氷雪の面影

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 けれど、史彦ふみひこには学会に出席するとだけ言い置いてきた。安騎野あきののことは一切伏せて。葉書で季節ごとの挨拶を取り交わす、それだけでも史彦はいい顔をしなかった。
 雄高ゆたかは今でも安騎野が好きなんだろう? 史彦は半ばあきらめ顔で俺を見る。
 好き? ……胸の奥の燠火、たとえるならそんな感じだろうか。
 好意か、憎悪か、嫌悪か、それとも親愛なのか……自分でももう分からない。
 山道をゆっくりと進むタクシーの中で、俺はただうつむき、両手を見つめていた。
 会ってどうするつもりだ。安騎野が助けて欲しいといったら、自分は何をするつもりだ。
 話をきいてやる? なにか思い出話しでもする? 具体的なことなんか、なにひとつ考えてはいない。大学で学んだことも、クリニックで実践しているカウンセリングも、身近すぎる相手には通用しないのではないか。 
 結局、俺は安騎野の顔がみたいだけなんじゃないか……?
「お客さんは、山荘の先生と知り合い?」
 不意に運転手が聞いて来たことで、思考は中断された。
「ええ、お世話になっていました」
「名家ってのは不思議なもんだよね。お嬢さんがいるのに、遠縁を養子にしたりしてさ」
 峠先生に娘さんがいることは聞いていた。しかし、遠縁……安騎野はそういうことになっているのか。安騎野は峠先生と養子縁組してからどんな生活を送っていたんだろうか。
 自殺の後遺症で、左足に少し障害が残ったと聞いてはいるけれど。あえてまた教師に復職しなくてもいいぐらい、先生の実家は裕福だ。
「病院は誰が継ぐんだろう。あそこの大先生ももういい歳だよ」
「さあ、それは僕も知りませんが」
 都会と呼べるほど大きな街なのに、地元はやはり周囲がうるさいものなんだ。
「ああ、見えてきましたよ。わたしら地元のもんは、塔の家とか呼んでますよ」
 塔の家か。坂の頂きに、古めかしい洋風建築の山荘が見えてきた。たしかに、建物は塔がひときわ目を引く構造になっている。
 年代ものだな。五十年・六十年じゃきかない。大正かひょっとすると明治まで時代がさかのぼるかもしれない。威風堂々とした面持ちが雪景色の中で、凛とした雰囲気を漂わせていた。見あげる塔の窓に、一瞬人影が横切ったような気がして瞳をこらしたが、雪に視界を遮られて確かめられなかった。
 タクシーはそろりと、山荘の玄関前に止まり清算を済ますと、またゆっくりと今来た道を帰って行った。
 雪はますますひどくなっていた。細かい雪が凍った地面から吹き上げ、逆巻いている。整えていた髪も風に乱された。
 玄関の呼び鈴を押すと、ほどなく樫の木の一枚板で造られた重厚な扉が開いた。扉の隙間から、まるで磨かれた黒曜石のような瞳が俺を見た。
「碓氷さん?」
 事前に訪問を伝えたときに電話に出た声だ。女性にしては低めの声で問われ、俺がうなずくと、返事を待たずに中へと導いたその人は、黒ずくめの服装をしていた。
「すみません、こんな天気の日にお邪魔してしまって。碓氷(うすい)です。峠先生には生前たいへんお世話になりました」
 玄関先で挨拶する俺をその人は、遠慮ない視線を上から下まで向けた。誰だろう? 家政婦にしては身なりが良すぎる。カシミヤのタートルネックのセーターに細身のパンツ。どちらも黒だ。ピアスとペンダントには揃いのダイヤが控えめに光っている。すうっと糸で引いたような切れ長の瞳が俺を見あげた。さらりとした前髪だけが長いショートヘアがよく似合っている。見たところ三十代前半……。
「聞いたことがあります。心理学を専攻されている方ですね」
 貴族的な振るまい……彼女はそんな雰囲気をまとっている。
「わざわざ、ありがとうございます」
 ていねいにお辞儀する彼女は、とても礼儀正しい反面、慇懃にも感じられた。
「あの……」
 雪もはらわずに話しかけた時、左手の扉が開いた。最初に白い手がのぞき、次に臙脂のセーターとコーデュロイのパンツが見えた。
「碓氷か……」
 不意打ちのように、杖をついた安騎野が言葉をかけた。碓氷か、の一言で胸が高鳴った。目の前に安騎野がいる。十年間会うことがなかった安騎野が。痩せぎすなのは変わらない。かすかに頬にしわが見て取れたが、ほとんど歳月を感じさせなかった。
 ただ無言で立ち尽くす俺に、彼女は厳しい視線を送った。
「突っ立ってないで、入れよ。葉月はづき葉月、ご案内して差し上げろ」
「はい」
 葉月と呼ばれると、彼女は鼻筋の通った彫像のような顔を、かすかに引きつらせた。
「峠の娘の葉月だ。戸籍上の、俺の妹」
 頭が混乱した……。先生はたしか五十前後で、彼女はどう見ても……。
「隆一郎が十六のときの子どもだ」
 おかしそうに、安騎野は頬を歪めるあの笑いを浮かべた。
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