
さゆりは観念して扉を開けた。
「長谷川です。」
出るなり男が言う。
存じてますとも。
身長は163cmのさゆりとほぼ変わらない小柄。年は不詳だが、さゆりより少し若いように思う。
小太りで、あご周りの肉がムチっとしている。
それだけなら小動物のようなかわいげを感じるが、一重の目と表情筋が死んだ顔、輪郭に散らされた無精髭が一目で「こいつクズだろな。」と思わせる効果的なスパイスになっている。
服装は大手スポーツブランドのスウェットの上下で、案外傷みもシミもなく小綺麗だ。
男は見かける度スウェット姿なのだが、種類はいつも違うので着たきりスズメと言うよりは彼のこだわりなのかもしれない。
フケが浮いていることも、顔の脂が輝いていることもないあたり、見た目に清潔感は無いが清潔にはしているようだ。
なんなら開けた瞬間ふわりとムスク系の良い香りがした気がする。
あまり深く追求したくは無いが、なんとも断じ難い青年だった。
「うるさいんだけど。」
存じてますとも。
「すみません。もう騒ぎませんので。」
多分。
「じゃあこの二日間ずっとドタドタ床は鳴らすし、バシバシ壁は叩くし、ギャーギャー喚いているのはわざと?」
「いや、そう言うわけでは…。」
「二日間、わざとじゃない騒音を垂れ流しておいて、文句言われたら直ぐに止められる根拠は?」
「…すみません。」
辛い。
こちらに非があるだけにぐうの音も出ないし、向こうに容赦してくれる甘さも無い。
辛い。
「…音出してるのあんたじゃ無いでしょ。元凶出して。直接言うから。」
それはまずい。
絶対まずい。
「本当に申し訳ありません。本人が謝るべきなのは分かってますが、人前に出られる状態じゃないんです。どうか私の謝罪で許してもらえませんか?」
さゆりはべっこりと頭を下げた。これくらいなら、仕事でいくらでもした事はある。日本の勤め人としての凡庸スキルだ。
「なんで?本人に分からせないと、解決しないだろ。」
男はさらに食い下がる。
具体策も無く謝って済ませようというさゆりの態度を信用してないのだろう。
でもさゆりの方も、具体策も無いし謝って済ますしかないので、粘るしかなかった。
「私がなんとかします。絶対になんとかします。お約束しますので。」
「…直接じゃ話にならないなら管理会社に申し入れするから。元々俺はあんたの部屋に入りたかったんだから、これが続くなら退去になるように追い詰めてもいいんだけど。」
「…それは勘弁してください。お願いします。ご迷惑掛けませんから、約束します。」
譲らないさゆりに、男はふぅとため息をついた。
「じゃあ、ちゃんと誠意みせてよ。」
そう言って左手を差し出す。左利きなのだろう。
その動作だけで、さゆりは彼の意図を察した。
なるほど、ひょっとしたら、最初からこのつもりだったのかもしれない。
普段なら絶対に取り合わない類の要求だが、今回ばかりはさゆりに分が悪すぎた。
「ご迷惑お掛けしてますから、お支払いします。おいくらですか?」
「そりゃ、あんたの誠意の額だよ。」
腹わたが良い感じのモツ煮になる位煮えくりかえったが、さゆりは仕方なく玄関先に置いておいたカバンから一万円札を取り出し、ぶっきらぼうに長谷川に渡した。
「はい。伝わりました。お邪魔さま。」
人差し指と中指で札ビラをつまみ、ひらひらさせながら長谷川は言い、隣室に戻った。
相変わらずの無表情で。
その姿を見送ったさゆりは、腹立たしさと自己嫌悪に塗れながらドアを閉じた。
あんなくだらない強請りに応じてしまった。
あのクソ野郎。易々と応じた自分バカ野郎。
一晩そんな感情をグルグルさせながら夜を過ごし、とうとう月曜日の朝を迎えた。
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