潮風からの手紙

土左エイモン

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潮風からの手紙

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 夜風に乗って、懐かしい香りが鼻腔をくすぐる、テトラポットの上。
 緩やかな波のまどろみを眺めていると、そこにそのまま身を委ねてしまいたくなる気持ちがなんとなくわかる。
 きっと、彼もこんな気持ちだったのだろうか。 
 永遠とも思える時の流れの中で、或いはあまりにも早すぎるようにも感じる中で、私は深く目を閉じる。
 
……私は逢いに来ました。


 拝啓 君は今、どのように過ごしているだろうか。
心配をかけてすまないと思っている。
どうか変わりなく、幸せに暮らしてほしいと願う。
 この手紙には、僕が何をして、何を考え、何を思っていたのかを全て記そうと思っている。
 どうか……どうかこれを読んでも、そのままの君で居て欲しい。くれぐれも……。

 僕は、急に不安になる事が多かったんだ。最近は特に。
 なんの予兆もなく、漠然とした恐怖が、じわじわと僕の心を蝕んで行く感覚に襲われる。
 これは、誰に相談しようにも、まるで言葉に出来ないような感覚で、無理に捻り出そうとしても、強烈な吐き気と頭痛が生じて、それを阻むんだ。
 そんな自分から逃げたかった。逃げ出したかったんだよ。
 僕は、誰も僕を知らない土地へ、何も持たず、フラッと住むことにした。誰にも言わずに。……聞いたよ。君は大層心配して、その後警察が捜索を止めても、一人でずっと探し回ってくれて居たと。ごめんよ。でも、あの時の僕は、自分という人間を一切排除してしまいたかったんだ。

 話が逸れてしまったね。僕はその、とある小さな農村で、名も経歴も、全てを偽り、ろくすっぽ身分証も要らないような、日雇いの仕事をしながら、安いゲストハウスのような所に寝泊まりを始めた。
 しかし、最初のうちは良かったんだが、小さな村で、何日もそんな生活をしているやつなんて、怪訝に思われて当然だろう。ある朝、ついに宿泊拒否にあってしまったんだ。
 ほとほと困り果ててしまった僕は、何となく歩みを進めるしかなかったよ。
 
 気付いたら、空が紅く色付く時刻になっていた。
 ぼんやりと、脈絡もなく歩いていたせいか、そこそこ疲弊していたみたいだ。
 鉛のように重くなった足を休めようと、近くにあった公園のベンチに腰掛けて、涼しげな池を、ただ何となく眺める事にした。
 相当困った顔、或いは絶望したような酷い顔をしていたのだろうか。
 その池の鯉に餌をやっていたおじいさんが、僕の方へ近づいてきて、"どうしたんだ?"なんて聞いてくるもんだから、安堵からか、気づいたら、勿論所々伏せてはいたけれど、これまでの顛末を話していた。
 人の関わりを断ち、全てを捨てて来た僕が、それなのに人に心配されて安堵してしまうというのは、中々に皮肉が効いているなぁと、心の中でおかしくなってしまったよ。
 何だか、自分がやっている事は、てんで無意味な事のような気がして。元いた場所に戻ろう……なんて事も脳裏によぎったんだけれど、隣町の海沿いでやっているという、おじいさんの旅館に、少しの興味が出て来た事と、僕の手持ちが少なかった事を擦り合わせて、僕は、そこで住み込みで働かせてくれないかと、思わず口に出していた。
 
 そうして僕は、とある町の海沿いの旅館に、住み込みで働き始めた。


 海沿いの街で育った僕にとっては、懐かしい香りがする旅館。
 僕はそこで、簡単な雑用と接客を、やる事になったんだ。
  接客なんてしてると、いろんな人と話す機会が多くてね。
 人間らしい生活と言うか、心というか、そういう類のものに久し振りに触れたら、意外にも不思議と心地よくて……
 同時に捨てたはずの……以前の僕に対する、寂しさというか、愛おしさみたいなものも、生まれ始めた。
 そんな僕の心を知ってか知らずか、おじいさんは、よく僕を散歩に連れ出し、海を眺めながら自分の昔話なんかを話してくれた。
 若い時分、実家の旅館を継ぎたくなくて絶縁同然で家を出た事。
 都会で失敗し、死のうと思ったがそんな勇気もなく地元に戻って来た事。
 その頃には親も死に、何もかも無くなっていたが、せめて人にはこんな思いをさせたく無い、穏やかな海を見ながら、自分自身としっかり向き合って欲しい。そんな理由で一から旅館を始めた事。
 そんなおじいさんの思いなのだろうか、この旅館に泊まる人の話を聞くと、自分の過去と向き合っている人が多かったように思うし、僕自身も、なんとなく揺り動かされているような気がしたんだ。
 そして、その頃から楽しかった思い出や、あの日々を、頻繁に夢に見た。

 嗚呼、やはり僕には、君や周りにいた皆が必要だったんだ。
 嗚呼、過去を捨て去る事など出来ない事だったんだ。
 近くにあるテトラポットに座り、緩やかな水面を見ながら、あの頃に思いを馳せたよ。
 でも、帰る気にはならなかった。
……僕は我儘なんだ。
 きっとこの場所で、あの頃の思い出に身を寄せるくらいが丁度いいんだと、そう思っていたんだよ。

 半年位かな。もうすっかり旅館の一員になっていた僕は、ここでこのまま一生を終えても良いだろうと思い始めていた。
 でも、人生なんてのはそうそう上手くいくわけもなくてさ。
 おじいさんが倒れた。そして、そのタイミングで、大手企業のリゾート開発の一環として、この旅館を買い取らせて欲しいという話が出ていた。
 皮肉なもんでその大手企業ってのが、おじいさんの息子が勤めているところらしく、メンツを立てる為にも断る訳にはいかなかった。
 若い頃親不孝もんだった自分への罰だな…なんて力なく笑うおじいさんは、話が決まったすぐ後、呆気なく逝ってしまったよ。
 
 月並みな表現だけど、心に穴が空いてしまったように感じた僕は、それでも帰ってしまうと、また繰り返してしまいそうで。
 だから一度だけ……一度だけ、仲の良かったアイツに連絡を取り、そしてこの手紙を書いている。

 漠然としているけれど……僕は、海になりたいんだ。波になりたいんだ。緩やかに流れていたいんだ。
 これが、今の僕の心中です。

 何も言わずにいなくなってしまってごめん。
 僕はこれからもずっと……きっと君のそばにいるから。
 どうか悲しまないで欲しい。

 さようなら。僕の親愛なる人へ。



 彼は、きっとどこかで穏やかに流れていると……私は、そう思うのです。
 水面を眺めていると……そう思うのです。
……そう思いたいのです。
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