歌舞伎役者に恋をしました。

野咲

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第4章

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 杜若の病室に入ると、杜若と紋司郎の他に、意外な人がいた。
「やあ、綾ちゃん。よう来てくれたね」
 少し出てきた下腹を揺らして笑っているのは杉内専務だった。
「専務。おはようございます」
 専務って、甘いものは大丈夫だったかしらん。なんかお菓子を食べているところを見たことがないな。綾之助はぼんやりとそんなことを考えた。
「旦那。アシジマの新商品のケーキを買うてきたんです。試食してきたんですけど、とても美味しかったですよ。そうそう、そのキャンペーンに来ていた拓真さんに偶然会うて、」
「綾之助、そこに座りなさい」
「はい」
 紋司郎にぴしゃりと言われて、綾之助は黙った。にこやかに微笑む専務。真剣な眼差しの紋司郎。おだやかな表情の杜若。それに杜若につきっきりになっていたはずの奥さんの姿がない。

 なんか、おかしい。

 綾之助はやっと違和感に気づいた。
 専務と紋司郎と杜若が揃っている場所に、自分が呼ばれるということの特異性に気づいていなかったのだ。
「なあ、綾之助。前にも言うたことあるやろ。どこぞにええ名前があれば、あんたに継がせてやりたいと思てると」
「は、はい」
 紋司郎の真剣な雰囲気に呑まれて、綾之助は思わず吃った。
「杜若さんがな、お前を芸養子に欲しいと言うてくれてはる」
 思いもよらないことを言われて、綾之助は言葉を失った。

 芸養子というのは、芸の上での親子関係となること。芸を継ぐということである。
 もし綾之助が杜若の芸養子になったらば、それは将来杜若の名を継ぐ資格を得るということであり、幹部への道が開けるということだ。三階上がりの役者にとって、幹部の養子になるということは、信じられないくらいの幸運だと言える。
「それは……もったいないようなお話ですが」
 言いながら、綾之助の頭の中はいろんな思いがぐるぐる駆け回っていた。
 杜若の芸と、そしてなによりも杜若の芸養子という地位は魅力的だ。このまま相模屋の中にいても、幹部の名を継げるチャンスはそうそうない。ゼロではないにしろ、まずないことだろう。しかし、杜若の養子になれば、綾之助は将来の幹部候補である。御曹司たちほどではないにしろ、扱いは変わる。いい役をもらえる機会は増えるだろう。
 しかし、紋司郎への恩もある。それに、元々綾之助は紋司郎の芸が好きで、紋司郎に入門したのである。もっと紋司郎に学びたいという気持ちがあった。
「うちには義理立てせんでええねん」
 正確に綾之助の気持ちを汲み取って、紋司郎が言った。
「ええ話や。それに杜若さんももともと相模屋のお人やし、縁が切れるわけやない。相模屋と立花屋さんは言うなれば親戚みたいなもんや。それは分かってるやろ」
「はい」
 紋司郎は、兄弟子にあたる杜若を立て、自分の舞台では杜若に脇役とはいえ、よい役を与えている。
 そういう相模屋の、立花屋への盛り立ては、綾之助の代になったあとも続くと紋司郎は言っているのである。

「綾ちゃん」
 専務が口を開いた。
「歌舞伎は確かにお家の芸で、血筋がモノ言う部分もある。でも、これからの時代、そこにこだわりすぎていては歌舞伎は世間から取り残されてまう。俺はな、若くて、才能があって、やる気のある役者、まあつまり綾ちゃんのことやな、そういう人にもっとチャンスを与えたい。昔はそうやったんや。特に上方はそうや。自分の芸風に近い役者を育てて芸を譲るもんやったんや。せやから大名跡の坂田藤十郎かて、その名にふさわしい役者がおらんかったから長いこと途絶えてたんや。杜若さんはお前を見初めたんやから、堂々と養子に入ったったらええねん」
 専務は気軽に言うけれど。綾之助はなんとも言えず黙り込んだ。
「ほんでここからが本題なんやけどな」
 ここからって、この上に本題があるのだろうか。綾之助はすでに状況についていけていなかった。
「今、もんしろはんと杜若さんが揉めてたんは、綾ちゃんが名乗る名前や」
「はあ……」
 別にどんな名前でも文句はないが、立花屋には杜若以外に目立った名前はないように思う。
「もんしろはんは、杜若さんから綾ちゃんに名前を付けてやって欲しい、言うてはる。で、杜若さんはな、自分はなにか適当な名前を名乗るから、綾ちゃんに早速六代目杜若を継いでほしい、とこう言うてはるんや」
 綾之助は仰天した。
「え、ちょ、ちょっとそれは……」
「どや、綾ちゃん。立花屋の看板背負って立ってみるか?」
「え? それってつまり、どういうことですか。幹部でもないのに、うちが杜若を名乗るということですか」
「そんなわけないやろ。芳沢杜若いうたら、なかなかの名跡やで。平名題の名前ちゃうやろ、幹部の名前や」
「? そうですよね……?」
 綾之助の理解の悪さに、専務は少し呆れ顔だ。
「だから、綾ちゃんが幹部昇進するんやろ」
「え!」
 綾之助は耳に入ってきたことばがとても信じられなかった。
「まだ綾之助には重たすぎるわ」
 紋司郎が怒ったように言ったので綾之助は竦んだが、その意見には全面的に賛成だった。
「せやけど、綾之助さんは、十分実力も人気もあると思います。それに、顔がいい。錦絵から抜け出してきたような艶がある。私は、若いうちに綾之助さんにいい役をさせてあげたい。それに、私も大看板を下ろしたほうが、気楽に長く、舞台に立つことができると思うんです」
 杜若が穏やかに言った。
「そんなこと言わんと。杜若さんにはまだまだ頑張ってもらわなあかんのやから」
「そのためにも綾之助さんに後を継いでもらった方がええと思います」
「まあ、こういう感じや。わかったやろ、綾ちゃん」
 専務が大げさに肩をすくめてみせた。
「最終的には綾ちゃん次第やろ、ということになって、綾ちゃんを呼んだんや。綾ちゃん、どっちがいい? もう六代目名乗っとくか?」
 綾之助はまた驚いた。綾之助はまだ何も言っていないのに、すでに杜若の芸養子になることは既に専務の中で決定しているらしい。
「ちょっと、待ってください」
 綾之助はくらくらしそうな頭を押さえて言った。
「急に言われても戸惑うわな。よう考えてから返事しに来てくれたらええから」
 専務はニコニコと笑ってそう言った。




 杜若の病室を辞して、紋司郎と綾之助は一緒に駅へ向かった。
「ほんまに、あの人たちには困ったもんや」
 紋司郎のことばに、綾之助は困ってあいまいな笑みを浮かべた。
「あなたはどうするつもりやの」
 綾之助の返事は決まっていた。そもそも、綾之助の立場では師である紋司郎の意思に逆らうことはできない。
「私はあなたの師匠やけど、立花屋に行ったら、杜若さんがあんたのお師匠さんなんやで。そこのところもよく考えや」
 綾之助が返事をする前に、紋司郎はそう釘をさした。
「せやけど、あの人は分かってへん。襲名ゆうたら金もかかるし大変や。綾はこれからご贔屓付けなあかんのに」 
 ああ、そこまでこの人は考えてくれてはるのかと、綾之助は単純に嬉しかった。やっぱりこの人の弟子でおりたいなあ。そう思う。
「うち、まだまだいっぱい、旦那から学びたいことがあります。うちは相模屋の人間です」
 綾之助がそう言うと、紋司郎は立ち止まった。
「あなたの気持ちは、私かてよう分かってます。せやけど、芸っていうのは、手とり足とり教えるもんやない。それはあんたもよう分かってるやろ。あなたが立花屋に行っても、行かなくても、あなたが学びたいと思うたら、学べるもんや。分かるやろ」
「……はい」
「でも、それと襲名は別や。それも分かるか?」
「はい」
 紋司郎の言うことはいちいちもっともだった。紋司郎の弟子でなくなるということは悲しいことだったが、綾之助も覚悟を決めなければならないということなのだろう。もう、相模屋の大きな傘に守られている時代は終わったのだ。未来を自分で切り開いていかなければならない。そのチャンスを与えてもらったのだ。
「うち、明日専務に会うて、まだ襲名はしませんと言います」
 綾之助がそう言うと、やっと紋司郎は安心したようだった。
 
 翌日、朝一番で杜若の妻から連絡があり、綾之助は杜若の病院へ出向いた。
 杜若はにこにことしながら、奥さんが昨日京都まで行って買ってきたという十六五の五色豆を綾之助に出した。
「綾之助さん、これ、お好きなんやろ」
 確かに。その情報の出処はおそらく知八であろうと綾之助は思った。なんとなく、知八は綾之助に襲名させたいと思っている気がしたのだ。おじいさまに背いて、杜若の味方をしているに違いない。
「綾之助さん。襲名いうのは大変なことや。精神的にも肉体的にも、そして金銭的にも負担がかかる。それを分かっていて貴方にその重荷を背負わすのは酷なことやと思ってます。せやけど、私は、私の目の黒いうちに貴方に名を継がせたい。今はええで。杉内専務が大阪で頑張ってくれてはるから。そやけど、あんたが四十代、五十代になったとき、専務はもっと上に行って実務には口出ししはらへんようなってるかもしれん。その時の会社のお人が、杉内専務のように綾之助さんを贔屓にしてくれるとは限らへんのやで。紋司郎さんはお元気な方やから心配はないやろけど、それでも人間いつどうなるか分からへん。後ろ盾がしっかりしている今こそがええ機会やと私は思うんや。それに私ももう先は長ない。私の目の黒いうちにあんたの襲名が見たいんや」
「……ありがとうございます」
 ああ、この人もこの人なりに私のことを真剣に考えてくれている。
「専務に、杜若を継ぎますと言うてください」
「しかし……」
 綾之助は心底困り果てた。杜若の言うことも一理ある。しかし紋司郎には昨日約束してしまった。杜若も綾之助の気持ちは察しているのだろう。
「よう考えてみてや」
 と言って、綾之助の明確な返事は求めなかった。
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