カイ~魔法の使えない王子~

愛野進

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4『理想のその先へ』

4 第一章第二話「代えられないもの」

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「……」

どれだけ天井を見つめても、一向に答えは出ず。かと言って、他に何かをする気分にはならず、ベッドの上から動く気にもならない。

カイがセラと湖で過ごしている頃。

イデアもまた、自室で一人苦悩していた。その表情は暗く、今にも泣きそうに顔を歪ませていた。

ゼノ達が聞かせてくれた過去の話はとても壮大で、一回聞いただけで全てを理解できたかどうか分からない。

分からないけれど。

元々、あれはイデアの為に語られた話だ。

グリゼンドがレイデンフォート王国を急襲した時、彼はイデアを「フィグル」と呼んだ。

イデアは前から疑問には思っていた。何故、自分がカイを悪魔化することが出来たのか。《魔魂の儀式》と呼ばれる魔法は、悪魔族しか使えないものなのに。

私は、普通じゃない……。

そう思っていた時に、グリゼンドのあの一言。疑うには十分だった。

私は、私ではない誰かなのかもしれない。

ルーシェンもシャルも当然のように自分達の娘だと言ってくれた。セインを作ることが出来るということは、少なくともソウルス族ではある。けれど、イデアという人格は、そのフィグルの代わりに作られた偽物なのではないか。

悪い推測ばかりがぐるぐる思考を支配してしまう。

ゼノ達には「フィグル」に心当たりがあるようで、そんなイデアの為に話をしてくれた。殆ど一日かかっただろう。それだけに密度が濃く、とても大切な話だった。

フィグルとは誰なのか、どんな方なのかをイデアは理解した。

理解したからこそ、改めてイデアは苦悩している。

以前よりも、更に強くイデアは苦しんでいた。

「……うぅっ」

突然、心にノイズが走る。誰かの声のようなものが脳裏に響くけれど、上手く聞き取ることが出来なかった。

でも、その声を私は知っている。

イデアは胸元でギュッと両手を握りしめた。

「カイぃ……」

大好きな人の名前を呼ぶ。傍にいてギュッと抱きしめて欲しい。どんな時もカイは導いてくれるから。

悩んでいる私を、助けて……。

出口のない迷路を、心が永遠に彷徨っている感覚がどんどん強くなってくる。

そして、いつの間にか目尻に溜まってきていた涙が零れ落ちそうな時、

コンコンとノックが聞こえた。

「エイラです、イデア様いらっしゃいますか?」

慌てて身体を起こして、涙を拭う。そして、努めて元気な声で返事をした。

「は、はいっ、いますよ!」

「失礼致しますね」

そう言って、エイラが扉を開けて部屋に入ってきた。彼女は両手に大きなプレートを持っていた。

「ケーキ、作ってきました。一緒に食べませんか?」

プレートの上には、ショートケーキとカップが二つに紅茶のポットが乗っていた。

それを私へ見せつけながら、エイラが優しく微笑んだ。

 

※※※※※

空は明るく、風も心地よい。ずっと自室に籠っていたから気付かなかった。

場所は移動して中庭。今日は天気がいいということでエイラが誘ってくれたのだ。

中庭には水が流れていて、水音が何だか涼しい。それがまた日差しと相まって心地が良かった。周囲に生けられている花々や木々の香りも、鼻腔をくすぐってくる。

気分転換にはいいかもしれませんね。

エイラの作ってきてくれたショートケーキは大変美味しかった。相変わらずエイラは料理が上手だ。侍女だからなのだろうか。

もう円テーブルの上にケーキは無くなっていた。

「エイラ、ご馳走様でした。とっても美味しかったです」

「ありがとうございます。そう言っていただけて良かったです」

エイラがにっこり笑う。

ショートケーキを食べている間は、本当に他愛もない話をした。昔のカイがどんな様子だったかとか、今のカイの話とか。要は殆どカイの話だ。

カイの話をしていると何故だか心が温かくなって、とても幸せを感じる。

あんなに泣きそうだったのに、今は自然に笑みを浮かべることが出来ていた。

温かい紅茶を啜る。身体までポカポカしてきた。眼を閉じてそれに浸る。

そんなイデアへエイラが視線を向けずに言う。

「元気、出ました?」

「え……」

驚くイデアを置いて、エイラがカップへまた紅茶を淹れてくれた。いつの間にか空だったようだ。

「昨日昔の話をしてから、ずっと元気がないような気がしたので。でも、カイ様もあんな調子ですし、私の出番かと思いまして」

「カイが、どうかしたのですか?」

「やっぱり、気付いてなかったんですね。イデア様と一緒ですよ、沢山悩んでるみたいです」

イデアは全く気付いていなかった。自分の事で手一杯で、カイの様子を考えるような余裕なんてなかったのだ。ただ、言われて気が付いた。胸にしまっているセインから、悲しい感情が伝わってきている。今こそ少し元気が出てきたから気付けたけれど、さっきまではイデアも似た感情を持っていた。もしかしたら相乗効果で余計に苦悩していたのかもしれない。

「カイ様の方にはセラ様が行きました。だから、私はイデア様の方へ来たわけです」

淹れてくれたカップをイデアへ渡し、エイラが言った。

「きっと、私が適任だと思いましたので」

その言葉だけで、エイラが何故イデアの方へ来てくれたのかが分かった。

エイラは、もう全部分かっている。イデアが何で悩んでいるのかを。分かっていて、だからこそ来てくれた。わざわざケーキも作ってくれて、わざわざカイの話題を出して励ましてくれながら。

ゆっくりと、エイラが紅茶を啜る。眼を閉じて、この空間に浸っているようだ。

何故だか、この辺りだけ時間がゆっくり流れているような感覚。彼女は無言だけれど、決してそれが嫌ではなくて。そんな空間を、エイラは作ってくれたのだ。

イデアの為に。

そんな空間のお陰か、生まれた元気のお陰か。

イデアは瞳を伏せ、エイラの顔を見ることなく口を開いていた。

「昨日から声が、聞こえるんです。なんて言っているのかは分からないけれど、私を呼ぶように心の奥から声が聞こえてくるんです」

再び、ギュッと胸元で両手を重ねる。震えだしそうな感情を押し殺すように。

そうしている今も、ノイズの様に靄がかかって言葉が届く。私に何を伝えようとしているのか分からない。

分からないけれど、その声はどこか温かくて。

その誰かとは、おそらく……。

「そして思い出したんです。私、小さい頃にこの声とお話ししたことがあったなって」

何故今まで忘れてしまっていたのか。カイ達と出会った頃の記憶喪失のせいかもしれない。その記憶が、昨日のゼノ達の話で思い起こされたのかもしれない。だから、また声が聞こえるようになったのかもしれない。

「とっても、優しい方だったんです」

思い出すだけで、心が和らぐ優しい記憶。

昔イデアは甘えん坊だった。誰かが傍にいてくれなきゃ嫌で、独りぼっちは本当に大嫌いで。でも、ごくたまに一人になってしまう瞬間があった。ルーシェンやシャルが公務で国を離れ、兄レンもまた忙しくしているような時。従者は付き添ってくれたけれど、やはり身分の違いから深くまでは入り込んでこない。それが寂しくて悲しくて。

段々と悲しみに暮れるイデアの心から、声が聞こえた。

「泣かないで。私とお話しましょう」

とても優しくて、温かい声音。

最初はイデアも驚いたけれど、案外子供というのは順応が早いもので。心の妖精さんだと勝手に思って、気にすることなく優しい声とお話をした。心の声はずっとイデアの心に寄り添ってくれた。イデアがする他愛もない話に、相槌や言葉を返してくれる。心から聞こえてくるからか、ずっと距離は近いような気がして、イデアはその声が大好きだった。

その日から、イデアは決して独りぼっちを嫌がらなくなった。心に、大切な友達が出来たからだ。どんな時でも、その声は傍にいてくれる。寂しくなることはなかった。

何となく心の声の存在は内緒だった。それがまた二人だけの秘密のようで、イデアは心地が良かった。

それからイデアが少しずつ大人になっていくにつれ、心の声もまた少しずつ聞こえなくなっていった。理由は分からないけれど、イデアは若気の至りだったような気がしないでもなく。寂しかった自分が作り上げた架空の友達だったかもしれない。だから、気にすることなくこれまで過ごしてきた。

でも、今なら分かる。ゼノ達の話を聞いて思い出し、そして確信した。

その優しさも、温かさも。

 

全部、フィグルのものだった。

 

「きっと、私の心の中にフィグルさんがいます。確かにいると感じるのです」

今だって聞こえないけれど、フィグルが心の奥から呼びかけている。何かの理由でイデアへ呼びかけている。

聞こえないから分からないけれど、その呼びかけがイデアには。

もう十分だと、代わって欲しいと言っているような気がしてならない。

そんなことはないのかもしれない。そんな人ではないと分かっているけれど。聞こえない声はイデアの暗い感情に搦めとられていた。

「私は、もう私じゃないのかもしれません」

これまでの人生も。カイへの気持ちも。全部私であって、私じゃないのかもしれない。

私はフィグルの宿主で、いずれはフィグルになるのかもしれない。

だからだろう。こんな言葉が口から出るのは。

イデアは何かを諦めたように、エイラへ視線を向けて尋ねた。

「エイラは、私が私じゃなくてフィグルさんだったらいいと思いますか?」

最低な問いだと、イデアは思った。

エイラはとても優しいから、首を縦に振るわけがない。これは私の自己満足だ。私は私でいていいと言って欲しいだけ。それを、エイラに言わせようとしている。フィグルと親友だったエイラに。

エイラはうーんと首を傾げた。

「そうですね……フィグルには、会いたいです。直接会って話がしたい。あの時何で自分を犠牲にしたんだと滅茶苦茶怒りたいですし、伝えられなかった気持ちをフィグルにこれでもかと叫びたいです」

言葉を紡ぐエイラ。

脳裏に浮かぶフィグルとの様々な出来事。思い出しては、心がギュッと締め付けられるような感覚が押し寄せてくる。素敵なことも悲しいことも一気に込み上げてくる。

もう一度会いたい。それはエイラの本心で。

「だから、会えるのであればそれはとても嬉しいです」

「そう、ですよね……」

イデアはエイラの回答に一瞬驚いたけれど、当然だとも思った。死んだと思っていた親友に会えるのだ。これ程嬉しいことはない。今後起きるであろう戦争のことを考えても、私なんかよりもフィグルの方が適任だとも思う。

私という人格は、もう必要ないのかもしれない。

ただ、とエイラが言葉を続けた。

「ただ、イデア様がフィグルに変わってしまうのであれば、答えはノーです」

「……――!」

自己満足だと分かっているのに、エイラの答えに心が嬉しさを感じてしまう。

やっぱりエイラは優しいから。そう言ってくれた。私は私でいていいと言ってくれた。

けれど、ここからは予期せぬもので。

「だって、イデア様がいないとカイ様が終わってしまいますから」

「えーっと……」

私がいないと、カイが終わる?

困っている私へ、エイラがいつもの揶揄うような表情で笑う。

「イデア様が居なくなってしまったら、カイ様は十七歳にしてまずバツイチでしょう。それに、今後イデア様以外にカイ様に嫁いでくれるような奇天烈な人はぜっっっっったい出てきませんから」

「わ、私って奇天烈ですか……」

「はい、とっても。……でも、だからイデア様じゃなきゃ駄目なんです」

揶揄うような表情から、ゆっくりと優しい面持ちでエイラがイデアを見つめる。イデアの揺れる大きな瞳をまっすぐ捉えて、少しでも気持ちを伝えられるように。

「この世界に誰かの代わりに生きている人なんていません。誰かに代わってその誰かとして生きていると思っている人がいるのであれば、それは勘違いにも程があります。いいですか、イデア様。この世界に生きる生命は誰もがかけがえのない、替えの効かない生命です。イデア様にフィグルの代わりは出来ませんし、フィグルにイデア様の代わりは出来ません」

「で、でも私には――」

「もしイデア様が本当の意味でフィグルになることが出来るのだとしても、そこには得たものと失ったものが等価で存在するだけです。何の意味もありません」

エイラの言うことも分かる。けれど、

等価、でしょうか。

そんな彼女の心境に気付いていたのか。

エイラは椅子からゆっくりと立ち上がってイデアの側へ歩き出した。

「わざわざフィグルに代わる必要なんてないんですよ。最初からそんな選択肢はいらないんです」

そして、座るイデアを下から覗き込むようにエイラはしゃがみこんだ。

「私は、先程イデア様の中にフィグルがいるんだと知って嬉しくなりました。決してフィグルに会えるかもしれないと思ったわけじゃありません。私は、イデア様にフィグルの想いが受け継がれているんだって嬉しくなったんです」

「フィグルさんの、想い……?」

エイラは頷きながら、ゆっくりとイデアの瞳に手を伸ばした。いつの間にかイデアの瞳には零れそうなくらい涙が溜まっていたのだ。

優しく涙を拭い、微笑みかける。

「フィグルは私を生かして死にました。その事実は変わりません。ですが、死してなおフィグルの想いは生きています。私のここと、イデア様のそこに」

自分の胸に手を当てながら、イデアの胸にも手をかざす。程よく膨らんだ胸のその先、心の中にフィグルの想いはある。

イデアが、受け継いでくれている。

「誰もが誰かに代わることなんて出来ません。だからこそ、想いを受け継ぐんです」

エイラの言葉がイデアの泣いている心に触れた。

想いを、受け継ぐ……。

代わるんじゃなくて、想いを受け継ぐ。

意味は同じように感じるけれど、どこか何かが違う言葉。

「イデア様としてフィグルの想いを受け継ぐんです。フィグルになるんじゃなくて、イデア様のまま」

けれど、少なくとも今のイデアには違って聞こえた。

自分の存在意義を求めていたイデアにとってその違いは大きくて。

「フィグルに代わってしまったら結局は一人分の想いですけれど、イデア様のままフィグルの想いを受け継いだら二人分の想いになります。二倍です。等価なんてレベルじゃありません、最強ですっ」

冗談めかしくエイラが笑う。真面目に話し過ぎて少し照れてきたのだ。

それでも、真っすぐに伝えなきゃいけない言葉がある。

「だから、フィグルに代わろうとしないでください。誰でもないイデア様にフィグルの声が聞こえるのには必ず意味があるはずです。あなたでなければ成し得ない何かが必ずあるはずです」

ギュッと、両手でイデアの両手を優しく包み込む。

イデアの心にフィグルがいると知ってから、ずっと伝えたかった言葉がある。

「イデア様」

イデアの濡れた瞳から大粒の涙が零れ落ちていく。

想いは繋がると最期に彼女は笑顔で言った。

フィグル、確かに想いは繋がっていました。こうして、想いはきっと永遠に続いていくんですね。

それって、何だかとても素敵なことだ。

「フィグルの想いを、受け継いでくれてありがとうございます」

エイラも、あの時の彼女と同じように笑顔で告げる。

「それだけで私は、十分イデア様がイデア様である意味はあると思います」

「……エイ、ラっ……ううあっ!」

イデアが嗚咽を漏らし始めた。際限なく涙が溢れ顔をくしゃくしゃに歪ませる。

欲しかった、私は私でいていいのだという言葉。

それ以上の言葉を、エイラはくれた。

イデアがずっとフィグルと等価だと思えなかったのは、ゼノ達の語るフィグルの人物像が余りに素敵だったからだ。素敵だったからこそ、自分という存在に疑問が生まれてしまっていた。

勝手に優劣をつけて悲観していた。だからこそ、代わることばかり考えてしまった

けれど、私は私でいるだけじゃ駄目なんだ。

フィグルの想いを受け取って、フィグルの想いと一緒に進まなきゃならないのだと気付いた。

今更に気付いてしまう。見失っていたもの。

沢山の人と、想いと繋がっている。誰もがそうやって誰かと繋がっていて、だから代わりは務まらない。

決して私は私一人じゃないんだ。私の存在意義は私一人では語れない。

気持ちが溢れた。気付けた安堵や、先程まで感じていた劣等感、一人のような孤独。その全てが溶けて、涙となって込み上げてくる。

涙は止まらない。

エイラは立ち上がってイデアを抱きしめた。優しく包み込むように。

聞こえてくる嗚咽に微笑みながら、言葉を紡ぐ。

「もう、そもそもイデア様とフィグルじゃ全然違うんですよ? 考えてもみてください、男の趣味を。イデア様はカイ様ですけど、フィグルなんて魔王ベグリフですからね? まぁある意味ゲテモノ好きという奇天烈な点は一緒ですけど、男の趣味は正反対もいいところです」

「ううううううっ、うああああっ」

「私としては、イデア様の方がいい趣味してると思いますよ」

ぽんぽんと背中を撫でながら、優しく話しかける。余計にどんどん嗚咽が大きくなっているような気がしないでもない。

「そういえば、フィグルって実はあれでいて寂しがりやなんですよ。私が四魔将になったのもフィグルが寂しがったからですし。だからもし良ければ、フィグルの声に耳を傾けてあげてください」

イデアが心から聞こえる声を上手く聞き取れないのは、イデアが無意識に遮断してしまっているのだろう。イデアがまだフィグルの存在を受け入れられていなかったから。

けれど、もうきっと大丈夫。

今のイデアなら、もう大丈夫。

「ありがとう、エイラ」

そんなフィグルの声が聞こえたような気がして。

どういたしまして。

エイラは苦笑しながらも、心で言葉を返していた。


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