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最終章 五女と家族と妖精の薬
第7話 ひとつの想いが家族を繋ぐ
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「俺は小さい時から、いわゆる『育てやすい子供』だったんだ。
わがままも言わず、病気もせず、きちんと勉強をして魔法の才を存分に活かし、いつのまにか次期侯爵の地盤が固まっていた」
妖精使いの子供たちは、その才能を分け合うように生まれてくる。というのを聞いたことがある。
ナタリー様が妖精を感じ取れるように、メイシィは外見を、ローレンス様は膨大な魔力と扱うセンスを受け取ったのかもしれない。
ソファの反対側に腰掛けるローレンス様は、大きく姿勢を崩して背中を預けたまま天井を見て口を開く。
「そうなったのは姉妹たちがあまりに奔放で毎日のように事件を引き起こすからだったんだ。父も母も対処に追われて、放っといても困ったことをしない俺は都合の良い子供だった。
その上に同い年だからと友人になったのはあのクリードだ。あいつは最たる例、いつでもどこでも何かを起こして騒ぎになる。
俺は我慢して対処しているうちに、やたら人脈が広くて事の収拾が上手い、都合の良い友人になった。
だが、別にその生活が嫌だったわけではないんだ。刺激だらけの人生も悪くないさ」
ローレンス様は少しだけ笑う。
「そんな俺を支えてくれたのがメイシィだったんだ。
愚痴のような話も、明るいだけの話も全部楽しそうに聞いてくれて、苦労人と呼ばれてばかりの俺の『楽しい』という気持ちを理解してくれた」
でも、彼女自身の10歳までの人生は本当の楽しさとは程遠かった。
私は思わず目を伏せる。
生まれた時からひどく不安定な症状と生死の境目を往復する生活なんて、普通の子どもが耐えられるはずもない。想像するだけでぞっとする。
「俺はメイシィがいなかったらとっくに心も身体も壊れていただろな。
そうして彼女に恩を返すべくあちこち奔走していたら、肩書ばかりが立派な妹離れできない残念な男になったというわけだ、はは」
「ふふ、私も彼女と同室になってからお世話の癖が抜けない残念な女になりました。ほんの少しだけ、似ているかもしれませんね」
メイシィとの出会いは今でも覚えている。
長く白く、ふわっとした髪を揺らしたいかにもお嬢様の彼女は、最初は寮生活どころか制服を着ることひとつもできなくて、助けてと言われたときは私の頭の中まで同じ色になった。
それから自立した生活を何とか覚えたのに、今度は薬学と魔法の勉強に没頭して生活が疎かになる始末。
私が侍従としてまともに仕事ができているのも、おそらく彼女によって身体に染みついた経験があればこそだと思う。
「……幸せに、なってほしいんだ」
紅茶を飲み干して一息、ただの妹思いの兄の顔をした侯爵子息は困ったように微笑んだ。
「あの子の願いを叶えてやりたい。今回の一級魔法薬師試験に協力しているのもそのためだ。
もちろんゆくゆくは良い人と出会って生きてくれたら心から嬉しいと思っていた。
まあ、その相手がよりによって不安しかない男で困っているが、まあ、想いの強さだけは立派なようだから認めてやらんでもない」
「ふふ」
「俺の苦労が増えるだけさ。しかもどうしようもなく暖かくて毒薬のような苦労。はは、困ったものだ」
「ええ、そうですね。毒と薬は紙一重、といいますから」
どうやら私たちは似た者同士らしい。
とりとめのない苦労話に咲いた花は、いつのまにか朝露に濡れて雫をぽとりと落としていた。
――――――――――――――――――――――
「ミカルガ薬師~!!」
「ホゥ!?な、ナタリー様、お帰りになりましたか。
「持ってきたわよ~!ア・レ・を!受け取ってちょうだい~」
「ありがとうございます。……ほぅ……これはなんと立派な真っ赤なウロコ。大量ではないですか。
窓からではなく扉から入ってお渡しいただけると一番よかったのですが……」
『離別薬』を調合するための材料は日に日に揃っていった。
ローレンス様の執務室に勝手に貼り紙された一覧表は、あっという間に赤い取り消し線で埋まる。
薬は数日で完成し、メイシィに飲ませられるだろうとミカルガ様がおっしゃると、みなさまは大いに喜ばれた。
セロエ様が感情に任せて叩いてきた背中がまだ痛い。
残された時間。クリード殿下はまだ結論を口に出せないでいらっしゃった。
何度か殿下の執務室でユーファステア侯爵家の人々とお話をされたようだったけれど、決意が固まらない理由すら話さないという。
煮え切らない態度を取り続けていらっしゃるようで、セロエ様は大変苛立った様子で廊下を歩いているのを何度も見かけるほどだった。
それでも殿下は今日も濃い紅茶をお求めになる。
私はお部屋を出てすっかり慣れた手つきで準備を進めていると、小さい小さい私を呼ぶ声がした。
「クレア、クレア」
「モリー?どうしたの?」
私と同じクリード殿下の担当――というより、裏方をしている鼠人族《そじんぞく》のモリーだった。
殿下の前に姿を現して良いのは私とパラノさんだけ。だからといってふたりだけで世話も側近の業務もできるわけはなく、裏には何十人もの侍従がいる。
いつも息を殺すように仕事に励んでいる彼女は、ネズミの尻尾を異常にばたつかせていた。
スカートがめくれていろいろと危ないほどに。
「今、ラジアン殿下がお部屋に!私、応対できないから止められなかった」
「え?」
「クレア早く行って!ティーカートの準備手伝うから」
「え、ええ、でもたまにいらっしゃるしそんなに焦ること?」
「なんだか様子がおかしいの!」
ティーカップとソーサーをもうひとつ取り出しながら、モリーは言った。
「『メイシィを本当に治すつもりなのか?』って、ラジアン殿下がおっしゃってたの!」
「ねえ、クリード。メイシィの魂を戻す薬がもうすぐできそうなんだろう~?」
「ええ、あと数日だと聞いています、兄上」
一礼して執務室に足を踏み入れると、兄弟は机を挟んで対峙されていた。
ラジアン殿下はいつも通りのひょうひょうとしたご様子。
一方クリード殿下は少し訝しげなご様子だ。
良く見る和やかな雰囲気とは違う。私は紅茶の準備をしながらおふたりの会話に耳を傾けた。
「だけれど、薬の力だけじゃ戻せない。君の『祈り』が必要だとか」
「流石耳が早いですね、その通りです」
「ふーん、つまり『祈り』がないと成功しないわけだ」
「……兄上、先ほどから何か言いたげですね」
「いーや、別に~」
あまりに怪しい。クリード殿下は困った顔をして兄王子を見つめ返していらっしゃる。
「はっきり言ってください、兄上。私はこれ以上部屋を散らかしたくありません」
……うわ、クッションがひとつないと思ったらまた天井にくっついている。
兄王子に目線で上を示唆したあと、殿下は淹れたばかりの紅茶に口をつけた。
「わかったよクリード。
メイシィを治すの、やめないかい?」
「……」
少し離れて空気に徹している私は、我慢できずに身体が震えた。
ラジアン殿下の意図が読めないわ。どうしてこんなことをおっしゃるのだろう。
「……なぜ、そのようなことを?」
「君だってわかっているだろう?今が君にとって最良の状態、最大のチャンスだということに」
「それは……」
言い淀む弟にぐいっと距離を詰める兄。
返事を待つことなくラジアン殿下はまくし立てた。
「ただでさえメイシィが薬師の仕事を続けている以上、共に居られる時間は限られる。
1級魔法薬師になれば国中を駆けまわり君のことなんて後回しになってしまうよ。
そもそも、1級魔法薬師になって爵位をもらったって君は王族だ。
たかが薬師に王族に匹敵する爵位を与えられるなんて、世界のひとつやふたつ救ったってムリムリ」
ひどい正論の暴力だ。クリード殿下は何も言い返せず黙ってしまい、膝の上の掌はこぶしを握っている。
「だが、メイシィが『メリアーシェ・ユーファステア』に戻ったらどうなる?
今の状態で薬師を続けるのは難しい。遅かれ早かれ、ユーファステア侯爵家は彼女を保護するために姓を戻すはずだ。
ミリステアにおいて出奔《しゅっぽん》は『別人』になることと同義、『メリアーシェ』に戻れば薬師の資格ははく奪される。
なんということだろう!王族の婚姻相手に匹敵する高位貴族のお嬢様の誕生だ!
君と彼女の道にもう邪魔はひとつもいなくなる!」
「兄上……」
「僕は君の願いを知っている。メイシィを妻に迎えて穏やかに日々を暮らしていくことだ。
彼女は奇跡の存在だ。君の心を癒すことができる唯一無二の女性。
喉から手が出るほど欲しい彼女が、たったひとつ、『祈り』をやらなければようやく手に入る。はは、どこに悪いことがある?」
「兄上」
「お前は『薬』を使った!この展開を願ったのはまぎれもない事実だろう~?
決意したことは最後までやり通すものだぞ、クリード。
さっさとその甘ったれた倫理観を捨てろ。
手に入れたいものは何としてでも手に入れるんだ、お前は王族なのだから」
「兄上!!」
クリード殿下は立ち上がりながら怒鳴るような大声を上げた。
天井に張り付いていたクッションは破裂し、白い綿毛が部屋に舞う。
ピシ、バキ、バキリ、と骨が折れるような身の毛がよだつ音が部屋に響く。
おふたりの手元にあったティーカップが、ソーサーが、ティーポットまで砕け散った音だった。
中で満ちていた紅茶が行き場を失いそこら中にあふれていく。
私が片付けるべきなのはわかっている。でも、動けなかった。
縛られたような感覚に、襲われている、息をするのが、やっと、で。
「これ以上は兄上でも許せません」
「……へえ」
「『薬』を使ってメイシィを手に入れようとしたのは事実です。
彼女を『メリアーシェ』にすれば何もかもうまくいくと、わかっていたんです。
父上に彼女を諦めろと言われたあの日からずっと、ずっと!わかっていたんです!!
我慢していた、できていたのに、嫉妬と絶望に狂って病んだあの日の僕は、その甘ったれた倫理観を放《ほう》ってしまった」
ソファが軋む音が聞こえてきた。
立ち上がっていたクリード殿下が、力なく座り込んだ音だった。
「でも、『薬』を使ってしまったあとに、気づいたんだ。
僕が捨ててしまったのは、『甘ったれた倫理観』だと思っていたそれは、『愛情の器』だったのだと」
「……」
「今のメイシィもとても愛らしい。一生をかけて大切にできます。
でも自ら愛情の器を捨ててしまった僕は、彼女とどれだけ穏やかに過ごしても、以前のように満たされなくなったのです。
どんなに注いだ愛情も、器がなければ満たされない。
苦しくて、悲しくて、あまりにも辛い」
私からは殿下の表情は伺えない。
けれど、向かいにいるラジアン殿下の表情を見れば容易に想像がつく。
こんなにも胸を強く締めつけられている。息を吐くことさえ苦しい。
「……僕は、ずっと逃げていたんです。
薬師として日々努力していたメイシィは、僕の勝手な一目惚れのせいで散々振り回されてきた。
その事実から、僕はずっと目を背け続けていた」
「クリード……」
「彼女があまりにも優しいから、あまりにも愛らしいから、あまりにも……僕をただの人として大切にしてくれるから、僕はこの平穏を手放すことなんてできなかった。
その代償が今、僕自身の過ちによって負うことになっただけのことです」
クリード殿下はラジアン殿下から顔を逸らした。
「ああ、そうだ。そうだったんです。
ようやく、決心がつきました」
穏やかな表情。それはメイシィを見つめる時と全く同じものであり、
「……彼女を僕のわがままから解放するときが来たのです。
僕の人生で最も幸福な時間は終わってしまうけれど、この思い出があれば、きっと……」
――――その瞳は暗く、光を失っていた。
「僕は、メイシィのために『祈り』ます。
そしてずっとずっと、この巨大な城から、
彼女を想い続けて生きていこうと、思うのです」
「……っ」
それから数日後。
お言葉通りメイシィの部屋を訪れたクリード殿下は、離別薬を飲んで眠ったメイシィの手を握り『祈り』を捧げられた。
目を覚ますまでの数時間、殿下は立ち去ったまま彼女の傍にいることはなく。
やがて、痺れを切らした私の説得を受け部屋を訪れた殿下は、
いつのまにか もぬけの殻となっていたベッドと対面することになった。
わがままも言わず、病気もせず、きちんと勉強をして魔法の才を存分に活かし、いつのまにか次期侯爵の地盤が固まっていた」
妖精使いの子供たちは、その才能を分け合うように生まれてくる。というのを聞いたことがある。
ナタリー様が妖精を感じ取れるように、メイシィは外見を、ローレンス様は膨大な魔力と扱うセンスを受け取ったのかもしれない。
ソファの反対側に腰掛けるローレンス様は、大きく姿勢を崩して背中を預けたまま天井を見て口を開く。
「そうなったのは姉妹たちがあまりに奔放で毎日のように事件を引き起こすからだったんだ。父も母も対処に追われて、放っといても困ったことをしない俺は都合の良い子供だった。
その上に同い年だからと友人になったのはあのクリードだ。あいつは最たる例、いつでもどこでも何かを起こして騒ぎになる。
俺は我慢して対処しているうちに、やたら人脈が広くて事の収拾が上手い、都合の良い友人になった。
だが、別にその生活が嫌だったわけではないんだ。刺激だらけの人生も悪くないさ」
ローレンス様は少しだけ笑う。
「そんな俺を支えてくれたのがメイシィだったんだ。
愚痴のような話も、明るいだけの話も全部楽しそうに聞いてくれて、苦労人と呼ばれてばかりの俺の『楽しい』という気持ちを理解してくれた」
でも、彼女自身の10歳までの人生は本当の楽しさとは程遠かった。
私は思わず目を伏せる。
生まれた時からひどく不安定な症状と生死の境目を往復する生活なんて、普通の子どもが耐えられるはずもない。想像するだけでぞっとする。
「俺はメイシィがいなかったらとっくに心も身体も壊れていただろな。
そうして彼女に恩を返すべくあちこち奔走していたら、肩書ばかりが立派な妹離れできない残念な男になったというわけだ、はは」
「ふふ、私も彼女と同室になってからお世話の癖が抜けない残念な女になりました。ほんの少しだけ、似ているかもしれませんね」
メイシィとの出会いは今でも覚えている。
長く白く、ふわっとした髪を揺らしたいかにもお嬢様の彼女は、最初は寮生活どころか制服を着ることひとつもできなくて、助けてと言われたときは私の頭の中まで同じ色になった。
それから自立した生活を何とか覚えたのに、今度は薬学と魔法の勉強に没頭して生活が疎かになる始末。
私が侍従としてまともに仕事ができているのも、おそらく彼女によって身体に染みついた経験があればこそだと思う。
「……幸せに、なってほしいんだ」
紅茶を飲み干して一息、ただの妹思いの兄の顔をした侯爵子息は困ったように微笑んだ。
「あの子の願いを叶えてやりたい。今回の一級魔法薬師試験に協力しているのもそのためだ。
もちろんゆくゆくは良い人と出会って生きてくれたら心から嬉しいと思っていた。
まあ、その相手がよりによって不安しかない男で困っているが、まあ、想いの強さだけは立派なようだから認めてやらんでもない」
「ふふ」
「俺の苦労が増えるだけさ。しかもどうしようもなく暖かくて毒薬のような苦労。はは、困ったものだ」
「ええ、そうですね。毒と薬は紙一重、といいますから」
どうやら私たちは似た者同士らしい。
とりとめのない苦労話に咲いた花は、いつのまにか朝露に濡れて雫をぽとりと落としていた。
――――――――――――――――――――――
「ミカルガ薬師~!!」
「ホゥ!?な、ナタリー様、お帰りになりましたか。
「持ってきたわよ~!ア・レ・を!受け取ってちょうだい~」
「ありがとうございます。……ほぅ……これはなんと立派な真っ赤なウロコ。大量ではないですか。
窓からではなく扉から入ってお渡しいただけると一番よかったのですが……」
『離別薬』を調合するための材料は日に日に揃っていった。
ローレンス様の執務室に勝手に貼り紙された一覧表は、あっという間に赤い取り消し線で埋まる。
薬は数日で完成し、メイシィに飲ませられるだろうとミカルガ様がおっしゃると、みなさまは大いに喜ばれた。
セロエ様が感情に任せて叩いてきた背中がまだ痛い。
残された時間。クリード殿下はまだ結論を口に出せないでいらっしゃった。
何度か殿下の執務室でユーファステア侯爵家の人々とお話をされたようだったけれど、決意が固まらない理由すら話さないという。
煮え切らない態度を取り続けていらっしゃるようで、セロエ様は大変苛立った様子で廊下を歩いているのを何度も見かけるほどだった。
それでも殿下は今日も濃い紅茶をお求めになる。
私はお部屋を出てすっかり慣れた手つきで準備を進めていると、小さい小さい私を呼ぶ声がした。
「クレア、クレア」
「モリー?どうしたの?」
私と同じクリード殿下の担当――というより、裏方をしている鼠人族《そじんぞく》のモリーだった。
殿下の前に姿を現して良いのは私とパラノさんだけ。だからといってふたりだけで世話も側近の業務もできるわけはなく、裏には何十人もの侍従がいる。
いつも息を殺すように仕事に励んでいる彼女は、ネズミの尻尾を異常にばたつかせていた。
スカートがめくれていろいろと危ないほどに。
「今、ラジアン殿下がお部屋に!私、応対できないから止められなかった」
「え?」
「クレア早く行って!ティーカートの準備手伝うから」
「え、ええ、でもたまにいらっしゃるしそんなに焦ること?」
「なんだか様子がおかしいの!」
ティーカップとソーサーをもうひとつ取り出しながら、モリーは言った。
「『メイシィを本当に治すつもりなのか?』って、ラジアン殿下がおっしゃってたの!」
「ねえ、クリード。メイシィの魂を戻す薬がもうすぐできそうなんだろう~?」
「ええ、あと数日だと聞いています、兄上」
一礼して執務室に足を踏み入れると、兄弟は机を挟んで対峙されていた。
ラジアン殿下はいつも通りのひょうひょうとしたご様子。
一方クリード殿下は少し訝しげなご様子だ。
良く見る和やかな雰囲気とは違う。私は紅茶の準備をしながらおふたりの会話に耳を傾けた。
「だけれど、薬の力だけじゃ戻せない。君の『祈り』が必要だとか」
「流石耳が早いですね、その通りです」
「ふーん、つまり『祈り』がないと成功しないわけだ」
「……兄上、先ほどから何か言いたげですね」
「いーや、別に~」
あまりに怪しい。クリード殿下は困った顔をして兄王子を見つめ返していらっしゃる。
「はっきり言ってください、兄上。私はこれ以上部屋を散らかしたくありません」
……うわ、クッションがひとつないと思ったらまた天井にくっついている。
兄王子に目線で上を示唆したあと、殿下は淹れたばかりの紅茶に口をつけた。
「わかったよクリード。
メイシィを治すの、やめないかい?」
「……」
少し離れて空気に徹している私は、我慢できずに身体が震えた。
ラジアン殿下の意図が読めないわ。どうしてこんなことをおっしゃるのだろう。
「……なぜ、そのようなことを?」
「君だってわかっているだろう?今が君にとって最良の状態、最大のチャンスだということに」
「それは……」
言い淀む弟にぐいっと距離を詰める兄。
返事を待つことなくラジアン殿下はまくし立てた。
「ただでさえメイシィが薬師の仕事を続けている以上、共に居られる時間は限られる。
1級魔法薬師になれば国中を駆けまわり君のことなんて後回しになってしまうよ。
そもそも、1級魔法薬師になって爵位をもらったって君は王族だ。
たかが薬師に王族に匹敵する爵位を与えられるなんて、世界のひとつやふたつ救ったってムリムリ」
ひどい正論の暴力だ。クリード殿下は何も言い返せず黙ってしまい、膝の上の掌はこぶしを握っている。
「だが、メイシィが『メリアーシェ・ユーファステア』に戻ったらどうなる?
今の状態で薬師を続けるのは難しい。遅かれ早かれ、ユーファステア侯爵家は彼女を保護するために姓を戻すはずだ。
ミリステアにおいて出奔《しゅっぽん》は『別人』になることと同義、『メリアーシェ』に戻れば薬師の資格ははく奪される。
なんということだろう!王族の婚姻相手に匹敵する高位貴族のお嬢様の誕生だ!
君と彼女の道にもう邪魔はひとつもいなくなる!」
「兄上……」
「僕は君の願いを知っている。メイシィを妻に迎えて穏やかに日々を暮らしていくことだ。
彼女は奇跡の存在だ。君の心を癒すことができる唯一無二の女性。
喉から手が出るほど欲しい彼女が、たったひとつ、『祈り』をやらなければようやく手に入る。はは、どこに悪いことがある?」
「兄上」
「お前は『薬』を使った!この展開を願ったのはまぎれもない事実だろう~?
決意したことは最後までやり通すものだぞ、クリード。
さっさとその甘ったれた倫理観を捨てろ。
手に入れたいものは何としてでも手に入れるんだ、お前は王族なのだから」
「兄上!!」
クリード殿下は立ち上がりながら怒鳴るような大声を上げた。
天井に張り付いていたクッションは破裂し、白い綿毛が部屋に舞う。
ピシ、バキ、バキリ、と骨が折れるような身の毛がよだつ音が部屋に響く。
おふたりの手元にあったティーカップが、ソーサーが、ティーポットまで砕け散った音だった。
中で満ちていた紅茶が行き場を失いそこら中にあふれていく。
私が片付けるべきなのはわかっている。でも、動けなかった。
縛られたような感覚に、襲われている、息をするのが、やっと、で。
「これ以上は兄上でも許せません」
「……へえ」
「『薬』を使ってメイシィを手に入れようとしたのは事実です。
彼女を『メリアーシェ』にすれば何もかもうまくいくと、わかっていたんです。
父上に彼女を諦めろと言われたあの日からずっと、ずっと!わかっていたんです!!
我慢していた、できていたのに、嫉妬と絶望に狂って病んだあの日の僕は、その甘ったれた倫理観を放《ほう》ってしまった」
ソファが軋む音が聞こえてきた。
立ち上がっていたクリード殿下が、力なく座り込んだ音だった。
「でも、『薬』を使ってしまったあとに、気づいたんだ。
僕が捨ててしまったのは、『甘ったれた倫理観』だと思っていたそれは、『愛情の器』だったのだと」
「……」
「今のメイシィもとても愛らしい。一生をかけて大切にできます。
でも自ら愛情の器を捨ててしまった僕は、彼女とどれだけ穏やかに過ごしても、以前のように満たされなくなったのです。
どんなに注いだ愛情も、器がなければ満たされない。
苦しくて、悲しくて、あまりにも辛い」
私からは殿下の表情は伺えない。
けれど、向かいにいるラジアン殿下の表情を見れば容易に想像がつく。
こんなにも胸を強く締めつけられている。息を吐くことさえ苦しい。
「……僕は、ずっと逃げていたんです。
薬師として日々努力していたメイシィは、僕の勝手な一目惚れのせいで散々振り回されてきた。
その事実から、僕はずっと目を背け続けていた」
「クリード……」
「彼女があまりにも優しいから、あまりにも愛らしいから、あまりにも……僕をただの人として大切にしてくれるから、僕はこの平穏を手放すことなんてできなかった。
その代償が今、僕自身の過ちによって負うことになっただけのことです」
クリード殿下はラジアン殿下から顔を逸らした。
「ああ、そうだ。そうだったんです。
ようやく、決心がつきました」
穏やかな表情。それはメイシィを見つめる時と全く同じものであり、
「……彼女を僕のわがままから解放するときが来たのです。
僕の人生で最も幸福な時間は終わってしまうけれど、この思い出があれば、きっと……」
――――その瞳は暗く、光を失っていた。
「僕は、メイシィのために『祈り』ます。
そしてずっとずっと、この巨大な城から、
彼女を想い続けて生きていこうと、思うのです」
「……っ」
それから数日後。
お言葉通りメイシィの部屋を訪れたクリード殿下は、離別薬を飲んで眠ったメイシィの手を握り『祈り』を捧げられた。
目を覚ますまでの数時間、殿下は立ち去ったまま彼女の傍にいることはなく。
やがて、痺れを切らした私の説得を受け部屋を訪れた殿下は、
いつのまにか もぬけの殻となっていたベッドと対面することになった。
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