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春の章
コーヒーとチーズケーキ
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テーブルに、チーズケーキとコーヒーが二つずつ。
五月の最終週にケアマネの訪問があり、担当の太田が風の前に座っている。リビングダイニングと寝室を仕切る引戸は閉まったままだ。
「謹吾さん、この頃のご様子はいかがですか」
ショートカットの髪型に、黒目がちの瞳とすっきりした鼻すじ。人に威圧感を与えないナチュラルなメイク。ケアマネの太田は柔和な笑顔を見せている。
「実は、今朝トイレを失敗しました。それが、相当ショックみたいで」
朝から風はトイレ掃除をして、おじいをシャワーに入れた。おじいは現在朝食もとらず、寝室の引戸を全部閉めてベッドに横になっている。
「いつも紙パンツですよね。でも、謹吾さんくらいの年齢でならしっかりているほうですし、ふだんあれだけ動けているのは、奇跡ですよ」
「そうですね。自分でも、いまはギリギリのバランスで家が回っていると思います」
おじいは七月がくれば101歳になる。自力で歩けるだけでも、奇跡のようなものなのだ。いつかこの生活が崩れたら、ホームヘルパーを頼むか、あるいは施設に入所というのも考えなければならない。
「デイサービスへは、行きたがりませんか?」
「家にいるのが、いいみたいで。たまに曾孫がくるしー……」
「おためしもダメですか?」
「本人、全力拒否です」
ほんとは、週に一回でも行ってもらったらいいと思うのだが、おじいは断固拒否だ。
そうですか、と少しがっかりした様子で太田はメモを取った。
「でも、ほんと風さんは、まめですね。きちんとノートに記録もしていて」
毎晩、寝る前に書いている風のノートを太田は感心してページを繰っている。
「ふだんの食事でも、デザートまで作るんですね」
「親戚の子が金曜日に来るので。おじー……祖父と二人の時にはたまにしか作りませんよ」
茉莉花が楽しみにしているので、作らないわけにはいかない。季節に合わせて、また、おじいが食べやすいようなものをと、毎回知恵を絞る。そのため、ネットを活用している。
「風さん、あまり無理をしないでくださいね。なんでしたら、謹吾さんを預けられるショートステイ先も契約済みなわけですから」
はい、と風はうなずいた。
「それで、ですね。これはわたし独自の活動と思ってください。頑張っている風さんに、ご褒美を差し上げたくて」
と、太田は隣の椅子にのせた大判の鞄を探りだした。
ご褒美と聞いて、少しそわそわして待った風の前に、太田は得意気な顔でそれを見せた。
小学生のときによく見た、桜の花の中にデザインされた、たいへんよくできましたのスタンプだ。「押してもよろしいですか?」
と、聞いてくるが、もう目がキラキラしている。
「は、はい」
許可を得ると目を煌めかせ、太田はノートの端にスタンプをついた。
「ありがとうございます」
太田が頭を深々と下げた。
「風さん、介護でも介護以外でも、困り事があったなら、ひとりで抱えず周囲の人に相談して下さい。わたし以外でも区長さんでも、民生委員さんでも」
はあ、と風は返事をしたが、区長や民生委員が誰でどこにいるかも知らない。
おじいの子どもで存命かつ力になれそうなのは、風の父親の凪くらいだが、凪はなんというかあまりに頼りない。いつも妻の夏樹に押されっぱなしだ。
「段差がなくても、転倒にはご注意ください」
怖いのは、転倒と誤嚥。感染症も怖い。
怖いものだらけだ。
「あの、この【竜】って何でしょう?」
ノートの隅に書かれた、竜の文字を太田は指差した。5月20日のページに書かれた文字を見て、書いた本人も体が一瞬固まる。
「ただの落書きです。これはぼく独自の活動です、チーズケーキ、どうぞ」
風は太田に手製のケーキをすすめた。
太田が帰ってから、風はおじいのベッドの傍らに座った。
「わたしは、わたしが怖い。風、わたしは同じことを何度も聞いたりしていないか? 物忘れがひどくないか?」
「大丈夫だよ、おじい。そんなことはしてないから。年相応っていったら、おじいはがっかりするかもだけど、自然なことなんだよ」
ベッドで毛布を頭からかぶっているおじいに、風は静かに話しかけた。
いつだったか、テレビで見た。認知症になった一人暮らしのひとが部屋の壁中にメモを貼り付けていたのを。忘れまい、忘れまいと、幾千にも見えるほどメモを書いて貼りつけていた。
いつか、自分もそんな光景を目の当たりにするんだろうか。あるいは、自分がするのだろうか。
「おまえに迷惑をかけたくない。ダメになったら、すぐに施設に入れてくれ。そうじゃなかったら、どこかへ捨ててくれ」
いつに無く、気弱になっている。
「茉莉花を怖がらせたくないんだ」
思わず風は毛布ごと、おじいを抱きしめた。
ぼくだって、怖い。いつ、なんどきこの生活が一変するか分からない。おじいが転んで骨折したら、食事をのどに詰まらせたら、それとも、いきなり話がつうじなくなったら。
不安ばかりが押し寄せて、時々眠れない時もある。
高校の化学の教師だったおじい。きっとプライドも相応に高いだろう。紙パンツをはいているだけで、プライドが削られるだろう。情けなく思うだろう。
この家に同居することを決めてから、いつか必ずやってくるお別れについても、何度も考える。
でもそれでは考えが及ばなかった。誰しも【死ぬまでは生きている】のだ。
今日はまだ、その時ではない。
「おじい、ご飯たべよう。中華がゆ、炊いてあるから」
風の腕の中で、おじいがうなずいたのが分かった。もぞもぞと、おじいは毛布から顔を出した。
「風、おとといわたしが寝ているときに、竜幸が来ただろう」
風はおじいが体を起こすのを手伝った。手伝っているあいだ、風は口をつぐんていた。
「来たよ」
ああ、とおじいは右手で顔を半分隠した。
五月の最終週にケアマネの訪問があり、担当の太田が風の前に座っている。リビングダイニングと寝室を仕切る引戸は閉まったままだ。
「謹吾さん、この頃のご様子はいかがですか」
ショートカットの髪型に、黒目がちの瞳とすっきりした鼻すじ。人に威圧感を与えないナチュラルなメイク。ケアマネの太田は柔和な笑顔を見せている。
「実は、今朝トイレを失敗しました。それが、相当ショックみたいで」
朝から風はトイレ掃除をして、おじいをシャワーに入れた。おじいは現在朝食もとらず、寝室の引戸を全部閉めてベッドに横になっている。
「いつも紙パンツですよね。でも、謹吾さんくらいの年齢でならしっかりているほうですし、ふだんあれだけ動けているのは、奇跡ですよ」
「そうですね。自分でも、いまはギリギリのバランスで家が回っていると思います」
おじいは七月がくれば101歳になる。自力で歩けるだけでも、奇跡のようなものなのだ。いつかこの生活が崩れたら、ホームヘルパーを頼むか、あるいは施設に入所というのも考えなければならない。
「デイサービスへは、行きたがりませんか?」
「家にいるのが、いいみたいで。たまに曾孫がくるしー……」
「おためしもダメですか?」
「本人、全力拒否です」
ほんとは、週に一回でも行ってもらったらいいと思うのだが、おじいは断固拒否だ。
そうですか、と少しがっかりした様子で太田はメモを取った。
「でも、ほんと風さんは、まめですね。きちんとノートに記録もしていて」
毎晩、寝る前に書いている風のノートを太田は感心してページを繰っている。
「ふだんの食事でも、デザートまで作るんですね」
「親戚の子が金曜日に来るので。おじー……祖父と二人の時にはたまにしか作りませんよ」
茉莉花が楽しみにしているので、作らないわけにはいかない。季節に合わせて、また、おじいが食べやすいようなものをと、毎回知恵を絞る。そのため、ネットを活用している。
「風さん、あまり無理をしないでくださいね。なんでしたら、謹吾さんを預けられるショートステイ先も契約済みなわけですから」
はい、と風はうなずいた。
「それで、ですね。これはわたし独自の活動と思ってください。頑張っている風さんに、ご褒美を差し上げたくて」
と、太田は隣の椅子にのせた大判の鞄を探りだした。
ご褒美と聞いて、少しそわそわして待った風の前に、太田は得意気な顔でそれを見せた。
小学生のときによく見た、桜の花の中にデザインされた、たいへんよくできましたのスタンプだ。「押してもよろしいですか?」
と、聞いてくるが、もう目がキラキラしている。
「は、はい」
許可を得ると目を煌めかせ、太田はノートの端にスタンプをついた。
「ありがとうございます」
太田が頭を深々と下げた。
「風さん、介護でも介護以外でも、困り事があったなら、ひとりで抱えず周囲の人に相談して下さい。わたし以外でも区長さんでも、民生委員さんでも」
はあ、と風は返事をしたが、区長や民生委員が誰でどこにいるかも知らない。
おじいの子どもで存命かつ力になれそうなのは、風の父親の凪くらいだが、凪はなんというかあまりに頼りない。いつも妻の夏樹に押されっぱなしだ。
「段差がなくても、転倒にはご注意ください」
怖いのは、転倒と誤嚥。感染症も怖い。
怖いものだらけだ。
「あの、この【竜】って何でしょう?」
ノートの隅に書かれた、竜の文字を太田は指差した。5月20日のページに書かれた文字を見て、書いた本人も体が一瞬固まる。
「ただの落書きです。これはぼく独自の活動です、チーズケーキ、どうぞ」
風は太田に手製のケーキをすすめた。
太田が帰ってから、風はおじいのベッドの傍らに座った。
「わたしは、わたしが怖い。風、わたしは同じことを何度も聞いたりしていないか? 物忘れがひどくないか?」
「大丈夫だよ、おじい。そんなことはしてないから。年相応っていったら、おじいはがっかりするかもだけど、自然なことなんだよ」
ベッドで毛布を頭からかぶっているおじいに、風は静かに話しかけた。
いつだったか、テレビで見た。認知症になった一人暮らしのひとが部屋の壁中にメモを貼り付けていたのを。忘れまい、忘れまいと、幾千にも見えるほどメモを書いて貼りつけていた。
いつか、自分もそんな光景を目の当たりにするんだろうか。あるいは、自分がするのだろうか。
「おまえに迷惑をかけたくない。ダメになったら、すぐに施設に入れてくれ。そうじゃなかったら、どこかへ捨ててくれ」
いつに無く、気弱になっている。
「茉莉花を怖がらせたくないんだ」
思わず風は毛布ごと、おじいを抱きしめた。
ぼくだって、怖い。いつ、なんどきこの生活が一変するか分からない。おじいが転んで骨折したら、食事をのどに詰まらせたら、それとも、いきなり話がつうじなくなったら。
不安ばかりが押し寄せて、時々眠れない時もある。
高校の化学の教師だったおじい。きっとプライドも相応に高いだろう。紙パンツをはいているだけで、プライドが削られるだろう。情けなく思うだろう。
この家に同居することを決めてから、いつか必ずやってくるお別れについても、何度も考える。
でもそれでは考えが及ばなかった。誰しも【死ぬまでは生きている】のだ。
今日はまだ、その時ではない。
「おじい、ご飯たべよう。中華がゆ、炊いてあるから」
風の腕の中で、おじいがうなずいたのが分かった。もぞもぞと、おじいは毛布から顔を出した。
「風、おとといわたしが寝ているときに、竜幸が来ただろう」
風はおじいが体を起こすのを手伝った。手伝っているあいだ、風は口をつぐんていた。
「来たよ」
ああ、とおじいは右手で顔を半分隠した。
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