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第1章
四條南座 吉例顔見世興行
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京都四條南座の吉例顔見世は、京の人々にとって特別な興行である。
上方では東西の人気役者が一同に揃うことが滅多にないという理由もあるが、歌舞伎発祥の地としての自負、また上方歌舞伎の火が消えそうになった時も、ただこの顔見世だけは幕を開け続けたという伝統に対する誇りがある。
客席には新しく着物を誂えたご婦人が詰めかけ、大向うの掛け声も唐破風を揺るがさんばかりだ。
三日目の今日は祇園甲部の総見だった。東の桟敷に舞妓・芸妓がずらりと居並ぶ姿は非常に華やかだ。
顔見世独特の雰囲気に圧倒された初日、自分の演技に精一杯で周りを見ていなかった二日目とやや不本意な演技が続いた綾之助は、この三日目にしてやっと確かな手応えを感じていた。そんな綾之助に安心したのか、同じ舞台におかや役で出ている幸弥の演技も絶好調である。
「いや、幸弥の旦那は、今日は綺麗どころがいっぱい見に来たはるから調子がええんかもしれんな」
しかも今夜はご贔屓さんが祇園に席を設けてくれているので、さらに気合が入っているのかもしれない。ふとそんなことを考えられるくらい、綾之助には余裕があった。
「こちの人、わたしゃもう行くぞえ」
お盆に映るのは、井筒紋司郎演じる勘平。直接顔を見るのが辛いおかるは、お盆に映った勘平に向かって別れを言うのだ。上方の型である。
悲しみに暮れる勘平とおかる。おかるはじっと涙をこらえる。
「まめで居やれ」
「ハア、、、」
その時客席からジワが来た。吐息のような、感嘆の気配である。忍び泣く小さな空気のゆらぎまで綾之助に届く。
紋司郎の演技が素晴らしいというのはある。それに引っ張られて綾之助もいい演技ができたのだ。しかし、確かに自分の演技が人の心を打ったのだ、と実感して綾之助は震えた。
夫の仇討のため自ら身を売ったおかるは、祇園町の女将お才に連れられ旅立っていく。籠に乗って花道を行くおかるに万雷の拍手と、「相模屋!」の大向こうが掛かった。
鳥屋に入ってからも綾之助の興奮は冷めなかった。
「綾之助さん。ほんまに素晴らしかったわ」
お才を演じていた五代目芳沢杜若がねぎらってくれた。杜若はどちらかというと後輩に厳しい人で、内心綾之助は苦手に思っていたので、この言葉は素直に嬉しかった。
「ありがとうございます」
「初日はどうなることかと思ったけど、心配するだけ無駄やったね」
「うう、すみません」
初日の自分を思い出して、綾之助は赤面した。
「ええがな。綺麗どころにええとこ見せられてよかったなあ」
あまり親しく言葉を交わしたことがなかったので、綾之助は杜若がこんなことを言う人だとは知らなかった。真面目そうに見えて、この人も幸弥の旦那と同じ人種なんやな、と綾之助は少し親しみを感じた。
興奮冷めやらぬまま楽屋に戻ると、なぜか綾之助の鏡台の前に知八が座って、煎餅をぽりぽりとかじっていた。
「何してはりますの」
高揚した気持ちをくじかれた綾之助は、少し呆れて知八に問うた。
「この煎餅、杜若おじさまがくれはってん。知ってる? 臼杵煎餅」
「はあ、美味しそうですね」
知八の横に座って、知八が畳の上においていた湯呑を鏡台の上に上げた。ほとんど飲み干してあるのを見て、衣装のまま急須に湯を注ぐ。
「この煎餅、めちゃうまやねん。綾にも一枚あげる」
「ありがとうございます」
それより、出来ればそこをどいて欲しい。
「僕、上で見とってん、綾のおかる。すごいよかったわ」
「ありがとうございます」
思わず綾之助も笑みを浮かべた。綾之助が湯呑に茶を注ぐと、知八は何も言わずにそれを一口飲んで、両手で湯呑を弄びはじめた。綾之助は内心、こぼされたらどうしよう、と焦って知八からさりげなく距離を取った。なにせ、衣装を着たままだ。
「それでな、ちょっとお願いやねんけど、そのー、な、綾之助の紅、貸してくれへんか」
突然目をそらせた知八は、なぜか鏡越しに綾之助をちらちら見ながらそんなことを言う。
「はあ?」
「目元にしか使わへんから量はそんな使わへんし。その、綾之助が今日良かったから、綾のもの使ったら僕の演技もようなるかなっていう、まあ、験担ぎや」
「ああ、なるほど」
今月、綾之助の出番は昼の部だけである。知八の出番は夜の部だけなので、必要となる時間帯もかぶらないし、特に問題はなかった。
「ええですよ。どうぞ」
「おおきに」
うれしそうにそう言うと、知八は大事に貝紅を抱えた。
「綾之助、夜の部は見られるん?」
「はい、勉強させてもらおと思てます」
「そうか。分かった」
きりりと引き締まった顔で、知八は大きくうなずく。ああ、役者やなあ、と綾之助は思った。綾之助の芝居に刺激を受けて、知八はやる気になっているのだ。しかし。
「ぼん。そろそろどいてくれませんか。うち、かつら外したい」
「ああ、ごめんごめん」
慌てたふうもなく、知八がいざって場所を開ける。
「手伝うたろか」
「なに言うてはるんですか。はよ楽屋戻らはったら?」
「だって暇やし」
子役時代から待ち時間に暇を持て余したら綾之助に遊びをねだっていたのが、未だに治らないらしい。
「綾之助! えらい子やお前は!」
そこへ挨拶もなしに入ってきたのは幸弥だ。本来なら幸弥の出番が終わったら綾之助の方から挨拶に向かわなければならないのに、知八にかかずらって時期を逸した。
「旦那! えらいすみません。今日もありがとうござ……」
「ようやった! ようやったなあ! 今日のお前はほんまによかったで!」
幸弥は興奮したり酒に酔ったりすると一門の弟子を呼び捨てにする癖があった。
「そんな、大げさです」
「ほんまのことや。ほんまに今日のおかるはよかった!」
「おじさん、興奮しすぎですよ」
知八がしれっとちゃちゃを入れる。
「毎日毎日工夫して、この芸を自分のものにしていきなさい。これを当たり役にしたるくらいの気持ちでやりぃや」
おかるを当たり役になどというのは、おこがましくて考えもしなかった。しかし、幸弥はそこまで考えて、綾之助に役を教えてくれていたのだ。
「ありがとうございます。旦那のおかげです」
「さて、」
湿っぽくなった空気を断ち切るように、幸弥がぽんと手を打った。
「舞妓ちゃんが来る前に、男前に戻ってくるわ」
顔見世の総見の日には、舞妓さんたちが花かんざしのまねきを書いてもらうため楽屋へやって来る。粋人たる幸弥としては、お婆さんの格好のままで舞妓さんに会いたくないのだろう。
「そや。そろそろ僕も自分の楽屋に戻っとこ」
ぐずぐずしていた知八までもいそいそと立ち上がるのを見て、やはりこの二人は血が繋がっているのだなあ、と綾之助は感心した。
上方では東西の人気役者が一同に揃うことが滅多にないという理由もあるが、歌舞伎発祥の地としての自負、また上方歌舞伎の火が消えそうになった時も、ただこの顔見世だけは幕を開け続けたという伝統に対する誇りがある。
客席には新しく着物を誂えたご婦人が詰めかけ、大向うの掛け声も唐破風を揺るがさんばかりだ。
三日目の今日は祇園甲部の総見だった。東の桟敷に舞妓・芸妓がずらりと居並ぶ姿は非常に華やかだ。
顔見世独特の雰囲気に圧倒された初日、自分の演技に精一杯で周りを見ていなかった二日目とやや不本意な演技が続いた綾之助は、この三日目にしてやっと確かな手応えを感じていた。そんな綾之助に安心したのか、同じ舞台におかや役で出ている幸弥の演技も絶好調である。
「いや、幸弥の旦那は、今日は綺麗どころがいっぱい見に来たはるから調子がええんかもしれんな」
しかも今夜はご贔屓さんが祇園に席を設けてくれているので、さらに気合が入っているのかもしれない。ふとそんなことを考えられるくらい、綾之助には余裕があった。
「こちの人、わたしゃもう行くぞえ」
お盆に映るのは、井筒紋司郎演じる勘平。直接顔を見るのが辛いおかるは、お盆に映った勘平に向かって別れを言うのだ。上方の型である。
悲しみに暮れる勘平とおかる。おかるはじっと涙をこらえる。
「まめで居やれ」
「ハア、、、」
その時客席からジワが来た。吐息のような、感嘆の気配である。忍び泣く小さな空気のゆらぎまで綾之助に届く。
紋司郎の演技が素晴らしいというのはある。それに引っ張られて綾之助もいい演技ができたのだ。しかし、確かに自分の演技が人の心を打ったのだ、と実感して綾之助は震えた。
夫の仇討のため自ら身を売ったおかるは、祇園町の女将お才に連れられ旅立っていく。籠に乗って花道を行くおかるに万雷の拍手と、「相模屋!」の大向こうが掛かった。
鳥屋に入ってからも綾之助の興奮は冷めなかった。
「綾之助さん。ほんまに素晴らしかったわ」
お才を演じていた五代目芳沢杜若がねぎらってくれた。杜若はどちらかというと後輩に厳しい人で、内心綾之助は苦手に思っていたので、この言葉は素直に嬉しかった。
「ありがとうございます」
「初日はどうなることかと思ったけど、心配するだけ無駄やったね」
「うう、すみません」
初日の自分を思い出して、綾之助は赤面した。
「ええがな。綺麗どころにええとこ見せられてよかったなあ」
あまり親しく言葉を交わしたことがなかったので、綾之助は杜若がこんなことを言う人だとは知らなかった。真面目そうに見えて、この人も幸弥の旦那と同じ人種なんやな、と綾之助は少し親しみを感じた。
興奮冷めやらぬまま楽屋に戻ると、なぜか綾之助の鏡台の前に知八が座って、煎餅をぽりぽりとかじっていた。
「何してはりますの」
高揚した気持ちをくじかれた綾之助は、少し呆れて知八に問うた。
「この煎餅、杜若おじさまがくれはってん。知ってる? 臼杵煎餅」
「はあ、美味しそうですね」
知八の横に座って、知八が畳の上においていた湯呑を鏡台の上に上げた。ほとんど飲み干してあるのを見て、衣装のまま急須に湯を注ぐ。
「この煎餅、めちゃうまやねん。綾にも一枚あげる」
「ありがとうございます」
それより、出来ればそこをどいて欲しい。
「僕、上で見とってん、綾のおかる。すごいよかったわ」
「ありがとうございます」
思わず綾之助も笑みを浮かべた。綾之助が湯呑に茶を注ぐと、知八は何も言わずにそれを一口飲んで、両手で湯呑を弄びはじめた。綾之助は内心、こぼされたらどうしよう、と焦って知八からさりげなく距離を取った。なにせ、衣装を着たままだ。
「それでな、ちょっとお願いやねんけど、そのー、な、綾之助の紅、貸してくれへんか」
突然目をそらせた知八は、なぜか鏡越しに綾之助をちらちら見ながらそんなことを言う。
「はあ?」
「目元にしか使わへんから量はそんな使わへんし。その、綾之助が今日良かったから、綾のもの使ったら僕の演技もようなるかなっていう、まあ、験担ぎや」
「ああ、なるほど」
今月、綾之助の出番は昼の部だけである。知八の出番は夜の部だけなので、必要となる時間帯もかぶらないし、特に問題はなかった。
「ええですよ。どうぞ」
「おおきに」
うれしそうにそう言うと、知八は大事に貝紅を抱えた。
「綾之助、夜の部は見られるん?」
「はい、勉強させてもらおと思てます」
「そうか。分かった」
きりりと引き締まった顔で、知八は大きくうなずく。ああ、役者やなあ、と綾之助は思った。綾之助の芝居に刺激を受けて、知八はやる気になっているのだ。しかし。
「ぼん。そろそろどいてくれませんか。うち、かつら外したい」
「ああ、ごめんごめん」
慌てたふうもなく、知八がいざって場所を開ける。
「手伝うたろか」
「なに言うてはるんですか。はよ楽屋戻らはったら?」
「だって暇やし」
子役時代から待ち時間に暇を持て余したら綾之助に遊びをねだっていたのが、未だに治らないらしい。
「綾之助! えらい子やお前は!」
そこへ挨拶もなしに入ってきたのは幸弥だ。本来なら幸弥の出番が終わったら綾之助の方から挨拶に向かわなければならないのに、知八にかかずらって時期を逸した。
「旦那! えらいすみません。今日もありがとうござ……」
「ようやった! ようやったなあ! 今日のお前はほんまによかったで!」
幸弥は興奮したり酒に酔ったりすると一門の弟子を呼び捨てにする癖があった。
「そんな、大げさです」
「ほんまのことや。ほんまに今日のおかるはよかった!」
「おじさん、興奮しすぎですよ」
知八がしれっとちゃちゃを入れる。
「毎日毎日工夫して、この芸を自分のものにしていきなさい。これを当たり役にしたるくらいの気持ちでやりぃや」
おかるを当たり役になどというのは、おこがましくて考えもしなかった。しかし、幸弥はそこまで考えて、綾之助に役を教えてくれていたのだ。
「ありがとうございます。旦那のおかげです」
「さて、」
湿っぽくなった空気を断ち切るように、幸弥がぽんと手を打った。
「舞妓ちゃんが来る前に、男前に戻ってくるわ」
顔見世の総見の日には、舞妓さんたちが花かんざしのまねきを書いてもらうため楽屋へやって来る。粋人たる幸弥としては、お婆さんの格好のままで舞妓さんに会いたくないのだろう。
「そや。そろそろ僕も自分の楽屋に戻っとこ」
ぐずぐずしていた知八までもいそいそと立ち上がるのを見て、やはりこの二人は血が繋がっているのだなあ、と綾之助は感心した。
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