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華は根に、鳥は古巣に帰る
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披露宴が終わった夜。
後宮の廊下に〝御渡りでございます〟という侍女の言葉が響く。それと同時に美琳の部屋の間仕切り布が捲られ、文生が数人の侍女を引き連れて中に入ってくる。
寝間着姿の美琳は、流れるような所作で床に膝を突き拱手をし、頭を垂れる。
すると傍近くに彼が立つ気配がし、付き従っていた侍女たちの去っていく足音がする。
「…………」
声が掛かるのを、美琳はただ静かに待つ。
――――されどいつまで経っても声は聞こえてこない。
ちらり、と、袖の隙間から覗き見る。と、突然文生に抱き着かれる。
「きゃッ!」
咄嗟のことで美琳は反応出来ず、尻餅をつく。そして重くのしかかる彼の体を支えてやる。
「ど、どうしたの?」
戸惑いながら聞く。
「…………ごめん」
返ってきたのはたった一言。だが二人の間にはそれだけで充分であった。
「謝ることじゃないわ。だって〝ここはそういうところなんだ〟って静端が言ってたもの」
そう言った美琳の笑顔は、どこまでも澄んでいた。対して文生は眉尻が下がる。
「たった一回だったのに……!」
「そうね……でもこればかりは私たちにはどうしようもないわ」
美琳は文生の頭を胸に抱き、あやすように背中を優しく叩く。文生は更に強く掻き抱く。
「正室じゃないと君の立場はどんどん悪くなってしまうじゃないか……先に君と子供が出来てれば、押し通すことが出来たのに……」
「……ごめんね」
ハッと文生は顔を上げる。
「メ、美琳が悪いんじゃないよ」
慌てて弁明する文生。それに対しても美琳は美しく微笑む。
「気にしないで。それに……これから何度だって機会はあるでしょう?」
朗らかに言った美琳は、小さな手で文生の頬を挟み口づける。
その柔らかい感触に、文生は一度、くしゃりと顔を歪ませ、しかしすぐに貪るように口を吸う。
「ん……ッ」
美琳の吐息が艶を帯びる。彼らはしばらく慰め合う。と、文生が唇を離して美琳を横抱きし、床に彼女を運ぶ。そのまま横たえて覆い被さると、紅い衣を脱がせた。
現れたのは真っ新な白い肌。小さな実り。流れる黒髪。
いつまで経っても無垢なその体を見た瞬間、何故だか無性にやるせない気持ちになった。
――――欲しくて手に入れた身分じゃない。でもなってしまったものは仕方ない。自分なりにやれることをしなければ、と努力した。
――――やっと手に入れた宝物。なんとか守り抜こうと思ったのに。自分ではどうしようもないところでこれから苦境に追いやられていくのだろう。
――――あのとき。村を離れた瞬間から決められたどうしようもない運命だったのだろうか。
文生はそっと美琳の柔肌を撫でる。と、ふとある衝動に駆られる。
その変化にいち早く気づいた美琳。小首を傾げて彼を窺い見る。
「……? 文生? どうした、の、あッ!」
美琳は思わず声を漏らす。自分の首筋に文生が強く噛みついたからだ。
それに美琳は驚く。今まで何度も体を重ねてきた。当然、様々な経験を重ねてきた。けれどこのような、痛みを伴う行為をされたのは初めてだった。
予想外の行動に動揺する。しかしそれ以上に違うことに困惑する。
「んぅ……!」
いつもと同じように、『疼痛』はなかった。その代わり、ピリリ、と『劣情』が湧いた。
ただ彼に噛みつかれただけなのに、不思議と快感が走り抜けていった。
「ん、はぁ……いきなりなぁに?」
驚嘆と興奮が入り混じった彼女の声に、文生は我に返る。
「あ、ご、ごめん。なんでだろ……」
パッと体を起こし、傷痕を確認しようとする。されど残っていたのは、自分の唾液だけ。
文生は思わず顔を顰めた。直後、美琳から声が降る。
「なんだか私たち、さっきから謝ってばかりね」
ふっと文生は美琳を見上げ、そして眉尻を下げる。
「そうだね。ごめ…………あ」
「ふふ、言った傍から」
美琳のくすぐるような笑い声に、文生も表情を緩める。
「ねぇ……今日はもう寝ちゃわない?」
「え、でも」
「お務めなんて一日くらい忘れても大丈夫よ。だって今日の文生疲れてるもの。今は何もかも忘れて眠った方がいいわ」
穏和に微笑む美琳。何度も見慣れたその笑顔に、文生は体から力が抜けるのを感じた。
「うん。そう言われると、眠い気がしてきた」
「でしょう? ほら、こっちに来て」
美琳は横向きに転がり、その隣に文生を誘う。はにかむように笑いながら彼も横たわる。
「やっぱり美琳には敵わないなぁ」
その言に、美琳は無言の抱擁で応える。抱き抱えられた文生の眼前にはなだらかな膨らみと、心臓の音が広がる。
トク、トク、と小さなその鼓動は文生を眠りの世界に誘う。うとうとと瞼を閉じようとしている彼の背中を、美琳はゆっくりと撫でるのであった。
すっかり寝入った文生。
それを見届けた美琳は、起こさないようにしてそっと床から抜ける。と、すかさず静端がやってきて彼女の肩に新しい寝間着を掛ける。
「ありがとう静端」
小声で話す美琳に、小さく頭を下げる静端。
二人は静かに窓辺に寄る。
美琳は松明の明かりを頼りに窓の外を見た。だがそこには月明かりのない、漆黒の闇しかなかった。
「美琳様……よろしかったのですか?」
「ん? 何が? だって文生の様子がおかしかったのは静端も分かったでしょう? 今はゆっくり休んでもらった方がいいわ」
「そうではございますが……」
静端は言いにくそうにしつつも言葉を紡ぐ。
「噂では、戦況が芳しくなくなってきているとのことですが……」
「…………」
「美琳様も、もうお分かりなのでございましょう?」
彼女の横顔は何も語らない。
その態度に静端はわずかな苛立ちを覚える。
「このまま戦いが長引けばいずれ「分かってる」
くるり、と美琳は窓を背にして振り返る。暗闇を背負った彼女の顔は、松明の灯だけで見るのは心許ない。
「そろそろ不死身の出番だ、って分かってるわ」
だが静端は、彼女がいつもと変わらぬ無垢な笑みを浮かべているのを確信できた。
「でも大丈夫よ。文生は私のことをいつまでだって『愛してくれる』って言ってたもの。だから私は彼のために戦える」
窓から離れた美琳は、文生の眠っている床に近づく。
「そして必ず戻ってくるわ。だからそれまでの間、留守は頼んだわね?」
「……ッ!」
静端は息が詰まる思いがした。愛に満ち溢れた眼差しで文生を見つめる美琳の姿は、今まで見たものの中で一番美しく見えたから。
「委細承知致しました。不肖ながら、この静端。美琳様のお留守は守り通してみせます」
拱手をして膝を折り曲げる。
美琳は文生から静端に視線を移す。と、不意に笑いを零す。
「ふふ、こんなこと言っておいて、〝私の出番なんてありませんでした〟ってこともあり得るわよね」
普段と同じ調子で明るく話す美琳に、静端もつられる。
「それに越したことはございませんね。さ、もうお眠りにならないとお体に毒でございますよ」
「はいはい。あなたももう下がっていいわよ」
そう言いつつ美琳は寝間着を脱いで静端に渡すと、床に潜り込む。受け取った静端は頭を下げる。
「本日はこれにて失礼致します」
美琳はひらひらと小さく手を振って返事をすると、静端は音も立てずにその場を後にするのであった。
再び床に入った美琳は、文生にすり寄る。
「ンン……」
無意識ながらその気配を察したのだろう。
文生は美琳の方に寝返りを打つと、彼女を抱き寄せる。
美琳は小さく目を見開いたが、すぐに目を細めて抱き返す。
硬く抱き合った二人を、夜の闇が優しく包むのであった。
後宮の廊下に〝御渡りでございます〟という侍女の言葉が響く。それと同時に美琳の部屋の間仕切り布が捲られ、文生が数人の侍女を引き連れて中に入ってくる。
寝間着姿の美琳は、流れるような所作で床に膝を突き拱手をし、頭を垂れる。
すると傍近くに彼が立つ気配がし、付き従っていた侍女たちの去っていく足音がする。
「…………」
声が掛かるのを、美琳はただ静かに待つ。
――――されどいつまで経っても声は聞こえてこない。
ちらり、と、袖の隙間から覗き見る。と、突然文生に抱き着かれる。
「きゃッ!」
咄嗟のことで美琳は反応出来ず、尻餅をつく。そして重くのしかかる彼の体を支えてやる。
「ど、どうしたの?」
戸惑いながら聞く。
「…………ごめん」
返ってきたのはたった一言。だが二人の間にはそれだけで充分であった。
「謝ることじゃないわ。だって〝ここはそういうところなんだ〟って静端が言ってたもの」
そう言った美琳の笑顔は、どこまでも澄んでいた。対して文生は眉尻が下がる。
「たった一回だったのに……!」
「そうね……でもこればかりは私たちにはどうしようもないわ」
美琳は文生の頭を胸に抱き、あやすように背中を優しく叩く。文生は更に強く掻き抱く。
「正室じゃないと君の立場はどんどん悪くなってしまうじゃないか……先に君と子供が出来てれば、押し通すことが出来たのに……」
「……ごめんね」
ハッと文生は顔を上げる。
「メ、美琳が悪いんじゃないよ」
慌てて弁明する文生。それに対しても美琳は美しく微笑む。
「気にしないで。それに……これから何度だって機会はあるでしょう?」
朗らかに言った美琳は、小さな手で文生の頬を挟み口づける。
その柔らかい感触に、文生は一度、くしゃりと顔を歪ませ、しかしすぐに貪るように口を吸う。
「ん……ッ」
美琳の吐息が艶を帯びる。彼らはしばらく慰め合う。と、文生が唇を離して美琳を横抱きし、床に彼女を運ぶ。そのまま横たえて覆い被さると、紅い衣を脱がせた。
現れたのは真っ新な白い肌。小さな実り。流れる黒髪。
いつまで経っても無垢なその体を見た瞬間、何故だか無性にやるせない気持ちになった。
――――欲しくて手に入れた身分じゃない。でもなってしまったものは仕方ない。自分なりにやれることをしなければ、と努力した。
――――やっと手に入れた宝物。なんとか守り抜こうと思ったのに。自分ではどうしようもないところでこれから苦境に追いやられていくのだろう。
――――あのとき。村を離れた瞬間から決められたどうしようもない運命だったのだろうか。
文生はそっと美琳の柔肌を撫でる。と、ふとある衝動に駆られる。
その変化にいち早く気づいた美琳。小首を傾げて彼を窺い見る。
「……? 文生? どうした、の、あッ!」
美琳は思わず声を漏らす。自分の首筋に文生が強く噛みついたからだ。
それに美琳は驚く。今まで何度も体を重ねてきた。当然、様々な経験を重ねてきた。けれどこのような、痛みを伴う行為をされたのは初めてだった。
予想外の行動に動揺する。しかしそれ以上に違うことに困惑する。
「んぅ……!」
いつもと同じように、『疼痛』はなかった。その代わり、ピリリ、と『劣情』が湧いた。
ただ彼に噛みつかれただけなのに、不思議と快感が走り抜けていった。
「ん、はぁ……いきなりなぁに?」
驚嘆と興奮が入り混じった彼女の声に、文生は我に返る。
「あ、ご、ごめん。なんでだろ……」
パッと体を起こし、傷痕を確認しようとする。されど残っていたのは、自分の唾液だけ。
文生は思わず顔を顰めた。直後、美琳から声が降る。
「なんだか私たち、さっきから謝ってばかりね」
ふっと文生は美琳を見上げ、そして眉尻を下げる。
「そうだね。ごめ…………あ」
「ふふ、言った傍から」
美琳のくすぐるような笑い声に、文生も表情を緩める。
「ねぇ……今日はもう寝ちゃわない?」
「え、でも」
「お務めなんて一日くらい忘れても大丈夫よ。だって今日の文生疲れてるもの。今は何もかも忘れて眠った方がいいわ」
穏和に微笑む美琳。何度も見慣れたその笑顔に、文生は体から力が抜けるのを感じた。
「うん。そう言われると、眠い気がしてきた」
「でしょう? ほら、こっちに来て」
美琳は横向きに転がり、その隣に文生を誘う。はにかむように笑いながら彼も横たわる。
「やっぱり美琳には敵わないなぁ」
その言に、美琳は無言の抱擁で応える。抱き抱えられた文生の眼前にはなだらかな膨らみと、心臓の音が広がる。
トク、トク、と小さなその鼓動は文生を眠りの世界に誘う。うとうとと瞼を閉じようとしている彼の背中を、美琳はゆっくりと撫でるのであった。
すっかり寝入った文生。
それを見届けた美琳は、起こさないようにしてそっと床から抜ける。と、すかさず静端がやってきて彼女の肩に新しい寝間着を掛ける。
「ありがとう静端」
小声で話す美琳に、小さく頭を下げる静端。
二人は静かに窓辺に寄る。
美琳は松明の明かりを頼りに窓の外を見た。だがそこには月明かりのない、漆黒の闇しかなかった。
「美琳様……よろしかったのですか?」
「ん? 何が? だって文生の様子がおかしかったのは静端も分かったでしょう? 今はゆっくり休んでもらった方がいいわ」
「そうではございますが……」
静端は言いにくそうにしつつも言葉を紡ぐ。
「噂では、戦況が芳しくなくなってきているとのことですが……」
「…………」
「美琳様も、もうお分かりなのでございましょう?」
彼女の横顔は何も語らない。
その態度に静端はわずかな苛立ちを覚える。
「このまま戦いが長引けばいずれ「分かってる」
くるり、と美琳は窓を背にして振り返る。暗闇を背負った彼女の顔は、松明の灯だけで見るのは心許ない。
「そろそろ不死身の出番だ、って分かってるわ」
だが静端は、彼女がいつもと変わらぬ無垢な笑みを浮かべているのを確信できた。
「でも大丈夫よ。文生は私のことをいつまでだって『愛してくれる』って言ってたもの。だから私は彼のために戦える」
窓から離れた美琳は、文生の眠っている床に近づく。
「そして必ず戻ってくるわ。だからそれまでの間、留守は頼んだわね?」
「……ッ!」
静端は息が詰まる思いがした。愛に満ち溢れた眼差しで文生を見つめる美琳の姿は、今まで見たものの中で一番美しく見えたから。
「委細承知致しました。不肖ながら、この静端。美琳様のお留守は守り通してみせます」
拱手をして膝を折り曲げる。
美琳は文生から静端に視線を移す。と、不意に笑いを零す。
「ふふ、こんなこと言っておいて、〝私の出番なんてありませんでした〟ってこともあり得るわよね」
普段と同じ調子で明るく話す美琳に、静端もつられる。
「それに越したことはございませんね。さ、もうお眠りにならないとお体に毒でございますよ」
「はいはい。あなたももう下がっていいわよ」
そう言いつつ美琳は寝間着を脱いで静端に渡すと、床に潜り込む。受け取った静端は頭を下げる。
「本日はこれにて失礼致します」
美琳はひらひらと小さく手を振って返事をすると、静端は音も立てずにその場を後にするのであった。
再び床に入った美琳は、文生にすり寄る。
「ンン……」
無意識ながらその気配を察したのだろう。
文生は美琳の方に寝返りを打つと、彼女を抱き寄せる。
美琳は小さく目を見開いたが、すぐに目を細めて抱き返す。
硬く抱き合った二人を、夜の闇が優しく包むのであった。
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