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今年こそもう会えないのかも知れない。
なぜかそんな予感がした。だから、いつもの場所で陸に会えたときの驚きはこれまでの比ではなかった。
すらりとしたプロポーションに、精悍な顔つきの陸は、わたしに向かって軽く手を振った。在り来りのダッフルコートも、陸が着ると数段よく見えるから不思議だ。
陸は青年への階段を駆け上がる。既にわたしの手の届かない場所までいってしまった。
「わたしたちは、お互いに誰かの代わりを求めていただけかも知れない」
陸の笑顔が凍りついた。粉雪が街灯にきらめく。陸の肩に降りかかる。改めて知る。なんて美しい青年なんだろう。
「きみは、父親と一日だけの恋人を。わたしは、息子とやはりその場かぎりの恋人を」
「それがなに? あなたはそれが不満?」
陸は腕を組み替え、わたしをはすに見据えた。彼はあざといまでに自分の魅力を知り抜いている。
「ホントの息子と和解したから、もう俺は用済み?」
虚を突かれた。陸は何もかも見透かすような目でわたしを見た。まるで、東京で休暇を過ごすことも知っているかのように。
「……夏に、見たよ。二人で歩いているところ。俺には気づきもしなかったよね。『陸』ってさ、恋人の名前かと思ってたけど、息子の名前だったんだね、ばか正直にもさ」
彼は鼻先で笑い飛ばした。背筋を冷たいものが走る。整った顔が、このうえもなく冷酷にほほ笑む。
「俺はルールを守ったよ。だから、こうして今年も来たんだ」
言葉もなく立ち尽くすわたしに、陸は小さく呼びかけた。
「タカムラ」
名前を、なぜわたしの名前を知っているんだ? 血の気が引き、指がふるえた。わたしの反応を確かめ、片頬で笑い彼は続けた。
「俺、あなたの勤め先も知ってるよ。オフィスにいきなり顔を出そうかな。それとも受付で大声で呼べばいい? タカムラって」
思わず陸の両肩を掴んで揺さぶった。
「やめてくれ、そんなことは……! 金が欲しいなら……」
陸の表情が凍りついた。
「……いらないよ、なにも」
長いまつげをかすかに伏せ、陸はつぶやくように言った。
「ゆすり目的って思われて当然だよね」
薄く笑う陸。わたしは取り返しのつかないことを言ってしまったことに気づく。
「結局は……そうだよ。保身に走るべきだよ、オジサン。お互いゲームなんだ。それ以外に俺とつきあう理由なんかない」
彼は肩からわたしの手を振り払うと背を向けた。
「さよなら」
立ち去ろうとする陸の腕をとっさにつかんだ。
「俺、行くとこはいくらでもあるから。別にあなたである必要なんてない。あなたもそうなんだろう? だったら、別の奴を買えよ」
腕から力が抜けた。もう、終わりだ。陸はそのまま人込みの中へと消えていった。わたしは何も言えなかった。伝えたい言葉は、こんなことではなかったはずなのに。
陸はわたしでなくても、よかったのだ。
彼が言ったとおり、これはゲームだった。いささか気の長い、一年に一度の。彼はまたべつの相手を見つけるだろう。わたしでない、誰かを。
四度目の冬は、そんなふうにして終わりを告げた。
ゴールデンウイークが終わり、梅雨前の新緑にあふれる一番いい季節に、妻がやって来た。淡いグリーンのワンピースに身を包んだ妻は、若々しく見えた。
「陸に聞いてたけど、いい街ね。県都なのに、緑があふれている」
妻と川沿いの新芽をつけた柳の揺れる遊歩道をたどる。途中、野の花の絵ばかりを集めた画廊をのぞいたりした。
「よく、休む気になったね」
「たまにはね、休息は必要だわ。わたしも、あなたも」
遊歩道のベンチに腰かけると駅の方向に、わたしが参加したビルが見える。
妻が指さしてわたしに尋ねた。
「あれね、あなたが苦心したビルは。どう? 収益は上がってる?」
「うん。予想したよりもね。なんとか」
テナント集めに苦労したが、無理を言って出店を頼んだブランド店と、あまり名前は通っていないが、良いものを扱うショップを入れた。会員制のミニシアターには、通好みの映画がかかる。学生でも手の届く雑貨から、中高年でも満足出来るような品揃えの店まで幅広く対応できたせいで、床面積あたりの収益は会社がもくろんでいたよりも上の数字をたたき出している。
「でも、それがなんだっていうんだろう。休日もなく、働いて、働いて。なのに、わたしの手には何が残る? ねえ、君はどうしてそんなに仕事中心の生活を送れるんだい?」
妻は、困ったようにほほ笑み、白く細い指を口元にあてると、考え込むように小首をかしげた。
「きっと、意味なんかないと思うわ。自分が生きて来た証しを残したい、とか、人に認められたいだとか、お金がたくさん欲しい、なんてことはハズレじゃないけどアタリでもない。それは二次的なものであって、目的じゃないもの。きっとね、そういう性分なのよ。辛かったり、傷ついたりすることも多いけど、そのたびに自分の知らない自分に出会えるような気がして、それが楽しいの。働くことで、社会とつながっていることで、わたしはわたしの輪郭を保っていられるのかも知れない」
「そんなの、悲しくないかな。働いていなくても、君は君だよ」
「そうね、そう分かってくれる人がいるからこそ、わたしは安心して戦場に飛び込んで行けるの。ね、カイくん、泣きながらだって生きていけるわ」
海くん。学生時代の呼び名で妻はわたしを呼んだ。とたんに、隣に腰かける妻が出会ったばかりの年齢に戻ったような気がした。
キャンパスで、彼女は長い髪を無造作に後ろで結び、男子学生の混じってコンペに出品する模型造りに集中していた。わたしはその姿に釘づけになったんだ。細身のジーンズに包まれた長い足とくびれた腰。なにより外見に似つかわしくないほどの勇ましさ。
そんなことは、何年も思い出したことなどなかったけれど。
「そうだ、陸がつき合ってる子って誰だと思う? 池部の娘なのよ!」
「池部! あの池部? 俺たちをふったあいつの娘?」
わたしが笑うと、つられて妻も笑った。大学の先輩で、妻とわたしの想い人だった池部の娘か。世間は狭いな。
「会ってみたいな、その娘に。東京に戻ったら。……緋紗子さん、東京に帰ったらまた一緒に暮らしてもいい?」
「なに言ってるの、当然じゃない。彼氏とでも住む気なら別だけど」
「あ、その節は、ご迷惑をおかけしました」
素直に頭を下げると、妻はぺしりと軽くわたしを叩いた。
「ようやく謝ってくれたわね。なにが腹立たしかったって、弁解ひとつしないで全部自分でしょい込んで転勤したのが一番許せなかったのよ」
妻は大きく息を吐き、肩から力を抜いて晴ればれと笑った。
そうだね。わたしは帰ってもいいんだね。
なぜかそんな予感がした。だから、いつもの場所で陸に会えたときの驚きはこれまでの比ではなかった。
すらりとしたプロポーションに、精悍な顔つきの陸は、わたしに向かって軽く手を振った。在り来りのダッフルコートも、陸が着ると数段よく見えるから不思議だ。
陸は青年への階段を駆け上がる。既にわたしの手の届かない場所までいってしまった。
「わたしたちは、お互いに誰かの代わりを求めていただけかも知れない」
陸の笑顔が凍りついた。粉雪が街灯にきらめく。陸の肩に降りかかる。改めて知る。なんて美しい青年なんだろう。
「きみは、父親と一日だけの恋人を。わたしは、息子とやはりその場かぎりの恋人を」
「それがなに? あなたはそれが不満?」
陸は腕を組み替え、わたしをはすに見据えた。彼はあざといまでに自分の魅力を知り抜いている。
「ホントの息子と和解したから、もう俺は用済み?」
虚を突かれた。陸は何もかも見透かすような目でわたしを見た。まるで、東京で休暇を過ごすことも知っているかのように。
「……夏に、見たよ。二人で歩いているところ。俺には気づきもしなかったよね。『陸』ってさ、恋人の名前かと思ってたけど、息子の名前だったんだね、ばか正直にもさ」
彼は鼻先で笑い飛ばした。背筋を冷たいものが走る。整った顔が、このうえもなく冷酷にほほ笑む。
「俺はルールを守ったよ。だから、こうして今年も来たんだ」
言葉もなく立ち尽くすわたしに、陸は小さく呼びかけた。
「タカムラ」
名前を、なぜわたしの名前を知っているんだ? 血の気が引き、指がふるえた。わたしの反応を確かめ、片頬で笑い彼は続けた。
「俺、あなたの勤め先も知ってるよ。オフィスにいきなり顔を出そうかな。それとも受付で大声で呼べばいい? タカムラって」
思わず陸の両肩を掴んで揺さぶった。
「やめてくれ、そんなことは……! 金が欲しいなら……」
陸の表情が凍りついた。
「……いらないよ、なにも」
長いまつげをかすかに伏せ、陸はつぶやくように言った。
「ゆすり目的って思われて当然だよね」
薄く笑う陸。わたしは取り返しのつかないことを言ってしまったことに気づく。
「結局は……そうだよ。保身に走るべきだよ、オジサン。お互いゲームなんだ。それ以外に俺とつきあう理由なんかない」
彼は肩からわたしの手を振り払うと背を向けた。
「さよなら」
立ち去ろうとする陸の腕をとっさにつかんだ。
「俺、行くとこはいくらでもあるから。別にあなたである必要なんてない。あなたもそうなんだろう? だったら、別の奴を買えよ」
腕から力が抜けた。もう、終わりだ。陸はそのまま人込みの中へと消えていった。わたしは何も言えなかった。伝えたい言葉は、こんなことではなかったはずなのに。
陸はわたしでなくても、よかったのだ。
彼が言ったとおり、これはゲームだった。いささか気の長い、一年に一度の。彼はまたべつの相手を見つけるだろう。わたしでない、誰かを。
四度目の冬は、そんなふうにして終わりを告げた。
ゴールデンウイークが終わり、梅雨前の新緑にあふれる一番いい季節に、妻がやって来た。淡いグリーンのワンピースに身を包んだ妻は、若々しく見えた。
「陸に聞いてたけど、いい街ね。県都なのに、緑があふれている」
妻と川沿いの新芽をつけた柳の揺れる遊歩道をたどる。途中、野の花の絵ばかりを集めた画廊をのぞいたりした。
「よく、休む気になったね」
「たまにはね、休息は必要だわ。わたしも、あなたも」
遊歩道のベンチに腰かけると駅の方向に、わたしが参加したビルが見える。
妻が指さしてわたしに尋ねた。
「あれね、あなたが苦心したビルは。どう? 収益は上がってる?」
「うん。予想したよりもね。なんとか」
テナント集めに苦労したが、無理を言って出店を頼んだブランド店と、あまり名前は通っていないが、良いものを扱うショップを入れた。会員制のミニシアターには、通好みの映画がかかる。学生でも手の届く雑貨から、中高年でも満足出来るような品揃えの店まで幅広く対応できたせいで、床面積あたりの収益は会社がもくろんでいたよりも上の数字をたたき出している。
「でも、それがなんだっていうんだろう。休日もなく、働いて、働いて。なのに、わたしの手には何が残る? ねえ、君はどうしてそんなに仕事中心の生活を送れるんだい?」
妻は、困ったようにほほ笑み、白く細い指を口元にあてると、考え込むように小首をかしげた。
「きっと、意味なんかないと思うわ。自分が生きて来た証しを残したい、とか、人に認められたいだとか、お金がたくさん欲しい、なんてことはハズレじゃないけどアタリでもない。それは二次的なものであって、目的じゃないもの。きっとね、そういう性分なのよ。辛かったり、傷ついたりすることも多いけど、そのたびに自分の知らない自分に出会えるような気がして、それが楽しいの。働くことで、社会とつながっていることで、わたしはわたしの輪郭を保っていられるのかも知れない」
「そんなの、悲しくないかな。働いていなくても、君は君だよ」
「そうね、そう分かってくれる人がいるからこそ、わたしは安心して戦場に飛び込んで行けるの。ね、カイくん、泣きながらだって生きていけるわ」
海くん。学生時代の呼び名で妻はわたしを呼んだ。とたんに、隣に腰かける妻が出会ったばかりの年齢に戻ったような気がした。
キャンパスで、彼女は長い髪を無造作に後ろで結び、男子学生の混じってコンペに出品する模型造りに集中していた。わたしはその姿に釘づけになったんだ。細身のジーンズに包まれた長い足とくびれた腰。なにより外見に似つかわしくないほどの勇ましさ。
そんなことは、何年も思い出したことなどなかったけれど。
「そうだ、陸がつき合ってる子って誰だと思う? 池部の娘なのよ!」
「池部! あの池部? 俺たちをふったあいつの娘?」
わたしが笑うと、つられて妻も笑った。大学の先輩で、妻とわたしの想い人だった池部の娘か。世間は狭いな。
「会ってみたいな、その娘に。東京に戻ったら。……緋紗子さん、東京に帰ったらまた一緒に暮らしてもいい?」
「なに言ってるの、当然じゃない。彼氏とでも住む気なら別だけど」
「あ、その節は、ご迷惑をおかけしました」
素直に頭を下げると、妻はぺしりと軽くわたしを叩いた。
「ようやく謝ってくれたわね。なにが腹立たしかったって、弁解ひとつしないで全部自分でしょい込んで転勤したのが一番許せなかったのよ」
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