永遠の伴侶

白藤桜空

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余勢を駆る

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 薄闇に覆われた夏空が湿気しけた熱をはらんでいる。
 星々が眠りにくにはまだ早いその刻限、兵舎はすでに起きていた。兵士らは寝惚ねぼまなこをこすりつつ、自室で慌ただしい物音を立てている。皆一様に身支度を整え、バタバタと部屋を出ていく。
 彼らと同じように美琳メイリンも動き出す。
 美琳は敷き布から起き上がると、夏用の着物を脱ぐ。その着物を乱雑に床に放ると、夜の間に乱れた結髪けっぱつを解く。と、濡れ羽色の髪がはらりと背中に落ちた。美琳は胸まで伸びた髪を後頭部に持ち上げると、団子状にい直す。結い直したときに余った布はそのまま後ろに垂らし、簡単には解けない程きつく結べたことを確認すると、支給されたを手に取る。
 普段着より少しばかり上等な麻で織られたそれは、えり元にたっぷりとした余裕がある。美琳は衣に腕を通し、いつもと同じようにくびれのところでダイを結ぶ。そして同じく支給品の襟巻を取り出し、着物の襟に織り込むように巻く。そうすれば敵の武器から首元を守れるのだ。
 上が終われば今度は下だ。すねまである穿き、その上に膝下まである鞋袜シエワーを伸ばして履き、最後にシェイに足を通す。シェイの紐を足首のところでしっかりと結ぶと、美琳は立ち上がる。
 この暑さでこれ程の重ね着はいささか辛いものがある。が、そうも言っていられない場所に行くのだ。普通の・・・兵士には欠かせない物だろう。
「あたしには要らないのになぁ……。邪魔なだけだし」
 そう文句を言いつつ美琳は次の装備に手を伸ばす。
 彼女が掴んだのは一領の革鎧だった。それは分厚い長方形の二枚の革を肩紐で繋いで作ってあり、美琳は頭の上から被って横紐を締める。その手付きはよどみなく流れるようで、その行為が日頃習慣化している者であることが分かった。
 美琳は滞りなくすべての支度を終える。すると、華奢きゃしゃな体に武骨な鎧という不均衡な見てくれになり、その姿は彼女の幼さを際立たせた。
 しかし美琳の顔には闘志がみなぎっていた。その気迫はまさに戦いに向かう軍人のそれであった。
「さぁ、待ちに待った日だわ」

 朝の訪れを告げる太鼓の音と共に、軍は王城を出発した。
 彼らは物資を積んだ荷車と、貴族を運ぶ馬車を伴って都城とじょうの外に向かって歩んでいく。そして進んでいく先々で朝の支度をしていた民衆が手を止めて、沿道えんどうひざまずいていく。
 市井の人々は、夜が明けたばかりとは思えぬきつい射しの中、長い行軍が過ぎ去るのをただじっと待つ。
 そんな彼らの横にはおびただしい量の死体が腐敗して転がっている。大通りには鼻を突く臭いが充満していて、門出を祝う雰囲気とはお世辞にも言えなかった。
「……ったく、なんだってお偉いさん連中はこんな大変なときに戦を始めようとすんのかね」
「ちょっとアンタ! ……聞こえたらどうすんだい。そんな滅多なことを言うもんじゃないよ」
 一人の男が妻とおぼしき女にひそひそと囁き、それを女がたしなめる。だが男の言葉は止まらない。
「つってもよう、みんな思ってることは一緒だろ? そんなことしてる暇あったらこの有様をなんとかしてほしいじゃねぇか、なぁ?」
 と言って、男は顔を伏せたまま目の前の行進をめつける。その言に女はまごつく。
「そうだけどさ……」
「ただでさえ死人が多くて人手が足りねぇってのに、片付けてくれる兵士を持ってかれるなんてたまったもんじゃねぇよ。せめてちゃっちゃと終わってくれりゃいいんだが」
「そればかりは祈るしかないよ。……おや?」
 二人が愚痴を零していると、この数か月ですっかり見慣れた姿が視界に入った。
「あれ美琳ちゃんじゃないかい?」
「ん?」
 女の言葉に男は顔を上げる。
「あぁ、本当だ、美琳ちゃんだ」
 美琳を見やる男の隣で、女は痛ましい表情になる。
「あんな細っこい体で戦に向かうだなんて……。強いのは知っちゃいるけど、なんだかやるせないねぇ」
「……あんな優しい子がおれたちのために戦って来てくれるんだよな」
 男はまぶしそうに目を細める。と、女が彼の肩にそっと手を添える。
「あたしらも頑張んないとだよ? アンタ」
「そうだな……。おれらだけでもなんとか踏ん張ってみるか」
 気付けば二人の目には明るい兆しがあった。そしてそれは二人だけに留まらない。
 市井の人々は鎧が不似合いな少年の姿に憐憫れんびんの情を禁じえなかった。同時に、自分たちも自分たちなりに生活を守っていこうと奮い立った。
 死んだ魚のような目だった彼らは次第に息を吹き返す。このひとときだけは、死臭にまみれた現状を忘れた。
 誰かが声を上げる。兵士らを……いや、少年を鼓舞する声だ。声援の波紋はあっという間に都城に広がっていく。
 沈鬱な空気は拭い去られ、隊列を組んでいる兵士たちもやる気に満ちた顔になる。活気の中心である美琳も、闘気に満ちた表情の上にうっすらと喜色を浮かばせた。
 そうして軍は勇ましく旅立っていった。

 軍は都城を離れると河沿いをひたすらに進む。
 太陽が東から西に座り直すまで歩き続けると、二つの山に挟まれた広大な平野に辿り着く。
「止まれ! 今日はここに天幕を張る!」
 そう下知したのは二十代半ばを過ぎた小太りの男だった。
 この男の名は子佑ジヨウと言った。王族の分家筋にあたる貴族であり、先代の庶子である文生ウェンシェンがいなければ王を継ぐはずの男であった。
 馬車の上で不満気に座っていた彼に浩源ハオヤンが声をかける。
「子佑殿。こちらにて明日の手筈を相談致しましょう」
「うむ」
 と返事をした子佑は、重たそうな体を持ち上げて馬車を降りる。
 子佑は兵士らが木陰に手早く整えた天幕に向かう。中に入ると、刺繍の施された布が一枚だけ用意されており、その敷き布以外はき出しの地面であった。
「まったく。この暑さはたまらん」
 子佑はぶつくさと文句を言いながら、躊躇ためらうことなく敷き布に腰を下ろす。
「そうですね。兵士らの体力が持つかどうか……」
 と浩源は返しつつ、子佑から少し離れた地べたに座る。すると子佑が吐き捨てるように言う。
「ふん、これだけ連れて来たんだ。少しくらい減ったところで構わん」
 浩源は一寸固まる。直後、仄暗い目で微笑んだ。
「そうですね。子佑殿がいらっしゃるのですから、兵士らが減ったところで支障はほとんどないでしょう」
 冷徹な言葉。されどその裏には嘘の色が見え隠れしていた。が、子佑はそれに気付かない。天幕の入口を見ながら浩源に訊ねる。
「そんなことより。大尉はまだか? あやつがおらんと軍略を話せんだろう」
 その言葉に浩源は眉根を寄せる。
「私たちである程度決めておく、ということになっているのですが……」
「何? そんなもん意味がなかろう。少尉のお前がまともな戦略なんて考えられる訳がないんだから」
 憤慨ふんがいする子佑。一方で浩源の表情からは一切の感情が消え失せる。
「……大尉はもう少しでいらっしゃると思いますよ」
「それを早く言え。まったくこれだから下級貴族は「失礼」
 不意に勇豪ヨンハオが天幕に入ってきた。勇豪は呑気な声で二人に聞く。
「結構進んだか?」
 すると子佑が両手を広げながら笑みを浮かべる。
「おお、大尉。やっと来たか。お主がいないで何を話すと言うのか。まだ何も決めてないから安心するが良い」
「いやいや、俺ッ……私抜きで進めてくれて良かったんですよ。戦略に関しては浩源がいれば十分でし、私なぞ気にせンで……」
「ははは! またまた、謙遜するでないぞ、勇豪殿。先の戦で〝*棕熊ヒグマ〟とまで言われた、我らシュウ国切っての英雄が何を言うか。貴族でお主に憧れぬ者はおらんのだぞ?」
「滅相もない」
 そう話しつつ、勇豪は浩源をのぞき見る。と、そこには冷めきった顔の浩源がいた。勇豪は浩源から目を逸らし、ぎこちなく笑う。
「あぁ、はは……では、色々と決めていきますかね」
「お主の手際、楽しみにしているぞ?」
 子佑は愉快そうに勇豪を手招きする。
 勇豪は狭い天幕の中を動きにくそうにしながら移動して、浩源の隣に胡坐あぐらをかいて座る。そしてぼそりと浩源に呟く。
(相手してもらってすまんな)
 すると浩源も小声でささやく。
(いえ。これくらい大丈夫ですよ)
 浩源は夏の暑さを忘れさせる笑みで答える。
 勇豪の口角が一瞬ヒクついた。が、すぐに真剣な表情で二人に向き合う。
「さて、明日の布陣から話すか」
 そうして三人は木簡もっかんと地図を記した布を囲むのであった。
 ――いよいよ戦が始まろうとしていた。






 *棕熊ヒグマ…中国語でヒグマを表す漢字。
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