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フェリチタの願い
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「はい、風花」
真尋は自分が食べていた分のパンを半分切って風花に渡した。
「……良いの?」
「あんまお腹空いてないから平気」
真尋は嘘をついた。本当はもっと食べたいが、風花の幸せを願ってのことだ。
「有難う、お姉ちゃん」
風花は真尋から半分のパンを受け取った。
外からは両親が言い争っている声がする。毎日行われているので、姉妹は自室で食事をとるようにしている。
「……何でお父さんとお母さん喧嘩してるんだろう」
風花は暗い表情で口走る。
「分からないよ」
真尋は一口パンをかじって言った。真尋は両親が喧嘩をする理由は知っていた。
原因は母親にあった。母親はスマホゲームに夢中になりすぎてしまい、家事も疎かになり、生活費をゲームに使ってしまっていることだった。みっともないと感じる理由なので風花には言えなかった。
真尋は四月に高校入学を控えているが、家の現状を考えると、それで良いのか疑問を抱くようになった。真尋が高校に必要な物を父親が用意してくれたにも関わらずにもだ。
「……私、お母さんが握ってくれたおにぎりが食べたいな」
風花は悲しみを交えて言った。
おにぎりは五年前に家族四人でピクニックに行った時に食べた。美味しかったし、あの頃は皆笑い合っていて幸せだった。
今の家には幸せの欠片を見つけることすら難しい。
真尋は風花の体を抱き締めた。風花の体温が伝わってくる。
「私だって同じだよ、お母さんのおにぎり食べたい」
真尋も風花の気持ちに寄り添った。現在の母親を見る限り、おにぎりを握ってくれそうにない。
妹が明るい気持ちになれる答えが見つけられず、真尋は黙っているしか無かった。
「お姉ちゃん」
真尋は妹の声と共に体を揺さぶられていた。真尋はうっすらと目を開く。
そこにはパジャマ姿の風花が立っていた。
「どうしたの、お腹空いたの?」
体を起こし、目を擦りながら真尋は訊ねた。
風花は空腹になると、夜中だろうが真尋を起こすことがある。その場合は真尋が足音を立てずにリビングにいき食べ物を調達して風花に渡すのだ。
今日の夕飯がパンだけだとお腹が空くのも無理はない。
「違うの、昨日の夜凄く良いアプリを見つけたの」
風花の声色はどこか明るかった。
「アプリ……?」
「これだよ」
風花は身を屈めて、真尋にスマホを見せた。
スマホを見るなり真尋の表情は強張る。
「スマホは持ってきたらまずいわ」
真尋は不安にせき立てられるように言った。風花が持ってるスマホは自分のもので本来ならリビングに置いてあり、夜中の使用は禁じられている。
もし禁止事項を破れば父親に取り上げられる。
「平気、後で戻すから」
「今は使えないでしょ」
真尋は突っ込んだ。
万が一のことも想定しているためか、使用時間を制限するアプリも入っていて、今の時間は使用できないはずだ。
「裏技使ってるから使用できるの、それよりこのアプリ見てよ」
風花はスマホの画面を指差した。そこには「悪魔の願い」という名前が表記されている。
「……何それ」
真尋はアプリをジッと見つめる。
「最近すっごい流行ってるんだ。悪魔が何でも願いを叶えてくれるんだって」
風花は朗らかに言った。
風花はおまじないや占いが好きで、そういったアプリをよく入れている。
「嘘くさい、あなた騙されてるんじゃないの」
風花とは対照的に真尋は冷めた口調だった。
「嘘じゃないよ、アプリの評価にも書いてあるけど、悪魔にお願いしたらちゃんと効果があったって、十人中九人は言ってる」
「具体的には?」
「えっと、彼氏ができたとか、成績が上がった、友達と仲直りできたとか」
風花は思い出すように言った。それらは自分の努力次第で何とかなりそうな話だ。
「……風花、そのアプリ消した方が良いわ、情報を抜き取られたら大変よ」
最近のスマホアプリの中にはアプリを入れただけで、個人情報を取られることがあるのだ。
風花には痛い目に遭って欲しくないのだ。
「じゃあ今のままで良いの?」
風花の声は真剣さが帯びた。
「私知ってるよ、お姉ちゃんが私のために我慢してるって、自分がお腹空いてるのにパンを半分こしてくれたり、私の靴を買ってくれたり……お姉ちゃんにはこれ以上我慢して欲しくない、幸せになれるなら私は悪魔にでもすがりたいよ」
風花は今にも泣きそうな顔になった。
家族の仲がきしみはじめてから、真尋は風花が言っていること以外でも色んなことを我慢してきた。部活もバスケ部に入りたかったが、経済的に厳しいため断念し、友人と遊びに行きたいのに、家事をするために誘いを断った。
このまま高校に入っても、また我慢を強いられることになる。真尋としても本心ではそんな日々はもう御免だった。
とは言え、空想話に全て託すこともしたくはなかった。
「少しでも可笑しいと思ったらやめるからね」
真尋は風花に言った。風花は嬉しそうな顔付きになった。
「そう来なくっちゃ!」
風花は身を屈め、真尋と同じ目線になった。
「じゃあ、悪魔の願いを起動するね」
風花は悪魔の願いに指を軽く触れる。スマホの画面が真っ暗になり、配信先の会社名が出てきた。
数秒後には「悪魔の願い」という赤い文字のタイトルに、白文字で「はじめる」と記された画面が現れた。
「無事に立ち上がったよ」
「そうね」
「じゃあはじめるのボタンを押すね」
風花ははじめるのボタンに触れた。次の瞬間だった。物音がして姉妹はその方角に振り向いた。
そこには見知らぬ男がいた。
突然のことに、真尋は声が出なかった。男は
鋭い眼差しで姉妹を見つめた。
風花に何かあっては困ると思い、真尋は風花の前に立つ。
「あ……貴方は誰ですか?」
真尋は絞り出すように言葉を発した。男は無表情を崩さずに口を開く。
「俺はベルツ、お前達に呼び出された悪魔だ」
男は淡々と答えた。
「ベルツは悪魔の願いを起動すると出てくる悪魔の一人、大勢いる悪魔の中で冷静な性格をしてるんだって」
背中から風花の声が飛んできた。
「あっ、確かに格好いいな!」
風花は真尋の背から顔を出して、ベルツの顔を見る。
「私達当たりを引いたみたいだね! ラッキーだよ! お姉ちゃん!」
風花は心の底から嬉しそうに言った。風花の話からすると、悪魔の願いで呼び出せる悪魔は複数いるようだ。
よく見るとベルツは風花が言うように、整った顔をしている。
「風花、今はそれ所じゃないでしょ」
真尋は気を取り直した。スマホアプリのボタンを押して男が現れただけでも非現実的だからだ。
「あの……ベルツさん、質問して良いですか?」
真尋は低姿勢でベルツに訊ねる。相手を刺激しないためだ。
「俺のことは呼び捨てで良い、さん付けされるのは性に合わない。で、質問とは何だ」
「貴方は願いを叶えてくれると言いますが、本当ですか?」
真尋は言った。ベルツは少ししてから「ああ……」と短く返した。
「ただし、願いにも条件がある」
ベルツは人差し指を真尋に向ける。
「それはお前達人間の世界にある秩序を乱すことは叶えられない、殺人や窃盗などな」
「例えば、隣の斎藤さんの桜を持ち出せとか、学校の屋上に登って! とか?」
風花は例を上げた。風花には悪いがレベルが低い。
しかしベルツは首を縦に振る。
「分かり易く言えばそうなるな」
「今ので良いんだ……」
真尋は苦笑いを浮かべた。
「それで、お前達の願いは何だ」
ベルツは問いかけてきた。
姉妹の願いは、ベルツの言う秩序を乱すことはない。しかし真尋は風花の顔を見た。
「風花、家を平和にして欲しいで良いね?」
真尋は訊ねた。大切なことなので自分一人では決められない。風花の意見も聞きたかった。
「何言ってるの、良いに決まってるじゃん、お母さんのおにぎり食べたいし」
「分かった」
真尋は風花からベルツに顔を向き直した。
「私達の願いは、私達の家庭を平和にして欲しいです……叶えられますか?」
真尋は願いを言い切った。ベルツはほんの少しの沈黙の後、閉ざした口を開いた。
「息をするのと同じくらいに容易い、願いを叶えてやろう」
ベルツの良い返事に、真尋は温かな気持ちになった。ベルツは「ただし」と話を続ける。
「お前の髪をよこせ、交換取引だ」
ベルツに言われ、真尋は困惑した。
「髪……ですか?」
真尋は髪に手を触れた。
髪は長い方が好きだからとずっと伸ばしてきた。友人からも羨ましがられている。
「どうした。願いを叶えたくないのか」
ベルツは強く言った。
髪を差し出すだけで両親の仲が直るなら安いものだ。ここで自分のことを優先したら、風花は悲しむ。
それに髪はまた伸ばせばいい。
「分かりました。私の髪をあげます。だから願いは叶えて下さい」
真尋は髪を手で束ねて差し出した。
「契約成立だな」
ベルツは真尋に近づき、右手で空を切るような仕草をした。その途端に真尋の長い髪は切れ、ベルツの手に渡った。
真尋の髪は紫色の炎で燃え、やがて灰となった。
「あの……今のは?」
「お前の髪から魔力を引き出して、願いをかける呪文を使ったんだ。人間の女の髪には魔力が宿るからな」
ベルツは静かに言った。
「これでお前達の願いは叶った。朝になったら確かめると良い」
ベルツは自信に満ちた声だった。ベルツは二人に背を向けた。
「あの、ベルツ」
ベルツが去ろうとするのを、真尋が引き留める。
「……礼ならお前達が直に見てからにしろ、俺は行くぞ」
ベルツはぶっきらぼうに言い、空気のごとく姿を消した。
真尋はベルツに礼を述べようとした。ベルツは真尋の心を読んだことになる。
火のない所から、火を出したりする所を見ると、ベルツはやはりただ者ではないようだ。
「お姉ちゃん……大丈夫?」
風花が心配そうに声をかけてきた。
「うん……」
「お姉ちゃんの髪、燃えちゃったね」
風花は悲しそうに呟く。
「良いのよ、風花が無事だったから」
真尋は言った。髪より妹の方が大切だからだ。
「それより、スマホはリビングに戻しに行こう、アプリを消すのは後にしよう」
「消すなんてヤダよ、折角見つけたのに」
風花の声は沈んでいた。
「ああいう得体の知れない力に頼ったらいけないの。今回は切り抜けられたけど、次はどうなるか分からないでしょ」
真尋は言った。次にアプリを起動すれば人の命を狙う恐ろしい悪魔が出てこないとも限らない。
ボタンを押しただけで、男が現れた(風花が言うように格好良かったが)のも考えるだけでも怖くなる。
風花だけでなく、両親に被害が出たら困る。
「残しておくだけでもダメかな?」
風花は訊ねてきた。
ベルツを見てはしゃいでいたので、困ったことがあればアプリを起動させて格好いい悪魔が出ると考えているのだろう。
「ダメ! ほらスマホ貸して、リビングには私が戻しに行くから」
真尋は強い口調で言った。風花は渋々といった感じで自分のスマホを真尋に渡した。
真尋は風花のスマホの電源を落とした。アプリを消そうと思えばできたが、朝起きてからでもできるのでしなかった。
「風花はもう寝なさい、アプリを消すのは私が立ち会うから」
真尋は言った。風花はふてくされてるのか返事をしなかった。風花がどう思っても、悪魔の願いはスマホから消した方がいいと真尋は判断した。
リビングにスマホを戻し、真尋は自分の毛布に潜り込んだ。隣からは風花の寝息が聞こえてくる。時間が夜中の二時なので、悪魔が出ようと眠気には勝てなかったのだ。
「お休み、風花」
真尋は妹に就寝の挨拶をして、瞼を閉じた。真尋の意識は闇に吸い込まれていった。
朝を迎えた時だった。リビングで母親は姉妹に謝罪の言葉を口にしたのだ。
今までそんな事は一度も無かった。
「……どうしたの?」
真尋が恐る恐る聞く。
「今まで真尋と風花には辛い思いをさせてきたわ、本当にごめんなさい。これからはちゃんとするから」
母親は真剣な口調で言った。ここ近年の母親は朝起きてもスマホばかりいじっており、朝食の支度は父親と真尋がやっていた。
母親としての役割を果たしていなかった。内心だらしない母親に嫌悪していた。しかし今日の朝は何か違っていた。
「もう……お父さんとは喧嘩しない?」
「うん、約束するわ」
風花の問いかけに、母親は静かに答える。
「……私は高校に行っても平気だよね」
真尋は自分の胸に手を当てて聞いた。母親は少し笑った。
「当たり前よ、高校にはちゃんと行かなきゃ」
「お母さん……」
真尋は母親の言葉に安堵感が胸に広がった。態度の変化に不安はあるが、それでも少しは母親を信じてみたかった。
母親は「さてと」と言って席を立つ。
「朝食の支度をするわ、真尋も手伝ってくれる?」
「手伝うよ」
真尋は言った。
「私は?」
「お父さんを起こしてきて」
「分かった」
それから姉妹は久々に両親と朝食を食べた。
両親は今までの喧嘩が嘘のように笑い合っていて本当に仲が良さそうだった。母親が作ったスクランブルエッグは口どけが良く美味しかった。トーストも同様だった。
「お母さん、美味しいよ!」
風花は頬を緩めて言った。
昨日まではさっさと食事を終わらせたくて食べていたが、今は母親の手料理を食べれて幸せそうだ。真尋も風花と同じ気持ちである。
真尋の髪型が変わったのを母親に突っ込まれたが、気分転換だと誤魔化した。昨日の夜中の出来事を言うのを伏せた。
今日の朝食は楽しい記憶として真尋の中に残った。
母親の変化が嘘でないことは、真尋が学校から帰ってきて、昨日までは埃があった廊下から埃がなくなっていることで実感した。母親は元々掃除が好きだったからだ。リビングも整頓が行き届いていた。
綺麗な家の中を見られて真尋は清々しい気持ちになった。
夜は姉妹がリクエストしたおにぎりが出て、二口食べて嬉しさと美味しさに真尋は思わず涙を流した。
「お姉ちゃん……何でおにぎり食べて泣くの」
言ってる風花も目から涙が出ていた。
「だって……美味しいんだもん」
真尋は涙を拭いながらおにぎりを頬張る。
空腹を満たすだけのパンを食べてた昨日より、今日食べた母親のおにぎりの方が食べて満ち足りた気持ちになった。
ベルツの呪文は姉妹に確かな幸福を与えたのだった
家庭に平和が戻ってから一ヶ月、真尋は中学を風花は小学校を卒業し、春休みを迎えた。
姉妹の卒業記念に、家族旅行を明日に控えた夜。 姉妹は夢の中でベルツと再会した。
「……久しぶりだな」
ベルツは相変わらず無表情だった。
「お久しぶりです」
真尋は敬語で返した。いきなり悪魔が現れたことに戸惑いを覚える。
「ベルツ、ごめんね。悪魔の願い消しちゃったりして、お姉ちゃんが消せってうるさいから……」
「風花! 余計なこと言わないって……え」
真尋は隣に妹がいたことに初めて気づく。
「これは俺が力を使ってお前達を揃えて語りかけている。風花と言ったな、悪魔の願いを消したのは正解だ。あれは安易に乱用するものではない……本当なら一度使えば自動的に消える仕組みになってるが、担当している奴がいい加減だからな」
ベルツは呆れ混じりに語る。真尋がアプリを消すという判断は正しかったのだ。
「ベルツが私の名前を呼んでくれた」
風花の表情は喜色に染まった。アプリの件は気にならないようだ。格好いい悪魔に名前を呼んでもらえた方が嬉しいのだ。
「それで……何か話があるんですか?」
浮かれた風花を無視して真尋は切り出した。
「俺が呪文を使ってから生活はどうだ」
ベルツは質問をした。自信あり気に去ったが、口振りからして気になっていたようだ。
「貴方のお陰で幸せな日々を送れています。有難うございます。ほら、風花も」
真尋は風花にも頭を下げさせた。
悪魔とはいえ、姉妹を幸せに導いてくれたのだから感謝以外に浮かばない。
「……ならいい、こうしてお前達の前に現れたのは忠告のためだ。お前達にはこれから幾多の困難が立ちふさがるだろう。だがそれらはお前達が前に進むために必要なことだ」
ベルツの声には低く凛々しい響きがあった。
「今後何かあっても、俺を含む悪魔のような曖昧なものに頼るな、自分の幸せは自分で掴め」
「えーそんなの厳しいよ」
風花は唇を尖らせた。小学生の風花にはベルツの言葉は重く感じるのだろう。
だが真尋はベルツが言っていることは理解できた。
「……分かりました。忠告感謝します」
「話は終わりだ。俺はそろそろ行く、お前達に悪魔の願いが二度と見えないように呪文をかけておく」
ベルツは言うと手を伸ばした。
「それってもうベルツにも会えないってことじゃん」
「仕方ないでしょ」
真尋は風花の顔を見つめて言った。風花は今にも泣きそうだった。
「真尋、妹を大切にしろよ」
ベルツは初めて真尋の名前を口にした。真尋の頭に疑問が沸いたが、次の瞬間眩い光が姉妹を包み込んだ。
気付くと真尋はベッドの上だった。 朝、風花に昨日の夜のことを聞いたが全く覚えていないそうだ。
加えてベルツや悪魔の願いのことも風花の記憶から綺麗さっぱり消え去っていた。どうしてベルツは風花の記憶を消したのか、ベルツがいない今は想像するしかないが、風花を悲しませないためなのかもしれない。風花はベルツに会えなくなるのを嫌がっていたし、悲しませるくらいなら記憶を消した方が都合が良いと考えたのだろう。
それなら何故自分の記憶は残っているのか。これは仮説だが風花に教えるために残したのかもしれない。自分の名をベルツが呟いたのは、よくある不思議な力で相手の心を読んだと結論付けられるように。
「えちゃん……お姉ちゃん!」
真尋が考え事をしてると、風花に呼ばれてはっとした。
「あっ、ごめんね、ぼーっとしてた」
真尋は風花に謝った。今は家族で泊まりにきた旅館の廊下を姉妹で歩いていた。自室に戻るためである。
「大丈夫? 受験の疲れが今になって出たの?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ何? お姉ちゃんここの所ぼーっとしてるよね」
風花はしつこく問いかけてきた。
風花が指摘するように確かにぼんやりしている。考えるのを丁度やめたかったので、頭の中で言うべきことを整理した。
「……分かったわ、話すよ」
真尋は伝えようと思った。
姉が知っていて、妹が忘れたことを。
「風花、今の幸せは貴方が作ってくれたの」
「私が? どうやって」
風花は首を傾げる。妹がきっかけを与えてくれたお陰で幸せになれたのは事実。
「詳しいことは話せないの、ごめんね」
「それ、お姉ちゃんが知ってて私が知らないってヤツ?」
風花の勘は鋭かった。
「そ……そうよ」
「もしかして、おまじないが効いたとか?」
風花は確かめるように訊ねてきた。
「そんな所かな、二人を仲直りさせるおまじないを使ったじゃない、あれが効いたのよ」
真尋は朗らかに言った。風花は両親が仲直りするために様々なおまじないをしていたのだ。
本当のことを言えずにじれったいがこらえた。
「でも今までのおまじないは効果が無かったのに、最後にやったのが本当に効いたのかな」
「神様が頑張った風花にご褒美くれたんだよ。だからおまじないが効いて二人は仲直りできたんだよ」
「ふうん……そうなんだ」
風花は納得した様子だった。
おまじないで風花を立てのが上手くいったようだ。
「じゃあ、私もっと頑張っておまじないしよう! 今度はカレシができるおまじないかけるんだ!」
風花は張り切って言った。
「まあ、頑張ってね。風花になら素敵な人を見つけられるよ」
「お姉ちゃんより先に見つけるね!」
「私は異性との付き合いに今のところ興味ないから」
「そんな事言ってたらお姉ちゃん一生独身だよ」
「もう……風花ったら」
妹の憎まれ口にも、真尋は怒る気にもなれなかった。風花が元気になって良かったと思うからだ。
本当なら「自分の幸せは自分で掴むんだよ」と伝えたかったが、風花の明るい顔を見て水を差す形になりそうだったので、言葉は胸にしまうことにした。
真尋は風花と他愛もない話を交わしながら、自室へと向かったのであった。姉妹は幸せそうに笑っていた。
その酒場には、複数の目が身体中についていたり、頭に角を生やしていたり、癖のある者達が来ていた。
ここは悪魔界の酒場である。
ベルツは仕事仲間であるキルシェとカウンター席で酒を飲んでいる。
「あなたは人間に優しいのね。呪文が効いてるかわざわざ依頼人に聞くなんて、あなたくらいなものよ、そこまでするのは」
キルシェは頼んだピーチリキュールを口に含んだ。
「……俺は人間の幸せを願っているからな、他の悪魔とは違う」
ベルツははっきり言い切った。
人間の願いを叶える組織を「フェリチタ」と
呼び、二年前に設立されベルツを含む複数が所属している。人間を幸せにしたいという想いから作られた。
キルシェが人間界向けに、悪魔召喚できるソフトである悪魔の願いを作り、不幸な人間を幸福に導くために悪魔が人間界に行く仕組みである。
ただしどの悪魔が行くかは完全にランダムかつ、悪魔もくせ者揃いなので、上手くいってるばかりでもないのだ。願いを叶えるための等価交換の際、依頼人である人間に手放したくない物を要求したり、無茶なことを言ったりする悪魔がいる。
酷いのが、依頼人が合わないからと仕事を放棄する悪魔もいたが、その悪魔は辞めさせられた。
ベルツは無愛想な部分はあるとはいえ、フェリチタの中でも、仕事をきっちりこなしつつ、人間の若い女性受けする容姿なので評価は高い。
「そうかもしれないけど、上の子の記憶も消せば良かったのに、しかも名前まで呼んだりして、あなたも変な所で意地悪するのね」
キルシェはジト目でベルツを見た。上の子とは真尋のことだ。
「意地悪じゃない、消す必要が無かっただけで名前を呼んだのは単なる気まぐれだ」
ベルツは言うとワインを飲んだ。真尋はしっかりしていそうなので記憶は残したのだ。
風花はベルツに惹かれていたので、悲しみを残さない意味で記憶を消去した。ベルツは依頼人が自分に惹かれているなら迷わずそうする。
「そう?」
「ああ、そうだ……俺のことよりお前の方が心配だ。ソフト管理はちゃんとしろよ」
ベルツは話を合わせつつ、キルシェに注意した。キルシェは人間界で流行りのスマホのアプリを呪文で作り上げたのだ。
しかし彼女のいい加減な管理のせいか、一度使えば消えるはずの悪魔の願いは消えずに残る事態がここ一ヶ月多発している。
ちなみに一度悪魔の願いを使うと悪用を防ぐ意味で二度と使えなくする仕様はキルシェが考案した。
キルシェいわく、想像を超える人が悪魔の願いをスマホに入れているため管理するのが難しいらしい。
今回行った風花のスマホにも残っており、真尋が消すように風花に言っていた。 手動で消せはするが、人間の中にはあまり困ってないことでも悪魔を呼び出す者もいる。
「分かってるわ、明日には改善するわ」
「頼むぞ、食事をしている時に人間に召喚されるのは困るからな」
ベルツは言った。
人間世界の姉妹が旅館で眠っている間に、悪魔は自分のいる世界で酒を飲んでいるのであった……
真尋は自分が食べていた分のパンを半分切って風花に渡した。
「……良いの?」
「あんまお腹空いてないから平気」
真尋は嘘をついた。本当はもっと食べたいが、風花の幸せを願ってのことだ。
「有難う、お姉ちゃん」
風花は真尋から半分のパンを受け取った。
外からは両親が言い争っている声がする。毎日行われているので、姉妹は自室で食事をとるようにしている。
「……何でお父さんとお母さん喧嘩してるんだろう」
風花は暗い表情で口走る。
「分からないよ」
真尋は一口パンをかじって言った。真尋は両親が喧嘩をする理由は知っていた。
原因は母親にあった。母親はスマホゲームに夢中になりすぎてしまい、家事も疎かになり、生活費をゲームに使ってしまっていることだった。みっともないと感じる理由なので風花には言えなかった。
真尋は四月に高校入学を控えているが、家の現状を考えると、それで良いのか疑問を抱くようになった。真尋が高校に必要な物を父親が用意してくれたにも関わらずにもだ。
「……私、お母さんが握ってくれたおにぎりが食べたいな」
風花は悲しみを交えて言った。
おにぎりは五年前に家族四人でピクニックに行った時に食べた。美味しかったし、あの頃は皆笑い合っていて幸せだった。
今の家には幸せの欠片を見つけることすら難しい。
真尋は風花の体を抱き締めた。風花の体温が伝わってくる。
「私だって同じだよ、お母さんのおにぎり食べたい」
真尋も風花の気持ちに寄り添った。現在の母親を見る限り、おにぎりを握ってくれそうにない。
妹が明るい気持ちになれる答えが見つけられず、真尋は黙っているしか無かった。
「お姉ちゃん」
真尋は妹の声と共に体を揺さぶられていた。真尋はうっすらと目を開く。
そこにはパジャマ姿の風花が立っていた。
「どうしたの、お腹空いたの?」
体を起こし、目を擦りながら真尋は訊ねた。
風花は空腹になると、夜中だろうが真尋を起こすことがある。その場合は真尋が足音を立てずにリビングにいき食べ物を調達して風花に渡すのだ。
今日の夕飯がパンだけだとお腹が空くのも無理はない。
「違うの、昨日の夜凄く良いアプリを見つけたの」
風花の声色はどこか明るかった。
「アプリ……?」
「これだよ」
風花は身を屈めて、真尋にスマホを見せた。
スマホを見るなり真尋の表情は強張る。
「スマホは持ってきたらまずいわ」
真尋は不安にせき立てられるように言った。風花が持ってるスマホは自分のもので本来ならリビングに置いてあり、夜中の使用は禁じられている。
もし禁止事項を破れば父親に取り上げられる。
「平気、後で戻すから」
「今は使えないでしょ」
真尋は突っ込んだ。
万が一のことも想定しているためか、使用時間を制限するアプリも入っていて、今の時間は使用できないはずだ。
「裏技使ってるから使用できるの、それよりこのアプリ見てよ」
風花はスマホの画面を指差した。そこには「悪魔の願い」という名前が表記されている。
「……何それ」
真尋はアプリをジッと見つめる。
「最近すっごい流行ってるんだ。悪魔が何でも願いを叶えてくれるんだって」
風花は朗らかに言った。
風花はおまじないや占いが好きで、そういったアプリをよく入れている。
「嘘くさい、あなた騙されてるんじゃないの」
風花とは対照的に真尋は冷めた口調だった。
「嘘じゃないよ、アプリの評価にも書いてあるけど、悪魔にお願いしたらちゃんと効果があったって、十人中九人は言ってる」
「具体的には?」
「えっと、彼氏ができたとか、成績が上がった、友達と仲直りできたとか」
風花は思い出すように言った。それらは自分の努力次第で何とかなりそうな話だ。
「……風花、そのアプリ消した方が良いわ、情報を抜き取られたら大変よ」
最近のスマホアプリの中にはアプリを入れただけで、個人情報を取られることがあるのだ。
風花には痛い目に遭って欲しくないのだ。
「じゃあ今のままで良いの?」
風花の声は真剣さが帯びた。
「私知ってるよ、お姉ちゃんが私のために我慢してるって、自分がお腹空いてるのにパンを半分こしてくれたり、私の靴を買ってくれたり……お姉ちゃんにはこれ以上我慢して欲しくない、幸せになれるなら私は悪魔にでもすがりたいよ」
風花は今にも泣きそうな顔になった。
家族の仲がきしみはじめてから、真尋は風花が言っていること以外でも色んなことを我慢してきた。部活もバスケ部に入りたかったが、経済的に厳しいため断念し、友人と遊びに行きたいのに、家事をするために誘いを断った。
このまま高校に入っても、また我慢を強いられることになる。真尋としても本心ではそんな日々はもう御免だった。
とは言え、空想話に全て託すこともしたくはなかった。
「少しでも可笑しいと思ったらやめるからね」
真尋は風花に言った。風花は嬉しそうな顔付きになった。
「そう来なくっちゃ!」
風花は身を屈め、真尋と同じ目線になった。
「じゃあ、悪魔の願いを起動するね」
風花は悪魔の願いに指を軽く触れる。スマホの画面が真っ暗になり、配信先の会社名が出てきた。
数秒後には「悪魔の願い」という赤い文字のタイトルに、白文字で「はじめる」と記された画面が現れた。
「無事に立ち上がったよ」
「そうね」
「じゃあはじめるのボタンを押すね」
風花ははじめるのボタンに触れた。次の瞬間だった。物音がして姉妹はその方角に振り向いた。
そこには見知らぬ男がいた。
突然のことに、真尋は声が出なかった。男は
鋭い眼差しで姉妹を見つめた。
風花に何かあっては困ると思い、真尋は風花の前に立つ。
「あ……貴方は誰ですか?」
真尋は絞り出すように言葉を発した。男は無表情を崩さずに口を開く。
「俺はベルツ、お前達に呼び出された悪魔だ」
男は淡々と答えた。
「ベルツは悪魔の願いを起動すると出てくる悪魔の一人、大勢いる悪魔の中で冷静な性格をしてるんだって」
背中から風花の声が飛んできた。
「あっ、確かに格好いいな!」
風花は真尋の背から顔を出して、ベルツの顔を見る。
「私達当たりを引いたみたいだね! ラッキーだよ! お姉ちゃん!」
風花は心の底から嬉しそうに言った。風花の話からすると、悪魔の願いで呼び出せる悪魔は複数いるようだ。
よく見るとベルツは風花が言うように、整った顔をしている。
「風花、今はそれ所じゃないでしょ」
真尋は気を取り直した。スマホアプリのボタンを押して男が現れただけでも非現実的だからだ。
「あの……ベルツさん、質問して良いですか?」
真尋は低姿勢でベルツに訊ねる。相手を刺激しないためだ。
「俺のことは呼び捨てで良い、さん付けされるのは性に合わない。で、質問とは何だ」
「貴方は願いを叶えてくれると言いますが、本当ですか?」
真尋は言った。ベルツは少ししてから「ああ……」と短く返した。
「ただし、願いにも条件がある」
ベルツは人差し指を真尋に向ける。
「それはお前達人間の世界にある秩序を乱すことは叶えられない、殺人や窃盗などな」
「例えば、隣の斎藤さんの桜を持ち出せとか、学校の屋上に登って! とか?」
風花は例を上げた。風花には悪いがレベルが低い。
しかしベルツは首を縦に振る。
「分かり易く言えばそうなるな」
「今ので良いんだ……」
真尋は苦笑いを浮かべた。
「それで、お前達の願いは何だ」
ベルツは問いかけてきた。
姉妹の願いは、ベルツの言う秩序を乱すことはない。しかし真尋は風花の顔を見た。
「風花、家を平和にして欲しいで良いね?」
真尋は訊ねた。大切なことなので自分一人では決められない。風花の意見も聞きたかった。
「何言ってるの、良いに決まってるじゃん、お母さんのおにぎり食べたいし」
「分かった」
真尋は風花からベルツに顔を向き直した。
「私達の願いは、私達の家庭を平和にして欲しいです……叶えられますか?」
真尋は願いを言い切った。ベルツはほんの少しの沈黙の後、閉ざした口を開いた。
「息をするのと同じくらいに容易い、願いを叶えてやろう」
ベルツの良い返事に、真尋は温かな気持ちになった。ベルツは「ただし」と話を続ける。
「お前の髪をよこせ、交換取引だ」
ベルツに言われ、真尋は困惑した。
「髪……ですか?」
真尋は髪に手を触れた。
髪は長い方が好きだからとずっと伸ばしてきた。友人からも羨ましがられている。
「どうした。願いを叶えたくないのか」
ベルツは強く言った。
髪を差し出すだけで両親の仲が直るなら安いものだ。ここで自分のことを優先したら、風花は悲しむ。
それに髪はまた伸ばせばいい。
「分かりました。私の髪をあげます。だから願いは叶えて下さい」
真尋は髪を手で束ねて差し出した。
「契約成立だな」
ベルツは真尋に近づき、右手で空を切るような仕草をした。その途端に真尋の長い髪は切れ、ベルツの手に渡った。
真尋の髪は紫色の炎で燃え、やがて灰となった。
「あの……今のは?」
「お前の髪から魔力を引き出して、願いをかける呪文を使ったんだ。人間の女の髪には魔力が宿るからな」
ベルツは静かに言った。
「これでお前達の願いは叶った。朝になったら確かめると良い」
ベルツは自信に満ちた声だった。ベルツは二人に背を向けた。
「あの、ベルツ」
ベルツが去ろうとするのを、真尋が引き留める。
「……礼ならお前達が直に見てからにしろ、俺は行くぞ」
ベルツはぶっきらぼうに言い、空気のごとく姿を消した。
真尋はベルツに礼を述べようとした。ベルツは真尋の心を読んだことになる。
火のない所から、火を出したりする所を見ると、ベルツはやはりただ者ではないようだ。
「お姉ちゃん……大丈夫?」
風花が心配そうに声をかけてきた。
「うん……」
「お姉ちゃんの髪、燃えちゃったね」
風花は悲しそうに呟く。
「良いのよ、風花が無事だったから」
真尋は言った。髪より妹の方が大切だからだ。
「それより、スマホはリビングに戻しに行こう、アプリを消すのは後にしよう」
「消すなんてヤダよ、折角見つけたのに」
風花の声は沈んでいた。
「ああいう得体の知れない力に頼ったらいけないの。今回は切り抜けられたけど、次はどうなるか分からないでしょ」
真尋は言った。次にアプリを起動すれば人の命を狙う恐ろしい悪魔が出てこないとも限らない。
ボタンを押しただけで、男が現れた(風花が言うように格好良かったが)のも考えるだけでも怖くなる。
風花だけでなく、両親に被害が出たら困る。
「残しておくだけでもダメかな?」
風花は訊ねてきた。
ベルツを見てはしゃいでいたので、困ったことがあればアプリを起動させて格好いい悪魔が出ると考えているのだろう。
「ダメ! ほらスマホ貸して、リビングには私が戻しに行くから」
真尋は強い口調で言った。風花は渋々といった感じで自分のスマホを真尋に渡した。
真尋は風花のスマホの電源を落とした。アプリを消そうと思えばできたが、朝起きてからでもできるのでしなかった。
「風花はもう寝なさい、アプリを消すのは私が立ち会うから」
真尋は言った。風花はふてくされてるのか返事をしなかった。風花がどう思っても、悪魔の願いはスマホから消した方がいいと真尋は判断した。
リビングにスマホを戻し、真尋は自分の毛布に潜り込んだ。隣からは風花の寝息が聞こえてくる。時間が夜中の二時なので、悪魔が出ようと眠気には勝てなかったのだ。
「お休み、風花」
真尋は妹に就寝の挨拶をして、瞼を閉じた。真尋の意識は闇に吸い込まれていった。
朝を迎えた時だった。リビングで母親は姉妹に謝罪の言葉を口にしたのだ。
今までそんな事は一度も無かった。
「……どうしたの?」
真尋が恐る恐る聞く。
「今まで真尋と風花には辛い思いをさせてきたわ、本当にごめんなさい。これからはちゃんとするから」
母親は真剣な口調で言った。ここ近年の母親は朝起きてもスマホばかりいじっており、朝食の支度は父親と真尋がやっていた。
母親としての役割を果たしていなかった。内心だらしない母親に嫌悪していた。しかし今日の朝は何か違っていた。
「もう……お父さんとは喧嘩しない?」
「うん、約束するわ」
風花の問いかけに、母親は静かに答える。
「……私は高校に行っても平気だよね」
真尋は自分の胸に手を当てて聞いた。母親は少し笑った。
「当たり前よ、高校にはちゃんと行かなきゃ」
「お母さん……」
真尋は母親の言葉に安堵感が胸に広がった。態度の変化に不安はあるが、それでも少しは母親を信じてみたかった。
母親は「さてと」と言って席を立つ。
「朝食の支度をするわ、真尋も手伝ってくれる?」
「手伝うよ」
真尋は言った。
「私は?」
「お父さんを起こしてきて」
「分かった」
それから姉妹は久々に両親と朝食を食べた。
両親は今までの喧嘩が嘘のように笑い合っていて本当に仲が良さそうだった。母親が作ったスクランブルエッグは口どけが良く美味しかった。トーストも同様だった。
「お母さん、美味しいよ!」
風花は頬を緩めて言った。
昨日まではさっさと食事を終わらせたくて食べていたが、今は母親の手料理を食べれて幸せそうだ。真尋も風花と同じ気持ちである。
真尋の髪型が変わったのを母親に突っ込まれたが、気分転換だと誤魔化した。昨日の夜中の出来事を言うのを伏せた。
今日の朝食は楽しい記憶として真尋の中に残った。
母親の変化が嘘でないことは、真尋が学校から帰ってきて、昨日までは埃があった廊下から埃がなくなっていることで実感した。母親は元々掃除が好きだったからだ。リビングも整頓が行き届いていた。
綺麗な家の中を見られて真尋は清々しい気持ちになった。
夜は姉妹がリクエストしたおにぎりが出て、二口食べて嬉しさと美味しさに真尋は思わず涙を流した。
「お姉ちゃん……何でおにぎり食べて泣くの」
言ってる風花も目から涙が出ていた。
「だって……美味しいんだもん」
真尋は涙を拭いながらおにぎりを頬張る。
空腹を満たすだけのパンを食べてた昨日より、今日食べた母親のおにぎりの方が食べて満ち足りた気持ちになった。
ベルツの呪文は姉妹に確かな幸福を与えたのだった
家庭に平和が戻ってから一ヶ月、真尋は中学を風花は小学校を卒業し、春休みを迎えた。
姉妹の卒業記念に、家族旅行を明日に控えた夜。 姉妹は夢の中でベルツと再会した。
「……久しぶりだな」
ベルツは相変わらず無表情だった。
「お久しぶりです」
真尋は敬語で返した。いきなり悪魔が現れたことに戸惑いを覚える。
「ベルツ、ごめんね。悪魔の願い消しちゃったりして、お姉ちゃんが消せってうるさいから……」
「風花! 余計なこと言わないって……え」
真尋は隣に妹がいたことに初めて気づく。
「これは俺が力を使ってお前達を揃えて語りかけている。風花と言ったな、悪魔の願いを消したのは正解だ。あれは安易に乱用するものではない……本当なら一度使えば自動的に消える仕組みになってるが、担当している奴がいい加減だからな」
ベルツは呆れ混じりに語る。真尋がアプリを消すという判断は正しかったのだ。
「ベルツが私の名前を呼んでくれた」
風花の表情は喜色に染まった。アプリの件は気にならないようだ。格好いい悪魔に名前を呼んでもらえた方が嬉しいのだ。
「それで……何か話があるんですか?」
浮かれた風花を無視して真尋は切り出した。
「俺が呪文を使ってから生活はどうだ」
ベルツは質問をした。自信あり気に去ったが、口振りからして気になっていたようだ。
「貴方のお陰で幸せな日々を送れています。有難うございます。ほら、風花も」
真尋は風花にも頭を下げさせた。
悪魔とはいえ、姉妹を幸せに導いてくれたのだから感謝以外に浮かばない。
「……ならいい、こうしてお前達の前に現れたのは忠告のためだ。お前達にはこれから幾多の困難が立ちふさがるだろう。だがそれらはお前達が前に進むために必要なことだ」
ベルツの声には低く凛々しい響きがあった。
「今後何かあっても、俺を含む悪魔のような曖昧なものに頼るな、自分の幸せは自分で掴め」
「えーそんなの厳しいよ」
風花は唇を尖らせた。小学生の風花にはベルツの言葉は重く感じるのだろう。
だが真尋はベルツが言っていることは理解できた。
「……分かりました。忠告感謝します」
「話は終わりだ。俺はそろそろ行く、お前達に悪魔の願いが二度と見えないように呪文をかけておく」
ベルツは言うと手を伸ばした。
「それってもうベルツにも会えないってことじゃん」
「仕方ないでしょ」
真尋は風花の顔を見つめて言った。風花は今にも泣きそうだった。
「真尋、妹を大切にしろよ」
ベルツは初めて真尋の名前を口にした。真尋の頭に疑問が沸いたが、次の瞬間眩い光が姉妹を包み込んだ。
気付くと真尋はベッドの上だった。 朝、風花に昨日の夜のことを聞いたが全く覚えていないそうだ。
加えてベルツや悪魔の願いのことも風花の記憶から綺麗さっぱり消え去っていた。どうしてベルツは風花の記憶を消したのか、ベルツがいない今は想像するしかないが、風花を悲しませないためなのかもしれない。風花はベルツに会えなくなるのを嫌がっていたし、悲しませるくらいなら記憶を消した方が都合が良いと考えたのだろう。
それなら何故自分の記憶は残っているのか。これは仮説だが風花に教えるために残したのかもしれない。自分の名をベルツが呟いたのは、よくある不思議な力で相手の心を読んだと結論付けられるように。
「えちゃん……お姉ちゃん!」
真尋が考え事をしてると、風花に呼ばれてはっとした。
「あっ、ごめんね、ぼーっとしてた」
真尋は風花に謝った。今は家族で泊まりにきた旅館の廊下を姉妹で歩いていた。自室に戻るためである。
「大丈夫? 受験の疲れが今になって出たの?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ何? お姉ちゃんここの所ぼーっとしてるよね」
風花はしつこく問いかけてきた。
風花が指摘するように確かにぼんやりしている。考えるのを丁度やめたかったので、頭の中で言うべきことを整理した。
「……分かったわ、話すよ」
真尋は伝えようと思った。
姉が知っていて、妹が忘れたことを。
「風花、今の幸せは貴方が作ってくれたの」
「私が? どうやって」
風花は首を傾げる。妹がきっかけを与えてくれたお陰で幸せになれたのは事実。
「詳しいことは話せないの、ごめんね」
「それ、お姉ちゃんが知ってて私が知らないってヤツ?」
風花の勘は鋭かった。
「そ……そうよ」
「もしかして、おまじないが効いたとか?」
風花は確かめるように訊ねてきた。
「そんな所かな、二人を仲直りさせるおまじないを使ったじゃない、あれが効いたのよ」
真尋は朗らかに言った。風花は両親が仲直りするために様々なおまじないをしていたのだ。
本当のことを言えずにじれったいがこらえた。
「でも今までのおまじないは効果が無かったのに、最後にやったのが本当に効いたのかな」
「神様が頑張った風花にご褒美くれたんだよ。だからおまじないが効いて二人は仲直りできたんだよ」
「ふうん……そうなんだ」
風花は納得した様子だった。
おまじないで風花を立てのが上手くいったようだ。
「じゃあ、私もっと頑張っておまじないしよう! 今度はカレシができるおまじないかけるんだ!」
風花は張り切って言った。
「まあ、頑張ってね。風花になら素敵な人を見つけられるよ」
「お姉ちゃんより先に見つけるね!」
「私は異性との付き合いに今のところ興味ないから」
「そんな事言ってたらお姉ちゃん一生独身だよ」
「もう……風花ったら」
妹の憎まれ口にも、真尋は怒る気にもなれなかった。風花が元気になって良かったと思うからだ。
本当なら「自分の幸せは自分で掴むんだよ」と伝えたかったが、風花の明るい顔を見て水を差す形になりそうだったので、言葉は胸にしまうことにした。
真尋は風花と他愛もない話を交わしながら、自室へと向かったのであった。姉妹は幸せそうに笑っていた。
その酒場には、複数の目が身体中についていたり、頭に角を生やしていたり、癖のある者達が来ていた。
ここは悪魔界の酒場である。
ベルツは仕事仲間であるキルシェとカウンター席で酒を飲んでいる。
「あなたは人間に優しいのね。呪文が効いてるかわざわざ依頼人に聞くなんて、あなたくらいなものよ、そこまでするのは」
キルシェは頼んだピーチリキュールを口に含んだ。
「……俺は人間の幸せを願っているからな、他の悪魔とは違う」
ベルツははっきり言い切った。
人間の願いを叶える組織を「フェリチタ」と
呼び、二年前に設立されベルツを含む複数が所属している。人間を幸せにしたいという想いから作られた。
キルシェが人間界向けに、悪魔召喚できるソフトである悪魔の願いを作り、不幸な人間を幸福に導くために悪魔が人間界に行く仕組みである。
ただしどの悪魔が行くかは完全にランダムかつ、悪魔もくせ者揃いなので、上手くいってるばかりでもないのだ。願いを叶えるための等価交換の際、依頼人である人間に手放したくない物を要求したり、無茶なことを言ったりする悪魔がいる。
酷いのが、依頼人が合わないからと仕事を放棄する悪魔もいたが、その悪魔は辞めさせられた。
ベルツは無愛想な部分はあるとはいえ、フェリチタの中でも、仕事をきっちりこなしつつ、人間の若い女性受けする容姿なので評価は高い。
「そうかもしれないけど、上の子の記憶も消せば良かったのに、しかも名前まで呼んだりして、あなたも変な所で意地悪するのね」
キルシェはジト目でベルツを見た。上の子とは真尋のことだ。
「意地悪じゃない、消す必要が無かっただけで名前を呼んだのは単なる気まぐれだ」
ベルツは言うとワインを飲んだ。真尋はしっかりしていそうなので記憶は残したのだ。
風花はベルツに惹かれていたので、悲しみを残さない意味で記憶を消去した。ベルツは依頼人が自分に惹かれているなら迷わずそうする。
「そう?」
「ああ、そうだ……俺のことよりお前の方が心配だ。ソフト管理はちゃんとしろよ」
ベルツは話を合わせつつ、キルシェに注意した。キルシェは人間界で流行りのスマホのアプリを呪文で作り上げたのだ。
しかし彼女のいい加減な管理のせいか、一度使えば消えるはずの悪魔の願いは消えずに残る事態がここ一ヶ月多発している。
ちなみに一度悪魔の願いを使うと悪用を防ぐ意味で二度と使えなくする仕様はキルシェが考案した。
キルシェいわく、想像を超える人が悪魔の願いをスマホに入れているため管理するのが難しいらしい。
今回行った風花のスマホにも残っており、真尋が消すように風花に言っていた。 手動で消せはするが、人間の中にはあまり困ってないことでも悪魔を呼び出す者もいる。
「分かってるわ、明日には改善するわ」
「頼むぞ、食事をしている時に人間に召喚されるのは困るからな」
ベルツは言った。
人間世界の姉妹が旅館で眠っている間に、悪魔は自分のいる世界で酒を飲んでいるのであった……
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