永遠の伴侶

白藤桜空

文字の大きさ
上 下
53 / 97
尾羽打ち枯らす

53

しおりを挟む
 窓の外から朝ぼらけの光がやってくる。
 とこの上では文生ウェンシェン胡坐あぐらをかき、朝陽は美琳メイリンの寝顔を照らしている。その清廉な輝きは彼女の頬を神々しく描き出し、惹きこまれた文生は思わずその形をなぞる。
「……文生?」
 突然名を呼ばれた文生は、パッ、と手を離す。すると美琳が、目をこすりつつ、気怠けだるそうに首だけ起こす。
「ごめんね。起こしちゃった?」
「ううん……。気にしないで。ちょうど『起きる』時間でしょう?」
「そうだね。今日は早めに支度しないと」
 文生がとこを出ようとする。と、美琳の手が腰に回り、文生は眉尻を下げる。
「美琳? そんな時間ないよ?」
 たしなめる文生。しかしその口元はやに下がっている。
「んー……。もう少しだけ、一緒に……」
 美琳の小さく甘えた手が文生を捉えて離さない。その手に文生はそっと手を重ね、なだめるように優しく撫でる。
「今日は駄目だよ」
「……んゃ」
「ほら、僕の好きなのを着てくれるんでしょう? 早く見たいな」
 文生が手を撫で続けていると、美琳もやっと納得する。
「ん……分かったわ……」
 美琳は渋々といった様子で文生を解放し、起き上がる。その拍子に濡れ羽色の髪が白い肌の上をさらりと流れた。
「うん、いい子」
 文生は美琳の髪を取ると優しく口付けをし、素早くその場を離れる。それに併せて壁際に控えていた侍女たちがで、歩く文生の身支度を整えていく。
「また後で」
 と美琳が言うと、文生は慇懃いんぎんに頷き、部屋を出ていくのであった。

 ひらひらと手を振って見送った美琳。その瞳には眠気のひと欠片かけらも無い。
「美琳様。こちらも支度致しましょうか」
「ええ。そうしましょう、静端ジングウェン
 するりと美琳はとこから降りると、裸体のまま侍女たちの前に進み出る。
 静端は軽く膝を曲げて辞儀をし、口を開く。
「……昨夜お話しされていた件ですが」
 美琳はくうを見て考える。
「どれ?」
「お召し物の話でございます」
「ああ」
 合点した、という顔になった美琳は、静端に命じる。
「王の言っていた物を持ってきてちょうだい」
 途端、静端は歯切れ悪くなる。
「実は……王が御指名なさった着物は、本日の見送りの儀には相応ふさわしくない物でして……こちらで別の物を用意致しました」
 そう言って静端が見せたのは、桃の宴のときの物よりぐっと色味が抑えられ、刺繍もより簡素な着物であった。
「……何よこれ。違ったら意味がないじゃない」
「ですが、あれは華やか過ぎます。此度のように兵に寄り添っていることを示す場には」
うるさいわね」
 苛立いらだちをあらわにする美琳。
「どうせ兵からは遠くてほとんど見えないんでしょう? だったら王が喜ぶ物の方がいいじゃない」
「そう、ではございますが……。官吏かんりらがなんと申しましょうか」
「そんなの適当に言わせておけばいいのよ。ほら、早くあれを持ってきて。早くしないと始まっちゃうじゃない」
「……承りました」
 静端はそばにいる他の侍女に目配せすると、美琳の要望通りの格好にしてやるのだった。

 夏と秋の気配が混ざった澄清ちょうせいに、宮殿のあかい屋根が映えている。都城とじょうにはいつもと同じ朝の太鼓が鳴り響き、町の人々が起き出す。
 だが常と違って、より低く、重く、勇壮な音色が空気を震わせた。その音に屋根で休んでいた鳥たちが驚き、一斉に羽ばたいて飛び去っていった。
 その外の景色を、美琳はぼうっと眺めていた。
「美琳よ。如何いかがした?」
 と、文生が問いかける。質素で慎ましい装飾品と、鮮やかに染められた黄色の絹の着物を身に付けている彼は、右隣に立っている美琳の顔を心配そうにのぞき込んだ。
「あ、いえ……。なんでもございません」
 そう答えた美琳は、浅葱斑アサギマダラの豪奢な刺繍が施された紅い絹織物を身に纏い、頭上には金簪きんかんきらめかせていた。
「そうか。ならば良い」
 淡々と答えた文生。だがその目はどこか恍惚こうこつとしていた。
「そろそろ御時間でございます」
 傍にいた官吏が外に繋がる戸布をめくり上げる。
「うむ」
 文生は小さく頷くと、美琳たち・・を引き連れて外に出た。

 ――わッ!
 瞬間、野太い歓声が沸く。
 王城の宮殿前広場。そこには武装した大勢の兵士たちがひしめき宮殿を見上げ、一様に雄叫びを上げている。
 そんな彼らを文生は宮殿の二階から見回し、軽く片手を挙げてやる。するとそれだけで歓声は増し、王城の外までとどろいた。
「な、なんて勇ましいのでしょう」
 気圧けおされたように震えた声が文生の耳に届く。すると文生は、階下から目を逸らさずにその声の主をとがめる。
「……夫人である其方そちがそのようにおびえていてどうするのだ、淑蘭シュンランよ。もっと堂々とせよ」
「は、はい……! 以後、気を付けますわ」
 すかさず姿勢を直した淑蘭。必要最低限の装飾品と、紺に近い青の着物を身に付けた彼女は、彼の冷たい声にますます怯え、戦慄わななく手でそでを握り締める。
 ひるがえって美琳は、悠然と微笑んで兵たちに手を振る。そのたおやかで美しい姿に、兵士らはますます興奮し、咆哮ほうこうじみた声になっていく。
「美琳のこの姿を見よ。見習うが良い」
 文生は美琳に振り返って見つめると、美琳もにこり、と微笑み返す。
「…………」
 淑蘭は唇を噛みながら〝承知致しました〟と答えるのであった。
 ――ドン、ドン。
 再び太鼓が強く掻き鳴らされる。鼓動のような重低音が兵たちを鼓舞し、その音色に合わせて男たちは手にしていた武器で地面を叩いて大地を揺すり、ときの声を上げる。
 その喧騒けんそうに呑み込まれないように、文生は声を張り上げる。
「誇りあるシュウ兵よ! 此度もガンより宣戦布告がなされた!」
 文生は固く拳を握る。
「幾度も我が国に負けたのにも関わらず、だ。あやつらは懲りないようだ」
 すると兵たちから笑いが起こる。と、文生が片手で彼らを制す。途端、彼らは静まり返って、文生の言葉に耳を傾け始める。
「そう、諦めの悪い奴らだ。確かに……我々も何度も劣勢に立たされ、辛く苦しい戦いを強いられてきた。大勢の犠牲も出た」
 ちらほらと兵の目に涙が浮かび、彼らは一心に文生を見つめる。その視線に応えるように、文生も熱く語る。
「だが如何いかに剛であろうと、我ら修の魂を打ち砕くことは出来ない! 犠牲となった者たちのことを決して忘れるな! そして彼らの命が無駄でなかったことを示すため……今度こそ殲滅せんめつしてくれよう!」
「うおおッ!」
 場の空気は最高潮に達す。
 熱狂の渦に巻き込まれた三万の兵たちは意気揚々と王城の外にで、大通りを闊歩かっぽし始めるのであった。

 文生ら三人はその雄々しい背中を見送る。美琳も、かつての仲間たちの出立をじっと見つめ、ふと気付く。
「あ……」
 それはよく知った人影。他の人よりも頭一つ飛び出ていて、誰よりも大きな背中。自分をここに立たせるために、身分自身を捨ててくれた人。
「大尉……」
 ぽそり、と呟いた美琳の言葉を文生は聞き逃さなかった。
「ん? どうした」
「! いいえ。なんでもありませんわ」
 不思議そうに小首を傾げる文生。だが彼女の目線の先を追って納得する。
勇豪ヨンハオか」
「……ええ。大尉……あの者が何故この場にいるのか気になりまして」
 文生は顎に手を当てる。
「此度の戦は大規模だ。戦える者なら誰でも良い、と貴賤きせんも、罪の有無も問わずに搔き集めたのだ」
「そう、なのですね」
 美琳は、なんとも言えない『感情』が湧くのを感じた。
 そのまま勇豪を見つめ続けていると、向こうも気付いたのだろう。遠目からでもこちらを見ているのが分かった。
「…………」
 ちらり、と美琳は文生を盗み見て確認すると、勇豪に小さく手を振る。すると彼も小さく片手を挙げ、そしてすぐに背を向けてしまう。
「美琳。我はそろそろ仕事に戻る故、淑蘭と共に残ってくれ」
「あ……はい。分かりました」
 美琳は文生に振り返って答える。その横で、淑蘭も〝承りました〟とこうべを垂れて、軽く膝を折り曲げた。

 彼女らが兵を見送っているその後ろ。繊細な彫刻の施された柱の陰で、二人の官吏かんりがひそひそと話していた。
「……美琳様は〝相変わらず〟ですな」
「そうですな。まったく……静端はちゃんと教育しておるのか?」
「そもそもあのような態度を御許しになる王の気が知れません」
「あの美貌に骨抜きにされてしまっておるのだろう」
「確かに美しい。けれどそれだけではありませんか。あれ程の寵愛を受けておりながらお子も身籠みごもらず、その上夫人として相応ふさわしくない振る舞いばかり」
「ええ、ええ。あのように華美な服装をこのような場に着てくるなど、王族の権威をおとしめるおつもりか?」
「それに比べて淑蘭様は素晴らしい。質素でありながら気品のある装い。ゆくゆくはあの方にきさきになっていただかなければ」
「となると、やはりどちらが先にお子を……」
「何。万が一美琳様の方が早くとも」
「おお、そうでした。貴殿はに精通しておりましたな」
「仰る通り。そのときは私にお任せくだされ」
 二人はくつくつと笑う。と、不意に日差しを遮る人影が現れ、彼らは慌てて口をつぐむ。
「ご歓談中のところ失礼致します。大変興味深い話が聞こえてきましたもので……。そのお話、私にもお聞かせ願えますか?」
 その言葉と共に、静端が丁寧な辞儀をする。すると一人がしどろもどろに話す。
「あ、いやいや、女には退屈な話であろう」
「ご心配には及びませんわ。私も薬学・・は少しばかり聞きかじっております故、見聞を広げたいのですが……」
「さ、流石は静端。やはりけいの出は違うな」
 一人が静端にへつらう。と、静端はにこり、と柔和に微笑む。
「お褒めいただきありがとうございます。それで、我が主人がどうしましたか?」
「……!」
 二人は息を呑む。
「た、大した話ではない。ただの美貌の秘訣が薬にあるのではないか、と思ったまでよ」
「そうそう。浮世離れした美しさでございますからな。何か知ることが出来れば妻にも教えたいなどと話して……」
 二人は目配せを交わし、そして静端を見やる。と、
「そうでございましたか……。私共は特別なお世話はしておりませんよ」
 静端が笑顔を貼りつけ、二人をじっと見据えていた。その完璧過ぎる笑みに、二人は鳥肌が立った。
「そ、そろそろ式典が終わりますな」
「あ、ああ。そうですな。では静端殿。我々はこれにて失礼する」
 と言って二人は立ち去ろうと後ろを向いた。が、つと一人が振り返る。
「美琳様のことを話していたことは王には言うでないぞ。横恋慕・・・したなどと思われてはたまらんからな。良いな?」
「……承知致しました」
 静端が頭を下げたのを確認した二人は、今度こそその場を後にするのであった。

 一人残った静端は大きな溜息をく。
(〝やましいことがある〟などと、わざわざ明言して行かなくても良いものを)
 静端は、後宮に戻ろうとしている自分の主人を世話するべく、持ち場に戻るのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

幕末レクイエム―士魂の城よ、散らざる花よ―

馳月基矢
歴史・時代
徳川幕府をやり込めた勢いに乗じ、北進する新政府軍。 新撰組は会津藩と共に、牙を剥く新政府軍を迎え撃つ。 武士の時代、刀の時代は終わりを告げる。 ならば、刀を執る己はどこで滅ぶべきか。 否、ここで滅ぶわけにはいかない。 士魂は花と咲き、決して散らない。 冷徹な戦略眼で時流を見定める新撰組局長、土方歳三。 あやかし狩りの力を持ち、無敵の剣を謳われる斎藤一。 schedule 公開:2019.4.1 連載:2019.4.19-5.1 ( 6:30 & 18:30 )

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

幕末レクイエム―誠心誠意、咲きて散れ―

馳月基矢
歴史・時代
幕末、動乱の京都の治安維持を担った新撰組。 華やかな活躍の時間は、決して長くなかった。 武士の世の終わりは刻々と迫る。 それでもなお刀を手にし続ける。 これは滅びの武士の生き様。 誠心誠意、ただまっすぐに。 結核を病み、あやかしの力を借りる天才剣士、沖田総司。 あやかし狩りの力を持ち、目的を秘めるスパイ、斎藤一。 同い年に生まれた二人の、別々の道。 仇花よ、あでやかに咲き、潔く散れ。 schedule 公開:2019.4.1 連載:2019.4.7-4.18 ( 6:30 & 18:30 )

鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜

八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。

余り侍~喧嘩仲裁稼業~

たい陸
歴史・時代
伊予国の山間にある小津藩は、六万国と小国であった。そこに一人の若い侍が長屋暮らしをしていた。彼の名は伊賀崎余一郎光泰。誰も知らないが、世が世なら、一国一城の主となっていた男だった。酒好き、女好きで働く事は大嫌い。三度の飯より、喧嘩が好きで、好きが高じて、喧嘩仲裁稼業なる片手業で、辛うじて生きている。そんな彼を世の人は、その名前に引っかけて、こう呼んだ。余侍(よざむらい)様と。 第七回歴史・時代小説大賞奨励賞作品

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

織田信長に育てられた、斎藤道三の子~斎藤新五利治~

黒坂 わかな
歴史・時代
信長に臣従した佐藤家の姫・紅茂と、斎藤道三の血を引く新五。 新五は美濃斎藤家を継ぐことになるが、信長の勘気に触れ、二人は窮地に立たされる。やがて明らかになる本能寺の意外な黒幕、二人の行く末はいかに。 信長の美濃攻略から本能寺の変の後までを、紅茂と新五双方の語り口で描いた、戦国の物語。

処理中です...