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お兄ちゃんが帰ってきた
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兄のみつるとは、特段に仲が良いわけでも、悪いわけでもない兄妹だった。
楽しく遊んだ数よりは、大小含め諍いをした数の方が倍くらいあったし、思春期に入ったら、お互いへの関心もあまりなくなってしまった。
さゆりは兄の恋愛事情も、親友の顔も、みつるが行方不明になるまで知らなかったくらいだ。
それでも食事の時間やリビングでくつろぐ時間にはしばしば兄がそこにいたし、さゆりにとってはそれが当たり前だった。
その当たり前の毎日がこれからも続くという漠然とした過信は、母親が兄に連絡がつかないと騒ぎ出し、家族総出で周囲に消息を訪ね出した時に砕けてしまった。
最後にさゆりが兄を見たのは、朝、リビングのソファーだった。
高校生だったさゆりが遅刻しそうで慌てているのをニヤつきながら煽ってきたので、身支度のため手に持っていたアナスイのコロンを振りかけ、おカマになってケツを掘られちまえ!と罵倒して登校した。
大学生になった兄は、特に朝出掛ける用事があるでもないのにわざわざさゆりの登校時間に起き出してきてはそうして揶揄して来ることがあった。
当時は「うぜえ」くらいにしか思わなかったさゆりだが、今になってみるとあれは兄なりのコミュニケーションだったのだと思う。
極稀に兄が作った朝食の余りを残しておいてくれたり、寝起きドッキリと称して起こしに来たり、変なゲームを作っては無理やりテストプレイさせて来たのも、みつるなりに共働きの両親に代わりさゆりを世話する気があったのかもしれなかった。
それらに気付いたのは、兄がいなくなってからである。
関心を持たなくなっていたのは、自分の方だけだったのだろうか。
そう思うと、兄がいない事実はますます受け入れがたかった。
喧嘩ばかりしていたはずなのに、思い出すのは不思議と一緒に遊んだ記憶ばかりだった。
さゆりは両親と共に兄を必死に探した。
警察も当初は事件を疑って丁寧に捜査をしてくれたが、事件と思われる材料が何も出ないことや、大学の同級生から「将来に悩んでいた。」という証言が出たことから早々に将来を悲観した家出と判断して積極的な捜査をやめてしまった。
「この年頃の若者なら、誰だって将来には悩むだろう。」とさゆりの父親が主張しても無駄だった。
そうして5年目くらいまで、さゆりの家族はみつるの捜索を柱として絆を保って来た。
学生だったさゆりは、仕事があり費やす時間が限られる両親の代わりと言わんばかりに殊更に献身的に捜索活動にあたった。
その打ち切りを提案したのは父だった。
さゆりは反対した。両親はさゆりが社会人になるのを機に、みつるへの思いに区切りをつけるよう諭した。
さゆりには自分の人生を優先して生きて欲しいとの両親の言葉には逆らえなかった。
その日、さゆりは両親を抱きしめさめざめと泣いた。
とかいう感じの、長々とした家族愛の物語を全てバックボーンにしてからの、突然の兄の出現である。
さゆりが泡食ってへたり込むのも無理からぬ話だった。
兄を目の前に、さゆりの胸中に兄との思い出、いなくなった時の混乱、その後の地道な捜索活動、あらゆる記憶が巡り、様々な思いがよぎった。
もうぐちゃぐちゃである。
特に強い感情は、兄の笑顔を見てこみ上げた。
あの悲しい日々、必死に情報提供チラシを配る時間、両親に対する切ない気持ち。
そんなこちらの心もようけ知らんと、
あの馬鹿ヘラヘラ笑ってやがる。
本来なら喜びや、感動や、懐かしさと言った名が着くはずの様々な感情が、さゆりの中で一つに集約されていくのを感じた。
それはさながら、ドラクロワの描いた民衆を率いる自由の女神のごとく、なだれ込む様々な感情の先に立ち、行き先を示すように一つのゴールへとその指をかざした。
こいつ、くっそムカつく。
あそこに、苦しかった日々をもたらした根元がいる。
立ち上がれ。
いざ、バスティーユへ。
力の抜けた下半身に怒りが着火剤となって火がつき、
さゆりはいきおいよく立ち上がった。
そのまま警戒していたはずのぽっかりに駆け寄り、未だヘラつく男の胸ぐらを間髪入れず掴む。
「今までどこで何してたんだこのクソ馬鹿兄貴!!」
声は震えていたし、「ど」のところで裏返ってしまったが、
さゆりの渾身の叫びだった。
東隣の住民が在宅だったら筒抜けだろう。
しかし、そんなことは瑣末だった。
既に西隣に無いはずの空間があることすらさゆりには瑣末になっている。
掴んだ胸ぐらを、渾身の力でガクガクと揺さぶる。
そのまま自室に引きずり込んで捕獲しようとしたが、
みつるは穴のへりにしがみついて抵抗したのでかなわなかった。
これといった運動をしていない腕力は、少し暴れただけですぐに尽き、さゆりは胸ぐらを掴む力を緩めた。
それでも手は離さない。
「本当、どこ行ってたの…。」
「さゆり、実は…。」
「聞きたく無い!」
「ぇええ!?」
既にむちゃくちゃである。
しかし、今のさゆりにはみつるがどんな言い訳をしても受け入れられる気がしなかった。そもそも、今こいつとまともに会話したら泣く。
間違いなく泣く。
顔を見られたくなくて、しゃがんで目の前の壁に体を寄せた。
「あんたがどこで何してたかなんて、興味ない。」
嘘だった。
「うざいのがいなくなって清々してたし。」
嘘だった。
「誰も大して探してなかったし。」
嘘だった。
「あんたが付き合ってたまゆさん、あんたの親友の高崎さんと結婚して子供出来たから。」
これは本当。
「だから、本当、なんで今更になって帰ってくるわけ?誰も頼んでないんだけど。本当…頼んで…。」
それ以上は続けられなくて、
さゆりは穴のへりにもたれるように頭押し付けて沈黙した。
「……そっか。悪かったな。心配かけて。」
しばらくの間の後、そう言ってみつるはしゃがみこむさゆりの頭を撫でた。
さゆりの視界が水でぼやける。
しかし、「あの兄が、こんな殊勝なことを言うのは少し変だ。」と何処か冷静な気持ちで思った。
楽しく遊んだ数よりは、大小含め諍いをした数の方が倍くらいあったし、思春期に入ったら、お互いへの関心もあまりなくなってしまった。
さゆりは兄の恋愛事情も、親友の顔も、みつるが行方不明になるまで知らなかったくらいだ。
それでも食事の時間やリビングでくつろぐ時間にはしばしば兄がそこにいたし、さゆりにとってはそれが当たり前だった。
その当たり前の毎日がこれからも続くという漠然とした過信は、母親が兄に連絡がつかないと騒ぎ出し、家族総出で周囲に消息を訪ね出した時に砕けてしまった。
最後にさゆりが兄を見たのは、朝、リビングのソファーだった。
高校生だったさゆりが遅刻しそうで慌てているのをニヤつきながら煽ってきたので、身支度のため手に持っていたアナスイのコロンを振りかけ、おカマになってケツを掘られちまえ!と罵倒して登校した。
大学生になった兄は、特に朝出掛ける用事があるでもないのにわざわざさゆりの登校時間に起き出してきてはそうして揶揄して来ることがあった。
当時は「うぜえ」くらいにしか思わなかったさゆりだが、今になってみるとあれは兄なりのコミュニケーションだったのだと思う。
極稀に兄が作った朝食の余りを残しておいてくれたり、寝起きドッキリと称して起こしに来たり、変なゲームを作っては無理やりテストプレイさせて来たのも、みつるなりに共働きの両親に代わりさゆりを世話する気があったのかもしれなかった。
それらに気付いたのは、兄がいなくなってからである。
関心を持たなくなっていたのは、自分の方だけだったのだろうか。
そう思うと、兄がいない事実はますます受け入れがたかった。
喧嘩ばかりしていたはずなのに、思い出すのは不思議と一緒に遊んだ記憶ばかりだった。
さゆりは両親と共に兄を必死に探した。
警察も当初は事件を疑って丁寧に捜査をしてくれたが、事件と思われる材料が何も出ないことや、大学の同級生から「将来に悩んでいた。」という証言が出たことから早々に将来を悲観した家出と判断して積極的な捜査をやめてしまった。
「この年頃の若者なら、誰だって将来には悩むだろう。」とさゆりの父親が主張しても無駄だった。
そうして5年目くらいまで、さゆりの家族はみつるの捜索を柱として絆を保って来た。
学生だったさゆりは、仕事があり費やす時間が限られる両親の代わりと言わんばかりに殊更に献身的に捜索活動にあたった。
その打ち切りを提案したのは父だった。
さゆりは反対した。両親はさゆりが社会人になるのを機に、みつるへの思いに区切りをつけるよう諭した。
さゆりには自分の人生を優先して生きて欲しいとの両親の言葉には逆らえなかった。
その日、さゆりは両親を抱きしめさめざめと泣いた。
とかいう感じの、長々とした家族愛の物語を全てバックボーンにしてからの、突然の兄の出現である。
さゆりが泡食ってへたり込むのも無理からぬ話だった。
兄を目の前に、さゆりの胸中に兄との思い出、いなくなった時の混乱、その後の地道な捜索活動、あらゆる記憶が巡り、様々な思いがよぎった。
もうぐちゃぐちゃである。
特に強い感情は、兄の笑顔を見てこみ上げた。
あの悲しい日々、必死に情報提供チラシを配る時間、両親に対する切ない気持ち。
そんなこちらの心もようけ知らんと、
あの馬鹿ヘラヘラ笑ってやがる。
本来なら喜びや、感動や、懐かしさと言った名が着くはずの様々な感情が、さゆりの中で一つに集約されていくのを感じた。
それはさながら、ドラクロワの描いた民衆を率いる自由の女神のごとく、なだれ込む様々な感情の先に立ち、行き先を示すように一つのゴールへとその指をかざした。
こいつ、くっそムカつく。
あそこに、苦しかった日々をもたらした根元がいる。
立ち上がれ。
いざ、バスティーユへ。
力の抜けた下半身に怒りが着火剤となって火がつき、
さゆりはいきおいよく立ち上がった。
そのまま警戒していたはずのぽっかりに駆け寄り、未だヘラつく男の胸ぐらを間髪入れず掴む。
「今までどこで何してたんだこのクソ馬鹿兄貴!!」
声は震えていたし、「ど」のところで裏返ってしまったが、
さゆりの渾身の叫びだった。
東隣の住民が在宅だったら筒抜けだろう。
しかし、そんなことは瑣末だった。
既に西隣に無いはずの空間があることすらさゆりには瑣末になっている。
掴んだ胸ぐらを、渾身の力でガクガクと揺さぶる。
そのまま自室に引きずり込んで捕獲しようとしたが、
みつるは穴のへりにしがみついて抵抗したのでかなわなかった。
これといった運動をしていない腕力は、少し暴れただけですぐに尽き、さゆりは胸ぐらを掴む力を緩めた。
それでも手は離さない。
「本当、どこ行ってたの…。」
「さゆり、実は…。」
「聞きたく無い!」
「ぇええ!?」
既にむちゃくちゃである。
しかし、今のさゆりにはみつるがどんな言い訳をしても受け入れられる気がしなかった。そもそも、今こいつとまともに会話したら泣く。
間違いなく泣く。
顔を見られたくなくて、しゃがんで目の前の壁に体を寄せた。
「あんたがどこで何してたかなんて、興味ない。」
嘘だった。
「うざいのがいなくなって清々してたし。」
嘘だった。
「誰も大して探してなかったし。」
嘘だった。
「あんたが付き合ってたまゆさん、あんたの親友の高崎さんと結婚して子供出来たから。」
これは本当。
「だから、本当、なんで今更になって帰ってくるわけ?誰も頼んでないんだけど。本当…頼んで…。」
それ以上は続けられなくて、
さゆりは穴のへりにもたれるように頭押し付けて沈黙した。
「……そっか。悪かったな。心配かけて。」
しばらくの間の後、そう言ってみつるはしゃがみこむさゆりの頭を撫でた。
さゆりの視界が水でぼやける。
しかし、「あの兄が、こんな殊勝なことを言うのは少し変だ。」と何処か冷静な気持ちで思った。
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