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余勢を駆る
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数日後。
鈍色の空の下、軍一行は都城に凱旋した。
泥と血で汚れた兵士らは、へとへとになりながらも晴れ晴れとした顔で都城に入る。彼らは皆、自分たちの無事を喜んでくれるだろうと信じて。
しかし待ち受けていたのは、生気の失せた人々だけだった。彼らからは戦いを終えたばかりの彼らを労う様子は皆無であり、それどころか恨みがましい形相ですらあった。
戦の最中に降った雨。それは都城にも訪れていた。市井の人々は久し振りの恵みの雨に喜んだ。これでもう日照りに怯えないで済む。やっと作物が育つ。家族を食わせてやれる。皆の顔に希望が浮かんだ。
だが、雨はただ命を育むだけのものではない。
この年の猛暑が原因で、都城の道端には埋葬しきれない死体が大量に転がされていた。その放置された死体たちは、自然の摂理通り、日に日に腐敗していった。町中では大量の蠅が集り、死臭が噎せ返り、衛生環境が良いとはとても言えない有様だった。その上に雨が降ると、最悪の一語に尽きた。水分を吸った死体は醜く膨らみ、肉は形を保てなくなって崩れ落ちる。肉塊は地面にへばりつき、歩ける場所を奪っていた。
元より人々は死体と共に過ごす日々に辟易していた。だのに、どこを歩いても死肉を踏み荒らさなければいけなくなったのは、苦痛以外の何物でもなかった。しかもこんなときに限って貴重な男手が戦に出ていて、いつ戻るか分からなかったのだ。そんな状況は更に精神を蝕んだ。その上町を荒らしていった雨は、作物にとっては雀の涙程しかなく、荒んだ田畑を改善させることなく去っていったのだった。
あまりにも残酷な所業に人々の心のやり場は完全に失われた。最早人々の心に兵士の帰還を喜んでやれる余裕は無く、彼らは義務的に頭を下げ、無表情で兵士に道を譲る。その姿は不気味としか言いようが無く、兵士たちの高揚した気持ちは見る間に萎んでいった。
戦に向かうときにはあんなにも激励してくれたのに、なんだってこんな。美琳もその変貌振りに戸惑い、きょろきょろと辺りを見回す。すると、お守りを手渡してくれた女性を見つけ、美琳は周りの兵に断りを入れると、女性の元に駆け寄る。
「おばさん! 俺帰ってきたよ!」
美琳はぎこちない笑みながらも明るい声色で女性に話しかける。と、彼女はパッと面を上げて、なんとか声を絞り出す。
「美琳ちゃん……? よく無事で……」
ほろりと女性の目に涙が浮かぶ。その姿に美琳も安堵の溜息を吐きながら、懐を探り出す。
「全然へっちゃらさ。それにほら……ちゃんとお守りも持って帰ってきたんだ」
満面の笑みでお守りを取り出す美琳。それにつられて、女性も笑みを浮かべながらお守りに目を向ける。が、お守りのその先、美琳の姿を見た瞬間、彼女の笑顔は露となって消えた。
美琳の着物は全身血に染まり、ところどころに穴が開いている。穴、ということは、武器を避けたときに出来たはずがない。それは武器に貫かれたことの証左であり、重傷を負ったというのは自明の理だった。
だのに、当の本人は戦の前とまったく同じ姿で目の前にいる。
「それ、は……。美琳ちゃん、なんともないのかい?」
「え? 何が? それよりもお守りを汚しちゃって……ごめんな」
美琳は自身の掌に視線を向ける。そこで初めて、お守りが着物と同じように真っ赤に染まっていることに気付いた。
女性は恐る恐るお守りを手に取る。
「それは……いいんだよ。戦なんて血塗れになるもんなんだから。でも……」
よく見ると、美琳の着物は他のどの兵士よりもボロボロだった。きっと誰よりも戦場を駆け回り、死闘を繰り広げたのだろう。つまり、それだけ敵兵を殺した、ということでもあるはずだった。それなのに、お守りが汚れたことだけを心配している。
女性の体に震えが走る。
戦の前までは、若く、健気で、可愛らしい少年兵だと思っていた。でも……本当にそうなのか? 少年は何か秘密を持っているのではないか?
女性は触れてはいけないものに触れた気がして、まごつきながら美琳にお守りを返した。
「おばさん? どうしたの?」
「いや、なんでもない、なんでもないよ」
「そう? ……そういえば、皆はどうしてこんな……暗い感じなんだ? もしかして王城で何かあった?」
美琳の囁き声は鋭く尖っていた。が、女性はただ静かに首を振るだけだ。
「王城は大丈夫さ……。ただ、皆疲れてんだよ」
「そうか……。なんもないなら良かった」
美琳はホッと息を吐く。その刹那、女性がカッと目を見開く。
「良かないさ! あたしらが大変なときに何もしてくれないなんて、王は一体何考えてるんだッ! あたしらを守るための王って身分だろ、なのに戦なんてして……と、いけない。美琳ちゃんにこんなこと言ってもしょうがないよね」
「……うん、そうだね」
女性の非難の言葉に対し、美琳は生返事であった。そしてどこか遠くを見るようにして考え込む。ぐっと大人びた、真剣な表情で。
「美琳? 何やってんだ?」
「あ……。大尉」
行軍になかなか戻らない美琳を呼び戻しに来たのは勇豪だった。見るからに貴族である勇豪の登場に、女性は慌てて平伏する。一方で、美琳は怯むことなく、淡々とした口調で勇豪と話し始める。
「前にお守りを作ってもらったので、無事に帰ってきたことを話してました」
「お守り? お前にゃ必要ねぇだろ」
「まぁ……。そこはそれでしょ。こういうのは『気持ち』ってのが大事なんでしょう?」
そう言ってお守りを見つめた美琳の顔は、いつもよりもどこか幼く見えた。
「……お前にそんな殊勝な心があったとはな」
「はあ? それくらいは分かるんだけど?」
勇豪が小馬鹿にして言ったので、美琳も思わず噛みついた。その姿には先程の真剣な面持ちも、幼げな表情もなく、いつもと同じ小生意気な美琳でしかなかった。その様子に勇豪は吹き出す。
「ふッ……。悪かった悪かった。ほら、礼が言えたんならもう気が済んだだろ? さっさと隊列に戻れ。兵舎に戻ったらまだまだやることがあンだからな」
「そうだった……。了解です」
勇豪がすたすたと隊列に戻るのを、美琳も追いかけようとした。が、ふと動きを止め、振り返る。
「おばさん!」
女性に振り向いた美琳は、困ったような、照れ臭いような、そんな笑顔で女性に声をかける。平伏し続けていた彼女は、面を上げて少年の言葉を待つ。
「お守りありがとう! あれがあったから戦場でも心強かったんだよ!」
真っ白で丸い頬が薄紅に染まる。どこまでも清らかな輝きで。
それを見た途端、女性は不思議と先程までのもやもやとした気持ちが晴れた気がした。
おそらく戦場で大量の血糊に塗れたのだろう、その頬が。無垢な笑顔を携えて戻ってきた。もしかしたらもう二度と会えないかもしれないと思っていた、その子が。五体満足で帰って来た。
それだけで、充分ではないのか?
女性も顔を綻ばせる。
「美琳ちゃん、また来てね」
「うん! じゃあまたね!」
美琳は駆け足で隊列に戻っていく。
女性は、隊列に戻った少年が王城に姿を消すまで、その後ろ姿を見送り続けた。
鈍色の空の下、軍一行は都城に凱旋した。
泥と血で汚れた兵士らは、へとへとになりながらも晴れ晴れとした顔で都城に入る。彼らは皆、自分たちの無事を喜んでくれるだろうと信じて。
しかし待ち受けていたのは、生気の失せた人々だけだった。彼らからは戦いを終えたばかりの彼らを労う様子は皆無であり、それどころか恨みがましい形相ですらあった。
戦の最中に降った雨。それは都城にも訪れていた。市井の人々は久し振りの恵みの雨に喜んだ。これでもう日照りに怯えないで済む。やっと作物が育つ。家族を食わせてやれる。皆の顔に希望が浮かんだ。
だが、雨はただ命を育むだけのものではない。
この年の猛暑が原因で、都城の道端には埋葬しきれない死体が大量に転がされていた。その放置された死体たちは、自然の摂理通り、日に日に腐敗していった。町中では大量の蠅が集り、死臭が噎せ返り、衛生環境が良いとはとても言えない有様だった。その上に雨が降ると、最悪の一語に尽きた。水分を吸った死体は醜く膨らみ、肉は形を保てなくなって崩れ落ちる。肉塊は地面にへばりつき、歩ける場所を奪っていた。
元より人々は死体と共に過ごす日々に辟易していた。だのに、どこを歩いても死肉を踏み荒らさなければいけなくなったのは、苦痛以外の何物でもなかった。しかもこんなときに限って貴重な男手が戦に出ていて、いつ戻るか分からなかったのだ。そんな状況は更に精神を蝕んだ。その上町を荒らしていった雨は、作物にとっては雀の涙程しかなく、荒んだ田畑を改善させることなく去っていったのだった。
あまりにも残酷な所業に人々の心のやり場は完全に失われた。最早人々の心に兵士の帰還を喜んでやれる余裕は無く、彼らは義務的に頭を下げ、無表情で兵士に道を譲る。その姿は不気味としか言いようが無く、兵士たちの高揚した気持ちは見る間に萎んでいった。
戦に向かうときにはあんなにも激励してくれたのに、なんだってこんな。美琳もその変貌振りに戸惑い、きょろきょろと辺りを見回す。すると、お守りを手渡してくれた女性を見つけ、美琳は周りの兵に断りを入れると、女性の元に駆け寄る。
「おばさん! 俺帰ってきたよ!」
美琳はぎこちない笑みながらも明るい声色で女性に話しかける。と、彼女はパッと面を上げて、なんとか声を絞り出す。
「美琳ちゃん……? よく無事で……」
ほろりと女性の目に涙が浮かぶ。その姿に美琳も安堵の溜息を吐きながら、懐を探り出す。
「全然へっちゃらさ。それにほら……ちゃんとお守りも持って帰ってきたんだ」
満面の笑みでお守りを取り出す美琳。それにつられて、女性も笑みを浮かべながらお守りに目を向ける。が、お守りのその先、美琳の姿を見た瞬間、彼女の笑顔は露となって消えた。
美琳の着物は全身血に染まり、ところどころに穴が開いている。穴、ということは、武器を避けたときに出来たはずがない。それは武器に貫かれたことの証左であり、重傷を負ったというのは自明の理だった。
だのに、当の本人は戦の前とまったく同じ姿で目の前にいる。
「それ、は……。美琳ちゃん、なんともないのかい?」
「え? 何が? それよりもお守りを汚しちゃって……ごめんな」
美琳は自身の掌に視線を向ける。そこで初めて、お守りが着物と同じように真っ赤に染まっていることに気付いた。
女性は恐る恐るお守りを手に取る。
「それは……いいんだよ。戦なんて血塗れになるもんなんだから。でも……」
よく見ると、美琳の着物は他のどの兵士よりもボロボロだった。きっと誰よりも戦場を駆け回り、死闘を繰り広げたのだろう。つまり、それだけ敵兵を殺した、ということでもあるはずだった。それなのに、お守りが汚れたことだけを心配している。
女性の体に震えが走る。
戦の前までは、若く、健気で、可愛らしい少年兵だと思っていた。でも……本当にそうなのか? 少年は何か秘密を持っているのではないか?
女性は触れてはいけないものに触れた気がして、まごつきながら美琳にお守りを返した。
「おばさん? どうしたの?」
「いや、なんでもない、なんでもないよ」
「そう? ……そういえば、皆はどうしてこんな……暗い感じなんだ? もしかして王城で何かあった?」
美琳の囁き声は鋭く尖っていた。が、女性はただ静かに首を振るだけだ。
「王城は大丈夫さ……。ただ、皆疲れてんだよ」
「そうか……。なんもないなら良かった」
美琳はホッと息を吐く。その刹那、女性がカッと目を見開く。
「良かないさ! あたしらが大変なときに何もしてくれないなんて、王は一体何考えてるんだッ! あたしらを守るための王って身分だろ、なのに戦なんてして……と、いけない。美琳ちゃんにこんなこと言ってもしょうがないよね」
「……うん、そうだね」
女性の非難の言葉に対し、美琳は生返事であった。そしてどこか遠くを見るようにして考え込む。ぐっと大人びた、真剣な表情で。
「美琳? 何やってんだ?」
「あ……。大尉」
行軍になかなか戻らない美琳を呼び戻しに来たのは勇豪だった。見るからに貴族である勇豪の登場に、女性は慌てて平伏する。一方で、美琳は怯むことなく、淡々とした口調で勇豪と話し始める。
「前にお守りを作ってもらったので、無事に帰ってきたことを話してました」
「お守り? お前にゃ必要ねぇだろ」
「まぁ……。そこはそれでしょ。こういうのは『気持ち』ってのが大事なんでしょう?」
そう言ってお守りを見つめた美琳の顔は、いつもよりもどこか幼く見えた。
「……お前にそんな殊勝な心があったとはな」
「はあ? それくらいは分かるんだけど?」
勇豪が小馬鹿にして言ったので、美琳も思わず噛みついた。その姿には先程の真剣な面持ちも、幼げな表情もなく、いつもと同じ小生意気な美琳でしかなかった。その様子に勇豪は吹き出す。
「ふッ……。悪かった悪かった。ほら、礼が言えたんならもう気が済んだだろ? さっさと隊列に戻れ。兵舎に戻ったらまだまだやることがあンだからな」
「そうだった……。了解です」
勇豪がすたすたと隊列に戻るのを、美琳も追いかけようとした。が、ふと動きを止め、振り返る。
「おばさん!」
女性に振り向いた美琳は、困ったような、照れ臭いような、そんな笑顔で女性に声をかける。平伏し続けていた彼女は、面を上げて少年の言葉を待つ。
「お守りありがとう! あれがあったから戦場でも心強かったんだよ!」
真っ白で丸い頬が薄紅に染まる。どこまでも清らかな輝きで。
それを見た途端、女性は不思議と先程までのもやもやとした気持ちが晴れた気がした。
おそらく戦場で大量の血糊に塗れたのだろう、その頬が。無垢な笑顔を携えて戻ってきた。もしかしたらもう二度と会えないかもしれないと思っていた、その子が。五体満足で帰って来た。
それだけで、充分ではないのか?
女性も顔を綻ばせる。
「美琳ちゃん、また来てね」
「うん! じゃあまたね!」
美琳は駆け足で隊列に戻っていく。
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