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山雨来らんと欲して、風、楼に満つ
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ぽつり、と、新しい王を運ぶ馬車に雨粒が当たる。次第に雨足は強まっていき、地面がぬかるんでいく。馬車にとって舗装されていない畦道は天敵である。馬たちは重そうにしながらもなんとか進もうと懸命に引いた。が、その努力も虚しく車輪が泥に絡まって動けなくなる。どうにもいかなくなった王国兵一行は、野営せざるを得なくなった。
勇豪は文生を馬車から降ろし、木々を利用して設営された彼専用の天幕を指し示す。
「文生様、こっちに来ッ……こちらにどうぞ」
つっかえながら話す勇豪に、文生は躊躇いがちに話す。
「……あの、ずっと気になってたんですけど……。普段通りの話し方で大丈夫ですよ?」
「む、いや、そういう訳にはいかん……あ、や、そういう訳にはいきません。貴方は王なんですから。それに俺ッ、私のようなのにそんな風に話さなくていいんです」
巨体を縮こまらせながら言う勇豪は、言葉を覚えたての子供のようだった。その容姿と言動のちぐはぐな姿に、文生は笑いを堪え切れなかった。
「……フフッ、勇豪さん全然出来てないじゃないですか」
肩を震わせる文生に、勇豪は口角を歪ませる。それすらも文生には可笑しくて、なかなか笑いが治まらなかった。が、少し落ち着くと、勇豪を仰ぎながら言う。
「あの、僕も王城に着いたら気を付けるので、それまでの間は普段通り話してくれませんか?」
「! いやそれは……」
勇豪は拒もうとした。だが文生の顔を見た途端、口を噤むしかなかった。
文生の瞳には、怒りと、憎しみと、そして寂しさがない混ぜになっている。それもそうだろう。育ての親の老婆を殺そうとした人間をたった一日で許せるはずもない。結果的には特異な能力の少女のおかげで老婆の死は免れた。しかしもう二度と会えないのは死別に近い。その上婚約者を村に置いてきたのも身を引き裂かれる思いだろう。
そんな青年の複雑な気持ちに、勇豪は同情を禁じ得なかった。
ただでさえ心の整理がついていないのに、堅苦しい空気が加われば息も詰まるだろう。たとえ憎い相手でも縋りたくなる程に。
勇豪は逡巡する。まだ年若い君主の要求に従うのか、家臣として礼節を守り通すのか。どちらが彼のためになるのか。
しばしの間、二人の間に沈黙が下りた。が、最終的には勇豪が根負けした。
「はぁ。王の命令だもんな……分かった。他の奴らがいないときだけ普段通りで話すさ」
文生は勇豪の気遣いにほっと一息吐く。
「ありがとうございます。こんな、いきなり誰もが他人行儀なのが辛くて……それに勇豪さん。そんなこと言ってますけど、昨日はずっと荒っぽい言葉でしたよ?」
「え……? 嘘だろ?」
勇豪の愕然とした顔に文生は再び笑い声を上げる。しかしその表情から寂しさが吹き飛ばされることはなかった。
そんなやりとりを二人がしていたら、外の兵士が天幕の外から声をかけてきた。
「大尉、少しお時間宜しいでしょうか」
「む? どうした? ……文生様、このまま休んでも大丈夫ですので」
そう言い置いて出ていく勇豪。一人残された文生は、布に当たる雨音を静かに聞いていた。
まだすべてを受け入れられた訳ではなかった。だが変えられないものはどうしようもない。そう思い込まないと、感情がはち切れそうだった。
森に残した二人が無事に過ごしてくれれば、それで良い。婆様を殺されずに済んだだけ良かったのだから。
これからの苦労は一人で乗り越えなければ。たとえどんなに苦しくても。
座り込んで思考の海に沈んでいた文生。ふと、雨音以外の音――何人かが言い争う声が聞こえてきた。そしてその中に聞き馴染みのある声が混ざっていた。
まさか、と文生は思い立ち上がった、その瞬間。勢い良く天幕が捲られる。と同時に、びしょ濡れになった何かが飛び込んできた。
「文生! あたしも連れてって!」
「美琳⁈」
予想通り、その声の正体は美琳だった。
美琳に押し倒された文生は、臀部に痛みが走った。されど文生はそんな素振りは微塵も表さずに、顔を綻ばせる。
「どうしてここに? 婆様は?」
と、文生が尋ねると、美琳はぎこちない表情で答える。
「あ、ああ、婆様は……〝儂は一人でも大丈夫だからあんたは好きなようにしたらいい〟って言ってくれたのよ」
その言葉に文生はますます笑みを深める。
「そうなの? なら、これからも一緒ってこと?」
「うん!」
美琳が嬉々として答える。と、二人を切り裂くような怒声が響き渡る。
「〝うん!〟じゃ、ねぇよ! お前のような身分が行ける訳ねぇだろうが!」
「……? きゃあ!」
悲鳴を上げた美琳。彼女は怒りを露わにした勇豪によって文生から引き剥がされていた。
「何するのッ! 離してよッ!」
猫の首を摘まむように襟で持ち上げられた美琳はじたばたと暴れて抗議する。それに併せて文生も勇豪を止めに掛かる。
「勇豪さん! 離してあげてくださ……「駄目だ駄目だ!」
勇豪の大きな怒鳴り声が文生の小さな声を遮る。
「離したらまたその汚ぇ格好で飛びつくだろうが! それにお前、あんな啖呵切っておいてよく母親を残して来れたな!」
その声に文生は怯む。が、美琳は臆さずに食って掛かる。
「あたしは文生に聞いてるの! 邪魔しないでよ!」
その直後、文生に向き直って甘えたように話す。
「婆様はあたしの意思を尊重してくれたのよ。それに、婆様だって離れる覚悟が出来てたことと、心配なことは別だったと思うわ。ね、文生。あたしも一緒に行っていいでしょう?」
そこでふと美琳は思い出したように言う。
「でもただ付いて行くんじゃお荷物だものね。文生のためならどんなお仕事でもするわ」
怒涛の勢いで話し続ける美琳に、勇豪は怒りを募らせる。
「おい、文生様にこれ以上舐めた口をきくんじゃねぇ。たとえ婚約者だったとしても、もうお前らが結婚することはねぇんだ。止めないなら打く……ッ!」
そこまで言いかけて勇豪は舌打ちする。
本来なら王に対してこんな不敬は許されないし、打首にされてもおかしくない。だが美琳を殺すことは不可能だ。それはたった二日で実感している。
勇豪がこのじゃじゃ馬をどうしたもんかと考え込んでいる隙に、美琳は勇豪の手を振り解き、文生の隣に座る。
「文生だってあたしがいないと寂しいでしょ? そりゃ、婆様が死んだことにするのに文生たちには先に出発してもらったし、あたしだって婆様と一緒に過ごそうと思ってたのよ?」
文生と美琳はまっすぐに見つめ合う。
「でも……文生と離れるなんて想像しただけで……」
美琳の目に大粒の涙が浮かぶ。
「それがずっと続くなんて耐えられない! ねぇ、お願いだから……」
そんな婚約者の必死の頼みを文生が断れる訳なかった。
文生は勇豪を見上げて哀願する。
「勇豪さん、僕からもお願いします。どうにか美琳を連れて行くことは出来ないでしょうか?」
「う……。文生様にまで言われると……。ううむ」
流石の勇豪も、文生に懇願されると頭を抱えるしかなかった。
あともうひと押し、と感じた文生は最後の手段に出る。
「美琳を連れて行かないなら、僕も王城に行かないです。村に帰って〝王族だったのは間違いだった〟って皆に説明します」
「なッ! そんな馬鹿な話が……!」
勇豪は思わず出た怒声を慌てて噤む。
文生にそんなことをされたら、正統な王位継承が途絶えるばかりか、村伝に国への不信感が広まるかもしれない。けれど美琳を王城で働かせるのは難しい。王城での女の仕事場と言えば後宮だ。だがそこに勤めていいのは、貴族の娘か、汚れ仕事をさせる奴隷だけだ。勿論美琳を奴隷にすれば問題はない。だがこの様子では文生が異を唱えるだろう。かと言って*庶人が働く異例を作ると後が面倒なことになるのは必定であった。
勇豪は期待の込められた二つの眼差しで見つめられながら、どうしたものかと考えを巡らせた。すると不意に、別の異例なら作れる場所に気付く。自分の監視下における、一石二鳥の職場を。
「おい、お前、なんでもすンだよな?」
「もちろんよ。文生の役に立てて、王城に関われる仕事ならなんでもするわ」
「そうか、なら……」
勇豪はじっと美琳を見据え、口を開く。
「軍に入れ」
*庶人…農民のことを指す。商・職人と庶人は別の身分で、庶人の方が身分は上。
勇豪は文生を馬車から降ろし、木々を利用して設営された彼専用の天幕を指し示す。
「文生様、こっちに来ッ……こちらにどうぞ」
つっかえながら話す勇豪に、文生は躊躇いがちに話す。
「……あの、ずっと気になってたんですけど……。普段通りの話し方で大丈夫ですよ?」
「む、いや、そういう訳にはいかん……あ、や、そういう訳にはいきません。貴方は王なんですから。それに俺ッ、私のようなのにそんな風に話さなくていいんです」
巨体を縮こまらせながら言う勇豪は、言葉を覚えたての子供のようだった。その容姿と言動のちぐはぐな姿に、文生は笑いを堪え切れなかった。
「……フフッ、勇豪さん全然出来てないじゃないですか」
肩を震わせる文生に、勇豪は口角を歪ませる。それすらも文生には可笑しくて、なかなか笑いが治まらなかった。が、少し落ち着くと、勇豪を仰ぎながら言う。
「あの、僕も王城に着いたら気を付けるので、それまでの間は普段通り話してくれませんか?」
「! いやそれは……」
勇豪は拒もうとした。だが文生の顔を見た途端、口を噤むしかなかった。
文生の瞳には、怒りと、憎しみと、そして寂しさがない混ぜになっている。それもそうだろう。育ての親の老婆を殺そうとした人間をたった一日で許せるはずもない。結果的には特異な能力の少女のおかげで老婆の死は免れた。しかしもう二度と会えないのは死別に近い。その上婚約者を村に置いてきたのも身を引き裂かれる思いだろう。
そんな青年の複雑な気持ちに、勇豪は同情を禁じ得なかった。
ただでさえ心の整理がついていないのに、堅苦しい空気が加われば息も詰まるだろう。たとえ憎い相手でも縋りたくなる程に。
勇豪は逡巡する。まだ年若い君主の要求に従うのか、家臣として礼節を守り通すのか。どちらが彼のためになるのか。
しばしの間、二人の間に沈黙が下りた。が、最終的には勇豪が根負けした。
「はぁ。王の命令だもんな……分かった。他の奴らがいないときだけ普段通りで話すさ」
文生は勇豪の気遣いにほっと一息吐く。
「ありがとうございます。こんな、いきなり誰もが他人行儀なのが辛くて……それに勇豪さん。そんなこと言ってますけど、昨日はずっと荒っぽい言葉でしたよ?」
「え……? 嘘だろ?」
勇豪の愕然とした顔に文生は再び笑い声を上げる。しかしその表情から寂しさが吹き飛ばされることはなかった。
そんなやりとりを二人がしていたら、外の兵士が天幕の外から声をかけてきた。
「大尉、少しお時間宜しいでしょうか」
「む? どうした? ……文生様、このまま休んでも大丈夫ですので」
そう言い置いて出ていく勇豪。一人残された文生は、布に当たる雨音を静かに聞いていた。
まだすべてを受け入れられた訳ではなかった。だが変えられないものはどうしようもない。そう思い込まないと、感情がはち切れそうだった。
森に残した二人が無事に過ごしてくれれば、それで良い。婆様を殺されずに済んだだけ良かったのだから。
これからの苦労は一人で乗り越えなければ。たとえどんなに苦しくても。
座り込んで思考の海に沈んでいた文生。ふと、雨音以外の音――何人かが言い争う声が聞こえてきた。そしてその中に聞き馴染みのある声が混ざっていた。
まさか、と文生は思い立ち上がった、その瞬間。勢い良く天幕が捲られる。と同時に、びしょ濡れになった何かが飛び込んできた。
「文生! あたしも連れてって!」
「美琳⁈」
予想通り、その声の正体は美琳だった。
美琳に押し倒された文生は、臀部に痛みが走った。されど文生はそんな素振りは微塵も表さずに、顔を綻ばせる。
「どうしてここに? 婆様は?」
と、文生が尋ねると、美琳はぎこちない表情で答える。
「あ、ああ、婆様は……〝儂は一人でも大丈夫だからあんたは好きなようにしたらいい〟って言ってくれたのよ」
その言葉に文生はますます笑みを深める。
「そうなの? なら、これからも一緒ってこと?」
「うん!」
美琳が嬉々として答える。と、二人を切り裂くような怒声が響き渡る。
「〝うん!〟じゃ、ねぇよ! お前のような身分が行ける訳ねぇだろうが!」
「……? きゃあ!」
悲鳴を上げた美琳。彼女は怒りを露わにした勇豪によって文生から引き剥がされていた。
「何するのッ! 離してよッ!」
猫の首を摘まむように襟で持ち上げられた美琳はじたばたと暴れて抗議する。それに併せて文生も勇豪を止めに掛かる。
「勇豪さん! 離してあげてくださ……「駄目だ駄目だ!」
勇豪の大きな怒鳴り声が文生の小さな声を遮る。
「離したらまたその汚ぇ格好で飛びつくだろうが! それにお前、あんな啖呵切っておいてよく母親を残して来れたな!」
その声に文生は怯む。が、美琳は臆さずに食って掛かる。
「あたしは文生に聞いてるの! 邪魔しないでよ!」
その直後、文生に向き直って甘えたように話す。
「婆様はあたしの意思を尊重してくれたのよ。それに、婆様だって離れる覚悟が出来てたことと、心配なことは別だったと思うわ。ね、文生。あたしも一緒に行っていいでしょう?」
そこでふと美琳は思い出したように言う。
「でもただ付いて行くんじゃお荷物だものね。文生のためならどんなお仕事でもするわ」
怒涛の勢いで話し続ける美琳に、勇豪は怒りを募らせる。
「おい、文生様にこれ以上舐めた口をきくんじゃねぇ。たとえ婚約者だったとしても、もうお前らが結婚することはねぇんだ。止めないなら打く……ッ!」
そこまで言いかけて勇豪は舌打ちする。
本来なら王に対してこんな不敬は許されないし、打首にされてもおかしくない。だが美琳を殺すことは不可能だ。それはたった二日で実感している。
勇豪がこのじゃじゃ馬をどうしたもんかと考え込んでいる隙に、美琳は勇豪の手を振り解き、文生の隣に座る。
「文生だってあたしがいないと寂しいでしょ? そりゃ、婆様が死んだことにするのに文生たちには先に出発してもらったし、あたしだって婆様と一緒に過ごそうと思ってたのよ?」
文生と美琳はまっすぐに見つめ合う。
「でも……文生と離れるなんて想像しただけで……」
美琳の目に大粒の涙が浮かぶ。
「それがずっと続くなんて耐えられない! ねぇ、お願いだから……」
そんな婚約者の必死の頼みを文生が断れる訳なかった。
文生は勇豪を見上げて哀願する。
「勇豪さん、僕からもお願いします。どうにか美琳を連れて行くことは出来ないでしょうか?」
「う……。文生様にまで言われると……。ううむ」
流石の勇豪も、文生に懇願されると頭を抱えるしかなかった。
あともうひと押し、と感じた文生は最後の手段に出る。
「美琳を連れて行かないなら、僕も王城に行かないです。村に帰って〝王族だったのは間違いだった〟って皆に説明します」
「なッ! そんな馬鹿な話が……!」
勇豪は思わず出た怒声を慌てて噤む。
文生にそんなことをされたら、正統な王位継承が途絶えるばかりか、村伝に国への不信感が広まるかもしれない。けれど美琳を王城で働かせるのは難しい。王城での女の仕事場と言えば後宮だ。だがそこに勤めていいのは、貴族の娘か、汚れ仕事をさせる奴隷だけだ。勿論美琳を奴隷にすれば問題はない。だがこの様子では文生が異を唱えるだろう。かと言って*庶人が働く異例を作ると後が面倒なことになるのは必定であった。
勇豪は期待の込められた二つの眼差しで見つめられながら、どうしたものかと考えを巡らせた。すると不意に、別の異例なら作れる場所に気付く。自分の監視下における、一石二鳥の職場を。
「おい、お前、なんでもすンだよな?」
「もちろんよ。文生の役に立てて、王城に関われる仕事ならなんでもするわ」
「そうか、なら……」
勇豪はじっと美琳を見据え、口を開く。
「軍に入れ」
*庶人…農民のことを指す。商・職人と庶人は別の身分で、庶人の方が身分は上。
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