1 / 1
第1話
しおりを挟む
私が初めて蝶を食べたのは、10歳の頃だった。齢が10になる日に蝶を食べ、手に付いた鱗粉すら残らず舐めとる。これは、私の生まれた村に伝わる、守らなければならないの一つ掟だった。
蝶が好きだった私はそれを拒んだ。春以外でも蝶が見られるこの村では、季節など関係なく、誕生日が来たら蝶が宴の食卓に並ぶ。小さな村の広場に焚かれたキャンプファイヤーのような火を囲み、老若男女がそこに集まっては、村の子供の誕生日を祝うのだ。
その日は、私の誕生日だった。何人もの人間が私に祝いの言葉を送り、また何人かの人間は、言葉と共に贈り物をくれる。両親、祖父母、近所のおばちゃん、親戚のお兄ちゃん。彼らがくれた贈り物は、世間的に見ても一般的な物だろう。キラキラと輝く宝石を模した作り物の石ころやアクセサリー、かわいらしいお人形さん。
ひとしきり祝いの言葉と品を貰い、自分の椅子の前に戻る。私は今でも、そこに並んでいた青い羽をもつ蝶の姿を忘れることができない。
高級料亭で見られるような鉄のお椀を被せられた白亜の皿。その鉄色のお椀を取り去れば、皿の上にちんまりと、青い羽をした美しい蝶が止まっている。
いつかこの日が来ることはわかっていた。宵の宴の雰囲気の中、中央の炎とは対照的な綺麗な青色。
「さあ、その蝶を食べなさい」
父が声を上げると、村のみんながこぞってごちゃごちゃとした声を上げる。その声が何を語っているのかを私の頭が処理することはない。ただ目の前の蝶が飛び去ることなく私を見詰めていることに、思わず泣きそうになった。
「その子を食べなければ、お前は今夜、化物に襲われてしまう」
躊躇っている私の姿を見た老人が、穏やかにそんなことを言った。
蝶は相変わらず私を見詰めて、飛び去る気配すらない。まるで、私に捕食されるために生まれてきたかのような、哀愁すら感じるたたずまいだった。
「本当にこの子を食べないといけないの?」
私はその老人に問うた。好々爺のようににっこりと笑った老人は、表情とは対照的に感情を感じない冷徹な声で「それがこの村の掟だ」とだけ言った。
箸すら置かれていない机を前に、私は蝶の羽を掴んだ。真っ黒な瞳が、夜だというのにはっきりと見える。それが妙に潤んでいるように見えて、一度だけ、ぎゅっと目を瞑った。
再び目を開くと、蝶の足が眼前で何か捕まるところを探しているみたいに、こちょこちょと動いているのが見えた。
「早く食べなさい。日付が変わるまでに飲み込めなければ、この村ごと影に呑まれてしまう」
老人が語気を強めてそんなことを言った。私は意を決して、蝶を口に近づけた。
ごめんねと言いたかったが、その気持ちは、舌の上に引っ付いた蝶の足によって言葉になる前に霧散した。もはや目を瞑る必要はなかった。口で息をすれば鱗粉が喉に張り付き、何もしなくても、蝶がばたばたと暴れる感触が如実に感じられる。
吐き出したかった。だが、口に入ってしまったものを吐き出す勇気は、私にはなかった。村のため、人のため、自分のため。必死に、自分の中で言い訳を探す。
この蝶を食べなければならない理由。自分を納得させられるほどの何かを、だ。
だが、それが見つかるよりも先に、「早く飲み込め」という老人の怒鳴り声が耳に入った。
もう何も思うまいと、私は一息に口の中で蠢いている蝶をかみ砕いた。
一噛みでは、蝶の動きは収まらない。命の危険を感じたからか、その動きが一層強まるだけだった。どこかを噛まれたような痛みが走って、反射的にもう一度噛む。二噛み目には、その動きはずいぶん弱まっていた。不思議と味はせず、虫特有の独特な触感と粘ついた体液がまとわりつく感覚もない。私は最後にもう一度だけ蝶を噛み、目の前に置かれたコップに注がれた水に口を付け、一気に流し込んだ。
蝶の死骸が食道を通っていくのを感じた。吐き気に耐えながら胃に到達するのを待って、もう一度水を流し込む。
「誕生日おめでとう、アカネ」
老人が私にそんなことを言った。その時にやっと気づいたが、私の目には、大粒の涙が浮かんでいた。だが私は、それを意地でもこぼさなかった。私には泣く資格などない。噛み潰された蝶の前足が奥歯の詰まっている。
それから10年が経った。私が再びこの村を訪れると、記憶にあるあの村は、既に廃村と化していた。
蝶を食べなければ影に呑まれる。
老人の言葉が脳裏に浮かんだ。あの日蝶を食べてから、丁度10年が経った。
記憶を頼りに、再びあのキャンプファイヤーのような火が置かれた中央の広場に向かった。酷く炭化した木と、白茶けた草が転がる。あたりには廃墟が立ち並び、この村の規模感が、当時自分が思っていたよりも大きかったのだと気づく。
私は、残されたあの机にコップを置いて、ゆっくりと水を注いだ。
今も、胃の中には蝶がいる。そんな感覚が止んだことはない。注がれた水を一息に飲み干して、立ち上がる。ふと振り返ると、木の柵の上に、あの日私が口にしたものと同じような、青い羽を持つ綺麗な蝶が止まっていた。
近付いても飛ぶ気はないようで、指を差し出すと、ちらちらと歩き、私の指を止まり木として羽をたたんだ。
これは、あの日の贖罪だ。私は自分にそう言い聞かせて、その蝶を空に飛ばした。
この村は影に呑まれるのだろうか。それとも、既に廃村になっている場合は、その限りではないのだろうか。飛び去る蝶を眺めながらそんなことを思った。
ふとどこかで、少女の悲鳴のような声が聞こえたような気がした。
蝶が好きだった私はそれを拒んだ。春以外でも蝶が見られるこの村では、季節など関係なく、誕生日が来たら蝶が宴の食卓に並ぶ。小さな村の広場に焚かれたキャンプファイヤーのような火を囲み、老若男女がそこに集まっては、村の子供の誕生日を祝うのだ。
その日は、私の誕生日だった。何人もの人間が私に祝いの言葉を送り、また何人かの人間は、言葉と共に贈り物をくれる。両親、祖父母、近所のおばちゃん、親戚のお兄ちゃん。彼らがくれた贈り物は、世間的に見ても一般的な物だろう。キラキラと輝く宝石を模した作り物の石ころやアクセサリー、かわいらしいお人形さん。
ひとしきり祝いの言葉と品を貰い、自分の椅子の前に戻る。私は今でも、そこに並んでいた青い羽をもつ蝶の姿を忘れることができない。
高級料亭で見られるような鉄のお椀を被せられた白亜の皿。その鉄色のお椀を取り去れば、皿の上にちんまりと、青い羽をした美しい蝶が止まっている。
いつかこの日が来ることはわかっていた。宵の宴の雰囲気の中、中央の炎とは対照的な綺麗な青色。
「さあ、その蝶を食べなさい」
父が声を上げると、村のみんながこぞってごちゃごちゃとした声を上げる。その声が何を語っているのかを私の頭が処理することはない。ただ目の前の蝶が飛び去ることなく私を見詰めていることに、思わず泣きそうになった。
「その子を食べなければ、お前は今夜、化物に襲われてしまう」
躊躇っている私の姿を見た老人が、穏やかにそんなことを言った。
蝶は相変わらず私を見詰めて、飛び去る気配すらない。まるで、私に捕食されるために生まれてきたかのような、哀愁すら感じるたたずまいだった。
「本当にこの子を食べないといけないの?」
私はその老人に問うた。好々爺のようににっこりと笑った老人は、表情とは対照的に感情を感じない冷徹な声で「それがこの村の掟だ」とだけ言った。
箸すら置かれていない机を前に、私は蝶の羽を掴んだ。真っ黒な瞳が、夜だというのにはっきりと見える。それが妙に潤んでいるように見えて、一度だけ、ぎゅっと目を瞑った。
再び目を開くと、蝶の足が眼前で何か捕まるところを探しているみたいに、こちょこちょと動いているのが見えた。
「早く食べなさい。日付が変わるまでに飲み込めなければ、この村ごと影に呑まれてしまう」
老人が語気を強めてそんなことを言った。私は意を決して、蝶を口に近づけた。
ごめんねと言いたかったが、その気持ちは、舌の上に引っ付いた蝶の足によって言葉になる前に霧散した。もはや目を瞑る必要はなかった。口で息をすれば鱗粉が喉に張り付き、何もしなくても、蝶がばたばたと暴れる感触が如実に感じられる。
吐き出したかった。だが、口に入ってしまったものを吐き出す勇気は、私にはなかった。村のため、人のため、自分のため。必死に、自分の中で言い訳を探す。
この蝶を食べなければならない理由。自分を納得させられるほどの何かを、だ。
だが、それが見つかるよりも先に、「早く飲み込め」という老人の怒鳴り声が耳に入った。
もう何も思うまいと、私は一息に口の中で蠢いている蝶をかみ砕いた。
一噛みでは、蝶の動きは収まらない。命の危険を感じたからか、その動きが一層強まるだけだった。どこかを噛まれたような痛みが走って、反射的にもう一度噛む。二噛み目には、その動きはずいぶん弱まっていた。不思議と味はせず、虫特有の独特な触感と粘ついた体液がまとわりつく感覚もない。私は最後にもう一度だけ蝶を噛み、目の前に置かれたコップに注がれた水に口を付け、一気に流し込んだ。
蝶の死骸が食道を通っていくのを感じた。吐き気に耐えながら胃に到達するのを待って、もう一度水を流し込む。
「誕生日おめでとう、アカネ」
老人が私にそんなことを言った。その時にやっと気づいたが、私の目には、大粒の涙が浮かんでいた。だが私は、それを意地でもこぼさなかった。私には泣く資格などない。噛み潰された蝶の前足が奥歯の詰まっている。
それから10年が経った。私が再びこの村を訪れると、記憶にあるあの村は、既に廃村と化していた。
蝶を食べなければ影に呑まれる。
老人の言葉が脳裏に浮かんだ。あの日蝶を食べてから、丁度10年が経った。
記憶を頼りに、再びあのキャンプファイヤーのような火が置かれた中央の広場に向かった。酷く炭化した木と、白茶けた草が転がる。あたりには廃墟が立ち並び、この村の規模感が、当時自分が思っていたよりも大きかったのだと気づく。
私は、残されたあの机にコップを置いて、ゆっくりと水を注いだ。
今も、胃の中には蝶がいる。そんな感覚が止んだことはない。注がれた水を一息に飲み干して、立ち上がる。ふと振り返ると、木の柵の上に、あの日私が口にしたものと同じような、青い羽を持つ綺麗な蝶が止まっていた。
近付いても飛ぶ気はないようで、指を差し出すと、ちらちらと歩き、私の指を止まり木として羽をたたんだ。
これは、あの日の贖罪だ。私は自分にそう言い聞かせて、その蝶を空に飛ばした。
この村は影に呑まれるのだろうか。それとも、既に廃村になっている場合は、その限りではないのだろうか。飛び去る蝶を眺めながらそんなことを思った。
ふとどこかで、少女の悲鳴のような声が聞こえたような気がした。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

神様、俺は妻が心配でならんのです
百門一新
現代文学
「妻を、身体に戻す方法を――」ある日、六十代後半のカナンダカリは、とても不思議な現象に居合わせる。家にはいなかったはずの妻が、朝目が覚めると当たり前のように台所に立っていた。いったい、何が起こっているのか? 妻は平気なのか? 沖縄の南部から、ユタ、占い師、と北部へ。まるでドライブだ。妻の楽しそうな横顔に、ナカンダカリは笑みを返しながらも、きりきりと心配に胸がしめつけられていく――だが彼は、ようやく、一人の不思議な男と会う。
※小説家になろう、カクヨムにも掲載。
こぼれる、
小槻みしろ
現代文学
カップに残ったココアを流している間、ひなは、母との記憶をひもといていた。
私の母は、私をかわいがった。
私のことをなんでも知りたがったし、なんでも知っていた。
母は私を愛してくれた。息苦しいほど――
切り離せない気持ちを、流すにはどうしたらいいのだろう。
少し切ない家族の短編です。



ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる