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第一部
昆虫男爵の事情
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「いいですか。旦那様。こう言ってはなんですが、ジャスティーナ様を逃してはいけません」
「ハンク」
ハンクの言葉に、イーサンは眉間を指で押さえる。眉間といっても、眉毛自体が薄いものだから額を押さえている、という表現が正しいかもしれない。
屋敷に招き、ジャスティーナと共にお茶でも飲もうと思っていた。だが、このハンクが妙に真剣な顔で話があると言ったため、書斎に連れてきた。
けれども聞かされる話は、ジャスティーナを屋敷に引き止めろなどと、物騒な話だ。
「旦那様。ジャスティーナ様がお嫌いですか?素直ないい方ではありませんか?王宮で聞いた話とは大違いです」
昆虫男爵として有名なイーサンは社交の場にほぼ出ない。これはイーサンだけでなく、彼の父、そしてそのまた父もだ。
デイビス家はなぜか男児しか生まれない。しかも、その顔は代々同じで昆虫のような顔だ。この醜い血を薄めようと、美しい女性を選び妻にしたこともあったが、デイビス家の呪いとも言えるこの顔は必ず受け継がれた。
先祖たちも三代ほど美しい女性を娶ってみたが、結果は同じ。しかも、美人であるがゆえ、昆虫顔の夫に耐えらず病死したり、気を狂わせたため、顔の美しさで妻を選ぶのをやめている。
顔は「醜い」がその心を知り、夫婦になることを承諾したものだけを妻にするようになっていた。
その嫁選びの期間だけは、社交の場に行く必要がある。
父も祖父もそうして見事によい妻を迎え入れることができた。
しかし、現在の当主のイーサンは一度の社交界で吐き気を催すほどの不快感を味わい、伴侶探しの場である社交界から身を引いていた。
あれからすでに五年。
ジャスティーナは現在十六歳、社交界デビューも一年前で、イーサンのことはその耳に届いていないはずだ。
昆虫男爵として、母親から彼女が聞かされたのはイーサン個人のことではなく、デイビス家の代々の当主のことで、それがおかしな話にねじ曲げられているものだった。
「俺は妻はいらない。こんな顔で生まれる子もきっと俺と同じ苦しみを味わう。それなら子を持たず、デイビス家は俺の代で絶やしてしまったほうがいいのだ。だから、ハンク。今日は仕方ないが、明日はホッパー男爵令嬢を屋敷に帰すつもりだからな!」
「旦那様!」
ハンクが少し興奮気味にそう呼びかけた瞬間、扉が叩かれる。
同時にモリーの声が聞こえてきた。
「入れ」
イーサンの許可を受け、ハンクが扉を開けモリーを部屋に引き入れる。
彼女は一礼した後、顔をあげた。
「旦那様。ジャスティーナ様、いえ、ジャス様をいつまでお待たせする気ですか?どうやらお昼も召し上がっていないご様子。早めの夕食にしたいのですが」
「ジャス?」
「ええ。お嬢様はジャス様と名乗られました。旦那様?」
モリーの返事を受け突然笑い出したイーサンに、彼女は心配になって問いかける。
「なんでも、なんでもない。ジャスティーナをジャス。偽名も偽名。一緒ではないか」
「確かに、まあ、ジャスティーナ様。いえ、ジャス様らしい」
ハンクもイーサンに加わり笑い出したので、モリーは苛立ちあらわに声をあげた。
「イーサン様、お父さん!笑ってないで、早く支度してください。ジャス様をいつまで待たせる気ですか!」
男達は本当にしょうがないと、モリーは一喝する。
「すまない。いや、あんまりにもおかしくてな。本当。面白い女性だ。ホッパー男爵令嬢は」
「旦那様。ジャス様は、ジャスとお名乗りになっております。ホッパー家の名前は出さないようにしてくださいませ」
「俺がすでに彼女の正体を知っていることは、彼女も承知済みだ」
「旦那様。ジャス様が名乗りたくないのです。それであればジャス様とお呼びになるのが最上でしょう」
「それは、」
「旦那様、お名前を呼ぶだけです。しかも偽名です。何も迷うことはないでしょう。ほら、ぼうっと突っ立てないで、広間にいらしてください。私は先に行っておりますから。お父さん、頼んだわよ!」
本当に苛立っているらしく、モリーはイーサンに退室許可をもらうことも、父親のことを上司の執事として接することもすっかり忘れているようだ。
待ちきれないとばかり、一人で慌ただしく部屋を出ていってしまう。
ジャスティーナはこの屋敷に久しぶりに入った若い貴族の女性で、イーサンの容姿に対して抵抗がない。そのような女性は貴重で、いやおうなしにも期待が高まる。それはハンクを始め、他の使用人も同様で、その気持ちがわかるイーサンは先が思いやられると頭を抱えた。
「ハンク」
ハンクの言葉に、イーサンは眉間を指で押さえる。眉間といっても、眉毛自体が薄いものだから額を押さえている、という表現が正しいかもしれない。
屋敷に招き、ジャスティーナと共にお茶でも飲もうと思っていた。だが、このハンクが妙に真剣な顔で話があると言ったため、書斎に連れてきた。
けれども聞かされる話は、ジャスティーナを屋敷に引き止めろなどと、物騒な話だ。
「旦那様。ジャスティーナ様がお嫌いですか?素直ないい方ではありませんか?王宮で聞いた話とは大違いです」
昆虫男爵として有名なイーサンは社交の場にほぼ出ない。これはイーサンだけでなく、彼の父、そしてそのまた父もだ。
デイビス家はなぜか男児しか生まれない。しかも、その顔は代々同じで昆虫のような顔だ。この醜い血を薄めようと、美しい女性を選び妻にしたこともあったが、デイビス家の呪いとも言えるこの顔は必ず受け継がれた。
先祖たちも三代ほど美しい女性を娶ってみたが、結果は同じ。しかも、美人であるがゆえ、昆虫顔の夫に耐えらず病死したり、気を狂わせたため、顔の美しさで妻を選ぶのをやめている。
顔は「醜い」がその心を知り、夫婦になることを承諾したものだけを妻にするようになっていた。
その嫁選びの期間だけは、社交の場に行く必要がある。
父も祖父もそうして見事によい妻を迎え入れることができた。
しかし、現在の当主のイーサンは一度の社交界で吐き気を催すほどの不快感を味わい、伴侶探しの場である社交界から身を引いていた。
あれからすでに五年。
ジャスティーナは現在十六歳、社交界デビューも一年前で、イーサンのことはその耳に届いていないはずだ。
昆虫男爵として、母親から彼女が聞かされたのはイーサン個人のことではなく、デイビス家の代々の当主のことで、それがおかしな話にねじ曲げられているものだった。
「俺は妻はいらない。こんな顔で生まれる子もきっと俺と同じ苦しみを味わう。それなら子を持たず、デイビス家は俺の代で絶やしてしまったほうがいいのだ。だから、ハンク。今日は仕方ないが、明日はホッパー男爵令嬢を屋敷に帰すつもりだからな!」
「旦那様!」
ハンクが少し興奮気味にそう呼びかけた瞬間、扉が叩かれる。
同時にモリーの声が聞こえてきた。
「入れ」
イーサンの許可を受け、ハンクが扉を開けモリーを部屋に引き入れる。
彼女は一礼した後、顔をあげた。
「旦那様。ジャスティーナ様、いえ、ジャス様をいつまでお待たせする気ですか?どうやらお昼も召し上がっていないご様子。早めの夕食にしたいのですが」
「ジャス?」
「ええ。お嬢様はジャス様と名乗られました。旦那様?」
モリーの返事を受け突然笑い出したイーサンに、彼女は心配になって問いかける。
「なんでも、なんでもない。ジャスティーナをジャス。偽名も偽名。一緒ではないか」
「確かに、まあ、ジャスティーナ様。いえ、ジャス様らしい」
ハンクもイーサンに加わり笑い出したので、モリーは苛立ちあらわに声をあげた。
「イーサン様、お父さん!笑ってないで、早く支度してください。ジャス様をいつまで待たせる気ですか!」
男達は本当にしょうがないと、モリーは一喝する。
「すまない。いや、あんまりにもおかしくてな。本当。面白い女性だ。ホッパー男爵令嬢は」
「旦那様。ジャス様は、ジャスとお名乗りになっております。ホッパー家の名前は出さないようにしてくださいませ」
「俺がすでに彼女の正体を知っていることは、彼女も承知済みだ」
「旦那様。ジャス様が名乗りたくないのです。それであればジャス様とお呼びになるのが最上でしょう」
「それは、」
「旦那様、お名前を呼ぶだけです。しかも偽名です。何も迷うことはないでしょう。ほら、ぼうっと突っ立てないで、広間にいらしてください。私は先に行っておりますから。お父さん、頼んだわよ!」
本当に苛立っているらしく、モリーはイーサンに退室許可をもらうことも、父親のことを上司の執事として接することもすっかり忘れているようだ。
待ちきれないとばかり、一人で慌ただしく部屋を出ていってしまう。
ジャスティーナはこの屋敷に久しぶりに入った若い貴族の女性で、イーサンの容姿に対して抵抗がない。そのような女性は貴重で、いやおうなしにも期待が高まる。それはハンクを始め、他の使用人も同様で、その気持ちがわかるイーサンは先が思いやられると頭を抱えた。
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