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第一の弦は、春の神アビノアのために。
第二の弦は、秋の神ルビィアのために。
そして第三の弦は、父なるラバァタのために……。
楽士たちは高らかに琴をかき鳴らした。
民暦と皇暦の祭りがかさなる六〇年に一度の大祭である。
例年の豊饒の女神ルビィアの収穫祭とは規模がちがう。ウィルカの城下は狭い通りにまで、人々があふれ出していた。
天候にも恵まれた今年は、地方から税を納めに来た農民たちの表情も明るい。
神殿の広間で王家と最長老の前で今日ばかりは目隠しを許された神殿の楽士らは、思う存分その腕前を披露している。
そのなかにはルエキラもいた。
少しだけだるいのは、姫の看病を夜更けまでしていたためだ。
しかしその疲れも忘れて、いまは琴を弾き歌を歌うことに神経が研ぎ澄まされていく。声はいつもよりよく出ている。まんぞくいく練習ができなかったとはおもえないほど指は滑らかに琴をつまびいている。
今日の祭は、今年の実りをルビィア神に感謝するとともに、一年の終わりに尖耳族の罪の贖いと浄化を祈り、ラバァタ神の迎えを願う重要なものなのだ。
民人たちは神殿に詣で、この一年の報告をする。
この演奏は外まで響いているだろうか。
ふりそそぐ光のなか、彼らの祈りは静かに天へ吸いこまれていくようだ。
ルエキラは、つとめて王を見ないようにしていた。
テアを抱きかかえて館にたどりついてすでに二十日あまりがすぎた。その間、王宮からは使いの一人も訪れなかった。
もとより王は、勝手にしろとルエキラにいったのだ。王宮の沈黙をルエキラは了解とうけとることにした。
テアは飛行していたアキツから振り落とされたときに全身をひどく打ちつけたが骨折はしていなかった。それは幸運だったが、山中でろくなものも食べずにコトシュまで歩き続けたテアは、衰弱しきっていた。
その体も、ルエキラをはじめ彼の家族の献身的な看護のおかげで、なんとか健康を取り戻しつつあった。
ルエキラはできるかぎりテアのそばについている。
そのため大祭の練習に参加することもままならなかった。もしもアサフ教授の口添えがなかったら、大祭の楽士はおろか神殿での職まで失ってしまっていただろう。
テアは口がきけるようになるとすぐに、ルエキラに琴の練習にいくことをしきりとすすめた。そのために今日こうしてここに来られたのだ。
……曲がおわり王のまえを辞するとき、ルエキラは正面から王をみつめた。
短いあいだに、十も年を重ねたように見える王がそこにいた。
王もテアの身を案じていたのだろうかとルエキラは思った。
その帰りにルエキラは王宮内のテアの部屋を訪れた。
あの日の惨劇を伝えるものは何もなかった。壁や床に飛び散った王の血も跡形なく清められていた。室内の荷物もほとんどルエキラの館に移したため、城のこの一角はやけにがらんとしていた。
ルエキラは神殿の図書室に返す本を布にていねいに包んだ。いつからあったのか今まで気付かなかったが、寝台には小さな棚がこしらえてあった。
ルエキラはそのなかにあった本にかけた手をふいにとめた。本の後ろに肖像画があった。
黄金色の髪にみどり色の羽根飾り。よくととのった秀麗な顔。瞳はもちろん緑。
絵の中のカラ王妃は自信に満ちあふれ、不敵にさえみえた。テアを悩まし続けた王妃の霊もいまは鎮められここにはいない。
この絵をテアはいつもみていたのだろうか。本と一緒にその絵も大切に布にくるんだ。
部屋を立ち去るとき、テア付きの侍女のマナが書状を携えてルエキラをたずねて来た。
「女官長からわたされました。ルエキラさまにお届けするようにと」
ルエキラはかるく会釈するとそれを受け取った。
「あの、わたしから申し上げるのはさしでがましいことだとわかっているのですが、姫さまをよろしくお願いします。わたしがお仕えしましたのは、ほんの短いあいだでしたけれど、姫さまのことがとても好きでした」
マナは涙まじりにそうルエキラに告げた。ルエキラはほほえんだ。
「城のなかで、そう言ってくれる人が一人でもいてくれるとうれしいよ。テアを世話してくれたのが君でよかった。ありがとう」
この部屋には、もう二度とこないだろう。ルエキラもテアも……。
『テア・ラエル・セルキヤ第五王女の転居を許可する』
書状は二通だった。一通めの内容は素っ気ないものだった。
『愛していた。カラもテアも』
まぎれもなく王の手になる二通め。
テアは寝台のうえに半身を起こし、短い文章をなんども読み返しているようだった。
やがて、ていねいに巻もどすと、ルエキラの手渡した。
「どこからお話しすればよいでしょう。……いずれにしろ、いつかはあなたに伝えようと思っていたのですが」
「いや、無理に話さなくてもいい。君はこうしてここにいるから」
テアは悲しそうに首をふった。指を組みなおすと、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「わたしの母カラ・ラエルは、他人とはちがう緑の瞳と類いまれな美貌には特別の運命が約束されているのだと小さなころから信じていたようです。事実、遠征にきたネブカドネザル王子の目にとまり王宮へと嫁いでいきました」
肖像画は、輿入れ前に彼女の両親が描かせたものだとルエキラに説明した。この絵は彼女のまさに人生最大の勝利のときのものなのだ。輝くばかりに美しく、また自分自身でそれを充分に知りつくしている自信が絵からも伺い知ることができるようだ。
「けれど美貌はやがて不幸を招きました。すでに嫁いでいた三人の妃からは、たえまなくいやがらせを受け、ついには好色な当時の王ダレィオスの関心をひき、無理やりに……」
テアはひと呼吸おいた。ルエキラも息苦しさに耐えかねていた。ひたいにうっすらとうかんだ汗さえぬぐうことができずにいる。
「あなたもわたしのことを魔女と呼ぶかも知れませんね。確かにこれはラバァタ神の法からはなれています」
ルエキラはテアをよく見た。
そこには自分のよく知っているテアはいなかった。無邪気に子供のように話す彼女はもういない。おとなびた一十八歳というにふさわしい、いやそれ以上に老成した精神を備えたテア・ラエルがいた。
それとも、いままで自分に見せていたあの表情はすべて演技だったのだろうか。
「わたしは人から愛されたことがありません。王宮のかたすみで誰とも接することなく生かしておくこと、それがネブカドネザル王の復讐ではなかったかと思うのです。侍女たちは次々と替わりました。王の命令で……」
テアは淡々と語る。自分の身上というわけではなく、まるで物語のように。
「あなたと出会ったとき、わたしにはわかりました。城の中から外へ導いてくださるのはこのかただと」
ひそやかな、そしてしたたかなたくらみをいつから彼女は胸のなかに抱きつづけてきたのだろうか。ラバァタ神への強い信仰心もそれを願ってのことだったのかもしれない。
”約束の地”はそのまま外界への憧れであり、希望だったのだろう。
「それまで誰もいませんでした。あなたさま以外は‥誰も顧みてはくれませんでした。わたしにはなにをもってして愛しているというのかわからないのです。あなたを外へと出ていく手段としていたのかもしれません。けれど、あなたがわたしを死霊とまちがえていると知ったとき、深く傷ついた自分にきがつきました。わたしはみつけて欲しかった……。生きているわたしを。もしも、この思いがそうよべるのなら……お慕いもうしあげます。ほかの誰よりもルエキラさまを」
テアの頬はいつしか涙でぬれていた。テアの涙がルエキラの手にこぼれ落ちる。
ルエキラはテアの体を抱きよせた。
思い出していた。正神官になるために必死で勉学していたころのことを。
テアに会うことは許されず、ただ黙々と書物とむきあっていた日々……。彼女はときおりルエキラの部屋を訪れてくれた。
なにをするわけでもなかったが、ときおりくじけそうになる心の支えとなってくれた。
彼女はいつも自分をみつめてくれていたものを。
澄んだ瞳で……。
なぜ疑ったのだろう。彼女への思い、もしもそれがテアのたくらみだったとしても後悔はしないとルエキラは思った。彼女に惹かれたのは自分なのだから。
祈りの声が聞こえる。
人々ははるか天空に手をさしのべてラバァタ神の降臨を願う。
けれどいまひととき、ふたりのためだけに祈ることを許したまえ……。
ルエキラはテアを抱きしめた。
「ルエキラさま……」
テアは寝台のなかからルエキラを呼んだ。
昏睡から三日がたっていたテアの意識が不意に戻ったのだ。
一月まえに男児を産み落としたテアは、体力を回復することができなかった。ほそい体はさらに痩せほそり、血の気を失いつつある顔は紙よりも白く見えた。
もうすぐ自分の一番大切なひとは、手の届かない遠いところへと旅立つ。ルエキラは溢れでる涙をこらえることができなかった。
「なんだい、テア……」
「アデリエルをお願い‥もうじきお別れなのですね。あなたに会えたことを感謝します。わたしは……」
彼女のことばを一言たりとも聞きのがさぬようにとルエキラはテアの寝台に膝まづいた。
「ルエキラさま、地図の土地をみつけたのよ。もっとはやくに気がつけばよかった。ここが苦しみの地だなんて嘘ね。私達はこんなにも美しいところに住んでいるのに……」
テアはかすかにほほ笑むとそのまま眠るように息をひきとった。
ラバァタ神の迎えの船が来たとき、アサフは最長老にルエキラは奏楽と療治、ふたつの長老職をこなしていた。
その船にのって尖耳族は”約束の地”へと行くのだ。
船から見下ろすと、眼下には青く光る球体が浮かんでいた。テアはきっとこれを見たのだろう。
「父上、わたしはこの風景を見たことがあります」
傍らに立つ息子のアデリエルはテアによく似た笑顔で、そっと話しかけて来た。どうやらアデリエルは両親の血を引き継いだらしかった。
けれど、テアと出会いほんの短い間だけすごしたウィルカこそが、ふたりにとっての馨しい土地だった。
ルエキラは遠ざかる光景を生涯忘れることはなかった。
第二の弦は、秋の神ルビィアのために。
そして第三の弦は、父なるラバァタのために……。
楽士たちは高らかに琴をかき鳴らした。
民暦と皇暦の祭りがかさなる六〇年に一度の大祭である。
例年の豊饒の女神ルビィアの収穫祭とは規模がちがう。ウィルカの城下は狭い通りにまで、人々があふれ出していた。
天候にも恵まれた今年は、地方から税を納めに来た農民たちの表情も明るい。
神殿の広間で王家と最長老の前で今日ばかりは目隠しを許された神殿の楽士らは、思う存分その腕前を披露している。
そのなかにはルエキラもいた。
少しだけだるいのは、姫の看病を夜更けまでしていたためだ。
しかしその疲れも忘れて、いまは琴を弾き歌を歌うことに神経が研ぎ澄まされていく。声はいつもよりよく出ている。まんぞくいく練習ができなかったとはおもえないほど指は滑らかに琴をつまびいている。
今日の祭は、今年の実りをルビィア神に感謝するとともに、一年の終わりに尖耳族の罪の贖いと浄化を祈り、ラバァタ神の迎えを願う重要なものなのだ。
民人たちは神殿に詣で、この一年の報告をする。
この演奏は外まで響いているだろうか。
ふりそそぐ光のなか、彼らの祈りは静かに天へ吸いこまれていくようだ。
ルエキラは、つとめて王を見ないようにしていた。
テアを抱きかかえて館にたどりついてすでに二十日あまりがすぎた。その間、王宮からは使いの一人も訪れなかった。
もとより王は、勝手にしろとルエキラにいったのだ。王宮の沈黙をルエキラは了解とうけとることにした。
テアは飛行していたアキツから振り落とされたときに全身をひどく打ちつけたが骨折はしていなかった。それは幸運だったが、山中でろくなものも食べずにコトシュまで歩き続けたテアは、衰弱しきっていた。
その体も、ルエキラをはじめ彼の家族の献身的な看護のおかげで、なんとか健康を取り戻しつつあった。
ルエキラはできるかぎりテアのそばについている。
そのため大祭の練習に参加することもままならなかった。もしもアサフ教授の口添えがなかったら、大祭の楽士はおろか神殿での職まで失ってしまっていただろう。
テアは口がきけるようになるとすぐに、ルエキラに琴の練習にいくことをしきりとすすめた。そのために今日こうしてここに来られたのだ。
……曲がおわり王のまえを辞するとき、ルエキラは正面から王をみつめた。
短いあいだに、十も年を重ねたように見える王がそこにいた。
王もテアの身を案じていたのだろうかとルエキラは思った。
その帰りにルエキラは王宮内のテアの部屋を訪れた。
あの日の惨劇を伝えるものは何もなかった。壁や床に飛び散った王の血も跡形なく清められていた。室内の荷物もほとんどルエキラの館に移したため、城のこの一角はやけにがらんとしていた。
ルエキラは神殿の図書室に返す本を布にていねいに包んだ。いつからあったのか今まで気付かなかったが、寝台には小さな棚がこしらえてあった。
ルエキラはそのなかにあった本にかけた手をふいにとめた。本の後ろに肖像画があった。
黄金色の髪にみどり色の羽根飾り。よくととのった秀麗な顔。瞳はもちろん緑。
絵の中のカラ王妃は自信に満ちあふれ、不敵にさえみえた。テアを悩まし続けた王妃の霊もいまは鎮められここにはいない。
この絵をテアはいつもみていたのだろうか。本と一緒にその絵も大切に布にくるんだ。
部屋を立ち去るとき、テア付きの侍女のマナが書状を携えてルエキラをたずねて来た。
「女官長からわたされました。ルエキラさまにお届けするようにと」
ルエキラはかるく会釈するとそれを受け取った。
「あの、わたしから申し上げるのはさしでがましいことだとわかっているのですが、姫さまをよろしくお願いします。わたしがお仕えしましたのは、ほんの短いあいだでしたけれど、姫さまのことがとても好きでした」
マナは涙まじりにそうルエキラに告げた。ルエキラはほほえんだ。
「城のなかで、そう言ってくれる人が一人でもいてくれるとうれしいよ。テアを世話してくれたのが君でよかった。ありがとう」
この部屋には、もう二度とこないだろう。ルエキラもテアも……。
『テア・ラエル・セルキヤ第五王女の転居を許可する』
書状は二通だった。一通めの内容は素っ気ないものだった。
『愛していた。カラもテアも』
まぎれもなく王の手になる二通め。
テアは寝台のうえに半身を起こし、短い文章をなんども読み返しているようだった。
やがて、ていねいに巻もどすと、ルエキラの手渡した。
「どこからお話しすればよいでしょう。……いずれにしろ、いつかはあなたに伝えようと思っていたのですが」
「いや、無理に話さなくてもいい。君はこうしてここにいるから」
テアは悲しそうに首をふった。指を組みなおすと、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「わたしの母カラ・ラエルは、他人とはちがう緑の瞳と類いまれな美貌には特別の運命が約束されているのだと小さなころから信じていたようです。事実、遠征にきたネブカドネザル王子の目にとまり王宮へと嫁いでいきました」
肖像画は、輿入れ前に彼女の両親が描かせたものだとルエキラに説明した。この絵は彼女のまさに人生最大の勝利のときのものなのだ。輝くばかりに美しく、また自分自身でそれを充分に知りつくしている自信が絵からも伺い知ることができるようだ。
「けれど美貌はやがて不幸を招きました。すでに嫁いでいた三人の妃からは、たえまなくいやがらせを受け、ついには好色な当時の王ダレィオスの関心をひき、無理やりに……」
テアはひと呼吸おいた。ルエキラも息苦しさに耐えかねていた。ひたいにうっすらとうかんだ汗さえぬぐうことができずにいる。
「あなたもわたしのことを魔女と呼ぶかも知れませんね。確かにこれはラバァタ神の法からはなれています」
ルエキラはテアをよく見た。
そこには自分のよく知っているテアはいなかった。無邪気に子供のように話す彼女はもういない。おとなびた一十八歳というにふさわしい、いやそれ以上に老成した精神を備えたテア・ラエルがいた。
それとも、いままで自分に見せていたあの表情はすべて演技だったのだろうか。
「わたしは人から愛されたことがありません。王宮のかたすみで誰とも接することなく生かしておくこと、それがネブカドネザル王の復讐ではなかったかと思うのです。侍女たちは次々と替わりました。王の命令で……」
テアは淡々と語る。自分の身上というわけではなく、まるで物語のように。
「あなたと出会ったとき、わたしにはわかりました。城の中から外へ導いてくださるのはこのかただと」
ひそやかな、そしてしたたかなたくらみをいつから彼女は胸のなかに抱きつづけてきたのだろうか。ラバァタ神への強い信仰心もそれを願ってのことだったのかもしれない。
”約束の地”はそのまま外界への憧れであり、希望だったのだろう。
「それまで誰もいませんでした。あなたさま以外は‥誰も顧みてはくれませんでした。わたしにはなにをもってして愛しているというのかわからないのです。あなたを外へと出ていく手段としていたのかもしれません。けれど、あなたがわたしを死霊とまちがえていると知ったとき、深く傷ついた自分にきがつきました。わたしはみつけて欲しかった……。生きているわたしを。もしも、この思いがそうよべるのなら……お慕いもうしあげます。ほかの誰よりもルエキラさまを」
テアの頬はいつしか涙でぬれていた。テアの涙がルエキラの手にこぼれ落ちる。
ルエキラはテアの体を抱きよせた。
思い出していた。正神官になるために必死で勉学していたころのことを。
テアに会うことは許されず、ただ黙々と書物とむきあっていた日々……。彼女はときおりルエキラの部屋を訪れてくれた。
なにをするわけでもなかったが、ときおりくじけそうになる心の支えとなってくれた。
彼女はいつも自分をみつめてくれていたものを。
澄んだ瞳で……。
なぜ疑ったのだろう。彼女への思い、もしもそれがテアのたくらみだったとしても後悔はしないとルエキラは思った。彼女に惹かれたのは自分なのだから。
祈りの声が聞こえる。
人々ははるか天空に手をさしのべてラバァタ神の降臨を願う。
けれどいまひととき、ふたりのためだけに祈ることを許したまえ……。
ルエキラはテアを抱きしめた。
「ルエキラさま……」
テアは寝台のなかからルエキラを呼んだ。
昏睡から三日がたっていたテアの意識が不意に戻ったのだ。
一月まえに男児を産み落としたテアは、体力を回復することができなかった。ほそい体はさらに痩せほそり、血の気を失いつつある顔は紙よりも白く見えた。
もうすぐ自分の一番大切なひとは、手の届かない遠いところへと旅立つ。ルエキラは溢れでる涙をこらえることができなかった。
「なんだい、テア……」
「アデリエルをお願い‥もうじきお別れなのですね。あなたに会えたことを感謝します。わたしは……」
彼女のことばを一言たりとも聞きのがさぬようにとルエキラはテアの寝台に膝まづいた。
「ルエキラさま、地図の土地をみつけたのよ。もっとはやくに気がつけばよかった。ここが苦しみの地だなんて嘘ね。私達はこんなにも美しいところに住んでいるのに……」
テアはかすかにほほ笑むとそのまま眠るように息をひきとった。
ラバァタ神の迎えの船が来たとき、アサフは最長老にルエキラは奏楽と療治、ふたつの長老職をこなしていた。
その船にのって尖耳族は”約束の地”へと行くのだ。
船から見下ろすと、眼下には青く光る球体が浮かんでいた。テアはきっとこれを見たのだろう。
「父上、わたしはこの風景を見たことがあります」
傍らに立つ息子のアデリエルはテアによく似た笑顔で、そっと話しかけて来た。どうやらアデリエルは両親の血を引き継いだらしかった。
けれど、テアと出会いほんの短い間だけすごしたウィルカこそが、ふたりにとっての馨しい土地だった。
ルエキラは遠ざかる光景を生涯忘れることはなかった。
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