ゆらぎ堀端おもかげ茶房

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かしわ餅と雨やどり

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 今日は曇り。天気予報では午後から雨だ。
 朝の掃き掃除は日課にしようと思う。時間が合えば、幼稚園から戻ってくる、みず江ちゃんとも立ち話ができるだろうし。
 昨日はホームセンターへ行って草取りと庭掃除のための準備をした。日焼け対策につばの大きい帽子も買ってきたし、長靴も用意した。そこまで準備をしたら、疲れ果てて寝てしまった。体を動かしたら、怖いも何も感じず、熟睡した。おかげで今日は元気いっぱいだ。
 庭はたいした広さではない。伯父は庭には関心がなかったらしく、意図的に植えられた草木といえば、薄紅色の花をつけた低い木一本くらいなものだ。鰻の寝床の母屋を背にして、L字が切れたみたいに蔵とガレージがある。歩道と庭を仕切る板塀は、市役所の五十嵐職員にわざわざご指摘を受けるまでもなく、所々に穴があいている。塀は途中で切れて鉄の門扉になって、蔵の前に車が乗り入れられるように砂利が敷かれている。
 海に近いと車は錆びやすくなるから、早いところガレージに入れたい。ガレージの中は、伯父が亡くなったときも整理は去れなかったらしく、まだ中には荷物が入っているようだ。
 とにかく、雨が降る前には終わらせないと。
 私は腹をくくって、雑草に手をかけた。

 草は抜いても抜いても減らないように感じた。実際は減っている、げんに地面も見え始めた。目立つ草を引っこ抜くと小ざっぱりとなる。でも、もっと細かい雑草までとなると骨が折れる。這いつくばってひたすら草を抜く。
 しかし、スギナの憎たらしいこと。恐ろしく根が深くて取り切れない。
 ときおり現れるミミズや芋虫に戦々恐々としながら、ミニチュアのジャングルと格闘する。
 マンションに住んでいた頃には一戸建てに憧れたけど、見映えのする住まいにするのは楽じゃない。実家にいるときには気づかなかった。あれは親の努力の賜物だったんだ。
 力をいれ続けた指が痺れる、手がだるくなる。しゃがんだままの姿勢で小一時間、足腰が悲鳴を上げ始めた。
「もう……!!」
 思わず、立ち上がって叫ぶと、店のほうから柔らかい声がした。
「ごめんくださーい」
 はっ、と振り返ると、店内にいる小夜子さんと目があった。
「え、あ、こんにちは?」
 お店側、戸締まりしていなかったけど、するっと入っちゃったの?
「また来ちゃいました」
 悪意ゼロで、にこっと笑う小夜子さんは、肩からトートバッグをおろした。今日もパンツスタイルだけれど、おしゃれな長靴を履いている。小夜子さんは少し伸びをして私の後ろに視線を走らせた。
「あの、差し出がましいかとは思いますが、お手伝いさせてください」
 最初から手伝うつもりだったのか、長い髪は後ろできちんと結ってある。
「いえ、そんな、だいじょうぶですから」
 そうですか……と小夜子さんは呟いて、いっとき引き下がるように思えたが、トートバッグからガーデニング用のエプロンを取り出すと素早く身に着けた。
「ご一緒させてください。雨が降る前に終わらせちゃいましょ」
 つば広のコットンの帽子をかぶるとゴム手袋をしながら、小夜子さんは一礼すると庭へとやってきた。
「二人でやれば、すぐです」
 眉がきれいな弧を描いた。

 夜子さんは手際よく、草を抜いた。しかもていねい。普段からやっていることなのだろう。
「あの……」
「はい?」
 小夜子さんは、と言いかけて、何を話せばいいのか分からなくなった。旦那さんは? お子さんは? お住まいはどちら? そんなところまでいきなり踏み込む勇気はない。まずはお天気の話題でも。なんて、そんな雰囲気を読み取ったのか、振り返った小夜子さんは自己紹介を始めた。
「あらためまして。甲斐谷小夜子です、歳は四十二です」
 思わず、えっ、と声を上げてしまった。どう見ても私より年下にしか見えないのに。
「小三の息子が一人います。夫は市内の会社に勤めていて、私は今は仕事をしていません。なので、気ままに時間を使うことができます」
 小夜子さんは、さらりと自分を開示した。臆することなく、軽やかに気持ちを一歩私へと近づけるように。都会じゃなく、田舎だからなのかな。個人情報をごく自然体で話す人なんて久しぶりに会ったような気がする。
「あ、江間汐里です。三十八歳で……バツイチです」
 胸の中をハードルを思い切って、一つ飛び越えた。やっぱり少し視線が下向きになってしまう。はい、と小夜子さんはうなずくと、口をさしはさまず、続きを促すように微笑んだ。少しだけ早く打つ鼓動を落ち着かせながら、言葉を選ぶ。
「隣の市に、両親と弟家族がいます。ここは父方の実家で、父から許可を得て住むことにしました」
「そうなんですか。ずっとこちらに?」
「ええ、できたらそうしたいと思っています」
 ずっと……か。
 振り返って母屋を見た。木造平屋の瓦屋根、古民家といえば聞こえはいいけれど、築百年近く経過した古い建物だ。ずっと、ここに住む。これから先、十年・二十年、一人で。伯父のように。
「うれしい、です」
 小夜子さんの答えに、ふっと眉間から力が抜けた。それ以上わたしに何も聞かずに、小夜子さんは作業を再開した。
「こんなふうに、時々お手伝いにあがってもいいですか。私にできることなんて、あまりないでしょうけど」
「ありがとうございます」
 なぜだか、不思議と素直な言葉が口からするりと出た。人付き合いなんて、とても久しぶりのような気がする。むろん、以前の暮らしにだってお付き合いはあった。
 子どものいない専業主婦だったから、いわゆるママ友も、専業主婦をしていたから職場の同僚というのもいない。知り合いのほとんどはネットのモニター越し。ネットで知り合って直接会っても、いつもどこか取り繕っていた。一緒にランチをしていても、買い物をしていても、まるで何かを演じているような気持ちでいた。SNSで演出する、素敵な世界があたかも現存するかのように。
 離婚を期に、SNSは全部止めた。何もかも、疲れてしまったから。
 小夜子さんは、草を抜いて出てきたミミズや芋虫も指でつまんで、ひょいひょいと捨てる。私は相変わらず、おっかなびっくりで手を動かしているのに、躊躇がない。
 自然と笑ってしまった。
「……小夜子さん、すごい。虫とか平気な人ですか」
「わりとそうかな。得意じゃないけど、怖くはないですよ」
 汚れることをいとわない小夜子さんのおかけで、庭は瞬く間にきれいに整備されていく。
「お花と芝生を植えて、飛び石みたいに煉瓦を敷いてもいいですね。きっとすてきなガーデンスペースになりますよ、楽しみですね」
 小夜子さんが言うと、私には完成された庭が見えるような気がした。やらなきゃ、なんて義務は通りこして、小夜子さんの「楽しみですね」の言葉に、自分の凝り固まった気持ちがほぐれていくように感じた。
「……ですね、お花はなにを植えようかな」

 それからは、あっという間だった。二人で手を動かしながら、他愛ない話をたくさんした。
 市内の安いスーパーのこと、イベントでたまに堀川で船遊びができること、澄川湾で行われる港祭りのこと、小夜子さんのお気に入りの散歩コースのこと。
 草を抜いた庭は、何もないなりに小ざっぱりした。今度は花の苗や種を買って来よう。
「あ」
 帽子を脱いで涼んでいた小夜子さんが空を見上げた。ガレージのトタン屋根がパタパタと音を立て始めた。抜いた草を詰め込んだごみ袋の口を結んで、雨を避けて軒下に置く。庭と軒を数回往復しているうちに、雨は激しくなってきた。
「小夜子さん、あがって」
 わたしたちは、小走りに店の中へと戻った。長靴を履いてたけど、腰のあたりまで泥が跳ねていた。
「いまタオル持ってきますから」
 と、振り向くと小夜子さんはトートバッグからタオルを取り出しているところだった。用意がいい人だ。
「わたしは大丈夫ですから。汐里さん、早く拭いた方がいいです。頭から水をかぶったみたいになってますよ」
 言われて帽子ごとびしょ濡れになっていることに気付いた。肩までの髪から雫が落ちてシャツの襟が冷たい。
「キッチンで手を洗って構いませんから」
 小夜子さんへ、そう言いおいて、廊下の突き当たり、いちばん奥にある浴室の脱衣場のタオルを取ってきた。やれやれと戻ると、小夜子さんが長い髪をほどいて拭いていた。薄暗い店の中で、小夜子さんだけがぼんやりと光っているように見えて、思わず目をこらした。色白の肌が、道路側からのわずかな明かりに浮き上がるように見えている。
 綺麗な人だ。この人を妻にした人はどんな人だろう。自慢の奥さんだろうな。ついつい見とれていたけど、はっと気づいた。
 お茶くらい出さないと。私はキッチンというよりは台所というのにふさわしい板間に、小夜子さんをあらためて招いた。
「こっちで休んで」
 伯父さんが使っていた食器棚と、私が持ってきた一人暮らしには大きすぎる冷蔵庫と、炊飯器。生活感がにじみ出すぎている。小さなテーブルと丸い木の椅子が二客、これはもとからあったもの。
「シンクがタイルのモザイクでかわいい。レトロでいいですね」
「そうですか。なんだか古くさくて」
「そんなことないです。カントリー調にアレンジしたら、すごくすてきなキッチンになりそう」
 私はコーヒーメーカーをセットしてカップを用意した。
「コーヒー、お好きですか?」
 小夜子さんはうなずくと、トートバッグへと手を入れた。
「あの……お口に合えばいいんですけど」
 そういって、小さなハンカチの包みを出した。青海波の模様のハンカチ包みを彼女の白い指がほどくと、中からラップに包まれた柏餅が三個現れた。
「すごい、ちゃんと柏の葉で包まれている。これ、小夜子さんの手作りですか」
 ええ、と小夜子さんははにかんでハンカチを畳んだ。手作りの和菓子なんて、久しぶりに見た。食器棚から小皿を出して、いただいた柏餅をのせた。コーヒーはドリップが終わり、私はカップに注いだ。ふだん使いのカップしかない。蔵に使えそうな食器があればいいんだけど。
「受け皿もなしで、ごめんなさい。ミルクとお砂糖は?」
「いいえ、このままで」
 私は小夜子さんと向かい合って、一息を入れた。いただきます、と言ってから口にした柏餅は、ほどよい柔らかさが歯と咥内に心地よく、きめ細かなこし餡が口の中でさらさらとほどけていく。なんておいしいんだろう。疲れた体に、優しい甘みはなによりの御馳走だ。
「おいしい! すごくおいしいです」
 意気込んで話す私に、小夜子さんがホッとしたように笑った。
「田舎のおやつで恥ずかしいわ」
 そんなことない、と私は柏餅を頬ばったまま首を左右に振った。私は洋菓子作りには多少なりとも自信があるけれど、和菓子に関してはまったくの素人だ。
「他にも何かレパートリーはありますか?」 
「え……かんたんなお饅頭とか、さつま芋の金つばとか……ミルク寒天にわらび餅とか」
 なんだか懐かしいお菓子の名前を聞いて、ほっこりとしたイメージを思い描いた。シフォンケーキやパンケーキ、そういうスイーツもいいけれど、古民家には和菓子もよくなじむと思う。
 柏餅を一つ食べ終わって、私は小夜子さんを見た。相変わらず、柔和な笑みをたたえて小夜子さんはコーヒーを飲んでいる。
「小夜子さん、私に作り方を教えてください」
 え、と目を見開いて小夜子さんがカップを下した。
「小夜子さんから和菓子の作り方を教わりたいです」
「そんな、和菓子なんて大それたものじゃないわ。江間さんはきっとケーキを本格的に焼くかたでしょう。オーブンを見ればわかるわ。何も知らないで、私ったら恥ずかしい……」
 台所にある、家庭用にしては少し大きめのオーブンへ視線を向けて、小夜子さんは遠慮がちに拒んだ。
「そんなこと言わずに。お礼はもちろん、します。とっても美味しいんですもの、みんなに食べて欲しいですよ」
 そんな、と小夜子さんは顔を赤らめて頬に両手をあてた。会話が途切れて、雨の音だけがした。
「……でしたら……」
 小夜子さんが恥ずかし気に上目遣いで、私を見た。小夜子さんの瞳は夕暮れの海のような色に見えた。
「お家の中を見せていただけないでしょうか」
「え?」
「このお家、ずっと前から中の造りや間取りが気になって。ぜひ中を見たいと思っていたんです」
 小夜子さんは胸の前で手を組み、夢見るようなまなざしで、室内をぐるりと見渡した。ほんとうにこの家が好きなことが伝わってくる。
「別にかまいませんけど。でも、ちゃんとお礼もさせてください」
「汐里さんのお菓子も食べてみたいです」
 それであれば、お安い御用。私はうなずいた。
「あの、あの、さっそくで申し訳ないのですが、少し見せていただけますか」
「は、はい」
 意気込んだ小夜子さんの熱意に押されて、私は慌ててコーヒーの残りを飲んだ。
 台所から廊下へ出て、隣の部屋へ移った。隣は私室として使っている。八畳の部屋に不釣り合いの大きな液晶テレビは私が以前の住まいから持ち込んだものだ。それから、本棚には間に合わせのカラーボックス、布団は押し入れにしまってある。奥には納戸があって、そちらのスペースはまだ未整理だ。
「廊下の窓ガラス、古いものですね。波打っている。障子は檜、とても高級なものですね」
 古い建築物が好きというだけあって、小夜子さんは目の付け所が違う。
「仏間のほうが、ここより手の込んだつくりになっているみたいですよ」
 私は、となりの部屋へ小夜子さんを案内した。灯りをつけると八畳二間続きの座敷が明るくなった。格子状の天井を見上げて、小夜子さんが息をのむのが分かった。仏間の天井は、木材を格子状に組んである。明治に建てたと聞いたけれど、普請には贅を尽くしたらしい。
「すごい、天井もすごいけど、欄間の彫刻が見事ですね」
 手前の座敷と奥の仏間を区切る襖の上には、大きな欄間がはめ込まれてある。浜辺の風景を彫っているらしく、砂浜とうねる波頭、それから松の木が立体的に造られている。二艘見える船はひとつは波間に、もうひとつは手前側の浜にあげられている。
「甲斐谷は乾物屋を営んでいたけれど、もとは網本だったとか」
「そうなんですね」
 雨降りで湿度があがっているせいか、古い家特有のかび臭さが気になった。かつて仏壇があった場所は両腕を広げたくらいの空きスペースになっている。仏壇は今は小さいものに換えて実家にある。
「あら、あれを見て」
 欄間の裏側の彫刻を見ていた小夜子さんが、私の肩にふれた。耳に温かい息がかかって、びくりと体がふるえた。
「人魚だわ」
 小夜子さんが指さす方を私も見た。波間から人魚が上半身を出していた。長い髪に、浮世絵の美人画のような顔立ちの人魚が海を泳いでいて、少し離れたところから尾びれが見えている。すぐ近くには、漁師が一人乗った船がある。
「気づかなかった」
 子どものころ、奥座敷は昼でも暗くて子どもには特に怖い場所だった。足を踏み入れたのはほんの数回だったと思う。こんなに詳しく欄間を見ることもなかった。
「人魚って、昔話なんでしょうか。この辺にも何か伝わっているとか」
「ええ、人魚伝説はありますよ」
 小夜子さんは唇の端をくっとあげて小首をかしげた。
「澄川の人魚伝説は他所のとはちょっと違っているんです」
 小夜子さんの顔には微妙な陰影が出来て、なんだか能のおもてのように見える。角度によって笑っているようにも、泣いているようにも見える、あの不思議な感じ。
「海から堀川を伝って町中にあがってくるんだそうです。尾びれを足に変えて、海で見染めた漁師のところへと来ると」
 聞いたこともない人魚の話を小夜子さんはしてくれた。ただ、この欄間の構図からして、そういうロマンスは感じられない。人魚を見ている漁師の手には、銛が構えられているからだ。
「奇妙な言い伝えですね」
 私の返事に小夜子さんはうなずくと、あとは黙って欄間に見入っていた。

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