蝶々

夢咲芽愛

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第1話

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 私が初めて蝶を食べたのは、10歳の頃だった。齢が10になる日に蝶を食べ、手に付いた鱗粉すら残らず舐めとる。これは、私の生まれた村に伝わる、守らなければならないの一つ掟だった。

 蝶が好きだった私はそれを拒んだ。春以外でも蝶が見られるこの村では、季節など関係なく、誕生日が来たら蝶が宴の食卓に並ぶ。小さな村の広場に焚かれたキャンプファイヤーのような火を囲み、老若男女がそこに集まっては、村の子供の誕生日を祝うのだ。
 その日は、私の誕生日だった。何人もの人間が私に祝いの言葉を送り、また何人かの人間は、言葉と共に贈り物をくれる。両親、祖父母、近所のおばちゃん、親戚のお兄ちゃん。彼らがくれた贈り物は、世間的に見ても一般的な物だろう。キラキラと輝く宝石を模した作り物の石ころやアクセサリー、かわいらしいお人形さん。
 ひとしきり祝いの言葉と品を貰い、自分の椅子の前に戻る。私は今でも、そこに並んでいた青い羽をもつ蝶の姿を忘れることができない。
 高級料亭で見られるような鉄のお椀を被せられた白亜の皿。その鉄色のお椀を取り去れば、皿の上にちんまりと、青い羽をした美しい蝶が止まっている。
 いつかこの日が来ることはわかっていた。宵の宴の雰囲気の中、中央の炎とは対照的な綺麗な青色。
「さあ、その蝶を食べなさい」
 父が声を上げると、村のみんながこぞってごちゃごちゃとした声を上げる。その声が何を語っているのかを私の頭が処理することはない。ただ目の前の蝶が飛び去ることなく私を見詰めていることに、思わず泣きそうになった。
「その子を食べなければ、お前は今夜、化物に襲われてしまう」
 躊躇っている私の姿を見た老人が、穏やかにそんなことを言った。
 蝶は相変わらず私を見詰めて、飛び去る気配すらない。まるで、私に捕食されるために生まれてきたかのような、哀愁すら感じるたたずまいだった。
「本当にこの子を食べないといけないの?」
 私はその老人に問うた。好々爺のようににっこりと笑った老人は、表情とは対照的に感情を感じない冷徹な声で「それがこの村の掟だ」とだけ言った。
 箸すら置かれていない机を前に、私は蝶の羽を掴んだ。真っ黒な瞳が、夜だというのにはっきりと見える。それが妙に潤んでいるように見えて、一度だけ、ぎゅっと目を瞑った。
 再び目を開くと、蝶の足が眼前で何か捕まるところを探しているみたいに、こちょこちょと動いているのが見えた。
「早く食べなさい。日付が変わるまでに飲み込めなければ、この村ごと影に呑まれてしまう」
 老人が語気を強めてそんなことを言った。私は意を決して、蝶を口に近づけた。
 ごめんねと言いたかったが、その気持ちは、舌の上に引っ付いた蝶の足によって言葉になる前に霧散した。もはや目を瞑る必要はなかった。口で息をすれば鱗粉が喉に張り付き、何もしなくても、蝶がばたばたと暴れる感触が如実に感じられる。
 吐き出したかった。だが、口に入ってしまったものを吐き出す勇気は、私にはなかった。村のため、人のため、自分のため。必死に、自分の中で言い訳を探す。
 この蝶を食べなければならない理由。自分を納得させられるほどの何かを、だ。
 だが、それが見つかるよりも先に、「早く飲み込め」という老人の怒鳴り声が耳に入った。
 もう何も思うまいと、私は一息に口の中で蠢いている蝶をかみ砕いた。
 一噛みでは、蝶の動きは収まらない。命の危険を感じたからか、その動きが一層強まるだけだった。どこかを噛まれたような痛みが走って、反射的にもう一度噛む。二噛み目には、その動きはずいぶん弱まっていた。不思議と味はせず、虫特有の独特な触感と粘ついた体液がまとわりつく感覚もない。私は最後にもう一度だけ蝶を噛み、目の前に置かれたコップに注がれた水に口を付け、一気に流し込んだ。
 蝶の死骸が食道を通っていくのを感じた。吐き気に耐えながら胃に到達するのを待って、もう一度水を流し込む。
「誕生日おめでとう、アカネ」
 老人が私にそんなことを言った。その時にやっと気づいたが、私の目には、大粒の涙が浮かんでいた。だが私は、それを意地でもこぼさなかった。私には泣く資格などない。噛み潰された蝶の前足が奥歯の詰まっている。
 それから10年が経った。私が再びこの村を訪れると、記憶にあるあの村は、既に廃村と化していた。
 蝶を食べなければ影に呑まれる。
 老人の言葉が脳裏に浮かんだ。あの日蝶を食べてから、丁度10年が経った。
 記憶を頼りに、再びあのキャンプファイヤーのような火が置かれた中央の広場に向かった。酷く炭化した木と、白茶けた草が転がる。あたりには廃墟が立ち並び、この村の規模感が、当時自分が思っていたよりも大きかったのだと気づく。
 私は、残されたあの机にコップを置いて、ゆっくりと水を注いだ。
 今も、胃の中には蝶がいる。そんな感覚が止んだことはない。注がれた水を一息に飲み干して、立ち上がる。ふと振り返ると、木の柵の上に、あの日私が口にしたものと同じような、青い羽を持つ綺麗な蝶が止まっていた。
 近付いても飛ぶ気はないようで、指を差し出すと、ちらちらと歩き、私の指を止まり木として羽をたたんだ。
 これは、あの日の贖罪だ。私は自分にそう言い聞かせて、その蝶を空に飛ばした。
 この村は影に呑まれるのだろうか。それとも、既に廃村になっている場合は、その限りではないのだろうか。飛び去る蝶を眺めながらそんなことを思った。
 ふとどこかで、少女の悲鳴のような声が聞こえたような気がした。
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